第一章 三田五瀬(三)
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五瀬にとって出立の支度は一苦労であった。五瀬は旅などしたことがない。村にも大和を出たことのある者は誰もいない。見知らぬ土地へ赴くのにどんなものを荷造りすべきか、乏しい知識を元手に精一杯の想像力を働かせ、とりあえず着物と煮炊きの道具や椀、小屋掛けのために手斧と釿は思いついたものの、そのあとはなかなか見当がつかなかった。
「寝わらは要るであろう?」
炉の火に寄って衣の繕いを手伝っていた母親が訊いた。
「いや、寝わらはさすがにかさが張り過ぎる。向こうで誰ぞに分けて貰うことにする」
「払うものはあるのかえ」
「長の話だと、郡司の館様から多少の布が出る。向こうにいる間の米も貰えるそうだ」
郡司とは国司の下で郡を治める地方官であり、要は古くからの有力豪族である。徴用されても朝廷からは食料も銭も支給されないため、そうした面倒は皆国許の郡司が見ることになっていた。自分の米よりも、五瀬は耕し手のなくなる家の田畑のことが気に懸かった。
「田は貸すことにするよ。わたしら二人だけなら、耕し賃を払っても食うには困るまいし」
少々投げやりな口調で母親は言った。五瀬からは針を持った手が見えるばかりで、表情は影になっている。都には荘厳な宮殿や寺が並び建っていたが、民の住まいは古墳の時代からほとんど変わっていない。未だに土を掘り下げた上を茅の屋根ですっぽりと覆った、竪穴の小屋であった。窓がないため火を燃やしても中はひどく暗い。影の中に母親の不安げなため息が小さくした。持って行って差支えない鍋はないかと訊くと、ぶっきらぼうに鍋もこしき(※)も一つしかないと答えた。と、小屋の隅で寝わらに横たわっていた父親が頭を動かし何事か言った。不明瞭でほとんど聞き分けられない声音だったが、共に暮らしている五瀬と母親には、構わないから鍋を持たせてやれと、そう言ったのが分かった。荷をまとめていた手を止め、五瀬は父親のそばへ寄った。
「いいよ。鍋がなくては困るだろう。おれなら近所で穴の開いたのを譲って貰って、直して持って行く」
体の脇に力なく投げ出された手を取って、五瀬は肘から指先まで丹念にさすってやった。
「頭の痛みはどうだ」
問いかけに、父親は青黒い顔をかすかに振って、今日は調子が良いと言った。父親の麻痺した手は肌が冷えきってずしりと重たく、鉄の塊を手のひらに乗せているように感じられた。こうした病は、三田一族の男たちには珍しくはなかった。水銀や鉛のためである。鍍金の作業に水銀を使うことは既に述べたとおりであるし、金の精錬を行う際には鉛を使った。
長年に渡って有害な金属を扱い続けるため、鍛戸の体には年を追うごとに頭痛や嘔吐、呼吸不全を始めとする様々な症状が現れる。例えば氏上などは運良く片手が少々麻痺した程度で済んだため、ああして飛鳥まで歩いて来ることも出来るが、大抵は目の前で横たわっているこの父親のように、手足を動かすのも言葉を発するのも不自由になってしまう。そしてこの中毒症のために、三田の男たちは多くが短命であった。
『いずれはおれも親父殿のようになるのだ』
五瀬は思わずにはいられない。寝わらに横たわって指すら思うように動かせずにいる姿、またそうした不自由な日々の明け暮れの後にようやく訪れる死、それはそのまま、五瀬自身にも間違いなく約束された未来であった。とは言え、若い五瀬の心には、老いも死もまだ生々しい形で染み込んで来てはいない。悲劇の予感を官能にも似た甘美な痛みとして享受出来るのは、若さゆえの特権だった。
翌日、村の広場に供物を乗せた祭壇が設けられ、五瀬の旅の無事を祈る祭りが行われた。村人が打ちそろい、鳴り物をにぎやかに鳴らす中、麻の白衣を身につけた氏上が進み出た。祭壇の向こうに、布で飾られた大きな柱が立てられてある。神や先祖の霊が下る神柱である。表に人面を刻み込んだ、見ようによっては一種異様な柱に氏上は向かい、うやうやしくぬかずいた。
よその村の者が目にしたならば間違いなく奇異に感じるであろうこの祭りは、朝鮮の祭りなのだった。職業部民に朝鮮からの渡来人が多かったことは既に述べたが、三田氏もまた、遠く任那に起源を持つ渡来の民なのである。
任那は六百年程前に、朝鮮半島南端に起こった国だった。任那の祖は名を金首露といい、天の命を受けて亀旨の峰の頂に天降った者であった。金首露と、彼と共に天降った五人の兄弟はそれぞれに国を開いて互いに同盟し、長兄の金首露が盟主となったと、国の起こりを建国神話はそのように伝える。六伽耶、または伽耶諸国と称されるこの国は、六ヵ国の同盟とは言うものの国土も勢力も国の歴史を通して小さかった。しかも時を経るうちに東方には新羅、西方には百済が勃興し、二つの強国に挟まれた小国は侵攻に脅かされた。ついに百済武寧王十二年(五一二)、百済に牟婁以下四県を奪われ、次いで残った領土も新羅真興王二十三年(五六二)に新羅に併合され、任那及び六伽耶は地上より姿を消した。六伽耶の人々は敵国の迫害を恐れ、当時同盟関係にあった倭国に難を避けた。任那の民であった三田氏が大和に根を下ろしているのはこうしたいきさつによる。
