表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/33

第十一章 宴の終焉(三)

       * * * * *


 大和忍海(おしぬみ)の郡司の館に五瀬がふらりと現れたのは、もう秋も終わりに近づいたある日のことだった。三田五瀬という者が面会を求めて来ていると家人に告げられ、出てみると、全身塵とほこりにまみれた、見覚えのある男が戸口に立っていた。五瀬であった。薄汚れた顔の中に目だけが射すように光って、何か異様な雰囲気に郡司は思わずたじろいだ。五瀬は郡司に丁寧に挨拶し、対馬金のことで朝廷に報告があるのだと言った。そして、何処へ赴けばよいのかと、言葉少なに尋ねた。


 唐突な話に郡司は戸惑ったが、しかし五瀬がしかるべき位を持った官人であることを思えば粗略にするわけにも行かず、とりあえず屋敷にあげた。風呂を使わせて旅塵を落とさせ、身ぎれいな衣に着がえさせたのち、金を管理する典鋳司の役所へと伴った。


「三田五瀬にございます。砂金の精錬のため対馬に遣わされた鍛戸でございます」


 対馬金についての報告であると告げると、典鋳司の長官が自ら対応に姿を見せた。長官に向かって五瀬はそう言って頭を垂れた。


「頭を上げよ。おお、お主があの三田五瀬か。存じておるとも。帰京の許しが出たのか」


 機嫌よく笑った。腹の肉が踊るように波打って、ゆるく巻きつけられた腰帯を上下させた。


「このたびの献上は大功であったの。対馬金のことは朝廷にとって非常な大事であった。お主の出世もむべなるかな、じゃ。ついでに申せばわしの羽振りも良うなったわ。金さまさまじゃ」


「その対馬金でございますが、あれは偽物にございます」


 長官の顔の上で笑顔が石のように固まった。部屋中がしんとなった。長官も、その傍らにひかえていた書記も、郡司も、皆息を呑んで同じ顔をしている。五瀬の言葉は理解したが、それがどういうことなのか咄嗟には理解出来ないでいる顔である。皆の凝視と沈黙が五瀬を取り巻いていた。沈黙に応えて、五瀬は言葉を継いだ。


「朝廷に献じられた金は、対馬で産したものではございませぬ。島に産出致しましたのは、砂金とよく似てはいるものの、しかし全く否なる石でございました。朝廷に納めましたあれは、大陸の金にございます」


 凍りついた緊張が張りつめた。と、けたたましい音が響いた。ようやく事態を呑み込んだ長官が、咽の奥で小さくうめいたなり、そばにあった文机めがけて卒倒した音であった。


 典鋳司長官から報告を受けた朝廷は、文字どおり天地がひっくり返るような騒ぎになった。五瀬は捕えられ、厳しい詮議を受けた。


「一昨年二月、金献上の儀の日取りを告げに、都から使いが参りました。樫根で掘っておりました砂が金ではないとが明らかになったのは、ちょうどそれと同じ頃でございました」


 五瀬は淡々と、対馬での一部始終を詮議の役人の前に語った。幾度試しても砂金の精錬が上手くいかなかったこと。偶然に家部宮道から砂金を発見した時の話を聞き、そこから、樫根で採掘されているものが金ではないと気づいたこと。しかし嶋司田口東人は、既に献上の儀の準備が進んでいる以上、朝廷に真実を知らせることは出来ぬとして、代わりに大陸から買い入れた金を錬るよう命じ、それに従ったこと。そして最後に五瀬はこう言って、役人の前に深々とこうべを垂れた。


「金の偽装をはかりましたのは、我と、嶋司様の、ただ二人でございます。我らの他には誰も、何も存じませぬ。それ故このことについて何卒、対馬の民を咎めては下さいませぬよう。伏してお願い申し上げます」


 ――馬鹿な。


 上がって来た報告書に目を通した不比等は、憮然とした面持ちであった。


『精錬事業を直接管理しておるのは、下県の郡司、対馬県国麻呂のはずだ。これ程の大事、対馬守と職人だけで行うなど出来るはずがない』


 様々なことから推察して、不比等は、さすがに大伴御行が偽装を指示したのではあるまいと考えていた。むしろ主動したのは郡司の対馬県国麻呂の方だったのではないかと疑っていた。


『かばい立てするつもりか。下賤の()め、小賢しい真似をしおって』


 いまいましげに不比等は舌打ちした。対馬ごとき辺土の土民に朝廷がたばかられたと思うと、不比等には何とも腹立たしくて仕方がなかった。しかし問題はそればかりではない。精錬事業と対であるところの律令編纂事業、不比等が才の全てを注いで完遂させたあの一大事業までもが、この詐偽事件によって傷物になったと言って良い。不比等の怒りはとどまるところがなかった。


