三(一)
三、
翌日、聖哉は無事、意識が戻った。
田口の妻は一睡もせず、その傍で様子を見守ったそうだ。田口本人は自宅に残してきた下の二人の子が心配なので、私が帰って暫く後に引き上げたそうだ。その子らを病院に連れて行くことも考えたらしいが、小さな身に余計な心配をかけたくはなかったし、また、病院で寝る場所もなく辛い思いをさせるだけだと、そのまま待機することにした。
夜が明けると、田口は冷蔵庫にあるものを寄せ集めて簡単に食事を摂ると、二人の子を連れて病院に向かった。面会時刻ではなかったが、息子が入院していることで許しを得、病室に入らせて貰った。
聖哉は顔色も元に戻り、すやすやと眠っていた。
看護士が点滴を携え部屋に入って来、聖哉の腕に針を刺した瞬間、うーんと唸り声を上げて彼は目を覚ましたそうだ。
田口の妻は口に手を当て驚き、涙を流した。
「聖哉、聖哉ぁ」
そう言って、聖哉の腕を取り、その場に泣き崩れた。妻の背中を抱えるようにしながら、田口も、
「良かった。良かった。」
と言って大喜びした。
聖哉は次第に回復し、朝食も少しだが喉を通るようになった。
どうしてこんなところにいるのだ、不思議そうな顔をしている息子に対し、母親はグラウンドをランニング中に倒れ意識を失い、救急車で病院に運び込まれたのだと、これまでの経緯を説明した。虚ろな表情をしていた聖哉は、
「そうだったんだね、ママ。それで僕、助かったんだよね。」
とか細い声で言った。普段の溌剌とした声ではなかった。母親は、
「そうよ、そう。助かったのよ。」
と声を詰まらせながら答えた。聖哉の前で涙は見せまいと努力したが、湧き上がる感情に押し出されるように涙が溢れ出た。
聖哉は病室の端でポカンとした顔で突っ立っている妹と弟に
「お前らも来てくれたのか。ゴメンな。」
と声を掛けた。すると、それまで事情が飲み込めずにいた妹が、突然、わぁーっと泣き出した。
田口は娘を抱き寄せ、
「ほらほら、泣かない、泣かない。お兄ちゃんは大丈夫だから。」
と言って元気付けたが、修まるどころか却って泣き声は大きくなってしまった。それにつられて、弟の方も訳も分からず、泣き出した。
田口は長女と次男を病室から連れ出すと、待合室に行き、自販機でジュースを買って与えた。二人は鼻をグスグスさせながらも大人しくはなった。
田口が二人の子供を連れて病室を出ている間に、田口の妻はナースステーションに通報し、看護師を連れ医師が聖哉の様子を伺いに病室にやってきた。
医師は目や喉を診たり、胸に手を当てたりして聖哉の様子を診た後、
「ここが何処か分かるかな。」
と訊いた。聖哉はコクリと頷いた。他に医師が訊ねる問いにも、聖哉は答えた。だが、矢張りその声に力はなく、いつもの聖哉の様子ではなかった。意識は戻ったものの、身体を起こすことさえ難渋し、ベッドで仰向けになったまま、医師や看護師、そして母親の顔を交互に眺め、時々、ぼんやりと天井を見回すのだった。皆から、意識を失っていた間のことを聞かされ、聖哉は自分が今置かれている立場を飲み込んだようだった。
田口は二人の子供と一緒に待合室にいる間に、私に電話をかけてきた。
「社長、お陰様で聖哉の意識が戻りました。」
そう言う田口に対し、私は「良かったな」と言ったものかどうか考えあぐねた。意識が戻った、そのことは確かに良いことではあったが、聖哉の病状は深刻で予断を許さぬ状態であるという前日の話から、安易に「良かった」と口走る訳にはいかない気がしていた。
「ああ、そうか。無事だったんだな。」
そう言うくらいがやっとのことだった。
「部長、心配だろうが、気を落ち着けてな。」
と励ましにもならぬような言い方をする自分がもどかしかった。
受話器の向こうで、田口の妻が「あなた」と呼ぶ声がして、彼は「社長、失礼します。」と言って電話を切った。
翌日は不安そうな顔をしながらも出勤してきた田口だったが、さらにその翌日には病院から聖哉の病状について検査結果が出たので説明したいと連絡があったと言うことでまた休むことになった。田口夫婦は下の子らを小学校や保育所に送り出した後、揃って病院に赴いた。車のハンドルを握りながら、田口は医師が、
「ちょっと大袈裟に言ってみただけですよ。お子さんは大丈夫です。心配なんか要りませんよ。」
とニヤリとほくそ笑みながら言う姿を想像した。それはあり得ないことだと思いながら、そうあって欲しいという願いが彼の脳裏を支配していた。
病院に着くと、二人はカウンセリング室に呼ばれて、医師の説明を受けた。二人は神妙な面持ちで医師の口から出る一言一句に耳を傾けた。
何と言うのだろう、名前は知らないが医師の机の前にある裏からライトで照らす掲示ボードとでも言ったら良いのか、それにレントゲン写真を張り上の部分をクリップで留め、医師は説明を始めた。
胸と胃のレントゲン写真を棒で指しながらくるっと円を描くようにし、
「肺も胃も特に異常は見られませんね。」
