Day2 血の鎖と約束の枷
昔々、あるところに、太陽と月がいました——。
「ねえ風留、なんか楽しい話をしてよ。もう部屋に閉じこもるの飽きちゃった!」
風留のベッドと向かい側にあるベッドに座って、あっけらかんと笑う親友に彼はやれやれと首を振った。元々一人で過ごすには丁度いい広さだったはずの部屋は、一つベッドを増やした途端に窮屈になってしまった。
「ごめん、何も思いつかない。俺が知ってる話でウィルが知らない話なんてもう無いよ」
一ヶ月間、ずっと部屋で二人ぼっちの生活を送ってきて、流石に仲の良い二人にもそろそろ話題の限界が来ている。
「もうそろそろ、潮時なのかもしれない。……屋敷の中を散歩しようか?」
「本当?やったあ!」
ウィルの顔が太陽のように輝いた。しかし、何故かその表情はみるみる曇っていく。
「……部屋を出る前に、その……」
口をパクパクと動かしてその続きを言葉にしようとしても、どうしても出来なかった。そんなウィルを見て、風留は泣いているような顔で笑う。
「良いよ、突然お腹が空いたら困るものな。そんな悪いことをしてるような顔しないで。俺なんかでもお前の役に立てるなら嬉しいよ」
生まれながらに過酷であることを定められてしまったこの心優しい親友の人生において、自分という存在が更なる暗雲となってしまったことがどうしようもなく苦しかった。ウィルがずっと【願って】いたことは、いつだって風留の【太陽】でいること、それだけだったのに。けれど、どれだけ願っても【ご馳走】を渇望する本能の叫びには逆らえない。
「ごめん風留。お願いだから俺のこと嫌いにならないで。化け物なんて言わないで」
ウィルの赤い瞳が金色に染まる。それは彼の漆黒の髪と相まって、美しい夜空の満月のように見えた。猫のように風留のベッドに飛び移り、親友の背後に回る。風留は顔を隠すローブのフードをゆっくりと外した。普段はきっちり締めたシャツのボタンを三つ外すと、ウィルが腕を回してくる。
「嫌いになんかならない。化け物なんかじゃないよ。今のウィルはとても綺麗だ」
本当だ。ウィルになら、このまま食い殺されても構わない。ウィルを予期せずして【目覚め】させてしまった時、悲しみ苦しむと同時に心の何処かで風留は安堵したのだ……ウィルを独占するのが、自分以外の人間でなくて良かったと。風留には友達は二人しかいなかったから。そしてそのうちの一人を狂わせてしまった今、風留が縋れるのはウィルだけだった。
「良いよ。俺の血全部ウィルにあげる」
細く白い首筋に、鋭利な牙が突き刺さる。襲い来る激痛に風留は声にならない声で叫んだ。頭の中に靄がかかったように、何も考えられなくなる。けれどそれは決して不快ではなかった。
分かっている。このままではいられない。このままこの部屋から出ずに二人だけの世界にいれば、風留は誰も傷つけずにいられた。けれど、ウィルの吸血欲求は日に日に強くなっている。彼の体が【吸血鬼】として完成してきているということもあるが、この部屋に空腹を紛らすような刺激的な何かが無いことも恐らく関係があるに違いない。
今日こそ部屋の外に出よう。このままではいつか取り返しのつかないことになる。誰にも言えない。今自分が考えている、余りにも愚かなことなんて。
薄れゆく意識の底で、満月のように金色に光る【捕食者】の瞳だけが見えた。まるで吸い込まれそうな輝きに、風留が感じるのは決して恐怖ではない。
天にも昇るような幸福。信じられないような多幸感。自分でも狂っていると思う。けれどそれは紛れも無い本心だった。
この世界に、血を吸われる以上の幸せなんて存在するんだろうか?
