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第三章 任那の面影(二)

 蹴り飛ばされた部分の刺し込むような痛みが引くにつれ、役人への憤りは次第に薄らいだが、入れ替わりに今度は胸苦しい不安が容赦なくこみ上げ、気を重くさせた。


 三船は手を伸ばして股間の布を取り上げ、潰した草の汁を染み込ませて返してよこした。


「何、五瀬。役人は当分来ぬさ。口では十日なんぞと言うておったがな」


「何故分かる」


「年が明けたら、国衙では都に帳簿を送らねばならん」


四度遣(よどのつかい)とかいうやつか」


「そう、それだ。国衙はもうじき、その仕度に追われる頃だ。とてもこっちまでは手は回らん。わしは国衙で見て来たからな」


 三船が言った帳簿とは、租税の収支を書きまとめた正税帳のことである。前年度からの繰り越し、当年の収入と支出、来年度への繰り越しが記録されており、それを国司は年に一度、二月の末日までに朝廷に提出しなければならない。対馬から大和までは二月余も日数がかかるため、今年のうちに帳簿をまとめなければ、とても間に合わないのだった。


 国司から朝廷への遣いはこの他に、戸籍及び調(※1)・庸(※2)の数量を報告する大計帳使、調・庸・雑物(※3)を運納する貢調使、政務報告書を納める朝集使がある。正税帳使と合わせて年に計四度、遣わされるため、これらをまとめて四度遣と言った。


「そうだといいが」


 五瀬は頷いたが、表情は相変わらず冴えなかった。彼の不安はもはや役人が来て当り散らすことではなく、もしもこのまま金を錬り上げることが出来なかったら、自分は一体どうなるのかというところにあった。


 五瀬とても、自らが置かれた立場に全く無知だったわけではない。飛鳥を出立する時に感じた異様なざわめきと熱気、典鋳司の役人の、殺気立ったと言っても過言ではない様子、金に寄せられる、朝廷の関心と期待を肌身でもって感じていなかったわけではない。ただそれは全て、雲の上の出来事に過ぎなかった。


 しかし、国衙より遣わされた役人の尋常ではない剣幕を目にした時、もしも朝廷の期待に応えられなかったならば、それがそのまま大きな災いとなって己が身に帰って来るであろうことに、五瀬は初めて思いあたった。役人から鞭で脅されることには飛鳥の工房で慣れていたが、それとこれとは重みが違う。鋼のにおいを伴った生々しい恐怖の形で、五瀬はようやく、対馬の金、そして自分がたずさわっている仕事の重要性を悟ったと言ってよい。刃の触れる感触が身の内によぎって、五瀬は眉を曇らせ思わず首筋をさすった。


「――金が得られぬとなったら、やはり死罪であろうかな」


「五瀬よ」


 うなだれた肩を三船の拳が突いた。


「わしは鍛冶のことは分からぬ。だがお主が何も誤りがないと思うのなら、金はいずれきっと得られる。金は心を持たぬ。我らを欺きはせぬはずだ」


 明瞭な口調で言った。力強い言葉がずしりと胸に響いて、五瀬は思わず涙ぐみそうになった。三船は腰を上げた。炉を片付けて来ようとつぶやくと、五瀬が何か言葉を返す間もなく、そのまま小屋を出て行った。


      * * * * *


 その日の夕刻、二人が飯の仕度をしていると、厨家の方から酒が届いた。昼間、役人との間に悶着があったと聞き知った国麻呂が、気遣って届けさせたのだった。


「これはすごい。米の酒ではないか」


 瓶を覗き込んで五瀬は目を見張った。


 米の酒など庶民が口に出来るものではなかった。例えば三田の村で祭りの際に作った酒は、ニワトコの実や雑穀を醸したものであった。味はひどく甘ったるく、大量に飲めるものではない。強いだけが取り柄といえば取り柄だが、しばしば悪酔いを引き起こすので、安心して酔うことも出来ぬという代物であった。


