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第二章 奴婢の三船(三)

 仕方なく、五瀬は嶋司の送ったこの三十がらみの奴婢と二人で、金の精錬に取り組むことになった。錬金とは暇な作業である。るつぼに砂金と鉛とをつめ炉にかけたら、火を燃やし続けながらるつぼの様子をじっと見守るのが作業のほぼ全てと言ってよい。しかも時がかかる。一粒の金を錬るのにも半日がかりだった。


 るつぼと対峙を続ける長い時間の間、五瀬はしばしば、ふいごを吹きながら目の前に置かれた奴婢の男の面貌を眺めることがあった。それが愉しいわけではなかった。むしろ、自らの瞳に映し込むことで奴婢の穢れがこちらへ移って来るような、そんな不快を感じたが、しかし他に気を紛らすものが工房の周りにはないのだった。飛鳥の工房には村の仲間もいたし、大勢の職人たちが忙しく行き来する様を見ているだけでも時を費やせたのだったが、ここではそうはいかなかった。作業小屋は五瀬と奴婢の男と二人きりで、そして外に目を転じても葉ごもりを幾重にも連ねて森がたたずむばかりだった。人の声ならばある。特に館の方からは、下女が立ち働いているのか、若々しい女の声がすることもあった。このような立派な館に働く女とは如何なる者だろうかなどと、興味を引かれないこともないではなかったが、しかし五瀬の意識は、たとえ束の間女の声の方へ流れても、引いた潮が再び満ちるように結局は眼前の男の顔へと戻って行った。それは暇を持て余してということの他に、男が一度見たら忘れられないような面貌の持ち主ということもあったかもしれない。


 男の面相は巌のようにいかつかった。唇の肉がぶ厚く、大きな口を魚のような顎が下から支えていた。目も大きかった。下まぶたが丸く垂れ、はめ込まれた目は磨いた石のような硬質の光を持っていた。夜、揺れる松明の下で見ていると、あたかも人ではないものと向き合っているようだった。深い山の奥に棲み、木々や人や鳥獣を無言で眺める、名を忘れられた荒ぶる古神の姿すら、五瀬は男の面相の上に思い描いた。


「お主、嶋司に使われる前は何処におった」


 ある夜、五瀬は好奇心を抑えられず、炉の炭火で赤く染まる男の顔に向かってそう訊いてみた。


「――」


 男は低い声で、何か言った。村の名前らしかったが、島の地理に暗い五瀬には聞き取ることが出来なかった。五瀬の表情を読んで、男は再び口を開いた。


「島の、南の方の村だ。そこの豪族の屋敷に使われておった」


「そして、厳原に売られたのか」


「いや、嶋司が都から来た際に献じられたのだ。売られるのとさほどの違いではないが」


「お主は始めから奴婢であったのか。つまり、親も奴婢か」


「何故、そのようなことを訊く」


 男の、磨いた石のような目をまっすぐ向けられて、咄嗟に五瀬は答えに窮した。しかしごまかすのも、また嘘をつくのもためらわれた。


「お主のような面構えの奴婢をおれは知らぬ。故郷にいた奴婢の連中は皆、いつも目を伏せ薄い影のようになって歩いていた。しかしお主は奴婢のくせに、誰をも恐れぬような不敵な目をしている。だから、生まれついての奴婢ではなく、良民から奴婢に落とされた者ではないかと勘ぐったのだ」


 しばらく迷ったすえ、五瀬はありのままを答えた。奴婢の男は不思議そうに首をかしげた。背後に、大きな影がのそりとうごめいた。丈こそ五瀬より低いものの、男の背幅は板のように広かった。少し太り肉の体を火のそばに丸めていると、まるで牛がうずくまっているようだった。目元と、それから眉間に、のみで打ったように鋭いしわが走り、そこに濃く影がたまっていた。首をかしげて、男は五瀬の方を眺めていたが、