「こんなことなら吸血鬼の友人の一人や二人、作っておけばよかった」
曇り空の朝、鏡台の前の椅子に座って大欠伸をしながら嘆いたその人は、まるで人形のように愛らしい少女のように見えた。
「生まれて最初に飲んだ血と同じ生き物の血しか飲めないなんて……そんなこと誰も知らなかったぞ!?」
ただし、その小さく血色が良くて可愛らしい口から発せられている声は紛れもなく青年の声だった。鈴を思わせる凛とした響きは美しかったが、少女の声ではまず無い。
「そんなこと人間や他の種族にバレて利用されたら困るから隠していたんでしょうね。まあ仕方がありませんよ、下手すれば種族滅亡の危機ですから」
そんな少女のような青年の、雪のように白い肌によく映える黒檀のような長い黒髪を梳りながらイブはどうでも良さそうに答えた。彼の頭の中は目下のところ、目の前の全く傷むことのない良質な髪にうっとりと見惚れ、如何にそれを美しく飾り立てるかでいっぱいだった。
「まあそれはそうだが。しかし面倒なことになったものだ……!我が家の子供達の血だけは、飲んではいけなかった」
「それもしゃーねーよなあ。だってウィルの一番信頼する友達が風留になるように仕向けたのは俺たち大人なんだし」
あまり話を聞く気の無いイブに変わって、ディルが返事をする。鏡台の前の主人に許しをもらうことなく勝手に彼の天蓋付きベッドに倒れこんだ。流石にアストロ家の当主代理のベッドは寝心地が違う。枕も毛布も全てがふわふわだ。一つ問題があるとすれば、主人とディルの身長差が実に35cmはあるせいで、明らかにベッドの丈が足りないことくらいか。
「……返す言葉も無い」
当主代理はガックリと肩を落とした。ただでさえ背が低く小柄なその体がますます小さく見える。
アストロ家はこの“月夜の国”で最も力ある貴族だ。万が一王家に反旗を翻しでもすれば、酷い内乱が起きる。だから王家とアストロ家の子供たちは、幼い頃から一緒に育てられるのが決まりだった。アストロ家の子供たちにとって、王家の人間が【守るべきもの】であると刷り込むための約束。当主代理の父、つまりは現当主が当時の女王陛下に忠誠を誓ったときからずっと、それは破られていない。当主代理自身とて例外ではなかった。
「まあ大丈夫でしょう。私の孫と貴方の孫がそんなにあっさり【壊れる】わけありません」
主人の髪を梳かし終わって満足気なイブが、大して関心も無さそうに言う。孫、というもののこの部屋にいる三人とも、どう見積もっても20代後半にしか見えなかった。少女のような当主代理に至っては10代後半と言っても通用しそうである。
「全然興味無さそうだが、そもそもウィルのややこしい血の1/4はお前のだろう」
「まあそうですね。あの子は1/4人間で1/2吸血鬼で1/4【人ではないモノ】ですから、ほとんどはあの子の母親のせいですけど」
長い前髪に隠れがちな彼の赤い瞳が、一瞬金色に染まる。ウィルの瞳が時折満月のように輝くのは、彼の母親由来の吸血鬼の血ではなく、この人ではない【何か】の血のせいだということは、未熟な孫たちにはまだ教えていない。
「それにあれはどちらかと言えば貴方の孫の血が特殊だったせいですよ。世界に愛された英雄の子孫の娘と、人ではない【赤の王】と英雄の妹との間に生まれた息子、二人の間に生まれた子供たち。【生まれないはずの子供たち】だから、世界の理を破壊してしまうのも無理ありません」
ディルが目を白黒させる。ずっと前から知っている内容ではあるものの、朝から淀みなく説明されて頭に入る内容ではない。
「風留の血と同じ生き物の血なんて存在しません。あの子の兄弟くらいのものです。けれどウィルも人じゃない血が混じっていますから、風留の血だけを一ヶ月飲み続けた結果彼の血しか受け付けない体に変質してしまっているでしょうね」
「はあ!?」
そんな話は聞いていない。
「なんでもっと早く言わないんだ!?」
「え、当然知っているかと思いまして」
ディルは思う。その顔は面白がっている顔だと。恐らく慌てる当主代理が見たくてわざと黙っていたのだ。
「知るわけないだろう!もっと早く言ってくれれば何か出来たかもしれないのに……!」
「まあなるようになりますよ。昨日の夜風留は優綺乃の部屋に行ったみたいですし」
