美裏団地の幼い愛人
アパートの建ち並ぶ住宅区――通称美裏団地。そこに僕は住んでいる。かれこれ五年か。今の妻と結婚するより以前から暮らすこの場所は、僕はにとってもはや平凡な風景となってしまった。
経年劣化で薄汚れたアパートに好き好んで来る入居者などいるはずもなく、年々住人も減って廃墟の様相を呈している。
それでも辛うじて人の営みを感じさせるのは、団地で遊ぶ子供たちの笑い声があるからだろう。
朝の出勤時には小学生の集団登校を目にするし、定時で帰る日は下校する姿と公園で遊ぶ子供たちをよく見る。彼女たちの元気な様子を見ているとつい顔がほころんでしまう。
ちょうど今日も夕方の公園でベンチに腰掛けていると、公園の横道を学校帰りの小学生が通り過ぎていく。
僕はちらりと時計を確認してから、おもむろに立ち上がった。
そろそろ彼女が帰っている頃だろう。
そう予想して僕の足は、我が家とは逆方向の棟へと進んだ。
構造はまったく同じであるはずなのに、玄関前にかけられている表札や小物が異なるだけで、普段見慣れたアパートの景色も別世界のように見える。
最初の頃こそ緊張したものの、今では我が家への帰路同然の足取りで狭い階段を登れるほどだ。会社帰りのスーツ姿でも、すれ違う住人に堂々と挨拶すれば何ら不審がられることはない。
そうして僕はいつものように平然と三階の一室の前で足を止めた。慣れた挙動でインターホンを押す。反応は早かった。僕を招くべくしてカチャリと内側から鍵が開けられ、ドアの隙間から小柄な少女が現れる。
彼女は僕を見上げると嬉しそうに薄く微笑んだ。
「おかえりなさい」
「ただいま」
今となっては当たり前となった挨拶を交わし、僕は小学生が留守番をする家の中へと上り込んだ。
彼女の名前は相沢涼香。この近くの小学校に通う小学五年の女の子だ。
たおやかな体つきと腰まで伸びたまっすぐな黒髪が実に女性らしく、顔立ちは幼さを感じさせながらも同年代の小学生にはない達観した気配と落ち着いた物腰があり、何より色香を漂わせる切れ長の瞳が彼女最大の魅力であった。
きっと僕は彼女のそんなところに惹かれたのだろう。
僕たちが今の関係になったのは約半年前。夜の帰宅中、人気のない公園のブランコに所在なく座る彼女を発見して思わず声をかけてしまったのが始まりだった。
「こんなところでどうしたの?もう暗い時間だし早く帰らないと親が心配するよ?」
僕がそう言うと彼女は静かに首を振った。
「平気です。今日はお母さん、うちに帰ってきませんから」
「え……?」
思ってもみなかった答えに困惑する中、少女は艶っぽく笑みを含んでこちらを見上げた。
「おじさん、よかったら……うちに来て遊び相手になってくれませんか?」
この時、常識ある大人ならきっと断ったはずだ。もちろん社会人の一人として自分も常識は持ち合わせているつもりだった。
しかし自分はこの誘いを断ることがどうしてもできなかった。彼女の儚げな笑みに同情の念を抱いたのも理由の一つではあったが、何より自分の心を大きく揺るがせたのは、涼香という一人の少女があまりにも魅力的過ぎるからにほかならなかった。
もちろんやましい気持ちを表に出すほど節度の乱れた性格はしていない。彼女を家に送って適当に付き合ったら一言注意してすぐ帰るつもりだった。
だが、賢い彼女は僕がひた隠しにしている欲求にすぐ勘付くと、あろうことか僕を誘惑してきたのだ。
最初のうちは体に触れてくる程度のものであったが、時間が経つにつれて段々エスカレートしていき、遊びにかこつけ体に密着やわざとパンツを見せたりもして、挙句の果てにキスを迫ってきた。
その時の僕は情けないことに、ダメと分かっていながらも彼女に逆らうことがてきなかった。理性に反して身体は絶好のチャンスをのがすまいとして従順に彼女を受け入れようとした。
気づくと僕はまた明日も来る約束を彼女としていた。
そんなことが二度三度と続き、いつしか僕たちはお互いがお互いを求め合う関係にまで堕ちてしまっていた。
当然後悔はあった。自分には妻がいる。何より小学生と付き合う行為そのものが倫理に反していた。
しかし同時に、長年満たされなかった心が満たされる快感もあった。平凡な日常を塗り替える淫らな関係。決して許されない背徳的な恋。
妻を得ても空虚なままだった僕の心に初めて色が差したのだ。一度蜜の味を知ってしまった僕に、もうこの関係から逃れる術はなかった。
「ねぇ、宗助」
「ん?」
不意に声をかけられ意識を戻す。彼女はあぐらをかく僕の足に座ってこちらを見上げている。彼女はこの体勢が好きらしく、また僕もこの位置からだとキャミソールから覗く彼女の胸元を拝むことができるので異存はない。
まさに僕だけの特等席だった。
「今日私が登校してるときほかの女の子見てたでしょ?」
「さすが涼香は目敏いな」
「やっぱり見てたんだ」
思わず苦笑がもれる。
僕は彼女に隠し事ができない。嘘をついたところですぐ見破られてしまうからだ。
彼女の言う通り、今日僕は涼香とは違う女子小学生を見ていた。涼香には及ばないまでも小さく可愛らしい女の子で、スカートとニーソの間から出る太ももが柔らかそうで、見かけた時はつい目で追ってしまう。
と言ってもちらりと一瞥する程度の観察であるのだが、涼香は僕の目線の先を感知したらしい。本当に鋭い子だ。
「いたいけな女の子をいやらしい目で見るなんて、ホントに宗助は救いようがないロリコンね。早く捕まっちゃえばいいのに」
