表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
31/33

第十一章 宴の終焉(一)

 国麻呂の酒宴に招かれた日以来、五瀬には眠れぬままに過ごす夜が増えていた。


 工房が取り払われ、三船と過ごした日々の記憶が跡形もなく失われた屋敷裏の有り様が、言い知れぬ寂寥となって尾を引いていたせいもあったが、それ以上に五瀬の心に暗くこたえていたのは、田吉女(たよしめ)のことであった。


「六位様もご自身のなさったことをもっと誇って下さい。金のお仕事が出来るのは素晴らしいことと思いますよ」


 あの時の田吉女の言葉と微笑みとが、心から離れなかった。対馬金の献上にまつわる五瀬の功績に、田吉女は何の疑いも抱かず、賞賛と敬服のまなざしを向けてくれた。しかし金献上の功績など偽りであり幻である。あの、夏の朝のように澄んだまなざしや穢れを知らぬ心を欺いていると思うと耐えがたかった。その呵責のために、田吉女を妻にという話も、五瀬は結局諾とも否とも答えぬままにしてしまっていた。


 屋敷の者が皆寝静まった深夜、五瀬は行李から二枚の木簡を取り出し、それを眺めて過ごすことがあった。田吉女が、自分と五瀬の名を書き記した木簡である。見つめていると、清らかな筆の流れに素直な人となりが透いて見えた。


 田吉女は、物を知らぬ五瀬を蔑まなかった。下賤の身分を明かしても、五瀬に向ける目は変わらなかった。であるのに、五瀬はあの少女に不義であらねばならない。今の五瀬の手は、自らの生まれ以上に、罪深い偽りのために穢れているのである。もしもその手で田吉女の手を取り共に歩もうとすれば、いずれ必ず田吉女の心に拭いきれない影を投げかけることになろう。それは帝を欺く以上に恐ろしい罪であった。


 五瀬は指先で筆跡をなぞった。少女の優しげな心に情をそそぐその代わりに、書き残した文字に密やかな愛撫を与えた。朝露を含んだ瞳や、くくったような紅い唇が思い出されるほどに、あの娘と共に生きることが出来たならばと心が傾きかけるのを、もはやかかわらぬのが、何より田吉女のためなのだと強いて己を引き戻した。そして幾度となく心に繰り返された逡巡を断ち切るように、五瀬は木簡を行李の底に押し込み、灯りを消すのだった。


 その夜も、五瀬は一向に眠りにつこうとしない体をしとねに横たえたまま、夜の音に耳を傾けていた。夕げのあとに口にした酒の余韻にもかかわらず、頭は冷たく固く冴え、眠りが訪れる気配すらなかった。


 くるりと腹ばいになって、五瀬は、枕辺の灯火を眺めた。石の灯明鉢に赤い火がちろちろと揺れている。薄い火影は波のようにうねり、そして時折、周囲から押し包む闇におびえたかのように、小刻みに身を震わせた。


 物憂げに目を閉じると、まぶたの裏に炎の姿がぼんやりと映った。白とも黄ともつかないその影は眺めている間にも形を崩し、砂のように壊れて闇の中へ溶けて行った。五瀬は目を開いた。灯火は無音のまま赤く燃えている。じっと炎を見つめ、目が乾いて痛み出すまで見つめて、五瀬は再びまぶたを閉じた。目の中で炎の残像は白々と輝いたかに見えたが、それも束の間で、先程とさほども違わぬ時間のうちに、やはり閉じた闇の中に溶け消えた。地を覆う闇夜を照らすことも出来る火であるのに、これ程に小さな闇を照らすことは叶わないのだと五瀬は思い、そして、目の中へ虚しく消えてしまう炎の影が、哀れにも、愛しくも思われた。


 耳にふと、何か音が触れたのは、そんなつまらぬことを繰り返して一刻以上も経った時であった。


 始め五瀬は、風に草木が揺れたのだと思った。しかし自室の窓辺では、草は動いていない。不思議に思いながら、聞くともなく耳をそばだてると、そのざわめきは屋敷の裏手の方でばかりしているようだった。五瀬は枕をはずし床に耳を押しあててみた。地面をするような音が幾つも、不規則に動いている。獣が這い回っているような、と思い、