「それも今初めて聞いた」
「今初めて言いましたからね」
最早当主代理は頰を膨らませて顔を真っ赤にしている。可愛らしいその顔が見れてイブはご満悦といった表情だ。
「まあそう怒らないで。貴方の意に染まぬようなことはしませんよ。最後には全て貴方の望んだ通りになりますから」
後ろから優しく主人を抱きしめる。その瞳が妖しい金色に染まっていることを、主人もディルも知っているけれど。
「……イブを信じる。お前が言うならあの子たちは大丈夫なんだろう。今は見守るべき時か」
彼はスッと立ち上がる。イブとディルが素早く動いて壁のクローゼットを一斉に開いた。そこには数え切れないほどたくさんのゴシックロリータが揃っている。
「 さあ、今日はどのお召し物になさいますか?我らが主、ドール様」
イブが優雅にお辞儀をして、ディルは腕組みをして優しく笑った。
二人にとって、ドール・アストロこそが唯一の主。そしてドール自身もそのことをよく分かっている。だから彼は今日も自信満々の笑顔で歩き出すのだ。問題は尽きないが、二人がいればなんでも出来る。
「決まっている。昨日ゲットした最新作だ!」
今日も彼は二人の従者を引き連れて、自分らしい姿で生きていくのだ。
目が覚めると、とっくの昔に朝ではなくなっていた。どうやら屋敷の医務室に運ばれたらしい。傍らには涙を浮かべてこちらを見つめるウィルと、カルテをつまらなそうに眺めるマリアン。
「風留!もう二度と目覚めなかったらどうしようかと……!」
風留が起きたことに気づいてウィルが勢いよく抱きついてくる。それを見てマリアンはボサボサの髪をさらにグシャグシャにかき乱しながらため息をついた。
「風留。君貧血でぶっ倒れたの。毎日血大量に吸われ過ぎだねー。このままその量吸われてたら、君死ぬよー?」
マリアンはいつも通りの間延びした口調で言うが、その瞳は真剣そのもの。こう見えてもこの国一番の名医だけあって、命に関わるような今の状況は見過ごせなかった。
「ごめん、ごめん風留!俺、どうしても自分を抑えられなくて……!」
顔をぐしゃぐしゃにして泣き付いてくるウィルを宥めるように、風留はその背を撫でる。
「大丈夫。俺ちゃんと生きてるよ。だから泣かないで?」
ウィルは何度も頷くけれども、風留の胸から離れようとしない。その様子をマリアンは居心地悪そうに見つめていた。
「……仲良しなのはいいけどさー。俺がいるの忘れてなーいー?とりあえず医師の話を聞いてくれると嬉しいなー?」
「「……ごめんなさい」」
面倒くさいという気持ちが非常に顕著に表れていたので、二人は一気に冷静になった。マリアンは割と扱いが面倒なタイプなのだ。一回やる気を失うとフレディに何か言われるまで何もしなくなる。
「いいかい?君達二人共このままじゃ良くないよー。ウィルはそろそろ風留から離れられるようにならないと。いつまでも王子様がうちに居候してるとまずいのは分かるよねー?」
ウィルはキョトンと首を傾げた。彼に自分が王子であるという自覚はほとんど無い。
「……うん。おばかさんにはゆっくり最初から説明しないとダメだったねー。まあとにかく、たった一人の餌から目を離して失うのが本能的に怖いのは分かるけど、うちの奴らが風留を守ってるんだから君がずっと引っ付いてる必要はないんだよ?」
黒髪王子は頭を抱えて考える。理性では分かっていることだが、本能的な何かが納得しようとしない。
「うん……分かってる。分かってるんだけど……」
「そんなこと出来ませんよね?自分だけのご馳走から目を離すなんて」
「ひっ!?」
突然背後からがばっと肩を掴まれて、ウィルは飛び上がった。ウィルの影から【何か】がぬっと這い出してきたのだ。
「イブ!その登場の仕方やめてっていつも言ってるじゃん!」
「そうでしたか?忘れていました。ごめんなさいね?」
口では謝罪するものの、その表情から反省の色は全く見えない。
「それに風留はご馳走なんかじゃないから!風留は俺の大事な親友だよ……!」
ウィルが怒りを露わにして抗議する。けれどイブはどこ吹く風だ。
「はいはい。でも確かに風留って美味しそうですよねぇ……!貴方がドールの孫じゃなかったら、今頃食べてしまっていたかもしれませんね」