そっぽを向いてむくれてしまう彼女の態度についついにやけてしまう。大人びていてもこうして時々年相応の子供っぽい反応を見せてくれる。それがまた愛おしくて僕は性懲りもなく悪戯をしてしまうのだ。やっぱり彼女と一緒にいると飽きないな。
「ごめんごめん。よそ見してたのは悪かったよ。でも僕が愛してるのは涼香だけだから」
「口ならなんとでも言えるわ」
「嘘じゃないって。大好きだよ、涼香」
じっと見つめて熱い視線を送り続ければ、顔を背けていた彼女も根負けしたように頬を赤らめ見つめ返す。そして僕たちはどちらからともなく、顔を寄せて深く長い口づけを交わした。
「これでどうかな?」
「んっ……許してあげる」
唇を離して問いかけると、ようやく涼香ははにかむように笑ってくれた。
「宗助、マッサージしてあげよっか? 疲れ、溜まってるでしょ? 私が抜いてあげる」
「願ってもないお誘いだが、今週は勘弁してくれ。給料日前なんだ」
「お小遣いなんていらないわ。私がしたいだけだから。ね?」
「……なら、お願いしようかな」
「フフ、はーい」
吐息混じりのささやく声を耳元に吹かれて全身が震える。また微笑んで髪を耳にかける仕草も蠱惑的で、僕はもう彼女のことしか考えられなくなってしまった。
◆◆◆
時刻は十九時。辺りはすっかり薄暗くなり、ベランダから見える向かいのアパートにいくつも光が灯り出す。僕と涼香は指を絡めて手を繋ぎ、窓の外の景色をただじっと眺めている。
僕が見つめる先は三階の角部屋。カーテンの閉め切られた窓に時折人影の動く姿が映し出され、否応なしに彼女の存在を思い出させる。
何を隠そう、その一室は僕が妻と暮らす部屋に他ならないのだから。
「もうそろそろあっちに行かないと」
「そう……」
お互い顔も向けずに言葉を交えるが、相手がどんな表情をしているかは見ずとも声音で判断できた。
帰りたくない。離れたくない。願わくば四六時中涼香のそばにいた。
僕たちはいつでも会えるわけじゃない。双方肉親に知られてはならない関係上、都合の付く日は限られてくる。週に四日も来られればマシな方だ。僕が仕事で多忙な時期は二週間行けない日もあった。
唯一彼女と会えるのは平日の朝。僕は出勤、涼香とは登校のすれ違う瞬間だけ会うことを許される。人目がある故「おはようございます」なんてよそよそしい挨拶しか交わせないが、元気な姿を見られるだけで僕にとっては一日の仕事を乗り切る原動力だ。
でもやっぱり人間欲深いもので、無理と分かっていても会いたい衝動は抑えられないものである。
「明日も来るから」
「何言ってるの、ダメよ。明日はあなたと奥さんの結婚記念日でしょ?」
「なんで覚えてるんだよ」
普通他人の結婚記念日なんて覚えないだろ。しかもそれを話したのは二か月も前のたわいもない雑談の中の一つとしてだ。つくづく彼女の聡明さと記憶力には驚かされる。きっと家庭環境さえ違っていれば、彼女はより飛躍できただろう。それを想像するたびに彼女の境遇が悔やまれる。
彼女は母親から虐待を受けている。育児放棄も同然に何日も家を空けることなどざらで、帰ってくれば八つ当たりのように鈴香に暴力を振るう。彼女の体には目立たない場所にいくつもアザやタバコを押し付けた火傷の痕がある。
彼女が服の下に隠す痛々しい傷の数々を思い出し、たまらず声をかけた。
「なぁ……やっぱり、警察か児童相談所に連絡しないか?」
「それは絶対にダメ」
鋭く否定されて僕は次の言葉を見失う。
「もし通報したら、いくら宗助でも許さない」
寒気がするほど冷淡な宣告。本気で怒った時の彼女の瞳はナイフを連想させる鋭さと冷たさを帯びる。いつも彼女はこうだ。僕がこの話題を持ち出すと決まって彼女は取り付く島もなく断る。
何度も繰り返された問答に変化はなく、今日も僕は見て見ぬフリに徹するしかない。
何もできない無力さに僕が悄然とうつむいていると、彼女はなだめるように表情を和らげ僕の腰に抱き着いた。それに応じて僕もしゃがんで彼女を抱きしめる。
「お願い、見逃して。あんな人でも私にとっては、たった一人の肉親だから」
耳元で悲痛に懇願する彼女に、情けなくも僕は返す言葉が見つからない。
「もしかしたら、いつか私を認めてくれるかもしれない……いつか私を娘として愛してくれるって、信じて夢見てるの。バカみたいでしょ?」
自嘲混じりの述懐は、小学生が抱く夢にしてはあまりにもささやかで儚い願いだった。どうしてか自分の頰を涙が伝う。彼女の意志の強さと愚直なまでにひた向きな心を垣間見て、涙が抑えられなくなってしまった。
この子は可愛くて美しくて賢くて気高くて、そして強い。
声を殺して肩を震わせる僕の涙を、涼香が優しく指で拭って微笑みかける。
「そんな顔しないで。私、今のままで十分幸せよ? だって、宗助が愛してくれるから。今までこうして誰かに愛されたことなんてなかったら、今はとっても幸せ」
それもまた本心なのだろう。彼女の屈託のない相好に救われたような気がした。こんな非力な僕でも、彼女の役に立てているのだと分かり、少し嬉しかった。
いつまでもみっともない顔はさらせないな。涙をこらえて、ゆっくりと立ち上がる。
「それじゃあ、行くよ」
「あ、待って。ボタンかけ間違えてる」
とことん僕は鈍臭い男のようだ。もし浮気の相手が涼香じゃなければ、僕はとっくに妻にバレていたことだろう。