 不比等は歯がみして、報告書を机に叩きつけた。


 そこへ扉が開き、女官が顔をのぞかせた。持統が呼んでいると告げた。急ぎ部屋を訪れてみると、持統は臥所に横になっていた。大宝律令の頒布、施行がとどこおりなく済んだのを見届けて安堵したのか、持統は近頃体の不調を訴え床につく日が多くなっていた。枕辺にそっと座ると


「大納言ですか」


 持統の目が開いた。体のあんばいを気づかう不比等を持統は落ち着いた手のしぐさでとどめた。


「大納言、今回の金の一件、そなたは如何様に致すつもりですか」


「――え」


 不比等の顔が見る間に青くなった。病に障ることを恐れて、不比等は、偽金のことは持統の耳に入らぬよう、周囲の者に入念に口止めしていたはずなのだった。


「あの、それは一体、何処よりお耳に入りましたでしょうか」


醜聞(しゅうぶん)は水と同じですよ。固く扉を閉ざしたつもりでも、わずかな隙があれば人の耳には届きます」


 不比等の狼狽ぶりが可笑しかったのか、持統はちらりと笑った。が、すぐに笑みをおさめ、どのような処置をするつもりか存念を述べるよう、求めた。


「は」


 不比等は居ずまいを正すと、報告書の内容を大まかに持統に伝えた。そして、これをもって詮議は打ち切り、この、官人三田五瀬の証言のみをもとに処分を定める方針であることを述べた。


 事件の重大性を考えれば、対馬に人を遣わし、田口東人や対馬県国麻呂、厳原、樫根の民を含め厳重に取り調べるべきであった。そして不比等としても、そうでもしなければ怒りのやり場がなかった。しかし今不比等がなすべきは真相の究明ではない。この事件が世に知られぬよう、すみやかに隠蔽(いんぺい)をはかることなのである。


「朝廷は今後も、献上された金はあくまでも対馬で産したものとして扱いまする。そしてそれが朝廷の姿勢である以上、さらなる詮議は無用にございましょう。また行賞の撤回なども行う必要はございますまい」


「かかわった者の処分は」


「主謀者とされる対馬守でございますが、いらぬ噂を招かぬためにも、やはり表立って咎を負わせることは避ける方が賢明と存じます。官位はそのまま与えておき、後日税を課してそれを処罰と致します。しかし、事件を訴え出て参った、官人三田五瀬については」


 不比等の語調が厳しくなった。


「こちらは、捨て置くのは朝廷にとって危ういと存じます。彼の者は雑戸の出にございます。賤しい血を持つ者を信ずるべきではございませぬ。この重大事を不用意に世に洩らさぬとも限らず、それゆえ何かしら罪状をもうけ、明日即刻に死罪に処するのが妥当かと」


「全て、そなたの申すとおりでよいでしょう」


 ゆっくりと、持統は頷いた。


「大納言。金が偽物であったことは無念であるが、しかしともかくも、対馬金はその役目を果たした。あれはあれで良い。ですが、いつまでも隠しとおせるものではない。鍍金はいずれ、落ちるものです。金が剥げるその前に、政の仕組み、律令国家の骨組みを堅牢に整えること、これがそなたの役目と心得なさい」


「は」


 不比等が下がったあと、持統は再び目を閉じた。


 持統が病で薨去したのはそれから間もなく、この年の十二月二十二日のことであった。持統の死を受け、忍壁は知太政官事に任じられ、文武の補佐役を務めた。しかしその忍壁も任命からわずか二年ののちに病没し、補佐役は天武の第五皇子である穂積皇子(ほづみのみこ)が引き継いだ。


 知太政官事の職はその後も帝を補佐するものとして皇族から幾人かが任じられたものの、天平十七年(七四五)、天武の孫にあたる鈴鹿王(すずかのおおきみ)が務めたのを最後に、五十年足らずで絶えた。


 粟田真人は二年間の在唐ののち、慶雲元年(七〇四)、無事帰国した。帰国した時、真人は白村江の戦いで長く捕虜になっていた者たちを伴っていた。その功により彼は朝政への参画を許され、養老三年(七一四)に没するまで、政の中核で手腕をふるった。


 文武帝は、持統が生前案じていたとおり、慶雲四年(七〇七)の六月十五日に、二十五才の若さで薨去した。あとには皇子が一人、遺された。不比等の娘、宮子との間に生まれた首皇子(おびとのみこ)(のちの聖武天皇)である。不比等は妻、三千代との間に生まれた光明子(こうみょうし)を、首皇子に入内させ、そして以後は、後継に選ばれた文武の母、元明女帝のもと、皇家の外戚として大いに権勢をふるった。


 そうして、飛鳥には十年という時が流れた。


「お主、左様なふいごの吹き方では湯が冷めるぞ」


 飛鳥谷の工房で、一人錬金のるつぼを吹く訓練をしていた少年は、急に声をかけられ驚いて顔を上げた。見回すと、作業場のすぐ外に一人の旅僧が、工房の喧騒を背負って立っていた。年の頃は四十を過ぎているだろうか、塵まみれの墨衣に包んだ体は骨太く、背の肉が牛のように厚く、僧というよりは力仕事の人夫のようであった。