 ――あっ。


 声にならない叫びを上げて五瀬は飛び起きていた。起き上がってから、不用意に声を立てなかったかと、慌てて自分の口を手でふさいだ。この得体の知れない音が人間の足音であることに、ようやく気づいたのである。


 五瀬は恐る恐る、再び床板に耳をあてた。人数は三、四人、足音を殺しつつゆっくりと裏をまわり、どうやら厨家の方へ向かっているようだった。深夜である。人の訪れなどあるはずはない。盗人だと、五瀬は青くなって確信した。


 こちらも音を殺しながら五瀬は起き上がった。帷をかかげ、床のきしむ所を踏まぬよう用心しながら部屋の隅へ這った。大きな飾り壷をそっと抱え上げた時、遠くに押し殺したきしり音が聞こえ、厨家の裏戸がこじ開けられた気配がした。


 全身に冷たい汗をにじませて五瀬は忍び足で部屋を出た。廊下は塗り込めたような闇である。五瀬の足元だけが、臥所から洩れる火影にごくうっすらと明るかった。五瀬は壷を頭の上まで持ち上げた。


「盗人だ、皆起きよ」


 声を限りにわめくや、押し黙った暗中めがけ壷を力任せに叩きつけた。


 破片が飛び散り、耳を聾する音が響いた。途端に闇の向こうからわっと驚愕の悲鳴が上がった。家人部屋に寝ていた男たちは突然の物音に跳ね起き、衣も着けずに飛び出した。別の部屋では女たちが、何が起こったのかも分からぬまま、口々に悲鳴を上げて部屋の隅に身を寄せた。


 屋敷は騒然とした騒ぎになった。恐慌をきたした盗賊どもは、あちこちに体をぶつけながら我先に厨家の方へ逃げ出した。盗賊を追う家人の足音と怒号がそこへかぶさった。暗い廊下に物音が入り乱れた。勢いあまって何かを蹴倒す音。怒鳴り声。それにまじって、恐怖に泣き叫ぶ女たちの声も切れ切れに響いた。


 騒ぎをうかがっていた五瀬の体が、緊張にこわばった。五瀬は部屋の前に立って、闇の中に繰り広げられる音に耳をすませていたのだったが、その耳が、暗い廊下を何者かが、こちらへ向かって走るのを捕えたのである。


 足音は重く荒々しかった。そして闇を斬るように明瞭であった。家人の足音ではない。何か得体の知れない殺気のようなものが、槍のように、獣の光る目のように、まっすぐ自分を捕えるのを五瀬は感じ取った。思わず身がまえた時、大きな影が五瀬の鼻先に躍り出ていた。


 薄明かりに触れて抜き身の剣が濡れたように光った。声を上げる間さえなかった。五瀬はほとんど四つん這いのような格好で室内に逃げ込んだ。咄嗟に窓から逃れようと飛びついたが、しかし背後に迫った足音が襟首をつかみ床に引きずり倒した。


 耳のすぐそばを剣がかすめた。真上から振り下ろされた刃をどうやってよけられたのか、五瀬自身にも分からなかった。恐怖のために五瀬の五感は尋常ではなかったに違いない。分からぬままに剣をよけ、よけたあと五瀬の体は、そのままのめるように窓下に置いてあった作業台へ突っ込んだ。金板や槌が床にけたたましく散乱した。


 倒れ込んだところへ再び剣が風を切った。が、刀身の長いことが、盗賊に災いした。振りかぶった剣の切っ先が天井の梁に当たり、食い込んだ。その一瞬の隙をついて、五瀬は夢中で床の上に光っていたたがねに飛びついた。両手で握りしめ、こちらへ向き直った盗賊の腹部めがけ体ごとぶつかった。


