第二章 奴婢の三船(一)
持統太上天皇は、天智帝の娘であり、天武帝の皇后であった婦人である。今上の文武帝には祖母にあたった。その持統は自室でふと、目を開けた。そして目を開いてみて初めて、彼女は自分が文机にもたれたままいつしかうたた寝をしていたのに気がついた。明かり取りの窓から射し込む陽光が背を温めていた。文机に広げた書物の上にも、日は斜めになって落ちている。影の様を見るに、眠っていたのはほんのわずかの間であったのだろう。机の隅にのった椀に持統は手を伸べた。先程女官に言いつけて湯を持って来させたきり手つかずになっていたのである。今しがたまで彼女を包んでいた眠りの快さが溶け入ったように、椀の湯は温くもなく、かと言って冷たいという程でもなく、けだるい具合にぬるんでいた。
このように心安らかな眠りは持統にとってほとんど記憶にないものだった。亡き夫、天武と共に国を切り回し、気を張りつめていた頃はもちろんのこと、無知という殻に守られて世の憂さとは無縁だった幼い頃にまで遡ってすら、安らかな眠りというものとは縁遠かったように思われる。しかしこの一年ばかり、書見をしたり、または書きものをしたりといった合間に、やわらかな泥に沈むような快い眠りに引き込まれることが、持統には多くなっていた。
太子に無事皇位を譲り、安心したのは確かだった。ずっと張りつめていた気持ちが知らぬ間に一度に緩んでしまったのかもしれぬ。しかし、この頃の変調はただそれだけによるものであろうか。持統は再び椀のふちに唇をあてた。丁寧に使い込まれた飴色の椀が木肌のなめらかな口ざわりを伝えて来る。冷えるのも構わずとろとろと湯をすすっていると
「あの、皇太后様」
背後に女官の声がした。本来ならば太上天皇と呼ばれるべきだが、音の物々しさを嫌って奥仕えの女官たちは皆、持統を相変わらずこのように呼んでいた。女官は一礼し、帝が参られておりますと告げた。やがて眉目の涼しげな細面の顔が戸口に見えた。文武帝である。鳳凰紋を織り込んだ松葉色の袖を揺らして入って来、会釈をして持統の傍らに腰を下ろした。
「御祖母様、お目覚めにございましたか」
優しい微笑を浮かべた。
「実は先程一度参ったのです。しかし文机にもたれてお休みになっておられたので、出直すことに致したのですよ」
「おや、女性の寝顔をのぞくものではございませぬよ。帝もお人が悪いこと」
冗談まじりにたしなめて、持統は声を立てて笑った。そうしていると小鬢に白いもののまじる年とは思われない。笑顔も笑う声も驚くほど若やいで、可愛らしくすらあった。即位して間もないこの愛孫といると、持統は心が春日に満ちたように浮き立つのであった。
文武の即位は持統にとって長年の悲願だった。もともと彼女が望んでいたのは、息子、草壁皇子の即位だった。夫への働きかけで首尾よく立太子したものの、しかしその草壁は、父帝が薨去しその殯が済んで間もないうちに、急な病を得てみまかってしまったのだった。愛息の死を悲しむいとまもなく、持統は草壁の嫡男、軽皇子に、息子の果たし得なかった夢を託した。自身の血を受け継ぐ者が皇位に上ることを、持統はどうしても望んだのである。自ら夫の後継として即位し、国をまとめつつ孫の成長を待った。そして軽が十三才になった持統天皇十一年(六九七年)、持統は譲位した。軽皇子は文武帝として即位し、持統女帝は太上天皇として帝の補佐役に就いた。つい二年前のことである。
「今年の祖のことですが」
文武は伸びやかな声で言った。
「ここしばらく行幸が重なり、警護の兵士らの国元では働き手を徴収され難儀しているとの声が届いております」
「作物が穫れていないのですか」
「試みに幾つかの郡に人を出しましたが、やはり荒れた田畑が目立ったと。それで」
今年は行幸に供奉した兵士の調と役を免じたいがと、文武は持統に提案した。
「よろしきお考えと思いますよ」
すぐに持統はうべなった。それから彼女は、帝、と口調をやわらげた。
「わたくしの判断をいちいち仰ぐ必要はないのですよ。無論わたくしならばいつでもご助言申し上げます。けれど善きこととおぼし召したなら、重臣らと話し合って御自身の裁断でなさいませ。帝は既に立派に政を執っておられますよ」
持統に褒められて文武は嬉しそうに頬を赤らめにこりと微笑んだ。その表情は帝といえどもやはり十六の少年である。胸の内のほとびる思いがして、持統も思わず祖母の顔つきになった。両の手で孫の頬を挟み優しく撫でた。
こうやって文武の面輪を間近に見つめると、持統の胸には限りない愛おしさが湧き上がる。持統が文武に愛情を注ぐのは、ただ愛息の遺児であるというばかりではない。その面立ち、背の丈、少し強すぎる感受性。文武は十年前に失った息子草壁に生き写しなのだった。年ごとに父の似姿に成長して行く文武を、持統は驚きすらもって見つめたものだった。数年前の冬、持統は文武を連れ阿騎野に遊猟を行ったことがある。この阿騎野は草壁が生前しばしば狩りに遊んだ地であった。文武はまだ十であったが、小さな背に靭を負い、弓を手に馬にまたがったその姿には、草壁の鮮やかな影が重なっていた。持統はこらえ切れず涙をにじませた。
