01 海の少女
産まれてから、どれほどたったのだろう。
私の世界は、透明な箱の中ではじまり、透明な箱の中で終わろうとしていた。
痩せこけた仲間達が視界に映る。青白く腹を見せて動けなくなっている私なぞ、この世界ではありふれた出来事のひとつでしかなかった。
地面を舐めるように這って歩いている彼が、よりそうように私の隣にやってきた。いつの日か、彼が泳げないことを馬鹿にしたことがあった。すまない。ほんとうに馬鹿にしていたわけじゃなかった。ただかまってほしかっただけなんだ。
息ができない。私だけ死んでいくという、果てのない寂しさと孤独に、この心は耐えられそうにない。
いつの日か、箱の外で私を見つめていた少女を思い出す。ただじっと見つめていた黒い瞳が、私の中に焼き付いていた。
もし、叶うならば、この心は、君の側に。数多いる仲間達の中から、私だけを切に見つめてくれた、名前すら知らない君に―――
5月15日。泳げない私は、深い海に沈んでいた。
今日は、楽しみにしていたお母さんとのお散歩の日だった。お母さんは忙しいから、いつもは遊んで貰えないけれど、この日だけは一緒に出かけようと約束していた。私はうれしくてうれしくて、カレンダーにはなまるをつけてこの日を待っていた。
今日のお母さんはいつもより優しくて、私は優しくされてうれしかった。海にかかる大きな橋を、手をつないで渡った。お母さんの手は小さくて、皮膚が荒れていてがさがさしていたけれど、暖かくてがっしりしていて、大好きだった。
眠りにつくように海に沈んでいくお日様の姿をもっとよく見たくて、私はお母さんにだだをこねた。お母さんは微笑んでから、私を抱えてくれた。そのお陰で、私はお日様に手を振ることができた。
それからは、よくわからない。急速に落ちていく感覚と、差すように冷たい海水が目に、口に、鼻に入ってきて、何も考えられなくなった。
お母さん、お母さんと叫んでも、口に水が入って声がでなくて、身体はどんどん重くなった。
寒いまま、ひとりのまま、なにも見えなくなっていく。
頭の中で、1匹の魚が泳いでいる。
私も、あの魚のように、上手に泳げたなら、もっとお母さんと一緒にいられたのかもしれない。
今はただ、あのちっぽけな魚になりたかった。
誰かの瞼の裏にあると言われている不思議な大陸がある。
女神が流した涙によって誕生したと言われている涙適型の大陸、ティアーズ。その大陸にあるひまわりの国、通称太陽の国に訳あって滞在していた青年が、朝の海岸をのんびり歩いていると、岩場の隅に大きな鷲の翼の生えた少年がしゃがみこんでいた。
欠伸をしようと開きかけた口を閉じて、青年は少年に声をかけようとすると、こちらに気づいたらしく少年は勢いよく振り返った。
ブロンドの髪に白い肌、洗礼された人形のように美しい彼は青年を見つけると、金色に輝く瞳を大きく見開かせて飛び去ってしまった。
焦りと恐怖を混ぜたような顔をしていたなと、彼が残した鷲の羽根を拾おうと近づくと、ちょうど少年がしゃがみこんでいた岩場に、幼い少女が横たわっていた。
「大丈夫?」
抱き上げると、荒い息づかいが聞こえてきて、火照る身体からは高熱があることがわかる。青年は、少女を背負い自分が泊っている宿屋に連れて行った。
「ギンジ。女の子を拾った」
「朝から何やってんだお前」
窓際で煙管をふかしていた着物姿の友人、ギンジは灰を落として煙を消すと、目付きの悪い一重の目でじろじろと女の子を見た。
「熱が出ているらしい。海で倒れていた」
「息はしてるな。宿屋のばあさんに事情を伝えてくる。お前はその子寝かせて汗拭いてやれ」
「わかった」
ギンジが階段を降りる音を聞きながら、青年は少女をベッドに降ろすと、タオルで丁寧に小さな身体を拭いた。
(...潮の匂いだ)
おそらく汗だけではないだろう。もしかしたら、海に流されてここまで来たのかもしれない。どの道、ちゃんとした医者に見せるべきだろう。
幼くとも女の子の身体だ。こういったことは女手を借りた方がよかったのではと思いながら、濡れている小さな足を拭いていると、少女の足に奇妙なものが生えていた。
「これは...」
「ばあさんから着替えと氷枕貰ってきたぞー」
青年が少女の足を持ち上げていると、簡素な服と氷枕をもったギンジが戻ってきた。
「...」
「アクル...お前そういう趣味が...」
「...趣味?」
「いや、なんでもない。お前そういうのなさそうだもんな」
アクルは友人の言っていることを軽く流すと、少女の足を指差した。
「見て、鱗が生えてる」
「鱗? ...おお、なんだこれ」