 沫雪のように白々と濁った酒を、二人は恐る恐る手のひらに汲んだ。一口すすると、芳醇な香りがたちまち唇に沁み、咽を、それから体をうるおした。


「美味いものだな」


 三船は首を振ってしきりと感嘆した。が、五瀬の方は、国麻呂の心遣いが苦しく感じられ、美酒を愉しむことが出来なかった。


「金の方が進んでおらぬのに褒美だけ貰うては、気が咎めるか」


「いや、そういうわけではないが」


 五瀬は言いよどんだ。心をふさいでいる思いは複雑だったが、それを正確に他人に伝える言葉を五瀬は持たなかった。


 国麻呂は五瀬の身辺を何かと気にかけてくれていた。時々館の家人を工房によこしては、不自由していることはないかと尋ねさせ、時には自ら出向いて来て、作業の進み具合や都の様子など、賤しみもせずに五瀬と語ることもあった。


 国麻呂ばかりではない。鶏知の人は皆々、五瀬に親切だった。五瀬を見かけると「鍛戸(かぬちへ)殿」と気さくに声をかけてくれた。また近くの村からは若い娘が菜や魚などを持って来てくれた。雑戸である五瀬を蔑むどころかまるで客人のように接してくれるおおらかさに五瀬は当惑していたが、やがて理由を知った。対馬には雑戸民がいないのである。この世に雑戸の存在しない土地があるとは、五瀬にとって非常な驚きだった。


「対馬には、我のような雑戸はおらぬのですか」


 世間話の合間に、五瀬は国麻呂に尋ねてみた。


「雑戸がおるのは都近くの国だけだ」


 国麻呂は苦もなくそう答えた。辺境の地とはいえ、代々郡司を務めて来た対馬県の長は、さすがに国の仕組みに明るかった。


「雑戸が置かれておるのは、帝のおわす大和国から、確か東は遠江国、西は摂津国まで十ばかりに過ぎぬ。雑戸は、それこそお主が都でして来たように物を作って朝廷に納めねばならぬのだから、かような遠地に置いても益はない」


「……」


 人々の中に雑戸という観念がないならば、奴婢ではない以上五瀬は確かに良民として遇されるはずであった。しかし五瀬は、この地で侮蔑や嘲弄の目をまぬかれているのは、ただ人々が、自分の卑しさを知らぬゆえなのだと、ひそかなおののきを覚えた。取り巻く人々の親切は無論嬉しかったが、しかしその一方で、自分が、あたかも無知につけ込んで善良な人々を欺いているかのような後ろめたさに、五瀬はさいなまれた。


 故郷の地で、雑戸の、奴婢のと嘲られた時は、おれは賤民ではない、お主らと同じ良民だと眉を張った五瀬であったはずなのに、いざ屈辱から解かれ温かな腕に迎えられると、心はかえっておびえ畏縮した。陽が明るく照れば影がより濃くなるように、鶏知の人々の好意に触れれば触れる程、五瀬は自らの卑賤が骨身に沁みる思いがした。


「――おい、三船」


 返事がなかった。見れば三船は早々に酔いつぶれ火の傍らに眠り込んでいた。五瀬は寝わらを抱えて来て、大きな体の上に乗せてやった。


 唇がひそやかな吐息を吐いた。この、自分より一回りも年上の奴婢に、五瀬は、今は(ゆう)と言っても良い程の親しみを感じていた。三船の、何事にも動揺を見せぬ岩のような心根が五瀬は好きであった。三船の示す十年来の知己のような遠慮のなさが好きであった。焦りばかりがつのる工房であったが、そのような日々の中でも、ふいごを吹きながら二人とりとめもなく語らうのは愉快なひと時であった。しかし五瀬は、そうした心の内を口に出せぬのは勿論、未だに三船を友垣と呼ぶこともためらわれていた。


 五瀬にとっては、鶏知の村人よりも三船の方が、余程気が置けない相手であったのだが、それは三船が奴婢であることとどうしても無関係ではなかった。良民である村人と交わる時、五瀬は雑戸という、自らの卑しい身分階級を否応なく意識しなければならない。しかし見下すべき身分の賤民と交わるならば、それを直視せずに済むのである。三船と共にいて感じる心安さの陰にはそうした性根の暗さがあるのだった。その、自らの心のからくりに、五瀬は敏感に気づいていたのである。


