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第十章 六位の官人(三)

「六位殿、酒の席じゃ。少々ぶしつけなことを尋ねてもよろしいかな」


 盃を口に運びながら国麻呂がにこやかに言った。


「六位殿は、国もとに妻はおありでございましたかな」


「いや、おりませぬ。父母と三人暮らしでございました」


「左様か。お若いのに妻をめとっておられぬとは、何か仔細でもあって」


「何と申しますか、ただ縁遠かっただけのことでございます。帰郷が叶ったら、妻というものを持ってみても良いとは思うておりますが」


「おお、左様でございますか。――これ、六位殿の盃が空じゃ。ぼんやりせずについで差し上げなさい」


 五瀬の手元に気づいた国麻呂が、そう言って五瀬の背後へ諌めの目を向けた。隣にはべっていた女がはっとしたように身じろぎし、慌てて酒器を取り上げた。


「――あの、どうぞ」


 小さな鈴のような声で言って、手に持っていた盃に酒をついだ。声に引かれて女の顔を見直した五瀬は、この、先程から隣で酌をしてくれていた女が、まだ少女といってよい年頃であったことに、初めて気がついた。美しい衣や髪に飾ったかんざしに隠されて分からなかったが、年の頃は雪麻呂とさほども違わないように思われる。


 五瀬がじっと視線をそそいでいるのに気がついて、少女は困ったような顔を見せた。まばたきした目が小鹿の目のようにみずみずしかった。丸い頬に囲まれた唇はふっくらと紅く、雪の枝に実る南天の紅さを思わせた。心身を飾ってこうした酒の席にはべるのにはまだ慣れていないのか、丁寧になでつけた額の分け目の辺りにぎこちなさが見えるところも愛らしかった。うぶげの光る、幼い桃のような額を眺め、指先でつついたら可愛らしい音がしそうだなどと考えていると、


「お気に召しましたか」


 横から国麻呂が言った。


「もしも六位殿さえお気に召したのであれば、構いませぬ、差し上げましょう」


「いや、左様なつもりでは」


 五瀬は急いで口元を拭いながら首を振った。


「女手ならば屋敷に足りておるのです。厨も、すすぎものも困ってはおりませぬ」


 そう答えると、その場にいた女たちは一斉に顔を見合わせくすくすと笑い出した。五瀬が当惑した表情を見せると、女たちは更に笑った。当の少女だけは笑いもせず、あいかわらず困ったような顔つきで座っていた。


「いやいや、下女にというのではございませぬ」


 女たちと一緒にさんざん笑ったあとで、ようやく国麻呂は言った。


「そこにおる田吉女(たよしめ)はわしの従姪(いとこめい)(※)にあたる者でしてな。六位殿にお目にかけようと今宵は連れて参りました。如何でございます。六位殿の妻に」


『妻?』


 驚くあまり、五瀬は咄嗟に返事が出来なかった。遠い雲の中に模糊とした影としてしか描いていなかった妻というものが、いきなり目の前に、しかもこれ程に愛らしい形を取って現出したのである。思わず、傍らの田吉女を振り返った。


 難波津から船に乗り込み、対馬というまるで未知の島へ不安と共に出立してからもう四年になる。しかしその四年の間に、自分の身には何と大きな変化が起こったことかと、隣に座った少女の美しい横顔を通して、五瀬そんなことを思わずにいられなかった。


 うつむいていた田吉女が、顔を上げた。遠慮がちに五瀬の方へみずみずしい目を上げ、じっと見つめた。まだ人間が珍しい、生まれたての野の獣のようだった。五瀬が口元を笑ませて見せると、田吉女も安堵したように微笑した。様子を見ていた国麻呂が手を打って笑った。女たちもまた笑い声を上げたが、先程と違って、皆の笑いにはかすかに淫靡(いんび)さがあった。


 その夜は国麻呂の屋敷に宿を取った。寝間へは、ごくあたり前のように田吉女が案内した。敷きものに腰を下ろし五瀬が襟をくつろげている間に、田吉女は灯りを灯したり、窓開けて風を入れたり、こまごまと部屋を整えた。


