第十一章 宴の終焉(二)
その帯どめが窓下に落ちていたとは、何を示すのか。答えを出すことを五瀬はためらった。しかし昨夜、五瀬は盗賊のまさに帯をつかんで腰の辺りをたがねでえぐった。帯が裂け、さらに窓から這い出たはずみに窓かまちに引っかかってちぎれ、重い帯どめが草の中に落ちたとすれば。
そう思ってなお、五瀬にはにわかに信じられなかった。あの穏やかな声音の男と、闇の中狂気のように刃をかざして襲いかかった兇徒と、二つの影は容易には重ならなかった。
しかし、楽観的な見通しにすがろうとした五瀬の思考を、残酷な記憶が断ち切った。
今日の、国庁での記憶である。賊に傷を負わせたと語った五瀬に、東人は、たがねの傷などたかが知れていると答えた。だが五瀬は、たがねで刺したとは一言も言わなかった。刀のたぐいではなく、本来ならば不自然であるはずのたがねを用いたと何故咄嗟に思ったのか。それは東人が、盗賊が傷を負った時の模様を詳細に知っているということに他ならなかった。
『三船のように、おれの口もふさごうというのか』
東人が副官を賊に仕立てて屋敷を襲わせた理由は、それ以外に考えられない。
帯どめを持った手が、悪寒にかかったように震えた。東人が、いつも夜は遅いのかと、事件とかかわりのないことを妙に勘ぐっていたのは、あれは次に屋敷を襲撃する下調べであったのではなかったか。そして副官が、賊の顔を見たかと尋ねたのは、正体に気づいていないかさぐりを入れたのではなかったか。帯どめをわざわざ取りに訪れたのも、屋敷の間取りを前もってさぐるためであったのではなかったか。では明日警備の兵をここへよこすと言ったのは。警備兵とは名ばかりの、刺客ではないのか――。
小さな叫び声を上げ五瀬は床に帯どめを放り出した。酒器をひったくってがぶがぶと呑み、しかしすぐに、五瀬ははっと口をもぎ離した。ねばついた恐怖が体の隅々に入り込み、胃の腑がねじり上げられるようだった。だが今、五瀬は勇気を奮って、東人がこのあとどのような動きを見せるか、それを見極めねばならない。酔いつぶれているわけにはいかなかった。
夜の静寂が五感を刃のようにとぎ澄ませ、湧き上がる恐怖は身を裂くばかりに感じられた。ともすれば震え出す四肢を静めようと、五瀬は両腕で膝頭を抱え込んだ。じっと膝を抱える頬に、灯明の炎が熱かった。その、頬に触れる一点の熱さが心身を刺激し、思考を後押しした。
『あの男の頭にあるのは、何を置いても金の秘密を守ることだ』
対馬金の秘密の保持。それが、東人の行動の全ての基準と言ってよい。
雪麻呂の話では、昨夜の一件は既に厳原中に知れ渡り、村人は皆、一つの面白おかしい見世物として好奇のまなざしをそそいでいた。人の不幸を肴に、好き勝手な憶測や、見て来たような嘘を言い合って愉しむのは、民草の数少ない娯楽である。もしも日を置かずに再度賊が入り、今度こそ五瀬が殺害されようものなら、人々の好奇はさらに熱を帯びる。そしてその中から、怪しげな、しかし実は限りなく真実に近い噂が生み出されて来ることを、あの東人ならば当然危惧するはずであった。
また、国衙の屋敷が立て続けに襲われた挙句、官人が殺されたとなれば、島の治安をになう嶋司が責任を問われることにもなる。そのように考えると、昨夜の凶行が不首尾に終わった以上、ほとぼりが冷めるまでは、東人といえども安易に手出しは出来ないのではないか。あの副官の方は冷静な男であるように思われるし、警備兵に見張りだけは入念にさせておき、時をかけて機会をうかがうつもりであろう。
勇気をもってそう断じたものの、しかしその結論はさほど五瀬を慰めなかった。それは今夜はとりあえず首がつながったというだけのことであり、五瀬にしてみれば、殺されるのが早いか遅いかという違いに過ぎなかった。
「おれは獣ということだ」
低くつぶやいた。確かに五瀬はもはや人ではなく獣だった。対馬という檻に捕えられ、東人の手で屠殺されるのを待つだけの、獣であった。