自分のだらしなさが恥ずかしくなる一方、こうして涼香に服装を整えてもらっていると、新婚の夫婦みたいで楽しいと思ってしまう感情もある。
「はいできた。ん? どうしたの? ニヤニヤしちゃって」
「いや、涼香が甲斐甲斐しくて可愛いなと思ってただけだよ」
「……バカ」
正直な思いを伝えると涼香の頬が赤くなった。照れる彼女は世辞抜きで愛らしい。
「いってらっしゃい」
「ああ、いってきます」
別れの挨拶をして、最後にキスを交わす。
決してさよならは言わない。これが僕たちの不文律とも言える挨拶だ。
◆◆◆
「ただいま」
「おかえりなさい」
帰宅するとすぐに妻が僕を出迎えてくれた。結婚して二年。特にケンカすることもなく、文句も言わず家事をしてくれるよくできた妻だと思う。
夫婦仲も悪いわけではない。休日には一緒に出掛けることもあるし、彼女は今でも僕のことを愛してくれている。僕にはもったいない妻だ。
彼女は僕の特殊な性癖を知らない。知人も親すらも知らない。知っているのは、涼香だけ。きっとその秘密の共有じみたものが、彼女に対する興奮に拍車をかけているのだろう。
「お疲れ様。今日も遅かったわね」
「ああ、最近仕事が忙しくて。参ったよ」
今では堂に入った嘘を吐いてこれ見よがしにネクタイを緩める。今でも罪悪感は拭い去れないが、最初の頃に比べればなりを潜めたものだ。本当に、僕は最低な男だと思う。
「先ご飯にする?」
「そうさせてもらうよ。もうお腹ペコペコだ」
これは嘘ではない。空腹は感じているし、リビングから漂ってくる料理の香りに食欲が刺激されっぱなしだ。食卓の椅子に座るとすでに料理が二人分用意されていた。彼女は僕が帰ってくるまで食事を待っていてくれる。その甲斐甲斐しさが今の僕にはただ苦しい。
内心を悟られまいとして笑みを繕い手を合わせる。
「もういいかな?」
「フフ、遠慮なくどうぞ」
「じゃあ、いただきます」
なるべくボロを出さないためには会話をしないことが一番だ。僕は黙々と食べ進めるフリをして会話の隙を与えない。しかしどうしたことだろう。先ほどから彼女は一切料理に手をつけず、真剣に僕を見つめている。
さすがにその視線は無視することができず、僕は思わず自分から尋ねてしまった。
「どうしたの?」
妻は少し迷った顔をして、だがすぐに意を決したように口を開いた。
「一つ、相談したいことがあるの」
「相談?」
「うん……あのね、そろそろ、引っ越さない?」
「……」
持ち出されたその話題は、あまりにも看過できない要望だった。
「引っ越し……? どうして、また?」
「私たち、明日で結婚して二年経つでしょ? だからもう新居に引っ越すのも悪くないんじゃないかなって。将来子供が生まれた時のためにも」
「それは、子供ができてからでいいんじゃないかな?」
「そうなんだけど、うちの親が向こうで勝手に進めてるみたいなの。お金の面でも補助してくれるみたいだし」
彼女の親は何かと気が早い。よく言えば親身だが悪く言えばお節介だ。資金を援助してくれるのは嬉しいが、このままだとこのアパートから去らなくてはならない。
「……その新居って、場所は決まってるの?」
「予定では、隣町のニュータウンだって。今より会社に近くなるみたいよ」
「へ、へぇ」
隣町……確かに出勤は楽になるが、このアパートには寄れなくなってしまう。そんなことになったら、今よりもっと涼香と会う機会が減ってしまうじゃないか。
我知らず拳に力がこもる。
「ねぇ、あなた。どうかしら?」
「……少し、考えさせてほしい」
「んっ。分かったわ」
その一言で彼女はこの話題を終わらせてくれた。
正直なところ、ここを離れたくはない。ここから離れたら、二度と涼香には会えないようが気がする。
いつかこんな日が来るとは思っていたさ。でも、それはずっと先の未来の話で、こんなにも早く訪れるなんて予想してなかった。
どうすればいいんだ。打開策が浮かばない。
まるで味のしない料理を口に含み、食事中必死に思考を巡らせたが、結局その日は何も思いつかず一日を終えてしまった。
◆◆◆
二日後の夕方。昨日は結婚記念日で涼香に注意を受けたこともあり、彼女の家に行くことができなかった。しかも昨日は土曜で今日は日曜。二人とも休みの僕たちは休日だけ早朝に会うことができない。
つまり今日は二日ぶりの再会であった。
しかし、いつもなら一日離れるだけで会いたい衝動が胸に込み上げて来るのだが、今日だけは珍しく足取りが重かった。
原因は言うまでもない。先日妻に言われた引っ越しの件だ。あれ以来常に僕の頭にわだかまって離れず、ろくに作業も手につかない有様である。
二日経っても答えは見つからず時間だけが過ぎて行く。このまま本当に引っ越しなんてことになったら涼香に会えなくなる。何より虐待を受けている彼女を放ってはおけない。最悪の事態を想像するだけで頭がおかしくなりそうだ。
こんな状態で彼女と会うのも申し訳ないが、彼女の顔さえ見られればこの悶々とした気持ちも少しは晴れるかもしれない。
そう信じて僕は今日という長い一日を乗り切りここにいるのだ。
満身創痍の足を気力だけで動かし、三階を登ってついに涼香の部屋の前に辿り着く。
衣服の乱れを直して呼吸を整える。それから内心を悟られないよう努めて笑みを繕い、そっとインターホンを押そうとして――
「入って」
――ドア越しに彼女の声が聞こえてきた。
びくりと肩が震える。もしかして、ずっとドアの前で待っていたのか?