「お主の名、たうしめ、と言うたか」


 奥の帷に入って臥所を整えているらしい影に向かって、五瀬は声をかけた。


「いいえ。たうしめではなくて、たよしめ」


 帷から出て来た田吉女はそう答えると、くすくす笑って五瀬の間違いをおかしがった。田吉女はひらりと身をひるがえして部屋の隅へ小走って行った。文机の前でなにやらやっていたと思ったら、木簡を手にして戻って来た。これがわたしの名ですと言いながら、五瀬に見せた。木のおもてに「田吉女」と、柳枝のような美しい筆で書かれてあった。


「お主、その若さで字が使えるのか」


 五瀬は驚いて、少女の美しい顔を見た。


「対馬卜部の者は皆、小さいうちから覚えさせられるんです」


 田吉女は得意がるふうもなく答えた。既に述べたように、対馬県家の分家である対馬卜部家は、代々占卜の技術を継承している家である。占卜には文字の知識がどうしても必要だからと田吉女は説明した。


 五瀬が木簡を眺めてしきりと感心していると、田吉女はまた文机の前へ小鹿のようにぱたぱたと駆けて行った。大人ばかりの気づまりな酒宴から解放されたせいか、恥ずかしげに押し黙ってばかりいた先程とは別人のような快活さだった。


 少女の屈託のない振る舞いに誘われて、五瀬もふと悪戯心を起こした。文机に伏せている田吉女の後ろにまわり、肩ごしに手元をのぞき込んだ。思ったとおり筆を取って木簡にまた何やら書きつけていた。筆を動かすたびに、襟元からやわらかなぬくもりが立ち昇った。目の前には田吉女の小さな耳がある。桜貝のような耳たぶをおくれ毛の海藻が囲んでいた。黒髪の先にこっそり鼻を寄せてみると、子供っぽい汗の匂いがこもっていた。友垣と汗まみれで駆け回った幼い頃が思い出された。


「――そうしてこれが」


 五瀬の悪戯には気づかず、田吉女は顔を上げた。振り向いて、新しい木簡を顔の前にかざしてみせた。三田五瀬、と鮮やかに字が並んでいた。


「これが、六位様のお名」


「おれの」


 ほう、と五瀬は目を見張った。己の名に字が当てられているなど、五瀬は今の今まで知らなかったのだった。確かに、村には毎年のように役人が戸籍を調べに来る。一人一人の名を確かめ、赤子が生まれていれば名を訊いて筆を走らせているのを見てはいたが、名を字でもって書きつけているとは思いもしなかった。


「そうか。あれは村の者の名を書いておったのか」


 あたり前のことに五瀬が妙に感心すると、田吉女は声を上げて笑い出した。が、その笑いには罪がなかった。少女の態度は、五瀬の賤しい無知ぶりを残酷にさらけ出すものであったに違いない。しかしにもかかわらず、そこには五瀬の感情を傷つけるどんな暗さもなく、むしろ逆に、膿んだ傷口を乾かしてくれる風のような、不思議な心地良さすらあった。


「ね、六位様。金のお話をして下さい」


 風が欲しくなったのか、田吉女は文机の前から立って窓辺に座を移した。そこから五瀬の方へ袖を振ってせがんだ。


「金?」


「都に献じられたのでしょう? お話して下さい」


 五瀬としてはあまり気の進む話ではなかった。しかし重ねてせがまれて、五瀬は田吉女のそばに座り、話を始めた。答えづらいことを尋ねられては困る、山の工房でのことや椎根(しいね)でのことは避け、話はもっぱら、るつぼに砂金を入れて錬り、溶かして献上用の金塊を作るまでの、行程や技術の話に終始した。


 田吉女は退屈がりもせずに耳を傾けてくれた。が、語るうちに五瀬の胸には、故郷や飛鳥の工房での、雑戸民として虐げられ続けた記憶がよみがえり、卑屈な感情がしみのようにじわじわと広がるのをどうにも出来なかった。