しかし一つ不可解なのは、東人が何故急に五瀬の殺害をはかったかであった。
東人のような人間を良く言うつもりはないが、五瀬には、東人が初めから自分を殺す腹づもりであったとは、何となく思われなかった。それならば、金の精錬を終えたあと機会は幾らでもあったはずだが、一年もの間、五瀬の身辺には何事もなかったのである。砂金の調査という口実をもうけて対馬に足止めしたのは、ただ、余計なことを喋らぬよう、目の届くところで監視しておくためだったように思われる。では東人は何故に、五瀬の命を奪おうと考えるようになったのか。
『おれの貰った褒美を見てからではないか』
今の今まで、五瀬の中から全く抜け落ちていたことがある。それは、東人は、対馬金の産出をめぐる都の興奮を、実は知らぬということであった。砂金が発見された際に行賞はあったかもしれない。しかしたとえどんな行賞をもってしても、都の様子を伝えるには足りぬ。あの、目に見えぬ炎が全てを覆い尽くすような狂乱は、実際に見た者でなければ分からないかもしれなかった。
都人が金発見の報にどれ程熱狂したか、そして朝廷にとって対馬金の献上がどれ程重い意味を持っていたか、それを東人は理解していなかった。彼が対馬金の意味を真に理解したのは恐らく、五瀬が、雑戸から正六位上という前例のない程の出世を果たしたのを見た時だったのである。そしてその時初めて、己が犯した罪の重さをも悟ったのに違いなかった。
東人は用心深い男であった。もっと端的に言えば臆病な男であった。己の罪業の重さを悟って恐怖におののいた時、三船の口をふさいだようにして五瀬の口もふさぎ、罪を糊塗しようという結論に、あの男ならば雑作もなく行き着いたと思われる。そしてそうした結論に至った上は、もはや罪の重圧から一刻も早く逃れること以外、東人には考えられなかったであろう。臆病者の心の安寧、それだけのために五瀬は死なねばならないのだった。
五瀬は酒に手を伸ばし、黙って口をつけた。それからゆっくりと立って行き、窓を押し開けた。仰げば月はもはや天頂に近い。月に冷やされた草木のはざまから夜風が部屋に忍び入り、足元を舐めた。塀脇の木立が白い月光の中に濃い影を流していた。
――おれが対馬でしたことは何だったのだ。
虚ろな思いで五瀬は苦しい息を洩らした。
金を献上せよとの朝廷の求めに答えるべく、五瀬は必死になって努めたのである。しかし努めたすえに生み出された金は、石ころにも等しい代物であった。そしてその石ころの如きもののために、五瀬は三船という友を失い、そして今、自分の命までも奪われようとしている。それが、五瀬が長い苦しみとひきかえに得た代償だった。
木々が鳴って、夜風が吹きつけた。上質の綿衣をまとった肌には、夜風の冷たさは直に透っては来ない。五瀬は振り返って、灯火に照らされた室内を見た。つややかに磨き上げられた床が薄く光っている。高価な筆やすずりの置かれた文机が床に影を引いている。衣のたっぷりとつまった行李がある。塗りの厨子がある。
確かに五瀬は、金によって莫大な褒美を得た。目の飛び出るような富と、人々のうらやむような官位を得た。五瀬は再び酒器を持ち上げ、口をつけた。芳醇な香りが咽を心地良く滑った。故郷では決して味わうことの出来なかった美味である。こくこくと咽を鳴らし、それから不意に、五瀬は酒器の口を傾けた。窓下に酒の飛び散る音がして、酒香が立ち昇った。
「このようなものが何になる」
甘い芳香が虚しく漂った。
「朝廷の役人は、おれがもはや雑戸ではなくなったと言うた。良民になったと言うた。だが良民になっても何も変わらぬ。蔑まれ、命すら好き勝手に奪われねばならぬ。だが無理もない。おれの体に賤しい血が流れていることは今も変わらぬ。富も位も、血を清めてはくれぬ。おれは六位の官位を持った、雑戸なのだ。賤民なのだ。この世にいる限り、おれはしょせん、人ではない――」