いつもはインターホンの音を聞いて彼女が出迎えてくれるのだが、どういうわけか今日は先に待ち構えていたようだ。しかしそれでいて向こうからドアを開ける様子はない。
いつもと違う対応を疑問に思いつつ、ドアを開いて中へと入る。
そして室内に入った瞬間、僕は彼女が顔を見せなかった理由を察した。
「……どうしたの、それ」
「昨日、ちょっとドジっちゃって……お母さんに怒られたの。私、バカだから……」
そう言って彼女はらしくもない作り笑いをして、左目の眼帯に手を当てた。
一昨日まではなかったケガ。さらに見える右の目元には泣きはらした痕がある。普段涼香は滅多に泣いたりしない。これまで何度か彼女のキズを見たことはあったが、これほど目立ったケガを見たのは初めてだった。
――実はここ最近、薄々母親の虐待がエスカレートしていると感じていた。ケガをする頻度も多くなり、キズの箇所も日に日に広がっている。こんな状態が長引けばいつか涼香は殺されてしまうかもしれない。
もはや一刻の猶予も残されてはいなかった。
だが、僕が口を開くより先に彼女が言葉を発する。
「ほら、上がって。早く私の部屋に行きましょ?」
「……ああ」
玄関で立ち話するのも悪いと思い、彼女の後に続いて部屋へと足を運ぶ。
廊下を歩き進む彼女の顔には元気がない。ケガをしたのだから当然とも言えるが、なんと言うか――それ以外の憂いも秘められているような気がする。ただの直感でしかない憶測だが。
自室に来るとすぐに彼女は僕を床に座らせ、僕の足の上に腰を下ろす。ここだけはいつもと変わらない二人のポジションだった。
「結婚二周年、おめでとう」
「ありがとう……」
僕に話題を振らせたくないのか、座るや否や抑揚なく祝いの言葉を送ってきた。ここまで心のこもらない祝辞を述べられたのは生まれて初めてかもしれない。
「ごめんね。お祝い事なのに、何もあげられるものがなくて……私だけいつももらってばかりで」
「いいよ別に。涼香さえいてくれれば、僕は何もいらない」
唇を噛む涼香の横顔をじっと見つめ、僕は優しく彼女を抱きしめた。
彼女は今まで一度も僕に物をねだったことがない。形として残る物は親に見つかるため置いておけないのだ。だから僕はそれ以外の方法で、マッサージ代と称してその日一日を凌げるだけのお小遣いを与えたり、食事に誘ったり、遊園地や水族館に連れて行ったり、できるだけ記憶として残るものをプレゼントしてきた。
僕個人としては見返りを求めない自己満足の愛情表現でしかなかったのだが、彼女にとってはもしかすると恩を返せない一方的な苦痛を含んでいたのかもしれない。
それなら、
「じゃあ涼香。キスしてよ」
「何で?」
「お祝いのプレゼントだよ。これなら君でもあげられるだろ?」
「いつもしてるじゃない」
「いつもは僕の方からだろ? 今日は君の方から来てほしいんだ。ダメかな?」
「……いいけど」
彼女は少し悩んでから、こくりと頷いてくれた。
お互い向かい合って目を閉じ、唇を触れ合わせる。柔らかい。
二日ぶりに味わう彼女の体温や匂いが心地よくて、勢い任せに彼女の体を押し倒してしまう。覆いかぶさり貪る僕の下で、彼女が僕の肩をぎゅっとつかむ。その手はすがるように小さく震えていた。
どれほどの時間そうしていただろう。切りのいいところで唇を離すと、彼女はぐったりと四肢を投げ出して蕩けた顔で僕を見つめていた。口の端からよだれを垂らしたそのだらしない表情に性欲をそそられる。
「宗助……激し、すぎ……」
「ごめん、つい」
口では謝ったが反省はしてない。唯一彼女と愛し合っている時だけ、煩雑な悩みを忘れられる。もしわがままが叶うなら、一生彼女とこうしていたい。僕の引っ越しや彼女の虐待、涼香の母親や僕の妻も一切合切すべて投げ出して一緒に過ごしたい。
そんな僕の現実逃避的な思考が伝わったのだろう。彼女はじっと僕の目を見て静かに問いかけた。
「何かあったの?」
「……」
返事に窮した。ここで正直に言ってしまえば彼女はショックを受けるかもしれない。だからと言って嘘をついても聡明な彼女はすぐに見破ってしまう。僕はしばし黙考した挙句、深いため息をついて観念した。
「一昨日、妻に引っ越さないかって言われたんだ。将来子供ができた時のために広い家に住もうって」
「…………そう」
涼香は反応はそれだけだった。短い相槌を打って、目元に片腕を被せ表情を隠してしまう。
いったい彼女は今何を思っているのだろうか。
「……」
永遠とも思える長い沈黙の果てに、やおら彼女は顔から腕をどけた。そして冷たく無感情な瞳が僕を見据える。
「いいんじゃない? 引っ越しても」
「え……?」
一瞬、彼女が何を言ったのか分からなかった。いや、聞こえてはいたが、脳が理解を拒んだ。
「な、何を言って……」
「こんなボロいアパートにいつまでも若い夫婦が住んでいるのもおかしな話でしょ。いい機会だから、新居に引っ越して、そこで心入れ替えて奥さんとよりを戻すのも悪くないんじゃない?」