「なっ……!イブ!」
ぺろりと舌なめずりをして、風留に近づいていく。思わず風留はベッドに寝転がったまま後ずさった。ウィルはイブと風留の間に立ちふさがる。その瞳はギラギラと金色に輝いていた。それを見たイブは風留に近づこうとしていた足を止める。
「やっぱり。貴方の中の【人ではないモノ】の血が濃くなっていますね。全く面倒なことになりましたよ……」
面倒そうに首を振るイブとは対照的に、マリアンはその瞳を見て驚愕の色を隠せなかった。
「金色の瞳……【人でないモノ】だけが持つ……!」
そして彼はイブに詰め寄る。
「イブ、あんたこうなるって分かってて放っておいたのか!これは……王家の臣下たちに知れたらとんでもないことになるぞ!」
王家の血筋は一人残らず黒髪に赤い瞳と決まっている。そうでない王族は王位継承権を認められない。馬鹿げた決まりだとアストロ家の人々は思っているが、そういう古いしきたりをいちいち気にする奴らはいつに時代もいるものだ。それに実際、王族の血を引くもので黒髪に赤い瞳以外の姿で生まれてきた子供はいない……表向きは。
「平気ですよ平気。ウィルがちゃんと城に戻って以前通りの生活を送ればの話ですが。なんせ私の息子が現国王やってるんだから金色の瞳くらい隠すなんて造作も無いことですよ。それもウィルがしっかり理性で本能をコントロールする術を身につければの話ですが」
ウィルは目の前で繰り広げられる大人の会話に全く付いていけなかったが、とりあえずこれだけは分かった。多分、何か問題があるのは自分らしい。
「とにかく!」
イブは一瞬でマリアンの背後に回って、ウィルをビシッと指差した。
「一回城に帰りましょう。ルナと話してきなさい。リレアも心配してます。それにいい加減風留から離れないと」
彼は何故か一瞬でウィルのすぐそばに現れる。その動きはどう考えても人間のものではない。耳元で悪魔のような囁きが聞こえた。
「いつか貴方は本当に彼を食い殺しますよ?」
聞き慣れているはずのイブの声が、何故だかとても恐ろしく感じる。血のように赤いイブの瞳は、いつもとまるで変わらないのに。
「……分かった。お父様と話してくる。俺、風留と離れるのはすごく嫌だけど……絶対に風留を殺したくないから」
ウィルは少し震えていた。それは風留と離れなければならない恐怖と、いつか来るかもしれない最悪の未来への恐怖のせい。そんな彼に、イブは優しく微笑んだ。
「それでこそ私の孫です」
闇夜に似た彼の漆黒の髪の毛を愛おしげに撫でる。ウィルはそんなイブに頷き、風留に手を振って部屋を走り出ていった。
「さて、甘えん坊吸血鬼さんがおうちに帰ったところで、今度は君のことだ」
らしくなく動揺の色を隠せないままウィルを見送ったマリアンは、もう何度もぐしゃぐしゃに掻き回した髪の毛を毟らんばかりにいじりながら風留に向き直る。
「昨日彼女に会ってきた」
一瞬息が出来なかった。誰のことだかなど聞かなくても分かる。一ヶ月前、自分が狂わせた幼なじみの少女のことだ。
「体は至って健康だ。一ヶ月ずっと寝たきりで筋肉は衰えてるけれど。問題は心の方。彼女は相変わらず何の反応も返さない。目を開けていても、何も見ていない。廃人とでもいうべき状態だ」
風留はまるで爪が手のひらを突き破るのではないかと思うほどに強く拳を握りしめた。彼女のことが大好きだったのに。大切だったのに。取り返しのつかないほどに壊してしまったのは自分だ。
「そういう彼女を見るのは辛いと思うけれど、今度お見舞いに行ってあげてー。どれだけ見たくなかったとしても、そこで見る彼女の姿こそ現実だから。君はそうして学ばなければいけないんだ、君の力の制御の仕方を」
「え……」
思ってもみなかったマリアンの言葉に、風留は戸惑う。もう二度と彼女に会うことは許されないと思っていた。けれど、確かに自分は自分の招いた結果を直視してはいなかった。
「今すぐじゃなくていい。もう少し心の整理が出来てからでいいんだよー。それまでは彼女のことも君のこともウィルのことも、俺が全面的にバックアップするからさー」
国一番の名医にお任せあれ、とウィンクしてみせるマリアン。イブは面白そうにこちらを見つめている。その瞳はまるで風留を試しているかのようだった——君はどういう選択をするのかな、と。
