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第二章 奴婢の三船(二)

     * * * * *


 草いきれの残る間に疲れた体を横たえ、五瀬(いつせ)は空を眺めていた。対馬の空は青い。空に変わりはないはずだが、飛鳥の工房で見るよりも、三田の村で見るよりも、対馬の空は青みが強いように思われた。乳汁のような雲がゆっくりと空を渡った。地面に体を投げ出し空を見上げるたび、五瀬の目には、飛鳥の谷で五瀬たちの近くに構えていた瑠璃玉の工房が重なった。


 五瀬は瑠璃玉作りの風景が、何となく好きであった。自分の仕事が空くと、工房に訪ねて行っては、瑠璃玉の作られて行く様を子供のような熱心さで見入っていた。


 瑠璃の飾り玉は、焼き固めた粘土の型に、溶かした瑠璃を流し込んで作るのである。るつぼの中で瑠璃が溶けると、粘土板の上にずらりと並んだ小指の先ほどのくぼみに一滴ずつ、溶けた瑠璃を落としていく。くぼみの中心にはそれぞれ細い金属の棒が立っており、ここがあとで紐を通す穴になるのだった。流し終えると冷え固まるのを待つ。眺めるうち緋色に燃えていた瑠璃はしだいに冷め、冷めるに従って玉の表面には色が浮かんで来る。乳白色、褐色、黄、緑、色は幾つもあったが、好まれているのか、目に沁みるような紺青色の玉が最も多かった。


 型から外すと丸い瑠璃玉が次々とこぼれ落ちる。半円の型から真円の玉が出来上がって来るのが、五瀬には不思議でならなかった。


「ほれ、染み出た木の(やに)が丸いまま固まっておるだろう。同じことだよ。瑠璃も粘りがあるからな」


 瑠璃職人は型から外した玉を一つずつ陽にかざしながらそう言った。そしてひびの入ってしまった玉を一つ、五瀬にくれた。指先でつまんで五瀬は目の上に青い瑠璃玉をかざした。まだ磨きのかけられていない玉は表面がざらつき曇っている。小さな玉の中に霧が立ち込めているようだった。真ん中の紐とおしの穴から枝分かれして二本、蒼いひびが道のように走っている。人もまばらな小道が、伸びて霧の中へと消えて行く――。小指の先ほどの瑠璃の中に一個の風景が封じ込められているかに見えた。


 五瀬は玉を舌の上に乗せ、そっと舐めてみた。固く、ひんやりした肌から、かすかに甘いような涼しさが舌に溶けた。


「そんなものが美味いかね」


「何、美味くはないよ」


 瑠璃を転がしながら五瀬は笑った。幼い頃五瀬は枝先につららが下がると、折っては舐めたものだった。始めのうちは火照った口中に冷たさが心地良い。しかしじきに氷は容赦ない冷たさで舌や頬を刺し始め、耐え切れずにいつも途中で吐き出してしまうのだった。あの冷たさと比べると瑠璃の体温は優しかった。舌にくるまれると大した抵抗も示さずに温もった。そして口を開け風に触れさせると、爽やかな冷たさはすぐまた甦った。抗うことを知らぬように見える瑠璃玉の肌ざわりが、五瀬には愛おしく感じられた。


「瑠璃なんぞそれ程面白いかね。わしには、お主らのやっておる金の方がよほど面白いがな。瑠璃は石に落としたら砕けてあっという間に終いだ。つまらぬよ。金は割れぬし、それに錆びもせぬのであろう?」


 ――そうして今、対馬の空はあの瑠璃玉のように蒼かった。草の葉や木々の細い梢が風に揺すられ蒼い色の中を漂った。瑠璃職人はああ言ったが、五瀬にはやはり、悠久の輝きを抱く金の美しさよりも、瑠璃の美しさの方が慕わしい。それは瑠璃が宿命的に持つ短命ゆえかもしれない。またはもしかしたら、ただ、この対馬で五瀬が金のために苦労させられているためかもしれなかった。


     * * * * *


 対馬は九州の北方の海上、日本と朝鮮半島のちょうど真ん中に浮かぶ孤島である。南北に細長く伸びた島土は、ちょうど中央の辺りで西から海が深く入り込み、陸地は東端の地峡でかろうじてつながっている。島をもう少しで二つにちぎる程に深い、この浅茅(あそう)の入り江を境にして、島は北半分が上県郡(かみあがたぐん)、南半分が下県郡(しもあがたぐん)、二つの郡に分かれている。


 島はそのほとんどを山林が占め、平坦地に乏しく畑作には向かない。しかしその代わり、山が海に向かって急激に落ち込む地形が、複雑な海岸線と良質の漁場とを作っている。これらの地理的条件を利用して、対馬の人々は古くから、漁労を行い、朝鮮半島との交易の中継ぎをして、暮らしを立てて来た。