と医師は言う。勿体をつけた言い方が何かじらされているような気がして、「それならその説明は省いてくれた方が良いのに」と田口は思ったそうだ。異常は無くとも一応説明はしておく、それが医師の仕事なのだと分かっていても彼にはそれが腑に落ちない。次に、医師はカルテに貼った検査結果票を夫婦の目の前に差し出し、それぞれの項目を指で指し示しながら、尿も血圧も心電図も特に問題はないと言った。その説明も田口には不要に思えた。それは不快と言うよりも、やたら患者の親を不安にさせるだけなのだ。その内心を悟りでもしたのか、医師はちらと上目遣いで夫婦を見た。ここで、医師が
「いやあ、私も心配していたのですが、特に悪いところは見当たりませんでした。恐らく、お子さんはただの貧血だったのだと思います。お父さんもお母さんもご安心下さい。不安がることはないですが、一応、暫く様子は見て上げて下さい。」
とでも言ってくれるのを田口は期待した。
ところが、ですね、と医師は殊更に声をくぐもらせて言った。カルテを繰って次のページに貼った血液検査票を見せると、
「こちらの方が良くありません。」
と言い、眉間に皺を寄せた。こちらとは勿論、血液検査の結果である。
それは先日、既に聞いたことだ、田口は苛立ち焦っていた。肺や胃など異常のなかった結果などどうでも良いことだ、肝心なのは先生が仰った血液の病気とやらの事だ、それを早く説明してくれ、田口は内心、やきもきしていた。
「お二人とも落ち着いて聞いて下さいね。」
医師は固く念を押した。
「珍しい病気でもないのですが、お子さんのような年頃で罹る方はやはり少ないのです。実は」そう言ってから医師の口から飛び出したのは「小児急性白血病」という病名だった。白血病が血液の癌であることは勿論、二人とも知っていた。先日、医師から血液の病気と告げられ、頭に浮かべたのもその病名だった。それでもその病名を聞いて二人はすぐにはピンと来なかった。
「小児急性白血病、、と言うのですか。それは、先生、普通の白血病とどう違うのですか。」
田口は恐る恐る訊いた。或いは「白血病と言っても症状は普通の白血病よりも軽く、治癒率は高いですから、望みは十分あります」とでも言う答えが返ってくるのを彼は期待した。しかし、医師の答えは無情だった。医師が無情なのではなく、息子に取り憑いた病気が無情であり、そして淡々と説明するその声と表情が一層無情に聞こえさせた。
「白血病ということでは、何も変わりません。ただ、病状が現れる速度の違いで急性と慢性とに区別するのです。子供さんの場合、大抵、急性です。そういう事情から単に頭に小児と付けているだけです。」
田口はこの数日、白血病という言葉が頭にちらつき、その病名を宣告されないことを祈り、またそうであったとしても、少しでも軽い状態であることを願った。だが、その願いは空しく、見事に潰えてしまった。一方では少し覚悟もしていたつもりであったが、やはり簡単に受け容れる訳にはいかない事であった。それでも、彼は一縷の望みを託し医師に訊いてみた。
「助かる見込はないのですか。」
これは医師にとっても答えづらい質問である。そして、訊く側にとっても大抵は打ちのめされることの方が多い。そのことも分かっていながら、敢えて彼は訊いた。訊く以外になかった。どのような答えであろうと、否、どのような答えが返ってくるかなど薄々分かっているが、避けては通れぬことだと腹を決め訊いた。
「その答えは難しいですね。難しいと言うのは、万に一つでも助かる見込みがないのかと言うとそうではないからです。これまでも余命幾ばくも無いと思われた患者さんが思いの外永らえたと言う例は見てきています。中には完治された方もいらっしゃいます。人間の体とは不思議なものです。長年、この仕事をやって来て、未だに謎です。ただ、そうは申しましても、そういう例はやはりごく稀に過ぎません。厳しい言い方に聞こえるかも知れませんが、お子さんの病気で完治された方というのは、少なくとも私の知る限りでは一例もありません。恐らく、余命は半年というところでしょう。」
無情に聞こえた医師の言葉が、非情な、残酷な響きをもって聞こえた。
「緊急搬送されていらっしゃってたまたま私が担当させて貰いましたが、私はこの方の専門ではありませんので、専門の先生はどう仰るか分かりませんが、一応、覚悟はされた方が良いかと思います。」
患者の気持ちを少しでも救おうとしてか、それとも責任を回避するためか、医師はそう言ったが、田口夫婦にはその言葉は慰めにも何もならなかった。
「一応、カルテをそちらに回しておきますので、詳しくはそちらで改めてお聞き下さい。それから病室の方もそちらの病棟に移って頂きます。午後にでも病室を用意しておきますので、それまでに荷物など整えておいて下さい。」
面談はそれで終わった。
夫婦は、深々と頭を下げ、
「ありがとうございました。」
と礼を述べた。田口はその時も違和感を覚えたという。自分は一体何について礼を述べているのか。医師の説明が嘘であって欲しい、冗談であって欲しい。それが空しい願いであるとしてもそう思わざるを得なかった。