「分かった。俺、自分ともう少し向き合ってみる。この瞳のことも、ちゃんと考えるよ。屋敷からも出られるようになる。俺とウィルと、彼女の未来のために」
不安は尽きないが、この家の人々はみんな自分を助けてくれると知っているから、その期待を裏切るわけにはいかない。
「うんうん。やっぱり若いっていいねー。未来が希望で溢れてるよねー。羨ましい限りだよー」
「ずいぶん年寄り臭いことを……貴方なんか私の1/10も生きてませんよ」
「えー?イブって何歳なのよ」
「忘れました。……一千万歳は超えてるはずです」
「引くわー……風留もそう思うでしょ?」
先ほどまでの真剣なムードはどこへやら、なにやら和やかな雰囲気が流れ出して、風留は思わず笑ってします。やっぱり、もう部屋に閉じこもるのは終わりにしよう。この家には、こんなに愉快な人々が暮らしているのだから。
「もしかしてさ。珍しく落ち込んでるー?」
風留が一ヶ月ぶりに家族の元へ向かった後の医務室にて。
「……珍しくってなんですか。私だって落ち込むことくらいあります」
例え自分が【人ではないモノ】だとしても、そのくらいの感情は人と共有できる。
「少し後悔してたんです。ウィルやルナのように、私の血を引く孫や息子がこんなに辛い思いをすることになるなんて想像もしていなかったから。……私は彼女と結ばれるべきではなかったのかもしれない、なんて」
イブの最愛の人、現国王ルナビットの母親は既にこの世にはいない。国民から慕われ、次の女王にと望まれていた彼女は、民を守るために若くして亡くなった。今でも彼は彼女を変わらず愛している。けれど。
「子供が生まれるなんて思いもしなかった。もう思い出せないくらい長い間生きてきて、まさか自分にそんな未来があるなんて考えもしなかったし、人とそうでない【モノ】の間に子供が生まれるはずも無い、はずだったのに。人生とは分からぬものです」
子供達には見せたくない。頑なにひた隠している、人ではない証の金色の瞳など。
「こんなこと貴方に言っても仕方がないけれど。……何故私は人間ではないのでしょう。何故あの時、人間でいることを止めてしまったんでしょうね……」
もし自分が人間なら、子供達はあんなに苦しまなくて済んだかもしれない。そうでなくても、本当は人間でいたかった。あのとき自分達に残された選択肢がもっとたくさんあったなら。後悔など意味が無いけれど。
もしあの日の自分に何か言葉をかけてやるとしたら、何を言う?
かつて答えられなかった誰かの問いが胸をよぎる。今ならきっとすぐに答えられる気がした。
「人として生きられることが幸せなことだということを、忘れないで」
「昔々、あるところに、太陽と月がいました」
ガラスのドームの天井、ガラス張りの壁と床、埋め込まれた色とりどりの輝石。ガラスのテーブルに椅子。夜空色のサイダー。
「太陽は世界中の人々の幸せのために毎日頑張って輝いていました。けれど、月は真っ暗な穴の底に住んでいたので、みんなに等しく光を与える太陽を独り占めしたいと思っていました」
今日も【子供部屋】で二人は世界を眺めている。
「月はある日太陽が空から自分のいる穴に滑り落ちてくるのを見ました。真っ暗な穴の底で、墜ちた太陽は嘆き悲しみました」
テーブルの上のオルゴールがキラキラと音楽を奏でていた。
「月はそんな太陽に穴の中での生き方を教えてやりました。誰も救う者のいない穴の中で、月は太陽にとって神様のような存在になりました。やがて太陽は月がいない場所では生きていけないと思うようになりました」
今夜も夜空の星は変わらず輝き続けている。
「太陽と月は二人で穴から抜け出しました。再び空へと戻れた太陽は、また世界中の人々のために光を降り注がせます」
その星々を押しのけるように、美しく血のように赤い満月が浮かんでいた。
「けれど側に浮かぶ月に向かって太陽は笑いかけるのでした」
まるで太陽を世界から奪い取ったかのように月は輝く。
「月のためなら、世界中の人々など皆焼き尽くしてしまってもいい、と」
ゼンマイ仕掛けのオルゴールのネジが切れて、部屋には青年の語りだけが響いていた。
「こうして、月は太陽を永遠に自分だけのものにしたのでした」