悪い冗談にしか聞こえない発言の数々に僕はこれが悪夢ではないかと思い始める。
「……君との関係はどうなるんだ? 引っ越したら、涼香と会う機会は今よりもっと減るんだよ?」
「だから言ってるでしょ。奥さんとよりを戻しなさいって」
呆然とする僕の眼前で、彼女は上体を起こして残酷に告げた。
「ちょうどよかったわ。今日私もあなたに言おうと思ってたことがあるのーー宗助……私と別れて」
目の前が真っ暗になった。受け入れ難い事実を言い渡されて、思考が停止する。
嘘だ。そんなはずない。君だってついさっきまで僕のことを好きでいてくれたじゃないか。あんなにも熱いキスを交わした人間が、いきなり別れようなんて言うはずがない。
きっとただ言い間違えただけなんだ。そう思い込もうとしても、彼女の温度のない目が一縷の可能性さえ踏みにじって現実を突きつける。
「宗助は私がいるから引っ越せないんでしょ? だから私から関係を絶ってあげる」
「……嫌だ。僕は君と離れたくない!」
「私はあなたと別れたいって言ってるの」
「っ……!?」
たとえ嘘でも、今の一言は聞きたくなかった。
体に力が入らない。視界がくらんで吐き気もする。反論したいのに、いろんな感情が一度に湧き上がって言葉にならない。
「いつまでもこのままじゃいられない。きっといつか離れる日が来る。それこそお母さんにバレたらあなたにも迷惑がかかる。それはずっと前から覚悟してたこと。諦めて」
彼女は僕より断然子供なのに、大人の僕よりよっぽど理性的で冷淡だった。
「お互い忘れましょ? 私も今までのこと、あなたと過ごした記憶すべて忘れるから……あなたも私を忘れて」
諭すようにひどく穏やかな声とともに、彼女は僕の頰に手を添える。視界がにじんで前がよく見えない。ただ彼女の左目を隠す眼帯の白さだけはかろうじて視認した。
――そうだ。彼女を置き去りにすることなんてできない。
「君を置いてなんていけない。次母親に暴力を振るわれたら、君はどうなるか分からない」
「他人の家庭に口出ししないで」
最後に込めた渾身の説得は、無碍にもはね返されてしまう。
「私なら大丈夫。今までもこうして生き長らえてこれたんだから、これからも私は生きていくわ。だから心配しないで」
まるで根拠のない説明は、理知的な彼女らしからぬものであった。
茫然自失とする僕に向けて、彼女が最後に微笑みかけてキスをする。唇が触れ合うだけの浅い口づけ。
何の感情も湧かない短いキスを終えると、涼香は手を差し伸べて僕を立たせた。もはや受動機械と化した僕の体が唯唯諾諾と腰を上げる。
「もう二度と会うことはないと思う」
僕を見上げる涼香の瞳が細められる。それは微笑んでいるのか悲しんでいるのか判別のつかない曖昧な目だった。
「それじゃあね……さようなら」
決して一度たりとも言われたことのなかった別れの挨拶を告げられ、僕の心は完全に折れてしまう。
幽鬼のようにおぼつかない足取りで彼女の部屋から出て行く。そしてリビングを横切る間際に、僕は偶然テーブルに置かれたイルカのキーホルダーを目に留めた。薄いプラスチック製の安物で、真ん中から二つに折れて壊れてしまっている。
――そういえばたった一度だけ、涼香は僕に物を買ってほしいとねだったことがあった。
あれは彼女を水族館に連れて行った時のことだ。土産物屋に寄った際、彼女はそのイルカのキーホルダーを見て初めて僕にこれが欲しいと言ってきた。
『そんなのでいいの?』
『いいの。これがいいの』
『まあ、君がいいって言うなら』
これよりもっと上等な品は他にもあったが、なぜか彼女はそのキーホルダーがいたく気に入った様子だったので、特に断る理由もなく僕は彼女が渡してきたピンクとブルーの色違いを買ってあげた。
『どうぞ』
『ありがとっ! じゃあ、はい。こっちは宗助の分』
そう言って彼女はブルーのイルカを手渡してきた。
『僕に?』
『そう。お揃いのキーホルダーを宗助と私で。素敵でしょ?』
はにかむように破顔する彼女の言葉に、嬉し恥ずかし僕は頰をかいてそれを受け取った。男の僕が持つには可愛らしすぎるデザインではあったが、涼香とお揃いというのは悪くない気分だ。
『私たちだけの宝物。大切にするね』
その時彼女が見せた笑顔は、この世の何よりも純粋で美しかったと記憶している。本心からの感謝、それが伝わってきたから僕も手放さず大事にしていたのだ。
――しかし大切にすると言っていたキーホルダーが、今は壊れてテーブルに置かれている。
今日、彼女は最初から僕と決別するつもりだったのか……。思い出も宝物ものも、すべて捨てる覚悟だったのだろうか。
口元が震えて涙が溢れそうになり、とっさに家から飛び出していた。前も見ずに階段を駆け下り、アパートの外へと飛び出す。
屋内から出ると傾いた夕日が僕を出迎えて、たまらず目から涙がこぼれた。人気がないのをいいことに、年甲斐もなく声を殺して泣いた。
◆◆◆
「あら? おかえりなさい、今日は早かったのね」