「おれが語ってやれるのはこんなことだけだ」


 五瀬は急に話を断ち切ると、自嘲気味にぽつりとこぼした。


「郡司様は、お主をおれの妻になどと申されたがな。だがおれはお主と違う。お主のような学もなければ、かというて芸も知らぬ。無理もない。お主は知らぬであろうが、おれはもともと雑戸というてな、卑賤の金鍛冶なのだよ。だから金のこと以外は何も知らぬ、つまらぬ男なのだ」


「――それは、違いますよ」


 田吉女は少し首をかしげたが、すぐに、花の咲くような笑みを口元にこぼした。


「六位様が金を献じられたおかげで、都の方々はとても喜んでおられると聞きました。この対馬もそうです。皆、金の献上を誇らしく思うております。六位様もご自身のなさったことをもっと誇って下さい。金しか知らぬと申されましたけれど、金のお仕事が出来るのは素晴らしいことと思いますよ」


 田吉女はきっぱりと言った。その言葉はしかし、冷たい石になって、五瀬の腹に重苦しく響いた。

 酒宴の疲れが出たのか、それから幾らも経たぬうちに田吉女は敷きものに座ったまま、こくりこくりうたた寝を始めた。五瀬は田吉女を抱き上げて臥所に運び、しとねの上に寝かしつけてやった。


 それから五瀬は部屋を出た。用を足したくなったのだった。厠をさがして廊下を行ったり来たりしているうち、いつの間にか厨家に出ていた。中を見回して厨家と分かり、五瀬ははっとした。工房が建っていた場所は厨家の裏口と程近かったはずだった。気苦労と焦燥の記憶ばかりとはいえ、こうして近づいてみればやはり懐かしい気持ちはあった。五瀬は戸に手をあてそっと開けてみた。


 開けた途端、見覚えのある林の影が目に飛び込んで来た。胸を衝かれる思いで、五瀬はおもてに出た。林の影が黒く盛り上がる、その向こうには、厳しい山肌が以前と同じように月に照らされながら迫っていた。空き地を半ば囲みながらまばらに立つ潅木も、かつてなじんだままの枝ぶりを見せていた。よく見知った光景がそのまま、目の前に横たわっていたが、しかし工房があったところ、小屋を建てていたところは、地面が全て埋め戻され、始めから何事もなかったかのように、丈の低い草が覆っていた。草のおもてを月が無言で流れていた。長い夢を見ていたような、または今も見ているような、奇妙な心持ちで、五瀬はさら地になったかつての工房を見回していた。


 ぼんやりと立ち尽くす五瀬の鼻先にふと、萱のにおいがしたように思った。屋根の萱などがここに残っているはずはない。だが五瀬の鼻孔は確かに萱のにおいを嗅いだ。そして額には、炉の熱さを感じたように思った。日がな座りづめに座ったあとの疲労が尻に感ぜられた。小屋の中にこもる、湿った土のにおい。飯を炊く火に小枝がはぜる音。工房の柱の手ざわり。西側の柱は中程に大きな節穴があった。そこから雨が入り込んで柱を腐らせるのではないかと気になって、しょっちゅう触れているうちに、そこだけ磨きをかけたように光っていた。そのつるりとした手ざわりが手のひらにかよった。


 五瀬の心は体から遊離して、とうに消え去った記憶を貪るようにかき集めた。しかし体は目の前に何も見ることは出来ない。思わずしゃがみ込んで、五瀬は試みに地面をあちこち手さぐった。しかし指先は柱穴の痕跡すら見つけることは出来ない。明瞭な現実と鮮やかな記憶に引き裂かれ、あたかもここであったことの全ては夢であったような幻に、五瀬は襲われた。砂金をめぐる明け暮れ。村人が向けてくれた好意。温かなやり取り。海原の彼方にのぞんだ、任那の影。そして――。


 身をひるがえして五瀬は厨家の中に駆け戻った。心に忍び入った喪失の幻から逃れるように廊下を抜け、息を弾ませて寝間に戻った。


 帷をかかげてのぞくと、田吉女はぐっすりと眠っていた。少し微笑んだような寝顔に五瀬の心は幾分かの平穏を取り戻した。が同時に、この世の暗さも穢れもまだ知らぬ穏やかな寝息が、心に苦しくもあった。

(第十章・了)

※いとこめい・従兄弟の娘

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