師走の喜び
ここの所、近くの雑木林がざわざわと音を立てている。木枯らしが吹き出したのだろう。母が軽い風邪をひいたので、掛かり付けのお医者さんに見て貰う。先日健康診断をして貰ったお医者さんに連れて行く。
「風邪の初期症状ですね。暖かくして、充分に睡眠を取ってください。薬だしておきます」
まあ、何時もの会話になると思った、が、しかし母は思いもよらぬ事を先生に質問したのだ。
「ねえ先生、心臓で死ぬって一瞬だから楽なのでしょう?」
言われた先生は驚くと思いきや、顔色ひとつ変えず
「でもその一瞬が物凄く苦しいそうですよ。こんなに苦しいのなら死にたくないと殆どの方が思うそうです。尤もこれは助かった方の言葉ですがね」
そう言って何事も無かった顔をしている。きっと母ぐらいの歳になると皆お医者さんに訊くのだろうか。
帰りに車の中で母に尋ねる。
「ねえ、そんなに胸が苦しいの?」
「ううん、訊いてみただけよ。そりゃ若い頃とは違うけど、歳を取るって言う事は体のあちこちの不具合を抱えて生きて行くと言う事なのだって、やっと判ったのよ。今更なんだけどね」
わたしも中年真っ盛りだから、体に無理は段々利かなくなって来ているから母の言う事も納得出来た。
「早く暖かくならないかな」
呟くように言った母の言い方が妙に真に迫っていた。
その日、珍しく娘が早く帰って来て、台所に居るわたしに付き纏うので
「なぁに? 何か用なの?」
娘に尋ねると、これも滅多に見せた事のない顔をして
「今度の休み、皆家に居るかな?」
そんな事を口にした。その瞬間、わたしは娘の言いたい内容が推測出来た。
「誰か連れて来るの?」
「え、判った?」
「あんたの顔に書いてあるわよ」
娘に彼氏がいて交際しているのは知っていた。その相手とは、かなり前に遊びに来た人物だと言う事も知っていた。だから交際が次の段階になったのだと思ったのだ。
「前に来た人?」
「うん。今度結婚を前提にしたから、その挨拶がしたいって」
やはり、そうだった。
「日曜はお父さんも居るわよ」
「ありがとう! 連絡するわ」
出来ていたおかずをお盆に乗せると
「今日はトンカツかぁ、並べておくね」
家の中だが、「足取りも軽く」台所を出て行った。きっと一刻も早く伝えたいのだろうと思った。
皆、昔通って来た道だから、判るのよ。それを娘に言っても今は判らない。でも、いずれそのうちに判って来るものだから、今は娘には言わないでおく、親として。
日曜日、約束どおり娘が彼氏を連れて来た。以前見た時よりも男前が上がっている気がした。中々見どころがあるじゃないか、我が娘よ。
「お久しぶりです。この度結婚を前提に交際をさせて戴く事になりました。宜しくお願い致します」
リビングのソファーに正座して頭を下げている。額には冬だと言うのに汗を掻いているみたいだ。
隣を見ると、夫も緊張しているのが判る。そうよね、娘の父親としてこんな場面は初めてよね。緊張しない方がおかしい。
不意に昔の事を思い出した。そう、夫がわたしとの結婚の許可を求めにやって来た時の事を。
未だ、建て替える前の家のダイニングのテーブルに座った夫は、夏だと言う事もあり体中で汗を掻きながら、父に
「必ず幸せに致しますから、娘さんと結婚させて下さい!」
内気な夫の一世一代の言葉だったかも知れない。
父は条件をひとつだけ出した。
「将来、お墓を守って欲しい。苗字については構わないから。もし子供が出来なかったらその時は永代休養にしても構わない」
勿論夫は納得した。苗字もわたしの家の苗字を名乗っても良いと言ってくれたが、それはこちらが辞退した。
「婿養子を貰う訳ではないのだから」
これは父の言葉だった。だからと言う訳ではないが、転勤であちこち廻されたが、最後の勤務地として、ここから通える場所に希望を出した。それが通って数年前からここに住んでいる。
「出来たらもっと早く一緒に住みたかったな」
きっとそれも夫の誠だと思う。
「不束かな、娘ですがよろしくお願い致します」
夫がそう言い返して目出度く儀式は終わった。
「さあ、呑みましょう! 用意出来ているのですよ」
一転して夫が嬉しそうな顔をした。わたしは娘と一緒に酒宴の用意をする。
娘の顔を見ると晴れやかな顔をしている。今は嬉しさが先に立っているのだろうと思う。わたしもそうだった。
結婚をするという事は、一家を他に構えると言う事だ。そこには色々な事もあるが、今は語るまいと思う。
当然酒宴には母も加わり、娘が彼氏を紹介して
「お祖母ちゃん、この人もうすぐ孫になるんだよ」
の言葉に目を細くした。息子も帰って来て加わり賑やかさが増して行く。
木枯らしが吹く外とは違い、この日は我が家では喜びが溢れていた。
「わたし駅まで送って来るから」
宴席が終わり、帰る事になり、お酒を控えていた娘が車のキーを持ちながら彼氏と一緒に車に乗り込んだ。
「ごちそうさまでした!」
大きな声で挨拶をする彼氏。その様子を見ながら夫が
「声の大きな奴に腹黒い奴はいない」
そんな事を言っている。多分声の大きい自分の事だと思ったら、その言葉が耳に入った娘が嬉しそうな顔をした。
この日、我が家では今年一番の喜びだったかも知れない。外に出ても木枯らしが気にならなかった。