「……ああ。知り合いが、急な用事で帰ることになって」
帰宅するとすぐに妻が笑顔で出迎えてくれた。その屈託のない笑みが、今の僕にはあまりにも優しすぎて直視できない。
「どうしたの? なんだか元気がないみたいだけど?」
「いや……何でもないよ」
「そう……?」
精一杯作り笑いをしたつもりであったが、うまく笑えている自信はない。僕は涼香ほど嘘がうまくないから。
――涼香。我知らず彼女の名前を思い出し、胸が苦しくなる。
彼女のことはもう忘れなきゃいけないのに、彼女ほど簡単には踏ん切りがつけられない。未練がましい情けない男だ。
だから、涼香は愛想を尽かしたのかな。
「……ねぇ」
「ん?」
「こないだの話、引っ越しの件なんだけど……してもいいよ」
「本当に!?」
「ああ、せっかくだからね」
「そう、よかったぁ。それじゃあ、早速お父さんたちに連絡するわね」
「任せるよ」
おざなりに返事をして妻に丸投げする。もはや僕には誰かと会話できるほどの気力は残されていなかった。とりあえず風呂に入るか。そう思い立ち僕はふらふらと浴室へと向かった。
夕食後、人心地ついて夜が更けると妻は先に就寝した。しかし僕はなかなか寝付くことができず、今はベランダで風に当たり静まった夜の景色を眺めている。
遠くに見える煌びやかなネオンの街並みから切り離されたように、近景のこの住宅地は静寂に満ちていて、その物悲しい空気が今だけは僕に考える余裕を与えてくれる。
今日妻の両親と相談した結果、引っ越しは一ヶ月後に決まった。こうして早々に予定を組めたのも彼女の両親が前もって準備してくれたおかげだ。
早くここから離れたい心境の僕にとっては実にありがたい配慮だった。
なるべくすぐにでも引っ越して、彼女のことを忘れなきゃいけない。そうでもしないと僕の傷はいつまでも消えることはないだろう。
やおらポケットからスマホを取り出し、スマホに付けられたイルカのキーホルダーを見つめて目を細める。
涼香に別れを切り出された時は気が動転したが、今から冷静に考えると、今日の涼香の冷たい態度は彼女なりの優しさだったのかもしれない。
引っ越すべきか悩み迷う僕のために、彼女はあえて冷淡に当たったのだろう。きっとまだ彼女も好きでいてくれているはずなんだ。でなければ嫌いな相手とわざわざキスなんてしない。今はそう信じることでしか平常心を保てない。
――しかしそうなると、テーブルに置かれていた壊れたキーホルダーは何だったのか。もし彼女が引っ越しの話で別れを決心したのなら、キーホルダーが壊されていたのは奇妙だ。
かと言って最初から愛想を尽かしていたにしては、出迎えた時の様子やキスの反応は好意的だった。
考えれば考えるほど、どうにもつじつまが合わない。
そもそも彼女はどうしてキーホルダーをあんな目立つ場所に置いていたんだ。
あんな目立つところに置いていたら母親に見つかって問い詰められるだろうに……。
「……」
そこまで思索したところで僕の中に一つの推測が浮かび上がった。
もしかしたら彼女は昨日、母親にキーホルダーの存在がバレてしまったのではないだろうか。
『昨日、ちょっとドジっちゃって……お母さんに怒られたの。私、バカだから……』
予想を裏付けるように思い起こされたのは、彼女の泣きはらした顔と左目を隠す眼帯だった。
彼女が目をはらすほど泣いた原因は、母親に暴力を振るわれたからでも怒られたからでもなく、大切にしていたキーホルダーを壊されたから……。
その答えに行き着いた瞬間、全身に鳥肌が立った。
ただの憶測でしかないが、そう考えれば不自然に置かれていたキーホルダーにも納得がいく。
彼女はやはりまだ僕のことを好いてくれていた。
だがそうなると余計分からない。なぜ涼香はあえて僕と別れようなどと言い出したのか。
『それこそお母さんにバレたらあなたにも迷惑がかかる』
「……僕の、為なのか?」
彼女は僕の身を案じて別れる決意を固めたのだろう。いや、きっとそれだけじゃない。僕と彼女の母親が衝突するようなことになれば、僕と涼香の関係が露呈するだけでなく母親の虐待の事実も明るみになる。そうなれば涼香は今の関係を何もかも失ってしまう。
だからこそ彼女は三者が不幸にならない次善の策を選んだに違いない。その選択で一番傷つくのが自分と分かっていながら……。
涼香は頭がいいくせに、時々じれったいほど不器用な面がある。
そこがまた愛おしくて歯痒くて、僕は拳を握りしめた。
今彼女はどうしているだろうか。
現在時刻は零時手前。普通の子供ならとっくに就寝している時間だが……。
何か、嫌な予感がする。虫の知らせとでもいうべき焦燥感に、いても立ってもいられず、僕はベランダとは反対方向の窓へと向かった。
リビングの窓から外を覗いてみれば、涼香のいる――向かいの棟が把握できる。
彼女の部屋は三階の一番端。目を向けると、カーテンの締め切られた窓から明かりが点いているのが確認できた。
涼香はまだ起きているのか?
