花の笑み
しゃらん、しゃらん。ちんとんしゃん。
夕暮れの花街で、花買いに群がる有象無象が大勢いた。お目当てを買えた者、買えなかった者。そこには色々な者が居た。それを見下ろして、それは密やかに嘲笑をした。
「バカだねぇ。お目当ては先に手に入れておくべきだろうに」
「……あんたのその妙な傲慢さはどうかと思いますけど?」
一つの声がその嘲笑を宥める。それは声を聞いて振り返った。
――決して美しいと言える人ではない。それが真実だろう。しかしてその珍しい髪色が実に目を引く。蜂蜜のような茶髪――。
今は帝歴十年。黒船来航と共に開かれた国は、今や帝国を名乗り……そうすることによって自国を守っていた。だが、そんな憂き世の由無事など、このような花街では関係が無いのだ。
吉原遊郭の一角にて、その二人はいた。
その一角と言うのは、花魁のお座敷である。だが、その花は座敷持でしかなかった。ソイツが無理を言って座敷を変えたのだ。幸い一つ空いていた為に成り立ったワガママである。
「全く……世は実に面倒でね。こうしてキミの顔を見るのが何より安心する」
「お上手な事で」
「本心さ」
伸ばされた腕に包まれ、花は笑む。ソイツはその珍しい髪を撫ぜ……そうして目を細めた。その顔は、一種の悦をありありと描き出していた。だが、幸か不幸か花がその笑顔を見る事は叶わなかった。
ソイツの表情は、慣れた花でないと殆ど見分けが付かないほどに、実に変化に乏しかった。しかし慣れた花はソイツの表情は実に豊かだと知っている。それがある種の魅力とも承知している。
ソイツはこの界隈では有名だ。男でも女でも買って……しかし一切手を出して来ない。外の話を話すだけ話して。買われた花は皆、いつの間にかに眠ってしまう。だが、それでもソイツは怒らない。むしろそうしたかったのだと笑う、いわゆる変人である。
ソイツは基本的に買って、贈り物をして、それだけだ。指一本も触れない、変人である。
他の花には指一本触れない癖に、この花だけにはこうして包むように抱きしめるのだ。
……それに優越感を抱かない訳が無い。花は暗い笑みを浮かべた。
だが、他の花と同様に一夜を明かす事も、身請けする事も無かった。
花は僅かに唇を尖らせて、そうして言った。
「……今日も、あんたは話したい事だけ話して行ってしまわれるので?」
「そうだね。何か不都合でも? 妙な事になるよりは、随分と良心的だと思うけど」
あっけらかんとソイツは花を放しては笑った。その笑顔は真意が読めない、正に食えない笑みだった。
その笑みに花は舌打ちがしたくなる。だが、口調を崩しても良いと言われているだけでも僥倖なのに、この上舌打ちまでするのは……。
自制していれば、もう一度月を見上げたソイツがクックッと笑う。
「舌打ちしたいならすれば良いのに。そもそも郭言葉を外させている時点で関係ないと思ったわぁ。そもそもね、郭言葉って言うのは、方言を矯正する為に存在しているのさぁ。だから、キミが使う必要はないと思うけどね。通じれば良いのだからさ」
「だが、言葉と言うのは重要じゃあないかえ?」
ソイツが嫌がると知っていながら、敢えてそう言う花。予想通りにソイツは嫌悪や憎悪交じりの顔を花へ向けた。笑みが一切ない表情に、愉悦さえ浮かんだ。他にこの表情を向けられた花はいない。
「止め給え。気持ち悪い。次やったら……いや、何でもない」
「次やったら、何です?」
挑発するように笑えば、ソイツは一瞬迷ったような表情を見せ、そして月を見上げた。
「……怖い話を聞かせてやる」
「本当にすいませんでしたッ!」
怖い話はダメだ。即座に謝罪すれば、ソイツはカラカラと笑って、湿った空気を追い出す。ソイツはどうしてか、花が怪談の類いが苦手なのだと承知していた。
「……例えば過去の痛みが許容できれば。もしかしたらまた違う話になっていたのかもね。まぁ、別の可能性なんてボクに限っては無いから考えるだけ詮無い話なのだけれど」
「何、を……?」
