第三章 任那の面影(三)
五瀬が工房に戻ったのはそれからしばらくののちだった。
「三船、お主、千俵蒔山への道を知らぬか」
戻るなり、五瀬は、ちょうど奴婢小屋から工房へやって来た三船をつかまえ、勢い込んで訊いた。
「何だ、いきなり。何処へ行っておった」
「ああ、浅茅の浦だ。新羅の船が入ったのを見に行っていたのだが」
船着き場にたむろするうち、五瀬は偶然に、千俵蒔山という山から、新羅の姿が見えるという話を聞いたのだった。千俵蒔山とは対馬のほぼ最北端に位置する。対馬は北へ行く程、朝鮮半島に近づくので、この千俵蒔山の辺りが直線距離が最も近い場所になる。距離が近い上に、山自体も海に向かって大きく盛り上がって見張り台に適しているということで、山頂には烽と、烽を守る防人が置かれ、変事を知らせる第一砲を担わされていた。防人たちはここから新羅と日本の間に横たわる渺茫とした海を見つめ、海の向こうにうっすらと浮かぶ山々を見つめ、夜の目も寝ずに見張りをしているのだった。
「おれの祖は、百年ばかり前に大和へ渡って来た任那人なのだ。その任那は、新羅の南の端にあった国だと聞いたことがあるから、千俵蒔山から見える山とは、それは任那の山に違いない。見てみたい。道案内出来ぬか」
五瀬はまるで牛のように落ち着きなく歩き回りながら、興奮気味に喋りたてた。三船はあきれ顔で眺めていたが、
「悪いが、よした方がいい」
首を振って諌止した。
「千俵蒔山はすさまじく遠い。わしも下県の生まれで道をよく知らぬ。それよりも、聞いたであろうがあそこは烽が置かれてある場所だ。見張りの兵もおるし、たとえ行ったとしてもおいそれと登って海を眺めるというわけには行かぬよ。――しかし五瀬、気を悪くするかもしれぬが、お主は任那とやらを知らぬのだろう? 一体、とうになくなった故郷なぞ眺めてどうする」
「おれにも、よく分からぬ」
五瀬は口ごもった。確かに三船の言うように、見たことも行ったこともない任那の山を海の向こうからちらと眺めたとて、どうなるとは思えない。それに、五瀬が今まで、故国へとりわけ強い憧憬を抱いていたかといえば、実はそうでもないのである。
しかし、この対馬から新羅――つまり任那――が見えるのだと聞いた時、よく分からない何かの感情が、いきなり泡のように、体に沸き返ったのだった。その泡が今も五瀬を急かしている。背を押し、焼き焦がし、焦燥のような、哀切のような、居ても立ってもいられない情感へと、五瀬をひたすらに駆り立てるのだった。
「おれにも分からぬ。分からぬが、このままでは胸が乾いて苦しいのだ。ひと目任那の姿を見ることが出来たなら、胸も静まるのではないかと思う。そのために、行きたいのだ。三船よ、何とかならぬだろうか」
三船は、やっぱりよく分からぬというような顔つきであった。が、ともかくも知恵を絞ってくれ、千俵蒔山までわざわざ行かずとも、島の西側の浜まで出れば、新羅の山影を拝めるのではないかと憶測を立てた。しかし西の浜へ出るといっても、やはり徒で行くというわけには行かぬ。途中には山並みが複雑に連なって立ちはだかっており、時が幾らかかるか分からない。
「近くの浦里へ行ってみよう。日頃から浅茅を行き来している漁民ならば、新羅が見える場所を知っておるはずだ。舟を雇い、出して貰えばよい」
数日後、空が澄んだ日を選び、五瀬は三船と共に先日の船着き場へと出かけた。海辺にたむろしていた漁民を捕え、新羅の山が見える所を知らぬかと訊くと
「さて、入り江の出口まで行けば、見えぬこともないが」
そこへ舟を出して欲しいと五瀬は頼んだ。迷惑顔の漁民に布を払ってなだめ、口説いて、ようやく空いている小舟を出して貰えることになった。潮を煮つめたような赤黒い肌の老人が操る舟に、二人は乗り込んだ。
「お主も乗れて安堵した」
小舟が船着き場を出ると、五瀬はほっと息をつき、小声で言った。頼みの綱の三船が、奴婢は舟に乗せぬと乗船を拒まれるのではないかと、五瀬はそれが一番の気がかりだったのである。しかし当の三船は
「左様なことは言わぬさ」
涼しい顔だった。