持統は時折、もしかしたら草壁が死んだことは夢だったのではなかったかと疑うことがあった。また、もしかしたら草壁の魂が文武の体を借りて甦ったのではないかと思うことがあった。この理性的な賢婦人にそんな愚かな妄想を抱かせる程に、文武は父に似ていたのだった。
持統は頬から手を放し、今度は額に手をあてた。血の筋が薄青く浮いた白い肌はひんやりと冷えていた。文武は快活なそぶりで首を振り、その手を振り払った。
「ご心配はいりませんよ」
笑みを浮かべて一礼し、部屋を出て行った。後ろ姿を見送る持統の唇から、覚えず重いため息が洩れた。草壁と文武が似ているのは外見や心根ばかりではない。気がかりなことに体の病弱なことまでも、文武は父から受け継いでいるのだった。妃に聞くと文武は寝所で時折ひどく寝汗をかくという。微熱を発し眠りの浅いこともしばしばであった。
であるのに、国の現状はこの若い帝に厳しい。即位後、国では疫病、飢饉、干ばつなどの災いが相次ぎ、また各地の村では農民が田畑を捨てて逃亡する事態も頻発していた。これは数年前に藤原京が造営されるにあたり村々から民を大量に徴用したために農地が荒れてしまったその余波が、今もって尾を引いているのだった。
こうした難事が、決して壮健とはいえない文武の細い肩にのしかかっているのである。今は持統が太上天皇として補佐しているが、しかしその持統とても、齢は既に五十を三つ四つ越え、いつ天命が尽きるかも分からない。
持統は眉を上げた。部屋の隅へ立って行き、櫃から一冊の書物を取り出して来て、文机に置いた。表紙には「近江令」とある。それから机上に開いたままになっていた書物を閉じ、隣にきっちりと並べた。こちらの表紙には「飛鳥浄御原令」と黒々と墨書きされていた。
唐のような律令国家をこの国に築き上げることは、五代前の孝徳帝より連綿と皇家に引き継がれて来た大事業だった。その一つは、強力な権力を有した帝が全ての民、全ての土地を支配する中央集権型の国家体制を確立すること、もう一つは国を運営する上で核となるべき律令の制定だった。
律令制定に最初に取り組んだのは、持統の父、天智だった。近江令がそれである。しかし天智が心血を注いだにも拘らず、官制など幾つかの法令が施行されたのみで、そのほとんどは草案の段階にとどまって終わってしまった。天智の後を受け、夫、天武が制定を進めたのが、飛鳥浄御原令だった。官位令を制定し施行したところで天武は薨去したが、制定作業は持統と草壁が引き継いだ形となり、草壁が急死した直後の持統天皇三年(六八九)六月に、頒布された。
以来、現在まで十年に渡り施行されているこの飛鳥浄御原令であったが、しかしこれが律令として必ずしも完成されていないことは、持統が最もよく分かっていた。あの時、皇太子の草壁が父帝の後を追うように急逝してしまったその動揺を、持統は抑えねばならなかった。晩年の天武が力を注いだ律令の頒布は人々の中に偉大な先帝の姿を否応なく思い起こさせる。その威光をもって朝廷をまとめるべく、急ごしらえで制定したものだったのである。そのためありていに言えば、頒布されたその中身は、朝廷が制定したものもあれば、詔として出されたものもあり、または唐の法令をそのまま組み入れたものありといった具合に、およそ整合性を欠いていた。
何よりの不備は、浄御原令は、政の規定である令のみであり、刑罰にあたる律を欠いていることだった。前述したように急ぎ取りまとめて頒布したため、律を編纂するいとまがなかったのだった。とりあえず唐律を適用することで間に合わせたものの、所詮は異国の法であり、国情に合わない部分も多々あったのである。
令の編纂と律の条文作成の作業は、浄御原令頒布ののちも続けられたが、しかしそれは遅々として進まなかった。そもそも法の制定、編纂とは繊細な作業であり、時がかかるものである。また持統自身が女帝として国政の中心を担うことになったため、そちらに時を割けなくなったという事情もある。それに、法令というものは民に浸透するまでには時間を有する。たとえ国情に合わなくとも、浄御原令がとどこおりなく施行されていない段階で律令に大きな変更を加えれば、それは世の中をいたずらに混乱させることにもなる。こうした諸事情から、持統は律令制定の作業を延ばし延ばしとどこおらせて来たのであったが、
『もう頃おいではあるまいか』
文武に譲位して自分は政の表舞台からしりぞいた。始めのうちこそつききりで補佐してやらねばならなかった文武もいつしか頼もしくなり、政を執ることにもすっかり慣れた。あとは、補佐は重臣らだけでよい。自分のなすべきことはもはや今上帝の後見ではない。すなわち国の仕組みを整えそれを全て明文にすること、律令を完成させることである。自分が死んだのち、そして万が一文武が病で政を執れなくなるようなことがあった時、誤っても国が混迷することのないようにしておくのだ。いや、これはただ文武のためばかりではない。次の帝、またその次の帝、何代にも続いてゆく皇家のためなのだ――。
文机に並べてある近江令と飛鳥浄御原令、二つの表に、持統は手のひらをそっと乗せた。日射しを受けて人の肌のように温もっている。天智からは血を、天武からは愛を、持統は受けた。この二人の偉大な英傑の遺業を継ぎ、全うさせるのは己でなければならぬことを、持統は知っている。