五瀬は目を伏せた。額がしだいに下がり、やがてがくりと首を折った。風が思い出したように窓下の草を揺らし、さやかな葉音を立てて過ぎて行った。空のどこか遠いところで、夜鳥の鳴き音が渡って行った。うつむいた鼻先に、すえた土のにおいと酒の甘やかな香りが、交互にかすめた。風が動くと、そこに灯明が燃える臭いが細く入りまじった。種々の事象が、五瀬の五感をかすめては、ゆき過ぎて行った。長いこと、五瀬はそうやって立ち尽くしていた。
どれくらいの時が流れたか、ふと、五瀬の目が開いた。ゆっくりと首をもたげ、眉を上げて天を仰いだ。鋭いばかりに見開かれた両の目に、真白い月の光が射した。
* * * * *
翌朝、国衙から兵士が派遣されて来た。五瀬は屋敷の中を案内し、寝泊りする部屋を整えた。そのあとで、五瀬は誰にも告げずにそっと屋敷を抜け出し、雪麻呂の住む村へ出かけた。海辺を探すと雪麻呂はちょうど漁から戻ったところで、父親と二人漁具の手入れをしていた。
「五瀬?」
雪麻呂は驚いて駆け寄って来た。五瀬の方から村を訪ねるなど、今まで一度もなかったことだった。
「話がある。来てくれぬか」
「うん」
仕事を放り出して五瀬と立ち去ろうとする背に父親の怒声が飛んだが、雪麻呂は戻ったらやると言い捨てて、五瀬のあとをついて来た。
「雪麻呂、お主誰にも見られずに、おれを隣島の壱岐まで運べるか」
ひとけのない場所まで来ると、五瀬は声を殺して雪麻呂にそう、訊いた。雪麻呂は少し顔色を変えたが、すぐに、出来るよ、と頷いた。そして
「何があったの?」
と訊いた。一昨日の盗賊のことが記憶に生々しいせいか、ひどく不安げだった。五瀬は今一度辺りに人の姿がないのを確かめてから、顔を寄せた。
「嶋司に、命を狙われておる。島から逃げねば命が危ういのだ。頼れるのはお主しかおらぬ。手を貸してくれ」
ありのままを言った。突然のことに雪麻呂は息を呑んだが、唇を食いしばって小さな声ひとつたてなかった。こわごわと辺りを見回して、
「――でもなぜ、役人が五瀬の命を狙うの」
声の震えを押しとどめながら訊いた。
一瞬、五瀬はためらった。それは対馬金の秘密を知る五瀬の口を封じるためであったが、そのことを雪麻呂に明かすわけにはいかぬ。しかし五瀬は、仲間の白眼もかえりみず情愛を向けてくれた少年に、せめて出来得る限り誠実でありたかった。五瀬は注意深く語を選びながら、言葉を継いだ。
「おれと嶋司の間には密事があるのだ。密事というものは、時に一人で負うよりも二人で負う方が苦しいことがある。つまり嶋司はその苦痛に耐え難くなったのだ。おれを、――殺して、楽になりたくなったということだ。すまぬが、これだけしか言えぬ。
――雪麻呂。今おれが言うたことは、お主の腹だけにおさめておいてくれ。たとえおれの身に何事かあったと耳にしても、誰にも話してはならぬ。これは対馬の全ての民にかかわることなのだよ」
雪麻呂は大きく目を見開いて、じっと五瀬を見つめていたが、黙って、深く頷いた。
金の偽装にまつわる事情など、雪麻呂には察せられるはずもなく、そしてたとえそれが分かったとしても雪麻呂にはどうでもよいことであった。少年の心が悟ったのはただ、五瀬がぬきさしならない苦境に追い込まれていることと、そして五瀬が心の内に何かを決しているということであった。しかし雪麻呂にとってはそれだけで、危険をおかして五瀬に手を差し伸べる、充分な理由であった。
「舟を出すのは明け方がいい」
きびきびした口調で言った。
「夜だとどうしても篝火が目について、怪しまれるから。皆が漁に出る一刻くらい前に浜を出れば、一番人の目がないと思う」