 うめき声が洩れた。男がすんでのところで身をかわしたために、たがねの刃は腹からそれて腰骨の辺りを刺した。五瀬は男の帯をつかみ、力をこめて肉をえぐった。廊下に声がし、ばらばらと足音が聞こえた。騒ぎを聞きつけてようやく家人が駆けつけて来たのだった。盗賊はすさまじい力で五瀬を突き放した。体をぶつけるようにして窓を破り、黒い風になって飛び出して行った。


「旦那様」


 めちゃくちゃになった床に、荒い息をついてぐったりと座り込んでいる五瀬のもとへ、男たちが駆け寄って来た。


「盗人はどうした」


「逃げ去りました。旦那様、お怪我は」


「おれならば平気だ。どこも何ともない。お主らは無事であったか」


「はい」


「皆を集めて、もう一度無事を確かめよ」


 幸い、屋敷の者の中に怪我を負ったり連れ去られたりした者はなかった。皆は今一度戸じまりをし、破られた裏口には木をあてがった。散らばった壷の破片や作業台を片づけ、その後は男たちが交代で寝ずの見張りをしたが、その夜はそれきり、何事もなかった。


      * * * * *


 国衙の官人の屋敷に盗賊が押し入ったという噂は翌朝たちまち人々の間に知れ渡った。事件について報告するようにと、五瀬は東人に呼び出された。


 国庁に赴くと、出入り口のところで後ろから呼び止められた。振り返ると東人の副官であった。以前、五瀬に帯どめの鍍金を頼んだ男である。あのあと、仕上がった帯どめをこの男は律儀に屋敷まで受け取りに来た。五瀬は恐縮して、簡単ながら酒肴を整え、副官を屋敷に上げてもてなしたが、顔を合わせるのはその時以来だった。これは、と五瀬は頭を下げた。


「六位殿、聞きましたよ。災難でございましたな」


 近寄って来て、あいかわらずまろやかな声で言った。


「幸いでした。盗られたものもなく、裏口が破られただけですみました」


「ああ、それはよろしゅうございました。――ところでお尋ねしてもよろしいですかな。賊のことですが、顔はごらんになられましたか」


 副官に訊かれて、五瀬は初めて、昨夜の盗賊が目をのぞいた顔中を黒い布で覆っていたことに気がついた。声も立てず表情も見えない、泥人形のような姿を思い出して、五瀬はあらためて身の内に震えが走る思いがした。


「成程。顔を隠しておりましたか。では風貌なども分かりませぬな」


 副官は頷くと、今度は屋敷の警備はどうなっているかと訊いた。五瀬は、破られそうな戸や窓を家人が修繕していると答えた。


「それだけですか。それは少々心もとない。明日、こちらから警備の兵を二人ばかりお貸し致しましょう」


 五瀬は礼を言って、厚意に甘えることにした。東人の部屋へ向かう後ろ姿を、副官は立ち止まってじっとうかがっていた。


「賊が入り込んだことによく気がついたものだな」


 昨夜のいきさつをあれこれ聞いたあと、東人は真っ先にそんな感想を洩らした。


「起きておりましたので」


「起きておった? 賊が押し込んだ時は夜中をまわっていたのであろう」


「はあ。一刻半ばかり過ぎていたように思いますが」


「いつもかような刻限まで起きておるのか」


「……」


 事件とさほど関係もなさそうなことに、東人はこだわった。五瀬はたまたまだと返事を濁した。鬱屈したものが胸中にたまって眠れないのだったが、それを馬鹿正直に答えればさらに余計なことを問いつめられそうに思われたし、そのような仔細までも東人に答える義理はない。官人は就寝の刻限まで定められているのかと、嫌みじみたことを言いたくなるのを抑えた。