 五瀬の船が着いた与良の津は、下県郡の東岸である。丸く削れた海岸線を両脇から岬の腕が囲む、波の穏やかな入り江である。良港を有する上、港の周囲には対馬には貴重な平坦地が、飯盛山、清水山などに囲まれて広がっている。そのためこの厳原(いずはら)と呼ばれる与良の津の一帯は島で最もにぎわう地域であり、国衙もここに置かれていた。


 下船すると五瀬は付き添って来た典鋳司の役人と共に国衙に入った。嶋司に挨拶を済ませると、一人の身なりの良い男が五瀬を待っていた。下県郡の郡司で、五瀬のことは全てこの初老の男に一任されてあるのだという。対馬県国麻呂つしまのあがたくにまろと名乗った。


 郡衙は、鶏知けちという、厳原から北へ二里(六km)、浅茅浦のほとりの地にある。再び与良の津から船に乗り、海岸線に沿って北上した。黒い森に覆い尽くされた険しい勾配の連なり、鋸の歯のように複雑に入り組んだ海岸線、引きちぎられたような小島、荒々しい自然の形は五瀬には何もかもが珍しかった。


 やがて船は鶏知浦の入り江に滑り込んだ。国麻呂に案内されて五瀬は郡衙に入った。郡衙の周囲は、広い水田が稲の青い葉を揺らし、正倉がずらりと並んで、船上からの荒々しい景色が嘘のように穏やかな眺めが広がっていた。鶏知は鶴岳を源流とする鶏知川が鶏知浦に流れ込み形成した扇状地なのである。小さいながらも土壌豊かな平野であった。


 歩きながら五瀬は正倉の数をざっと数えてみた。小さいものも含めると三十ばかりあった。手入れが行き届いているところを見るとどの倉もきちんと使われているらしく、この地の豊かさを示していた。立ち並ぶ正倉群を抜けた奥に、政務が行われる郡庁、それから郡司の館、厨家(みくりや)などが集まって建てられていた。厨家の裏手の一角には五瀬が寝泊まりするための小屋が用意されてあった。


「仕事場などはわしらでは勝手が分からぬ。お主で建ててくれ。場所は好きに使うて構わぬし、人手も貸す」


 工房は屋根をかけるだけで済むので手間ではない。それよりも携えて来た荷を置いておく倉が要りようだった。五瀬がそう言うと、


「それならばほれ、向こうに見えておるあれを使えばよい。樫根から運んで来た砂金を入れてあるのだがな。共々にしておけば仕事がしやすかろう」


 対馬県国麻呂はそう、のどやかな声で言った。対馬県氏は古墳時代から対馬を治めて来た土豪である。アマテラスとスサノオが契った時、アマテラスの勾玉から生まれた男神、アメノホヒを祖とし、その神秘的な成り立ちにふさわしく、一族のうち対馬卜部(うらべ)氏は鹿卜、亀卜などの卜占に長け、朝廷に占いの技能者を何人も出仕させていた。


 そして国麻呂もまた、牧歌的な古代神話の匂いをその風貌に残した男だった。まぶたが厚く、豊かに盛り上がった鼻梁の下に灰色がかった髭をたくわえているところなどは、どこか古木の幹などを思わせた。厳原の国衙で初めて会った時、五瀬はただ温厚そうな年寄りと思っただけだったが、対馬の急峻な山々を眺めたあとで改めて見ると、深淵な山の姿がそのまま刻み込まれた面貌にも思われ、何とはなしに感心した。


 翌日から、五瀬は人手を借りて工房の建設にかかった。小屋の周り以外は木も草も手を付けられておらず、そこから始めなければならなかった。邪魔になる木を切り倒し、根を掘り起こし、地ならしをする。それが済むと穴を掘って柱を立て屋根の骨を組む。聞けば対馬は雨が多いとのことで、助言に従い屋根は萱でもって厚くふき上げた。作業場となる場所は下草を払い、土を丹念に突き固めて炉を掘った。


 工房が仕上がる頃、一人の男がやって来た。助手となるべき者が一人欲しいと、国麻呂に頼んでおいたのである。しかし、ひと目見て五瀬は眉を寄せた。男はつるばみの衣を着ていた。他に人手はないのかとさりげなく打診してみると、その奴婢は国麻呂の持ちものではなく、嶋司が送って来たものであった。五瀬のことは、仕事も含め国麻呂に全て任されているはずで、しかも人手もあるというのに、嶋司がわざわざ自分のところの奴婢をよこしたのは解せなかったが


「何、館様(国麻呂のこと)の家来衆が金を作ったのでは、手柄をそちらに横取りされると思うておるのさ」


 屋根の萱を整えていた男がそっと五瀬に耳打ちした。成程、と五瀬は妙に納得した。国衙でちらと見た嶋司の、頬のやけに細長い、捨てられた狐の死骸のような貧相や、典鋳司に向かって田口東人(たぐちのあずまひと)であると名を言った時の脂じみた声の不快さを思い出し、あの男ならさもありなんと心の内に頷いた。

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