幾つかの約束事を決めた後、五瀬と雪麻呂はそこで別れた。それから二日、五瀬は屋敷で普段どおりに過ごした。そして三日目の明け方、誰もが寝静まった中を、五瀬は臥所からそっと這い出た。前もって部屋に隠してあった布を持てるだけ包み、背にくくりつけた。窓から出ようとして、五瀬は足を止めた。一瞬ためらったのち、行李からあの木簡を取り出して懐深く押し込んだ。あとは音もたてずに屋敷を抜け出し海へと走った。
約束した場所で雪麻呂が待っていた。舟を出すと舟底に五瀬を伏せさせ、上からムシロをかぶせた。櫓がひとしきり鳴って船は滑り出、沖へ向かって力強く潮を分け始めた。
「もう顔を出しても大丈夫だよ」
やがて、雪麻呂はムシロをどけてくれた。起き上がって辺りを見回してみると、対馬の島影は既に、水平線の向こうに消えていた。船べりにもたれて、五瀬は消え去った対馬の姿をしばらく目で追っていた。
空にはいつしか早暁の薄明かりが射し始めていたが、海原は夜の色を未だおもてにとどめていた。暗い潮流に、雪麻呂の操る櫓の音だけが、のびやかに鳴った。
「――うまいものだな」
舳先に踏んばってせっせと櫓を繰る雪麻呂に、五瀬はのんきに感心してみせた。
「これが仕事だもの」
「それもそうだな。最後に、お主の舟に乗れて良かった」
「そんなことより、本当に壱岐まででいいの?」
雪麻呂が振り返った。
「都へ戻るんだろう? 壱岐から先はどうするの。おれなら、筑紫の浜まで行ってもいいんだよ」
「壱岐の浜でまた漁夫の舟を雇うつもりだ。お主の心づかいは嬉しいが、あまり長く留守にしてはお主も怪しまれる。今日舟を出すのは、親父殿には何と言い訳して来た」
「どうせ素直にいいと言わないに決まっているから、黙って来たよ」
「勝手に出したのか。参ったな」
五瀬は笑って、頭をかいた。冴え冴えとした潮の香の中に、五瀬の笑いは軽やかに澄んで、耳ではなく心に沁みた。雪麻呂はこの時の五瀬の笑顔を、生涯、忘れなかった。
舟は潮の流れに巧みに乗って海を渡り、空が明るく染まる頃、無事壱岐の砂浜に流れ着いた。
五瀬は背にくくりつけていた包みから布を二反取り出し、雪麻呂の手に持たせた。
「こんなものが欲しくて舟を出したんじゃないよ」
雪麻呂は怒って首を振ったが、五瀬は懐に無理矢理、布を押し込んだ。まだ何か文句を言おうとする雪麻呂の頬を両手で挟み込むと、幼さの残る額に自分の額を押しあてた。
「雪麻呂、すまぬな。お主にはもっとたくさんのことを教えてやりたかった。金細工のことも、都のことも、お主が知りたく思うことをもっと教えてやりたかった。許せよ」
初めて、雪麻呂の顔が泣き出しそうにゆがんだ。雪麻呂は五瀬の胸に飛び込んだ。細い体を五瀬は強く抱きしめた。雪麻呂は五瀬に抱きついて、いっとき、肩を震わせたが、すぐに腕を振りほどいて五瀬を押しのけた。
「見つかるといけないから、早く行って」
力強いまなざしでそう言うと、身をひるがえして舟に飛び乗った。舟影が小さくなってやがて消えてしまうまで、雪麻呂は一度も後を振り返らなかった。
五瀬はすぐに小舟を雇い、その日のうちに筑紫へ渡った。一方対馬では夜になって、五瀬が屋敷に戻っていないとの知らせが警備の兵から東人に入った。しかし、国麻呂が一族の女を五瀬に与えたらしいと以前に耳にしていた東人は、
「大方、女のもとへ通うておるのだろう」
と言ったきり、それ以上詮索しようともしなかった。彼は用心深い男には違いなかったが、この件にかんしては五瀬を全く見くびっていた。謀略をめぐらせる者はしばしば、罠を張ることに夢中になるあまり、自らの足元に注意を怠る。そうした謀略家の油断に、東人もまた陥っていた。五瀬がこちらの計略に感づいたなど、ましてや既に逐電したなど考えもしなかった。
五瀬が島のどこにもいないらしいことが分かり東人が青くなったのは、十日も後のことである。その頃五瀬はとっくに瀬戸内に入り、浦里から浦里へ舟を雇い継ぎながら一路大和をめざしていた。十日前に既に屋敷に五瀬の姿がなかったと初めて聞かされた副官は顔色を変えて激怒したが、全ては後の祭りだった。