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第63話 ハルカの世界観 その①

 幼児期健忘というものがある。人は普通、3歳くらいまでの記憶が残っていないらしい。一番最初の記憶はと訊かれると、大体皆、3歳前後の記憶だそうだ。

 私も例に漏れず、3歳の時の記憶。はっきりと3歳という自覚は無いが、状況証拠から3歳だと判明できる。

 妹の産まれた日だ。

「おぎゃああああああ!」

 未来はとてもうるさかった。単純にうるさい、という感情を抱いたのを覚えている。声が大きい。いやに響く声だった。

 多分、両親も参っていただろう。妹は毎日泣いていたからだ。全く泣かなかったらしい私を経験しているから、余計に辛かったのかもしれない。

「えへへーっ!」

 そしてそれ以上に、妹が笑った声が可愛かった。表情も仕草も、全部愛らしかった。私は妹を笑わせたいと思っていた。どうにか泣き止ませたい。泣き止ませて、あの可愛い笑顔を見たい。

 『泣くのは駄目』で、『笑うのが良い』。この価値観は妹から教わった。


 妹が少し成長した。外へ連れ出して散歩ができるようになった。だけど危なっかしい。平気で道路に出るし、塀にはよじ登るし、溝には嵌まる。よく転んで泣いていた。私は妹を泣き止ませようと四苦八苦していた。

 あなたはお姉ちゃんだから、ちゃんと守ってあげてねと、母から言われた。妹を保育園へ預けるようになってから母は職場に復帰したため、基本的に家では私が妹の面倒を見ていた。妹を守らなくてはいけない。あの笑顔を。笑い声を。それを私は、自分の使命だと思っていた。そして誇りに思っていた。

 妹も、舌足らずな口調でおねえちゃんおねえちゃんと私の後に引っ付いてきた。それがまた可愛く思えた。


 妹が小学生になった時。彼女は学校から帰るなり顔を真っ赤にして泣いていた。

 どうやら上手く友達ができなかったらしい。

「みんながわたしのこと、嘘つきっていうの」

 妹は、自分の感じたこと、思ったことを全部口に出す癖があった。中には想像から生まれたこともあっただろう。

「『てんし』がおりてくるの。だって夢で見たもん。『てんし』は居るの。だって……」

 この頃の妹は、夢に出てきたことをよく話していた。そしてそれを、現実に起こることだと信じて疑わなかった。天使が夢に出てくるのは幼少期の女の子にとってとてもメルヘンチックで、人に言いたい出来事だろう。


 それくらいならば。

 いつか時間が経ち、『妹』という人柄を理解してくれれば、暖かい目で見てくれれば。彼女はただの夢見がちなだけの可愛らしい女の子だ。

 だが高学年になる頃には、彼女への『偏見』と『忌避』は大きくなっていた。


「靴を隠された」

 一緒に探した。

「机に落書きされた」

 放課後に掃除した。

「筆箱を壊された」

 私のをあげた。


 それくらいならば。

 まだ可愛いげのあるものだ。小学生なんだから。あと少し我慢すれば、中学校だ。


「お弁当を捨てられた」

 購買のパンを一緒に食べた。

「鞄を燃やされた」

 新しいのを買ってあげた。

「プールに突き落とされた」

 私も休んで看病した。


 よりによって一番彼女を虐めていた子と同じ中学校に入ってしまった。そろそろ相手も、虐めている理由すら曖昧になってきた頃だと思うが、虐め自体はさらにエスカレートしていた。


「トイレに」

 ……。

「体育の時に」

 …………。

「屋上で」

「流石に駄目」

「えっ」


 妹は毎回「大丈夫」と言っていた。いつまでもお姉ちゃんに迷惑は掛けられないと。だが流石にもう駄目だった。寧ろもっと早く『私が直接』手を出すべきだった。

「大丈夫」

 今度は私がそう言った。


――


 相手の子は全治2ヶ月らしい。私は色んな人からこっぴどく叱られた。上級生が下級生を一方的に殴り付け、病院送りにした。事実としては間違っていない。お宅の教育はどうなっているのかと、親まで叱られていた。