それならばどうか一言会って話がしたい。そう思った僕の目に飛び込んできたのは、カーテン越しに映る人の影だった。
涼香……じゃないな。身長が明らかに違う。
なら該当するのは一人しかいない。彼女の母親だ。今日は帰ってきていたのか。でもなぜこんな遅い時間に涼香の部屋にいるんだ。
僕が怪訝に目を眇めると同時に、その人影は上げた手を振り下ろした。
「っ……!?」
動作の意味にいち早く気づいた僕は目を見開いて硬直した。きっと涼香は今暴力を振るわれている。
キーホルダーの件を問い詰めるために、母親はわざわざ娘の部屋へと踏み入ったのであろう。
徐々に壁際へと詰め寄る人影を注視しながら、必死に思考を巡らせる。
どうする……今から彼女の家に向かうべきか? この場合警察に通報するのが賢明ではある。
解決策はいくつも浮かび上がるが、一つとしてそれを実行に移すことは叶わない。思いついてもたった一つの懸念が僕を直前で踏み止まらせるのだ。
――僕が今からやろうとしている方法は、そのどれもが彼女の努力と覚悟を踏みにじる行為に他ならない。彼女は母親といたいが為、僕を守りたいが為に耐え忍んでいる。
彼女の幸せを望むのなら、何が最善であろうか……。
悩みに悩み抜き、握りしめたままのスマホに目を向ける。イルカのキーホルダーに訴えかけられているような気がした。自分にとって涼香とは何なのか?
「僕にとって、涼香は……」
愛する人。恋人。守りたい人。大切な女性――僕と彼女の関係を言い表すのにもっとも深く密接な言葉は……。
頭の中で模索して、ついに僕は一つの答えを得た。それと同時に、決意が固まった。
「……そうか。最初から悩む必要なんてなかったんだ」
独り納得して苦笑する。そうして顔を上げると、僕はなりふり構わず家から飛び出した。
階段を全速力で駆け下りる片手間にスマホで警察に連絡する。もはや迷いはなかった。ただ涼香を救いたい、その一心で夜の歩道を走り抜ける。
アパートの三階まで登り切る頃には、玉のような汗が額から流れていた。学生時以来の全力疾走に体が悲鳴を上げている。だからと言って休息している暇はない。
貧弱な体に鞭を打ち、ふらふらの足で相沢家の玄関まで辿り着く。
そしてほとんど衝動的に回したドアノブが、驚くべきことに簡単に僕の侵入を許したのだ。鍵が開いている可能性を考慮しなかったわけではないが、まさか開くとは思わなかった。
僥倖にある種の奇跡めいたものを感じながら、土足のままに涼香の部屋へと駆け急ぐ。
「ちょっと、誰よあんた!?」
果たして涼香の部屋に赴けば予期せぬ闖入者に驚愕する母親と邂逅した。実の母親にしては似てないな。涼香の方がよっぽど美人だ。
愚にもつかない感想が浮かぶ合間も、僕の視線は涼香の姿を探して母親の背後に向けられる。すると彼女は部屋の隅で仰向けになって倒れていた。
衝動的に目の前の母親を突き飛ばし、一目散に涼香へと駆け寄る。
「涼香! しっかりしろ!」
抱き起こして顔を窺うと彼女は額から血を流していた。幸い軽傷で出血も少ないが、だからと言って女の子に負わせていい傷ではない。眼帯も殴られた際に外れたのか、痛々しく腫れた目元が露わになっている。
涼香の痛ましい姿を目の当たりにして筆舌に尽くしがたい怒りがこみ上げてきた僕であったが、不意に涼香が苦しげに呻いて目を開けたことで怒気が霧散した。
「涼香 大丈夫か?」
「……そう、すけ? なんで、ここに?」
「君の母親が暴力を振るっているところを見て駆けつけたんだよ。もう大丈夫。さっき来る前に通報したから、時期に警察も来るよ」
安心させようと経緯を話すと、彼女はひどく驚いて目を剥き、今にも泣きそうな顔で僕のシャツを握りしめてきた。
「嫌、ダメ……帰って。お願い……お母さん、いなくなっちゃいや。宗助もお母さんもいなくなったら私、今度こそ独りぼっちになっちゃう」
普段からは想像もつかない、まるで駄々をこねる子供のような口調で哀願してくる涼香。その姿に胸が締め付けられそうになるが、それでも僕はあえて首を横に振った。
「君の頼みは聞けない」
「どうして!」
目を剥いて憤る涼香の顔をじっと見つめて、僕は強く彼女を抱きしめた。表情は見えずとも涼香の驚く反応が体感的に伝わってくる。
そうして腕の中の小さな少女に、僕は耳元ではっきりと告げた。
「僕が家族になるから」
「っ……」
「僕と君は恋人でも愛人関係でもない家族だ。僕がずっとそばにいるから。君の母親の分まで、誰よりも君を愛するから……もう、泣かなくていいんだよ」
「宗助……」
「一生離さないから、僕の家で一緒に暮らそう。愛してるよ、涼香」
伝えたい思いをすべて吐き出し終えると、僕の肩にぽつぽつと涙のこぼれる感触が伝ってきた。
涼香が涙まじりに小さく声を絞り出す。
「……私も、大好きだよ。宗助」
彼女が腕を回して抱き着いてくる。僕もそれに応じるように強く抱きしめ返した。
遠くの方からサイレンの音が聞こえてくる。どうやら警察が来たらしい。
ちらりと背後を確認すると、涼香の母親は突き飛ばした時の衝撃で気を失っていた。この分だと警察が来るまで目を覚まさないだろう。
僕は再び涼香に顔を向けてじっと見つめる。すると彼女も僕の気持ちを察したのか、微かに一笑してそっと目を閉じた。
そうして僕も目を閉じると、彼女の唇に自分の唇を重ね合わせたのだった。
◆◆◆