つま先から膝にかけてびっしりと生えた灰色の鱗は、太陽の光にあたると宝石のように煌めいた。
「竜の鱗にしては薄すぎる。魚の鱗だろ。これは」
ギンジが鱗を触ると、鱗まみれの足がピクリと動いた。どうやら神経が通っているようだ。
「とりあえず、目が覚めたら話を聞こう」
ひととおり介抱を終えたアクルが、そっと毛布をかけながらギンジに言うと、ギンジはやる気のない返事をしながら首をひっこめた。
「しっかし、お前ってお人好しなんだな」
「それは違う。誰かが倒れていたら助けるのが当たり前だ。ギンジもそうだろ?」
「生憎、俺は自分が1番可愛いもんで。面倒そうならほっとくさ」
「そういう奴なら、記憶喪失の僕を心配したりはしないだろ」
図星だったのか、世話焼きの友人は何も言わずに商売道具の横笛のメンテナンスをはじめたため、アクルは会話をやめた。
部屋の入り口に置いてあった木の丸椅子をベッドの近くまで運び、少女の近くに腰掛ける。呼吸は落ち着いてきたようで、先程よりも穏やかな顔をしていた。
艶やかな黒髪が汗で白い頬に張り付いている。自分にも、こんな妹がいたのだろうか。だとしたら、きっと大切にしただのだろう。
頬についた髪をそっと撫でると、黒い瞳がうっすらと開いた。
「おはよう。調子はどう?」
「――!」
少女は驚いた顔のまま、はくはくと口を動かした。それは何か言っているようだったが、少女の声は聞こえない。アクルが唇の動きを注視してみていると、少女はどうやら「かくものをください」と言っているらしかった。
「ちょっとまってね」
アクルは手記を取り出すと、少女に手渡した。少女はそれを受け取り、ペンを走らせる。
「おう、お嬢ちゃん起きたのか」
いつの間にかギンジがやってきて、少女の様子を眺めていた。少女は書いていた手記を2人に広げる。
「?」
小さな丸い文字で書かれていたのは、言葉だった。
(助けてくださってありがとうございます。わたしはサティっていいます。声がでないので、紙でお話させてください)
「声がでないか」
ギンジに、サティは首をこくこくと縦に揺らし、また手記の罫線の中に文字を書きはじめた。
(私は守護大海で暮らしていた人魚です。どうしても会いたい方がいて、声と引き替えで海の魔法使いに足を作ってもらったのですが、歩く度に刺すように痛くて、動けなくなってしまっていました)
「守護大海?」
「この大陸を包んでいる海のことだ。他の大陸の者が来ない様にする囲いでもあり、大陸を守る砦でもある。そんで、人魚は守護大海の底にある都市で暮らしているらしい。こうして会うのは俺も初めてだ」
またギンジがじろじろとサティを観察しはじめたので、アクルはそれを阻止すると、サティに尋ねた。
「そこまでして、誰に会いたいの?」
(生まれ変わった、あの子に。えっと、私には前世の記憶があるのです。人魚では珍しいことではないんですけど、生前会ったあの子もこちらで生まれ変わっていると、海の魔法使いから聞いたんです)
「その子は何に生まれ変わったの?」
(それは、海の魔法使いは教えてくれませんでした。ただ、太陽の国でいつも仕事をしていることは教えてくれました)
「雑だなそいつ。会わせる気ないだろ。嬢ちゃんには悪いが騙されてるんじゃないか?」
ギンジの言葉を聞いたサティは、ペンを強く握ったまま、目を伏せてしまった。
「あー。なーかしたーなーかしたー。ばーさんにいってやろ」
「なんだよその変な節回しは!」
「なんか、やらなきゃいけない気がした。というか、頑張ってるサティちゃんにそういうこと言うの、僕よくないと思うな」
「つっても魔法使いなんて騙してなんぼじゃねーの?」
「そうじゃない魔法使いもきっといるよ。わかんないけどさ。とりあえず、サティちゃんの着ていた服が乾くまでは、僕とギンジで探しに行こうよ」
「協力する気満々なのな...ああ、もう。泣くなよ嬢ちゃん、わかったよ俺も手伝うから」
ギンジはサティの頭をぶっきらぼうになでると、アクルに目配せをした。
「――ちなみにサティちゃん、その子の前世はなんだったの?」
サティは涙を袖で拭いながら言葉を紙に綴る。
(観賞魚です。前世ではあの子はガラスケースに入れられて、安値で売られていました)
「他に、その子に関してかることはない?」
腫れぼったい目でアクルをじっとみると、サティは首を横に振った。その光景を見たギンジは、ふらりと表に出て行ってしまった。
「ありがとう。とりあえず今は僕とギンジで探しに行くから、サティちゃんは休んでて」
サティ頷き、手記に「ありがとうございます」と書くと、穏やかに微笑んだ。