 貸してみよと言って旅僧はひょいと入って来た。少年の手からふいごを受け取り、炉のそばに座った。


「ほれ、ふいごはこうして構えた方がよい。風を御しやすくなる」


 言いながら、金の湯へそろそろと風を送ってみせた。


「ほう、お主金を錬れるのか」


 僧が、入って来るなり巧みにふいごを扱い出したのに驚いて、工房の男たちが集まって来た。


「なかなか上手いな。初めて見る顔だが、もしかしてわしらとゆかりの者か」


「いやいや、わしは三田の者ではない。だが昔、金のことは故郷でひととおり技を教わったことがあるのでな」


「どこだね、故郷とは」


「対馬だ」


「ツシマ? ――ああ、防人が行っておる島か。ずい分遠国だな」


「故あって島から逃げてな。以来、こうしておちこち巡り歩いて暮らしておる」


「何じゃ、坊様かと思うたら乞食かえ。どうりで胡散臭いと思うたわい」


 男は冗談を言って笑った。困窮の末に村を捨て逃亡した流浪民の中には、僧侶になる者も多かったのである。しかし、そうした者は僧侶とはいっても名ばかりで、墨衣はまとっているものの得度を受けたわけでもなく、実情は乞食と変わりがなかった。


「ふふ。まあそういうことだ。――ところで、お主ら。わしは五瀬のことを尋ねに、ここを訪うたのだが」


「え、五瀬?」


 その場にいた男たちは思わず顔を見合わせた。三田村の者たちにとってすら、それは既に半ば忘れ去られた名であった。


「五瀬ならずい分以前に死んだが」


「うむ。死罪になったことだけはわしも聞いた。だが一体、何の咎で死罪になった。何があったか誰ぞ知っておらぬか」


「さあて……」


 皆は困ったように、それぞれ首をかしげた。


「実は、五瀬のことはわしらもずい分経ってから知ったのだ。死罪になったのは……」


「十年前じゃなかったか」


「そうだ。死罪になったのは十年ばかり前らしいのだが、聞こえて来たのは四、五年も過ぎたあとでな。だから何があったのかはわしらも何も知らぬ。五瀬も愚かな奴だ。せっかく富を得たというのに、死罪など。何をやらかしたものやら」


「大したことはやっていないという話もあったぞ」


「たわけ。大したこともなく死罪になるか」


「やはり、身に過ぎた褒美など貰うと、人が変わるのだろうよ」


 男たちはひとしきり、口々に思い思いの憶測を言い合った。


「――だが、最後に村で会うた時は、五瀬は何も変わっていなかったがなあ」


 一人がぽつりとつぶやいた。黙って話を聞いていた僧は、顔を上げた。


「五瀬は、村に来たのか」


「ああ。父母に会いに来たと、ある日急に戻って来たんだよ。だが、奴が村を出て二年目だったか、この辺りに病が流行って、ふた親とも亡うなったのさ。五瀬は墓を訪うて、それから暮らしの足しにと布をたくさん置いて行ったよ。

 長旅から帰ったばかりのようだったから、せめて飯でもとすすめたんだが、郡司様を訪うからと断って、すぐに村を出て行った。あの時の五瀬はおれの知っておる五瀬そのままだったよ。それを思うと、おれにはどうしても、死罪になるような大それたことをしでかしたとは思えなくてなあ……」


 何も知らぬ少年は一人、話の輪に入れず、漫然とふいごを吹きながら、よく分からないといった表情で大人たちのやりとりに耳を傾けていた。


『五瀬よ。お主はやはり自ら都へ戻ったのだな』


 礼を述べて工房を出た三船は、つぶやいた。金が献上されたあと、五瀬の身の上に何が起こり、そして五瀬が何を思ったか、それは知るすべもなかった。しかしそれでも三船には、五瀬がその胸中に何を決して都へ向かったのかだけは、手に取るように察せられる思いがした。


「わしらのような者はしょせん、人として生きることは叶わぬのだ。それゆえに、あの不器用な男はせめて人として死ぬ道を選んだのだ。全てを覚悟で都へ戻ったのだ。そうに違いない。三田五瀬とは、そういう男であった――」


 谷の向こうには飛鳥寺の五重塔が、未だ蒼白く凍てつく空を鮮やかに衝いている。かつて五瀬がそうしていたように、三船は工房の猥雑な喧騒の中、ひとりたたずんで五重塔のいらかを仰いだ。じっと仰ぎ、やがて三船は墨衣の裾をひるがえすと何処ともなく去って行った。寒風の中に花の気配が仄めく、それは飛鳥の地に春の間近い日のことであった。


(了)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