「わしは、言ってみればお主のたずさえた荷であるからな。人だけ乗せて、荷は置いて行けという話はあるまい。荷も乗せるならその分布を払えと言われるかもしれぬとは、思うたが」
口の片側で小さく笑った。両岸から急峻な山並みの迫る入り江を、舟は軽々と滑った。空は澄んでいるが、船腹を舐める水は岸に近いせいか、くすんだ緑色に静まっている。海に向かって突き出た低い崖の上に男の姿が見え、見ているうちに身をひるがえして波間に飛び込んで行った。貝を漁る漁民と思われた。次々と流れて行く景色を遠く見つめながら、三船は片頬の笑みはそのままに、
「人にあらぬものの、役得だ」
ようやく聞き取れるくらいの声で、ぽつりとつぶやいた。
細い入り江を抜け出、舟は速度を増した。潮の流れがあるのか、それとも老船頭の櫂さばきが巧みなのか、水鳥のように鮮やかに潮を押し分けて走って行く。冷たい潮風が、衣に染み透って肌を刺した。舟はたちまち浅茅浦を渡り切って入り江の突端の小さな岬を回り込み、波の洗う崖の間にこじんまりと開けた砂の浜へと上がった。砂地のすぐ向こうに小高い山が隆起していた。老人は手を上げてそちらを示した。
「あそこに登ればよかろう。新羅は、ここからでは随分遠いが、まあ若いお主なら見えるだろうて。わしはここで待っておる。遅くとも陽がこの辺りまで傾いたら戻って来てくれ。この年では夜の海は渡れぬからな」
二人は小山を登った。膂力を買われて山仕事をしたことのある三船は先に立ち、手斧を振るって枝や蔓を払い道を開いた。登攀を始めて一刻余り、二人は小山の頂に到達した。木暗い茂みをかき分けると、眼下に海原がひと息に広がった。硬く青く澄んだ空の下に、海はひときわ濃い青を敷き横たわっている。二つの境が石を割ったように鮮やかであった。ぴんと張りつめた水平線の上へ、二人は懸命に目を走らせた。
「おい、あれではないか」
三船が気ぜわしく衣を引き、指を上げた。
――おお。
五瀬は息を呑んだ。
吸い込まれそうな海の藍と、薄氷のような空の青、その間に、海の色とも空の色とも異なるもう一つの青色が幻のように浮かんでいる。隆起しては沈み、なだらかな起伏を繰り返して延々と伸びるそれは、山の稜線に違いなかった。
「任那だ」
絞り出した声は、ひどくかすれた。
大和で生まれ育ち、忍海の周りと飛鳥の谷しか知らぬ五瀬には、任那とはあの世よりも遠い国であった。幼い頃から年寄りに建国の神話を聞かされ、祭りで任那より伝来したという祝詞を唱えても、確かな手ざわりをもって故国というものを感じられたことはなかった。五瀬だけではない、一族の誰しもがそうであっただろう。帰る場所を持たない孤独は、三田一族の心の底に澱のように積もり続けねばならなかった。
しかし今、その任那の国が潮のうねる果てに見えている。年老いた語り部の声の中にだけ、淡く儚く仄見える陽炎に過ぎなかった故国は、力強い色彩と体臭とを伴い、手に触れるような生々しさで眼前に横たわっていた。
「三船、任那だ。おれたちの骨と血が生まれた国だ」
血の滲み上がるような目で稜線の青い陰影を見つめ、五瀬は夢中で声を上げた。
任那という国は消え去った。だが、あの青くかすむ山の向こうには、祖先が暮らした山河があり、仰いだ空がある。心の寄る辺とするべき地は確かに存在するのだ。血が、熱く震えた
眼下の海に船の姿が見えた。帆をいっぱいに張り風をはらんで外海へとゆっくり滑り出て行く。舳先に旗がひるがえった。船着き場で目にした新羅船に似ていた。
――我が兄弟
心の内で、五瀬は船影に呼びかけた。任那の血を引く若者の、望郷の念を託されたとは知らぬままに、船は対馬に背を向け海の向こうの国へただ静かに帰って行く。
「よかったな。来た甲斐があった」
三船の手が、ゆっくりと、力強いしぐさで五瀬の肩を揺すった。五瀬は何も言わず、肩に置かれた手をしっかりと握りしめた。魂の帰る地がある。そして傍らにそれを喜んでくれる友垣がある。ひと時、五瀬の孤独は洗い流された。そして一族の中に刻みつけられた百年の流浪の孤独もまた、青い影の向こうにひと時の間すすがれたように感じられた。
(第三章・了)