一ヶ月後、僕と妻は新居へと引っ越した。似たような外観の家々が並ぶありふれた住宅街の一軒ではあるが、初めて持つマイホームであることは間違いなく、興味が薄かった僕も今ではある種の感動を覚えていた。
前のアパートが懐かしいかと問われれば、そんな気もしてくるが、戻りたいとは思わない。元よりあのアパートは格安で入居しただけに過ぎないのだから、これと言って思い入れもない。
この家からでも小学生の登下校は観察できるし、近くには公園もある。むしろ前の方が不便だったと感じるほどだ。
ただそれでも、涼香と出会い過ごした日々は自然と思い起こされる。唯一あのアパートで暮らして良かったと思える利点だろう。あそこに住んでいなければ僕は彼女と会うことはなかった。
短いながらも彼女と一緒にいた光景を思い出すと少し恋しくなってしまう。
結局あの後、警察が来たことで真夜中の団地は軽い騒ぎとなった。母親は警察に引き渡され、現場にいた僕も事情を聞かれて警察署へと連れて行かれた。
涼香と自分の関係を聞かれた時はひやひやしたが、事前に涼香が口裏を合わせるよう支持してくれたおかげで、僕の立場は『前々から虐待が心配で気にかけてくれていた近所住人』という体裁を辛うじて保つことができ、妻にもロリコンの変態としてではなく正義感のある夫という認識を持たれたようだった。その好意的な評価にかなりの罪悪感は伴ったが、否定するこも叶わず今も僕の心中にわだかまっている。
それでも、新たな生活に身を投じることで心を入れ替え、多少はこの気持ちも払拭することができるやも知れない…………いや、どうだろう。やっぱり無理かもしれない。
たとえ住居が変わっても、彼女と一緒にいる限り僕の心は常に嘘を抱え続けるのだから。いやむしろ、今まで以上にその心境は深まるだろう。
緊張や不安や罪悪感、いろんな感情がない交ぜになりながら僕はリビングのソファで今か今かと来る時を待ち構えていた。
そして、その瞬間は玄関の鍵が開く音と共に訪れる。
「来たか……」
僕の心臓は早鐘を打って緊張や焦燥感を否応なしに伝えてくるが、それでも僕はあくまで気取られないよう平静を装い、帰ってきた妻を出迎えに玄関へと向かった。
「お帰り」
「ただいまー」
帰ってきた妻がにこりと微笑む。お待たせとでも言いたげな、いたずら心のある笑みだ。その笑顔の淵源は妻の背後に隠れるようにして立つ小さな客人の存在にあった。
「ほら、遠慮せずにはやくはやく」
妻が招き入れるとその小柄な人物は厳かに敷居をまたいで僕の眼前に進み出た。
「今日からこちらでお世話になります。いろいろとご迷惑おかけすると思いますが、どうぞよろしくお願いします」
そう挨拶を述べてお辞儀すると、涼香は非の打ち所がない笑みを僕に向けた。
彼女の口ぶりに思わず苦笑がこぼれる。なるほど、最初はあくまでその距離感でいくつもりなのか。ならば僕も彼女の設定にあやかるのが賢明だろう。
「ずいぶんと他人行儀だね。無理せず普段通りに振舞ってくれて構わないよ。僕たちはもう家族なんだから」
それを聞くと涼香は口元に小さく笑みを含んだ。
「うん、ならお言葉に甘えるね。これからよろしく、お義父さん」
お義父さん――まさか涼香からそう呼ばれる日が来るなんて、数ヶ月前の僕は想像すらしなかっただろう。
気になる経緯であるが、事件後彼女は警察に保護されたのちに児童保護施設へと送られた。当然そうなれば僕は涼香と会うことができなくなってしまう。
だから僕は、彼女を養子として我が家に迎え入れることにした。事件後さっそく妻にそのことを相談すると彼女は嫌な顔一つせず快く同意してくれた。妻には感謝しても仕切れない。
問題は警察に捕まった涼香の母親だった。普通養子にする上で元の親族の同意は必要不可欠であり、得るのには相当難儀したが、何度も警察に足を運び説得を重ねた末に母親は首を縦に振ってくれた。
警察に拘留される間に思うところがあったのか、涼香の母親も最終的には娘の幸せを優先してくれたようだった。なんだかんだ言っても、やはり親は親なのだろうか。
かくして様々な課題はあったものの、無事に涼香は僕の娘となった。これで、今まで以上にずっと一緒にいられる。
「さあ、今日は涼香ちゃんの歓迎会にしましょ。ご馳走いっぱい作らなくちゃ」
「なら僕はその間涼香を部屋に案内するよ」
「お願いね」
妻はにこりと笑みを向けると張り切ってキッチンへと歩いて行った。その後ろ姿を二人して見送ったところで、不意に涼香が口を開く。
「いい奥さんね」
「一応君は娘なんだから、いい奥さんなんて評価はおかしいと思うよ?」
「だって、私にとっては恋敵だもん」
ちらりと顔をうかがえば、彼女は先ほどまでの純真無垢を装った笑顔を捨てて不敵な笑みを浮かべていた。これでこそ相沢涼香である。いや、もう彼女はうちの性か。
「養子になんてするから、私もう宗助と結婚できなくなっちゃったじゃない」
「でも、そのおかげでずっと一緒にいられるだろ?」
「……まあね」
はにかむように笑う涼香。その表情がまた愛らしくて僕の顔も自然と綻ぶ。
僕と涼香は見つめ合う。しばし無言の時間が流れたのちに僕は慈愛を込めて微笑んだ。
「おかえり」
「ただいま」
彼女もまた微笑みを返して僕の体に身を寄せる。
そしてどちらからともなく、僕らは目を閉じてそっと口づけを交わした。
※よい子のみんなは真似しないでね。
もし幼女の魅力をご理解いただけましたら、『世界最強の幼女育ててます。』という長編小説も連載しておりますので、よろしければこちらもどうぞ。