「わしなら、この世にいると気がついた時から奴婢だ。親のことは知らぬが、まず奴婢だろう。――変わったことを言う男であるな」


 やがてひとり言のようにつぶやき、またるつぼにうつむいてしまった。急に、自分が何かとんでもなく莫迦なことを言ったように思われて、五瀬は慌てて、薄く踊り上がる炎に風を送り込む動作へと戻った。


 こちらから話しかけたのであったが、男が黙り込んでしまうと、五瀬はほっと安堵した。知らぬ間に、この奴婢の目に圧せられ、畏怖を感じていたのかもしれなかった。ふと、この男と今まで一度も口をきいたことがなかったことに、ふいごを動かし出しながら五瀬は初めて気がついた。無論、声を聞いたのも初めてであった。野太いが声の音色に流麗さがあり、聞き苦しい声ではなかった。巨岩の苔を水がつたうような、男の声を五瀬はそう思った。


 この夜の事は山奥から流れ下る夜気が見せた夢であったかのように、五瀬と奴婢の男とは翌日からまた口をきかなかった。数日であったか、半月であったか、そうして日にちが過ぎた。ある日、五瀬は木陰に仰のいて浅い眠りの中を漂うていた。背に沁みる土の熱さと、頬や、もろ肌脱ぎの胸に触れる夏草の涼しさが、体にたまった疲労を洗い出してくれるようだった。快いうたた寝を貪るうち、五瀬は誰かに胸をつつかれた気がして、目を開いた。薄眼を開いたが周りに人影はない。気のせいであったかと思った時、つつかれた胸元に視線を移して五瀬は飛び上がった。


 胸の上を這っていたのは一匹の蛇だった。頭上に張り出した枝から落ちて来たのだろう。蛇体はごく小さいが、血のように赤い体に、くっきりとした黒いまだら模様を浮かべた姿が如何にも毒々しかった。大和では見たことのない蛇である。払い落とすか、それとも胸の上でひと思いに叩きつぶすか、蛇の細い瞳孔を凝視しながらわずかに手を動かしかけたが、しかしそこからはどうしても勇気がなかった。蛇の俊敏なことは五瀬も熟知している。しかも首をもたげた蛇の鼻先には既に五瀬の咽があるのである。動くに動けなかった。と、


「取ってやろう」


 聞き覚えのある声がして、視界の隅に黒い影が横切った。つるばみ衣の大きな体が、五瀬の傍らにしゃがみ込んだ。蛇の背後から手を伸ばし、犬の咽を撫でるように顎の下に指を入れて柔らかく頭をつかんだ。驚いてのたうったと思った時には、赤い蛇体はあっという間に遠くの草むらへ放り投げられていた。


「お、お主であったか」


 五瀬はそれだけ言うのがやっとだった。張りつめていたものが一度に緩み、かすかにめまいがした。奴婢の男は足元から何かの草をむしっていた。葉を手の中で揉み、五瀬に渡した。


「胸を拭うといい。これで拭うとすぐに取れる」


 見ると胸元にねばついた汁がこびりついていた。ちょうど蛇が乗っていた辺りだった。五瀬は慌てて男の手から草をひったくった。


「毒汁か」


「いや、ただの小便だ」


 すえたような、生臭い臭いが鼻を突いた。


「まことにただの小便であろうな」


「案ずるな、あの蛇は毒を持ってはおらぬ。小便はひどく臭うが、それだけだ。毒蛇は、ここにはヒラクチ(※)というのがおってな、それに気をつければよい」


 ヒラクチならば五瀬もよく知っている。大和にもいた蛇であった。たまった落ち葉の下などの湿った所に潜んでいることが多く、きのこなどを採っていてうっかり掘り出してしまい、飛んで逃げた記憶が幾度もあった。


「ほう、都にもヒラクチがおるのか」


 つまらないことに男は感心した。如何にも辺土に住まう土民の無知に触れたような気がして、五瀬は思わず口元で笑った。胸中に、この巌のような、荒ぶる神のような男に対する優越が生まれ、その余裕が五瀬の口を自然に解きほぐした。