 良民でも、また賤民でもない、雑戸という身分の忌まわしさと孤独を、五瀬は思った。


『雑戸は所詮、雑戸と交わるより他ないということか』


 五瀬は軽くなった酒瓶を手元に引き寄せたが、頭の芯が固く冴えて行くばかりで、酔いは容易に五瀬の元を訪れてはくれなかった。


       * * * * *


 浅茅の入り江に船が入ったとのことで、鶏知はにわかににぎやかになった。五瀬も、興味を引かれて見に出かけた。船着き場は、郡衙から川沿いに半里(二km)ばかり北へ上った所である。われがちに駆けて行く子供たちの後を着いて行くと、やがて大きな船が見えた。船着き場となっている入り江は海が山を削りながら細く、かつ長く陸に入り込んでいるため、一見して海とは思われぬ程、波が穏やかである。船は鏡のような水の上に帆をたたんでひっそりと浮かんでいた。舳先に立てられた何かの旗だけが、時折風を受けて水藻のようにゆっくりと揺れた。


 船はこれから厳原へ向かうのだった。浅茅の湾内を東へ進み、船越という地峡の最細部にあたる所で、土地の者を雇って船を陸に引き上げて陸路を運び、反対側の海へ入れる。後は厳原へ向けて海路を南下すればよい。大きな船を陸に上げて運ぶとは大変な手間だが、しかし島の端を大きく迂回して行くよりは、よほど楽なのである。


 その船越に向かう前にこの鶏知の入り江にわざわざ止まったのは、海を通るにあたり郡司へ挨拶するためだった。船長(ふなおさ)は既に郡衙へ向かったとみえ、船着き場では船乗りたちが思い思いに体を休めていた。水や食べ物、酒などを持って近隣の村人が集まり、船乗り相手にもう商売が始まっていた。


 眺めるうちに、ふと五瀬は、船乗りたちの話している言葉から、彼らが唐人であることに気がついた。


「ああ、あれは新羅の船だ」


 隣に立って見物していた男が教えてくれた。


「新羅」


 五瀬は少し驚いた。三十数年前、天智帝の下で日本は百済と共に、新羅・唐の連合軍と白村江で戦い敗れた。百済は滅び、その後朝鮮半島は新羅によって統一され、今に至る。新羅との国交は天武朝の時に回復し、人や物が行き来してはいるが、実際は両国の間には未だに見えない緊張状態が消えていない。少なくとも朝廷の方針はそのようになっている。今も烽が置かれ防人が東から送られているのがその証拠である。烽とはのろし台のことで、対馬を起点に壱岐、九州の筑紫から瀬戸内を通って大和まで山上に転々と設置されている。朝鮮半島に近いこの対馬にもしも新羅の水軍が攻め寄せるようなことがあった時は、この烽で次々とのろしを上げ次いでいち早く変事を都へ知らせることになっている。大掛かりな伝達機関だった。


 つまり対馬は、対新羅の、国防の最前線と位置づけられているのである。その対馬の入り江に新羅船が堂々と入り、村人と交わっているのは奇異な感じであったが


「さあ、都のことは分からぬが」


 男は首をかしげただけだった。


「新羅の船とは昔から商いをして来たからな。烽が出来てみたり、この島も物々しくなったが、わしらに

は拘わりのないことであるし。向こうも変わらず商いに来ておるわけだから、暮らしを無理に変えることはなかろう。まあ、銀山が出来てから、新羅から盗人に来る者が増えたのは少々困りものだが」


「そんなものか」


 五瀬は感心しながら、あらためて船着き場の様子を眺めやった。おちこちで値の交渉が行われている。互いに言葉は分からないらしいが、指を二本出し、三本出し、そんな素朴なやり取りだけで話が進んでゆくのは見ていて微笑ましかった。交渉がまとまったのか、顎の四角張った船乗りが、布を差し出して酒瓶を受け取っているのが見える。また向こうでは干魚を籠に入れて商う娘をつかまえて、身振り手振りせっせと話しかけている者もいる。買い物かと思うと実は口説いていたらしく、その男は結局、頬を赤らめた娘に袖で散々にぶたれていた。

※1 その土地の産物

※2 労役の代りの物納

※3 鍬・塩など米以外の形で賦課された租税

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