尋ねれば、ソイツは唇に指を当ててどこか悲しそうに笑った。触れるな、と言う事だろうか。そう了解した花は触れない事にした。
「……女の情は深く哀しいモノさ」
「男は」
「男の情は広く愉しいモノだよ」
花の素朴な疑問に応えるソイツは懐からキセルを取り出した。だが、それは本物ではないことは重々承知している。
「キミも御存知、ハッカパイプだよ。キミの前で何回も吸っているのだから、今更珍しくも無いだろうに」
「いえ……やはり見た事の無いパイプだな、と思いまして」
「特注だ。そりゃあ見た事無いだろう」
吸って、フゥと息を吐き出すその仕草の優雅な事。それを見て、花は呟いた。
「……やっぱり僕は、あんたの事が好きみたいだ」
――その、呆然とした表情。
様々に感情が入り混じった表情に花が戸惑った。自分は今何を言ったのだろうか。あまりにも無意識のうちに出た言葉である為に、花自身が言葉を把握していないのだ。
平たく言うのであれば動揺の表情を僅かに押し殺し、ソイツは立った。
「今日は此処で失礼させて貰おう。気が変わった」
「……何で」
今まで花が眠るまで部屋に居たと言うのに、今日はどうしたのだろうか。
だが、ソイツはキセルを置いて窓から飛び降りた。いつもこうである。一応二階だと言うのに、軽々と飛び降り、闇夜に消えてしまった。
そこでようやく気付く。先程までは夕暮れ時だと思っていたのだが、いつの間にか時間が経過していたのだ。キセルに口を付けて、一筋だけ涙を落した。そして何を言ったのかを自覚して、ソレを自覚して……どうしようもなくなった。
翌日の、同じ頃合い。夕暮れ時。
吉原遊郭は連泊が禁止されている。だから、ソイツが来る事は無いだろうと、思われた。
だが、違った。
「やぁ、店主。今日は珍しい事をしに来たのだよ」
二日連続で顔を見せたソイツに、店主は声をかけた。
「お? 新しい子を紹介してもらえるので?」
人ごみの中にソイツの姿を見掛けて、花は泣きたくなった。今日買われるのは自分では無いのだ。恋情を寄せる人が目の前にいるのに、自分が手を伸ばすのは別人なのである。
……こんなに惨めな事はあろうか。花は思わず俯き、しかして会話に耳を寄せる。幸いにして、店主がソイツの対応に追われている為に客たちの注目はそちらに向いていた。
その揶揄うような店主の声に、しかしソイツは不快そうな顔を見せずに上機嫌に笑う。
「いいや。身請けに来た」
ざわ、と場が騒がしくなった。ソイツの声は無駄に辺りに響き渡る。その為に、その話は無駄に早く回る。
しかして、ソイツの声は飛び回る憶測や、それの類いに比べて何処までも軽かった。一人の花を買うにしては、あまりにも軽い。
「……あんたが?」
思わず確認した店主に、ソイツは言う。
「そうさ。他の誰でもない<悪夢>が、遊女を一人身請けするってだけの話だ。はて、どうしてそんなに盛り上がっているのかな?」
クスクスと笑い、好奇の視線に応えるソイツは劇的な仕草で腕を拡げた。その仕草は、鴉が羽を広げているようにも見える。
「サテ、人を買うのは久しぶりだな。何円だ? 十万?」
ざっくりと出された金額に、聴衆だけでなく店主でさえ驚愕する。十万円。はて、この高級遊郭の一番値が張る花である所の、太夫・梅でさえも容易に身請けできる金額である。
一般帝国民が一生働いた所で一度見れるかどうかの値段である。それを用意していると言うのか。そして、過去にもソイツは遊女を買った事があるのか。
観衆は驚愕と動揺の声を漏らし、格子の中の遊女たちは様々に囁き合う。どんな子だったのかしら。どんな子なのかしら。
――ソレに答えられない遊女が一人居た。花はあっけらかんと明かされた、知らない過去に半ば嫉妬さえも覚える。
だが、ソレを知ってか知らずか……驚愕しすぎて反応が薄い店主に、首を傾げるソイツは目を丸くして訊ねた。
「おや、少なかったかい? もう少し出した方が良い?」
「いっ、いいえ! 誰を身請けされるので!? 梅でしょうか? それとも桜を?」