「まあよい。では、賊について何事か覚えておることはあるか」


「さあ、何しろあっという間のことで」


 何も覚えていないと言いかけて、五瀬はふと思い出した。


「賊の、腰の辺りに傷を負わせましたが」


「ふむ、傷を」


「しかし咄嗟のことでございましたし、手がかりになるような深い傷かと問われれば、それも何とも」


「まあ、ならぬであろうな。たがねごときの傷など、たかが知れておる」


 東人は気乗りしなそうな様子で言った。


 自邸に戻ると、雪麻呂が五瀬を待っていた。窓かまちに頬づえをついておもての様子をうかがっていたが、五瀬の姿が見えると窓から飛び下りて駆け寄って来た。


「五瀬、昨日は大丈夫だった」


「何だ、もう知っていたのか」


「朝早くからその話ばかりだったよ」


 雪麻呂の村は国衙からだいぶ隔たっているはずだが、例の三田五瀬の屋敷が賊に襲われたとの噂で朝からもちきりだったという。しかし村人の様子を聞くにつけ、案じているというよりは、多分に、人の災難を面白がっている風があった。かつて忍海のある官人の屋敷に盗賊が押し入った際、仲間たちといい気味だと言い合った記憶がある五瀬は、人はそういうものだろうと、密かに苦笑した。


「何ともなかったの?」


「何、案ずるな。怪我人もないし、盗られたものもなかったよ」


 話しながら、五瀬は雪麻呂を連れて屋敷の周りをひと通り見て回った。裏口にまわると、急ごしらえながら厚い木戸がもう出来上がっており、家人が二人がかりではめ込んでいるところだった。五瀬に気づくと、窓の幾つかに鳴子を取りつけてみたと報告した。


「おれ、今日はここにいるよ」


 雪麻呂は眉を上げた。五瀬は笑った。


「いてどうする。寝ずの番でもするのか」


「男手は一人でも多い方がいいだろう」


「お主を置いておいては危なっかしくておれが眠れん。明日には警備の兵が来ることになっているのだ。お主は案じなくてもいい」


「それは明日のことだろう。今夜はどうするの」


「今夜は来ないさ。昨夜押し入ってしくじったばかりだ。こちらが警戒していることくらい予想がつくだろう」


 不満顔でさんざん文句を言う雪麻呂にありあわせのもので飯を食わせ、そのまま家人をつけて無理矢理村に帰した。普段は人に送らせることはないのだが、日の暮れかかった中、離れた村まで雪麻呂を一人歩かせるのはやはり不安だったのである。


 雪麻呂を見送って、五瀬は門の中へ戻った。日が落ち始めるとどうしても恐怖が身の内に流れ込んで来る。雪麻呂には、安心させるためにああ言ったものの、傷を負わされた腹いせに再び、今度は盗みではなく殺戮目的で屋敷を襲うということはないだろうか。


 気持ちを落ち着けようと、五瀬は屋敷に入る前にもう一度、周囲をひとまわり見回った。自分の部屋まで来た時、五瀬は、ふと窓の下に何かが光ったのに気がついた。そこには様々の草が乱雑に繁茂して、その生い茂った奥に、斜めに傾いた日が射し込み何かを照らしている。土や石とは違う、金属質の光であるようだった。五瀬は何気なしに草の間に手を差し入れてみた。さぐると思ったとおり、硬いものが指に触れ、引きずり出すとそれは金色の帯どめであった。大振りな唐草文様の透かし彫りがあしらわれた帯どめである。帯から引きちぎられたように、端には布のきれはしが残っていた。


 五瀬の手が止まった。一瞬、五瀬の目は凍りついたように帯どめに見入った。がすぐに、彼はそれを懐に押し込むと、逃げるように屋敷に入った。何事もなかったかのように夕げを済ませ、それからいつもどおりに酒を命じた。下女が酒器を運んで来ると、五瀬は酌を断って下女を下がらせた。五瀬が一人手酌で酒を飲むのは近頃よくあることであったから、下女はいぶかりもせずすぐに部屋を出て行った。


 下女の足音が遠ざかり、そして聞こえなくなるのを待って、五瀬は懐から窓下で拾った帯どめを取り出した。灯火を引き寄せ光にかざした。唐草の文様を目で追う五瀬の唇が青ざめている。


 この帯どめに五瀬は見覚えがあった。東人の副官の求めで鍍金をほどこしたあの帯どめである。あまり手の良いものではなく、透かし彫りの文様はところどころ、形がゆがんでいた。そのゆがんだ部分に溶けた合金を塗りつけるのが少し手間取ったために、五瀬は文様の形をよく覚えていたのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