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2話 花は枯れる

 放課後、東館は幽霊屋敷のように薄暗く、気味が悪かった。人通りが少ないため、私の足音が廊下に響き、雨が容赦なく窓を叩く。等間隔に設置された電灯の明かりがちゃんとついていることだけが幸いだ。早足で廊下を抜け、階段を上がり、四階の一番端の教室に向かう。

 ドアに手をかけて、のろのろと開けた。


「詩乃先ぱ――」


 詩乃先輩、言われたとおり来ましたよ、と言おうとしたが、誰もそこにはいなかった。

 詩乃先輩が私よりあとに来るのはこれが初めてだった。いつも私より早くに来て、私が部室に来ると「結依ちゃん、今日も来て偉い」と椅子の上で体操座りをして本を読みながら微笑んでいたのに。

 肩の力が抜ける。

 なんだ、いないのか。

 詩乃先輩の特等席は空で、静かだった。

 鞄も置かれていない。

 私の教室に迎えに行ったのだろうか。入れ違いになっても困るし、ここでおとなしくしていよう。

 教室の電気をつけて、鞄を机の横に置いた。

 本の塔を見上げて、背表紙に書かれたタイトルを読んでいく。色あせた本ばかりで、一部タイトルが掠れている。詩乃先輩っていつもこの中から本を読んで食べているの……。

 消費期限とかないのかな。

 本は日に日に増えていって、いつか、壁を囲うように本が積まれるんじゃないかとひやひやしている。入部当時、本の塔は私の身長ほどの高さが一つと膝の高さぐらいの積まれた本が一つあっただけなのに、今や、私の身長ほどの高さの塔が四つもある。本のお城とでも形容しようか。

 文芸部の部室にお城が出来ました、なんて。

 いつ倒れてもおかしくなさそうな、人々の記憶が詰まった、感情がいっぱい詰まった歴史あるお城。

 女王は詩乃先輩で、私は使用人かな。わがまま女王様のお世話をする私。

 女王様はいつお戻りになるのでしょう。

 本のお城から、一冊引き抜く。埃が舞い上がり、ダンスをした。

 今日はパーティなんて行ってないですよ。

 手で埃を払い、椅子に座る。

 『人間失格』。表紙は色あせ、ページは黄ばんでいる。

 恥の多い生涯を送ってきました。っていう有名な冒頭しか知らない。

 ページを開いて、目を通す。数ページだけ読んでみよう。


 一文が長い。サーヴィスとかカヴァとかプラクティカルとか、カタカナがやたらと目につく。文がすんなりと心に入らない。つっかえてしまう。口の中が砂漠のように渇いているのに、ビスケットを食べて飲み込む、そんな苦しさを伴う。

読むのをやめようかと思った。


 ――そこで考え出したのは、道化でした。

 ――それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。


 しかし、この文章を見た時、頭を鈍器で殴られたような衝撃が襲った。なぜか、もっと読みたい、という衝動に駆られ、小さな脳を最大限に使って、内容を理解しようと必死になっていた。

 喉がカラカラに渇いても、太宰治の文章に引き込まれ、読むことを止められず、指はいつでもめくれるように準備される。言葉の羅列が、文章が、私を更に駆り立てる。私は今まで嫌々読書をしていたのに、この時は自分の欲に真っ直ぐだ。

 私は時間と詩乃先輩のことをすっかり忘れて、読みふけっていた。

 集中力が途切れて、本を置いた。ふうと息を吐き、窓に視線を移したその時。

 特等席に座り、私に穏やかな笑みを捧げる詩乃先輩がいた。膝の上には一冊の本が置いている。


「わあ!」


 驚いた声を上げると、詩乃先輩がクスリと笑った。


「いつの間にいたんですか!」

「ずっと前からよ。声をかけようかとおもったのだけど、珍しく読書に集中してるようだったから」

「そ、そんなことないです……」


 頬が熱くなり、弱々しく否定した。詩乃先輩が本を覗き込み、一行読むと「『人間失格』を読んでるのね」と言った。

 たった一行読んだだけでわかるの。

 熱が冷めてきて、私は詩乃先輩を見た。


「今日、遅かったですね」

「あら、寂しかった?」


 にやりと目を細めて、私を見つめ返す。ますます顔が熱くなって、詩乃先輩から視線を外した。ページの端を指で弾きながら、口を尖らせる。


「別にそんなことは……。ど、どうして遅れたんです」


 なんか、うざい彼女みたいなこと聞いてる気がする。

 何で遅れようが私には関係ないのに。

 私の頭に手を優しく置いて、微笑んだ。


「用事があっただけよ」


 それだけよ、と目で語る。

 詩乃先輩は私より一つ年上なだけなのに、六つぐらい年上に見えた。しばらく頭を撫で続け、詩乃先輩は手をおろす。

 雨の強さが増し、雨粒が斜めに振っている。葉が風に乗りどこかへ勢いよく飛んでる。

 本をお城に戻して、椅子に座り前のめりになった。


「詩乃先輩」

「はあい」


 ページをちぎっては食べちぎっては食べをしている詩乃先輩は、うっとりした表情で返事をした。


「十年前、このへんで集団失踪事件があったんですけど知ってますか」


 詩乃先輩の顔がこわばり、指が止まる。指に挟まれていた千切れたページが床に音を立てず落ちた。苦しそうに顔を歪めて、長いまつげに縁取られた瞼を伏せると、食べかけの本をぎゅっと抱きしめた。白いソックスに包まれたつま先をこすり合わせ、肩をくすませる。


「知ってるんですね」


 こくりと小さく頷いた。

 下唇を噛んだまま、なにかを堪えるようにじっとしている。

 もうそれ以上聞かないほうが良い、頭ではそう考えるが、口が動く。


「なにか事件について警察が知らないことを知っているんですか、それとも友達が巻き込まれたんですか」


 こんな質問するべきじゃないと分かっている。分かっているけど、知りたい。

 どうして詩乃先輩がそんなに苦しそうな顔でいるのか知りたい。

 私になにかできることがあったら、するから。

 私のエゴなのはわかってる。

 私の質問に答えず、だんまりを決め込む。私は席を立ち、詩乃先輩の横にしゃがんだ。


「詩乃先輩……」


 詩乃先輩は眉を下げて、足を床におろした。上靴を履いて、立ち上がる。長い髪を揺らして一歩、二歩、歩いて、後ろを振り返った。

 今にも泣き出しそうに目をうるませ、私をじっと見て、桜色の唇を微かに開いた。



「言葉は人を殺めるのよ」



 澄んだ悲しげな声が部室を残して、詩乃先輩はそのまま出ていってしまった。

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