店主はこの店で一番高い女と男を挙げる。両者共に格子の頃に、ソイツに何回か買われている。一応不自然ではない。
だが、ソイツはクックッと笑ってその言葉を否定する。
「嫌だなぁ、分かっている癖にぃ。俺が欲しいのは一人だけさ。ねぇ、桂花。私に飼われてくれるよね?」
「……はぁ!?」
呼ばれた男は思わず声を荒上げて顔を上げた。
桂花。ソイツが口にした名を知る者は首を傾げる。何をやらせてもイイ訳では無いし、悪い訳でもない。平凡な花だ。
桂花。ソイツが口にした名を、更に口の中で繰り返しては首を傾げる者も居た。太夫に比べて知っている者は少ない。
桂花。ソイツが口にした名を理解して、花たちはいっせいに彼を見た。十万だなんて大金で身請けに出されるなんて。
嫉妬、羨望。或いは純粋な驚愕か好奇の視線に晒されている事を忘れて、桂花は格子へ寄り、ソイツへ罵倒を向ける。
「バカじゃないのか、あんた! 梅さんや桜さんならともかく、僕に十万!? 正気かよ!」
「おいこら、口調が崩れてるぞ」
取り乱す桂花に笑って、ソイツは店主に向き直った。その懐から一つの紙を取り出して首を傾げる。
「……で、呆けてないで答えてよ。桂花を十万でオレの物にして良いの?」
「ぜ、是非とも……!」
願ったり叶ったりだ。
そう哂う声がして、沸き立っていた諸人は一気に静まり返った。今の声はソイツが発したモノなのだろうか。本当に?
ソイツは軽く紙にサラサラとサインを書きつけて、呆然と格子に取り縋っている桂花の手を握った。
「……昨夜、キミがアタシを好きって言ってくれたからね。やっとキミを飼う決心がついたのだよ。ねぇ、」
そこで一瞬時が止まったのかと思った。
ソイツは桂花の左手を引きずり出して、左指へ噛み付いた。それを見ていた花たちは歓声を上げる。
「俺に買われない、なんて言わないよな?」
そう笑った<悪夢>に気圧されて、桂花は僅かに頷いた。
「だぁぁぁ! あんたって奴は……!」
帝都某所に響く声。桂花改め雨雅内人はあまりにもあまりな惨状に呻いた。依頼人が来ていると言うのに、家主が部屋から出て来ないのだ。
部屋に飛び込んできた内人を、一拍遅れた反応で迎える雨雅は怪訝そうな声を上げる。読書中だったらしい。
「……あ?」
「あ? じゃあありませんって! あんた、何ぼぉっとしてるんです!? 依頼人が来てんですってば!」
言われて、雨雅は一瞬首を傾げた。
「ああ、そう言えば何か来るって話があったな。忘れていたよ。この本が面白くて、つい」
「それ何周目だと」
「十二周は読んだかなぁ……?」
首を傾げる雨雅に、内人は更なる怒声を浴びせようとした瞬間だった。
トロン、と蕩けた笑みを浮かべて雨雅は言う。その笑顔のあどけなさと言ったら!
「キミを飼う事が出来て、幸せだよ。依頼人たちも不平不満を言わなくなったし、読書に集中しすぎていても大抵は問題ないし。実に優秀な助手だな。いやぁ、十万円じゃあ足りなかったかな」
「……自覚してんなら、少しは読書量を抑えて下さいよ。ほら、依頼人が待ってますから、早く」
内人に急かされ、雨雅は応接間に向かう。その途中で小さな頼みごとをして、そして雨雅は依頼人と言う夫婦の前に座った。
「さて、お待たせ致しました。屋敷で起こった殺人事件について、での御依頼とかで。いやぁ、資料をひっくり返している間にお約束の時間が過ぎていたようですね。失礼いたしました」
嘘八百を並べる事へ躊躇せずに、<悪夢>と称される探偵は、暗い笑顔を浮かべた。
左手の薬指が疼く。あの人が微笑みかけてくれるだけで幸せだった筈だったのに、どうしてかそれに満足できない自分が居た。それに内人は笑む。――馬鹿だな。あの人の心に別の人が居るのは知っていたじゃないか……。
……つい、坂口安吾を読んで……それで手が滑ったと言いますか……
この二人はどう足掻こうと結局は幸せになりきれないみたいです。そうしたところがまぁ楽しいっちゃ楽しいのですが、時折、設定したのが誰なのかを忘れて「お前ら結婚しろよ!」とシャウトしたくなります……うぅん。