「お主、少し教えてくれぬか」


「何だ」


「ここで、ヒラクチの他に気をつけねばならぬものはおるか」


「ふむ、そうだな。まず、ハンミョウ」


「ハンミョウ」


「都にはおらぬか」


「おるさ。殻を持った虫だろう。だが毒なぞあったか」


「都のハンミョウはおとなしいものだな。いや、この島のは毒がある。触ると小便を出すが、さっきの蛇と違い手につこうものならひどくただれる。噛んだり刺したりするのではないから、気づきづらい」


「獣は」


「こっちは野猫くらいのものだ。餌をあさりに人の小屋に入って来て、飛びかかられたという話がたまにあるが、まあ、たとえ襲われても所詮猫だ。大したことはない」


「猫か。もしも猫に襲われて死んだら笑いものだな」


 五瀬が思わずこぼすと、男は声を立てて笑った。そうして相好を崩すと意外な程剽げた表情になった。いかつい面相が割れ、人好きのする顔立ちが現れた。


 その後も、五瀬と奴婢の男との間には様々な言葉が交わされた。しかし二人が何を語り合ったかを五瀬はほとんど思い出せない。大して実のあることが語られなかったためでもあろうし、それがただ、惰性に流れるままに交わし継いだ言葉だっただめでもあったろう。


 しかしこの時周りに広がっていた光景は、五瀬はのちのちまでもありありと眼前に思い浮かべることが出来た。遠山の黛色(たいしょく)を溶かして涼しい風が通り抜けて行った。草の葉が鳴り、木々の葉叢が揺れた。天から降りた静寂が、草の原を浸していた。静けさの中、花に寄って来た虻の羽音が、小さく、孤独に聞こえていた。薄く、大きな夏雲が山向こうから流れて来て、辺りにさっと影を拡げ、そうしてまた去って行った。五瀬は地面に肘をついて寝ころび、そして奴婢の男は腰を下ろし草の葉を噛んでいた。これと言った好意を持っているわけでもない者同士の周囲に、このように忘れがたく美しい景色が展開されたとは、思えば奇異なことであった。


 それでも五瀬は、別れ際の会話だけは覚えている。間借りしている郡衙の奴婢小屋へ戻って行こうとする背に、五瀬は名を訊いた。


「お主、まだ、名を訊いておらんかった」


三船(みふね)だ」


 ぶ厚い、一枚板のような背が答えた。


     * * * * *


 ――肩を揺すられて五瀬は目を開いた。瑠璃玉とよく似た空の色が目に染み入って来た。


「――三船か」


 視界の端に黒衣の裾がちらりと揺れ、草を押し分けて座り込んだ。


「おれは、眠っていたか」


 声が濁った。身じろぎして五瀬は草の中からけだるそうに体を起こした。よく見ると雲が弱冠動いていた。わずかの間、確かに眠っていたらしい。しかし過ぎた時以上に夢見が深く、頭の中では、瑠璃の蒼も対馬の山林の影も三船の低く流れる声音も、皆一緒くたに混じり合い一つの色に溶け合っていた。昼寝とは呑気な身分だ、と隣で三船がからかった。


「昨日からずっとふいごを吹いていたのだ。仕方あるまい」


「それは、わしも同じだよ」


「今、何刻あたりだろう。まだ夕暮れには間があろうな」


「昼を少し過ぎたところだ」


「では飯の前にもう一度、炉に火を入れられるな」


 両手でごしごしと顔を拭って眠気を払い、五瀬はひらりと身軽に立ち上がった。頬を風が撫でた。草の間に顔を沈めれば青臭いいきれは未だに濃く思われるが、山の背から吹く風はもはや物憂い。五瀬が対馬に来て四月もの日々が過ぎていた。季節は更に移ろう気配を見せている。しかし都人の待つ金は、五瀬のるつぼの中に未だ姿を現してはいなかった。


(第二章・了)

※ マムシ

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