2.姉の襲来
結論から言えば、心配の必要も無かったくらい昨晩はぐっすりだった。長年の経験から私はその日の気分を引きずらないようになっているのだ。非常に便利な体である。
今日は一月後の出発に向けて、自分の持ち物を荷物にまとめようと作業を進めていたら、『長年の経験』の一人がやってきた。
「ごきげんよう、シャルロッテ」
綺麗に巻かれたブルネットの髪を揺らしてやってきたのは、一番上の姉、マルガレーテ姉様だ。
「ごきげんよう、お姉様。こちらにいらっしゃるなんて、珍しいのですね」
「まあ、誰のためにこんな貧乏くさいところまで来てさしあげたと思っているの。かわいそうなシャルロッテ。亜人などと結婚することになるなんて。あなたが泣いているんじゃないかと思って様子を見に来たのよ」
「私を気にかけてくださったのですね。嬉しいです」
姉様の顔はどう見ても妹を心配している顔ではなく、思ったより元気そうな私に不服そうな顔だ。何をおっしゃる、と思ったけれど、口には出さない。面倒なので余計な口答えはしない方が良いと私は長年の経験から学んだ。
マルガレーテ姉様は、典型的なワガママお姫様といった感じで、自分が一番でないと気が済まない人だ。良くも悪くも素直な人だから、私のことを手下かなにかと思っているのもすごーく伝わってくる。だけど好きなだけ私をこき下ろして好きなだけ喋ったら満足して帰っていくので、扱いやすいとも言える。
ちなみに、二番目の姉リーリエ姉様はマルガレーテ姉様とは違って頭脳派である。次女の知恵というやつだ。会えば嫌味の応酬になるし、自分のイメージを全く下げないようなやり方でいじめてくるので油断ならない。リーリエ姉様を前にするとき、私は敵前に立つ戦士の気持ちになれる。けれど、呼び出されることはあっても、リーリエ姉様の方から私の部屋に乗り込んでくることは無いので、予定を崩されることもあんまりない。それはそれで楽だ。
「でも、私は此度の縁談、とても良いお話をいただけたと思っているのです。本来なら正式な王族ではない私が、陛下のお役に立てるなんて。私、精一杯頑張りますわ」
「シャルロッテ……」
「だから、そんなに心配なさらないで、マルガレーテ姉様」
そう言ってにっこりと微笑めば、姉様も優しげに笑って頑張りなさいね、なんて返してくれた。
『ルインズの至宝なんて言われていても、あなたは本当は王族に名を連ねていい存在じゃないの。調子に乗らないことね』
姉様の口癖だ。私が姉様の基準で、姉様より不幸で、謙虚で従順であれば姉様は満足なのだ。私の結婚相手が姉様好みの人間の男性だったら多分怒り狂っていたと思う。姉様が素敵だって言っていた侯爵家のご子息に、私が夜会でダンスに誘われたときでさえ本当に大変だったのだから。私は全然あの人のこと好みじゃなかったのに。
「ねえシャルロッテ、あなたのお部屋って本当に狭いし物が少ないのね」
「おかげさまで荷造りが楽ですわ」
それはあなたのせいだ。と喉まで出かかったのを我慢して、私物の整理を続けながら答える。
私のものを欲しがり、取られ、それをぞんざいに扱っては捨てられ、王妃様や女官、侍女たちは勿論姉の味方をするとか、そういうありがちなことは一通りやられた。その結果私には物欲がなくなった。物が沢山あっても邪魔だ。管理が大変なだけだ。私には部屋を片付けてくれる侍女もいないのだから。
王女に侍女がついていないのは外聞が悪いので書類上はいることになっているけれど、実際は私のための仕事はほとんどしていない。公務に出る時の身だしなみくらいかな。女官や侍女の人事を決めている王妃様に徹底的に嫌われてるから仕方ないよね。うん。妾の子だし。書類上と、公の場では実子として通していただいているだけありがたいと思っておこう。
そして私の部屋はお姉様たちとは少し離れた場所にある、使用人が使うような狭い部屋だ。王妃様に私の部屋を使いたいから部屋を移動しろと言われたときに、自ら進んで引っ越した部屋だ。掃除が楽だし、貧乏くさいからといって姉様が寄りつかないので中々便利である。実際姉様が突撃してくる頻度は明らかに減ったし、私のことで機嫌が悪くなることも減った。万々歳だ。
横では姉様が遠慮なく私の部屋を見回してはあれは何とかこれはどう使うのかとか話しかけてくる。多分今は姉様の機嫌がいいので手伝ってくれているつもりなんだろう。正直そろそろ帰ってほしいと思い、私は口を開いた。
「……それよりお姉様、今日は王妃様と今度のお茶会のご相談をされるのではなかったのですか?」
「あら、もうそんな時間かしら」
いけない、と言いながら挨拶もなく足早に去っていく姉の後ろ姿を眺めながら、本当にこの人は私のことをなんだと思っているのだろうと、今更なことを考えた。もう作業の続きをする気にはなれなくて、私はそのままベッドに倒れ込む。
「疲れた……」
あと一月。あと一月の辛抱だ。一月で、もう、こんな暮らしとはおさらばできる。姉様のご機嫌取りはもうごめんだ。だって面倒くさいもの。
政略結婚で他国に嫁ぐということは、また別の大変な苦労があることだろう。だけど、それはお互いの国をより発展させるための苦労になるはずで、こんななんの生産性もない苦労をするよりずっとましだと思う。
ああ、私、ほっとしてたんだな。
この国を出ていくことに。王妃様から、姉たちから、あの人から離れられることに。
今更、もっと普通の仲の良い家族として過ごしたかっただなんて思わない。そんなものはとっくに諦めたし、自分なりに居心地よく過ごす方法はみつけてきた。この人達は私の家族とはなり得ないと自覚することでなにも気にならなくなった。それでも味方のいないこの城から抜け出せることは、やっぱり、嬉しいに違いなかった。