 私は不満だった。叱られたことがじゃない。だって2ヶ月だ。たったの2ヶ月。それで妹の10年と釣り合う訳が無い。もっと殴っていれば良かったと思った。

 結局、諸々捜査の内に事実関係や前後背景は明かになり、私への処分はいくらか軽くなった。妹は遂に私以外の人間に、この10年の全てを吐き出した。

「ありがとうお姉ちゃん。大好き」

 10年振りに妹の笑顔を見た。


――


「……それから高校に入って、合気道部とか言い出した時には流石に吃驚したけどね」

「……へぇー。やっぱり『上の子』は大変だねえ」

 彩のお腹はもう随分大きくなり、最近は部屋から余り出なくなった。地下からの精神力供給を絶やさない為、そもそも動けないのだが。

「……影士さんは、どんなお兄さんだったの?」

 ハルカは毎日彩の部屋へ通っていた。アビスが潜むことを選択した以上、戦闘員である彼女に当分仕事は無い。否。彩の側に居ることこそが、ハルカの仕事である。

「変な兄貴だったね。いじめの相談したらどんな反応するかな。……多分、『首のこの喉の、この部分を指でめっちゃ突けば良いぞ』とかアドバイスくれそう」

「あははっ。護身術じゃん」

「あと『自分が変わるか相手を変えるか、環境を変えるか。どれが一番効率的だ?』とか聞いてきそう。小学生にそんなの分かんねーよ! みたいな」

「どんな話してたの?」

「うーん……一番新しいのはやっぱりアビスの話だね。私は精神干渉できないから、おにぃから聞くしかなくて。色んなアビスの話を聞いたよ」

「姫の話はしなかったんだ」

「そう、だね。詳細なことは何も聞かされなかった。多分なにか考えてたんだと思うけど。……まさかあそこで終わるなんて私もおにぃも思ってなかったし」

「…………」

 何かを考えるような表情を見せたハルカを、彩は見逃さなかった。

「やっぱり会いたい? 妹さんに」

「えっ」

 訊かれたハルカは、少しだけ目を見開いた。

「生きてるもんね。それだけで幸せだよね」

「……そうね」

 ハルカは改めて、彩の境遇を思った。

 兄の友人達との敵対。そして兄の死。自分を生き残らせる為の仲間の死。

 この戦争で一番悲しんでいるのは間違いなく彼女なのだと強く思った。

「会いたいけれど、無理ね。あの子のラウム()が、決してアビス()を許さないだろうから」

「あっでも。予知夢は本物だったね。天使って、ラウムのことでしょ?」

「……それも今さらだけどね」

 戦争さえ無ければ。アビスの食性さえ、人の精神でなければ。

 彼らは、彼女らは幸せになっていた筈だ。あの5人は星野兄妹と離別すること無く。義堂姉妹も離れ離れになること無く。誰も死ななかった筈だ。

「今まで必死で、『考える』なんて余裕無かったけれど。最近色々思うんだ。『もしも』の話。立場が違っただけで、本当は皆仲間だったんだもん。敵味方関係無く、『もしも』」

「彩ちゃん」

 その先は、ハルカに止められた。彼女は既に経験していた。

「その話は楽しくならないわよ」

「……っ」

 その話題は『猛毒』だと。

「過去の話は懐かしむことができる。現在の話はとても大事。だけど『別の世界の話』はただの妄想に過ぎないの。私達は現実の未来の話を、しなくちゃいけない」

「……そうだね。ごめん」

 彩は即座に理解し反省した。

「必死で考えるよ。これからのこと。まずは……」

 そしてお腹をさすり、ハルカへ微笑み掛けた。

「この子の名前、どうしよっか」

「……ふふ。そうね……」

 その話題は考えるだけで楽しくなる。これからの希望の話。あり得たかもしれない妄想の話など、している暇があるほど現実を諦めてはいない。

「ハルカも相手見付けなよ」

「私は良いわよ。戦えなくなるじゃない」

「勿体無いよー」

 アビス反撃の準備は少しずつだが進んでいる。アビスの。種族の。仲間の。家族の。

 『未来』へ。

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