1.不遇王女の婚約
「ルベニアの王との縁談ですって!? 冗談じゃないわ!!」
乱暴にテーブルを叩いた手に合わせてガチャン、と皿が音を立てた。きつく握りしめたその手の持ち主は、我慢ならないとでも言いたげに口元をわなわなと震わせている。
「お姉様、少し落ち着きなさって。……お父様、それはもう決定事項なんですの?」
先程の人物よりは平静を保っているものの、嫌悪感は隠せておらず眉間に深く皺が刻まれている。
「こちらから和平の証として提案したのだ。今更撤回などできぬ。お前達の中から一人、ルベニア国へ嫁いでもらう。これは決定事項だ」
お父様、と呼ばれた男性がきっぱりと言い切ると、二人の姉妹の表情はさらに険しくなった。
「私は絶対嫌よ!」
「お姉様、ルベニアは豊かですし王は賢君と名高いお方ではありませんか。きっと幸せになれますわよ」
「ならあなたが行けばいいじゃないの」
「……」
「ほら、自分だって嫌なんじゃない」
家族団欒のはずの夕食の場に漂う険悪なムード。この展開を予想していたのか、この話題を持ち込んだ本人もなんとなく渋い顔をしている。
「マルガレーテ、リーリエ。姉妹でそのようにいがみ合うのはおやめなさいな」
「お母様」
「それに、このお話にはあなた達よりも適任がいるでしょうに」
諭すように話し始めたその人は優しげに微笑んでいて、娘達への慈愛が見て取れた。彼女はその表情のまま視線を別の方に向ける。
「ねえ、シャルロッテ。あなただってこの国の王女でしょう? 何を他人事のようにしているの」
終わらない話し合い、もとい押しつけ合いを後目にただ一人黙々と食事を取り続けていた手をようやく止め、私――シャルロッテは顔を上げた。
わかっているわね、とでも言いたげに私をじっとみている王妃様の瞳の奥は、驚くほど冷えきっている。
こうなることは予想できた。だから、姉様たちの喧嘩など、どうだってよかった。
「わかっていますわ、王妃陛下」
私に用意された選択肢など、最初からひとつしか無かったのだから。
「その縁談、私がお受け致します」
あからさまにほっとしたような顔をする姉たちに、満足気に微笑む王妃。何かを諦めたように目を伏せる王。姉妹の中で最も、父親に生き写しだと言われる顔を精一杯美しく作って、私は笑った。
「シャルロッテ、すまない。おまえに全て押しつける形になってしまって」
「構いません。政略結婚は王族の務めでしょう」
夕食の後、陛下に呼び出された私は書斎に通された。座りなさいと言われたので傍にあったソファに腰掛けている。自分の部屋に置いてあるものよりずっと高級なそれはふかふかすぎて正直落ち着かない。陛下付きの女官が用意してくれた紅茶に口をつけながら、私は控えめに部屋を見渡した。
たくさんの歴史書や古文書、学術書が並ぶ本棚。壁に貼ってある地図には書き込みがしてあり、陛下の勉強熱心さが窺える。
私の視線の先のものに気づいたのか、陛下が再び口を開いた。
「今我が国が最も懸念すべきことはわかるか」
「……リベラ帝国の軍拡、でしょうか。新しい武器を作っているという噂もありますし、北部の防衛に人員を割きたいところですわね」
「そうだ。だが、そうすると他が手薄になる」
「だから、ルベニアとの同盟が必要になってくるのですよね」
地図の中央に位置するのは、我が国ルインズ王国。領土の北側を接するリベラ帝国とは、古くから領土争いをしてきた歴史があり、今は戦争こそないものの危うい均衡を保っている状態である。
反対に、南側に接しているのがルベニア国だ。ルベニア国の歴史は浅く、成立も特殊である。ルベニアは人間ではなく、亜人と呼ばれる種族で構成されている。
亜人とは、一見人間と変わらない姿をしているけれど、動物としての姿も持っている種族のことだ。例えば物語に出てくる狼男は、狼の亜人が元になっている、らしい。
その特異な能力を、人々は忌避し、差別し、迫害してきた。住処を追いやられたり、奴隷にされたり、処刑されることもあったという。
ルベニア国は迫害から逃れた亜人たちが、未だ命の危機に曝されている同胞を救い、保護するために、荒れ果てた土地を開拓して作った国だ。
今のルベニアの国王陛下は大変優秀な方らしく、ルベニアはどんどん発展している。北の隣国リベラの動きが不穏な今、亜人への差別意識なんてくだらないものは捨てて他国よりもいち早く同盟を結び、北部の防衛に専念したいという陛下の判断は正しいと思う。
が、それを快く思っていない貴族が多くいるのも事実だった。貴族というものは保守的な者が多いし、今までの常識をなかなか変えられないのだ。
王妃様の実家はそういう保守派貴族の筆頭だ。王妃様を通してそちらの考えにすっかり染まっている姉様たちではルベニアに嫁ぎ友好関係を築くなどまぁ確実に不可能である。私は亜人への嫌悪感なんて全くないので、消去法ではあるけれど、つまるところ、私にしか務まらないお役目なのであった。
「……おまえは、賢いな。外に嫁にやるのが本当に惜しい」
柔らかな金髪が揺れ、ルインズの至宝と呼ばれる紫色の瞳が優しげに細められた。三人の子を授かってもなお衰えず、今もご婦人方や一部のご令嬢に絶大な人気を誇る中性的な美貌が、国王の顔から父親の顔に変わる。どうにも居心地が悪くて目を逸らせば、鏡の中の自分と目が合った。
……あぁ、腹が立つくらい、そっくりだ。顔立ちも、色合いも。
「母親によく似ている。強い意志を持った瞳も、その聡明さも。彼女はよく言っていたよ。亜人を迫害、冷遇し続ければこの国に未来はないと」
「母が本当に聡明であったなら私を産んだりなんてしなかったはずよ」
自分で思っていたよりも、無機質な声だった。陛下の表情が一瞬で凍りつく。
私は鏡が嫌いだ。
もうほとんど顔も思い出せない母の姿を追いかけようとしても、母を見殺しにした男の面影が見えるだけだから。
「……やはり、もう私を父とは呼んでくれぬのか」
「私の肉親は亡くなった母だけです」
こちらへ伸ばしかけた手を空中に彷徨わせ、何かを言いかけた口を噤んで、陛下は悲しげに目を伏せた。
「お話は以上でしょうか」
「……ああ」
「では、失礼致します。おやすみなさいませ」
おやすみ、と返す陛下に一礼を返し、足早に部屋を出た。今夜ちゃんと眠れるだろうかと思うくらい、最悪の気分だった。