神柱に幾度かぬかずき、それから氏上は天を仰いだ。咽を膨らませ大声で祝詞を唱え始めた。鳴り物の音が一段とにぎやかに高まった。楽音は木々の枝を震わせ、朗々たる祝詞の声を天へ向かって押し上げて行くようだった。祭りのたびごとに唱えられるこの祝詞は、遠い昔、故国任那で唱えられていたものが連綿と伝えられて来たのだと言われていた。少なくともそのように一族の者たちは信じていた。しかし確かめる術はない。三田氏が大和に流れ着いてから既に百有余年の時が経っていた。任那の言語を解する者はもはや誰もおらず、祝詞の意味するところも分からなくなっていた。三田の人々はこの祝詞を言葉としてではなくただの音として口でなぞり、伝えて来たに過ぎない。
言葉も歌も踊りも祭りも、任那の風習は長い年月の中に皆うずもれた。いわばこの異様な祝詞のみが、異国の地で虐げられて生きる三田一族の手に残った、唯一の故国の記憶であった。氏上の唱える祝詞は冬の空を遠く響いた。独特の抑揚は時に、一種の哀感を伴って、聞く者の耳に届いた。そして帰るべき拠りどころを持たぬ寂しさを人々が感じずにいられないのは、この時であった。
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対馬への出立はひと月後と決まった。朝廷の出先機関である九州の大宰府へ使いの船がひと月ののちに出る。その船に五瀬は典鋳司の役人共々、同乗することになった。旅の仕度を整えて飛鳥に戻り、五瀬はるつぼや炭、鉛といった精錬に必要な諸々を取りそろえ、荷造りする作業に追われた。幸いにもこの時期畿内は好天に恵まれ、船は予定通りの日程で、難波津を出船した。甲板上には下帯一つになった船乗りたちの逞しい体がきびきびと動き、小気味の良い掛け声を沸かせて船は内海の穏やかな潮を切って進んだ。
五瀬はというと、積み込まれた様々な荷と共に船底の倉庫に押し込められていた。
『おれは炭と同じか』
自らがたずさえて来た大きな積み荷の間に挟まれながら五瀬は憤ったが、しかしそれも長くは続かなかった。生まれて初めて船に乗った五瀬は、船が港を出ると幾らも経たぬうちに激しい船酔いに見舞われた。悪い酒を飲んだ時に似ていたが苦しさはその比ではない。底板が波のうねりを受けるたび、胃の腑どころか心の臓からも吐き気がこみ上げる心地がした。日も射し込まぬ中、床に多少の隙間をさぐりあて何とか体を横たえてみたものの、船の揺れが全身にくまなく伝わるせいか体を起こしていた時よりもなおあんばいが悪い。五瀬は長いこと、床に転がったりまた起き上がったりを繰り返していたが、とうとう辛抱出来なくなり這うようにして船底から甲板へ出た。
船べりに寄り掛かったはずみにはらわたが痙攣し、腹の中身がどっと海中めがけて吐き戻された。揺れに任せて二度、三度と嘔吐するうち、ようやく多少楽になったようだった。荒い息をつきながら五瀬は甲板に転がった。仰のいた目に洗ったように白い雲が流れた。火照った顔に潮風が当たった。風の冷たさに心地よさを覚えていると
「おい、雑戸」
いきなり腰の辺りを足蹴にされた。目だけ動かしてみると仁王立ちになった赤銅色の体がこちらをねめつけていた。
「こんなところで寝るな、邪魔だ」
「気分が悪いのだ」
腹を立てる気力もなく、五瀬は船乗りに弱々しく懇願した。
「腹がむかついて気分が悪い。頼むから少し風を吸わせてくれ。お主の邪魔はせぬ」
「たわけ。言うとるそばからもう邪魔になっとるわ。下に戻れ。戻らんと海へ放り込んで魚の餌にするぞ」
仕方なく五瀬は立ち上がりまた船底の倉庫へと体を引きずるように戻った。そのまま一日中床を転がって過ごし、頃おいを見はからってそろそろと甲板に上がってみると、外は既に夜になっていた。
船人はもう皆休んだとみえ、碇泊した船の上は何処も静かであった。見上げれば黒く塗り込めた空に、鏨でもって打ち抜いたように十三夜の月が黄金色の光を放っていた。甲板には長々と、帆柱の影が流れた。五瀬は船べりに寄った。夜の闇を吸って黒く光る海水の向こうに、背後に灌木の低い茂みを背負って砂の浜が伸びていた。寄せる波にならされて、浜は布を引いたようにどこまでもなめらかだった。しかし目で追ううちに、五瀬はその平穏な砂の中にひとところ、人々の集まった痕跡を小さく認めた。焚き火らしき跡があり、周囲の砂が複雑に踏み荒らされているのを、月の光がくまどった蒼い影が五瀬に教えた。この近くに浦里があるのだろう。村の男女が集まり歌垣にでも興じたのだろうかと思い、思ううち、五瀬は生まれて初めて、旅愁というものを胸の内に感じた。
船底で積み荷に押しつぶされる昼と、船人が寝静まった甲板で一人思いにふける夜とが交互に過ぎ、船は明石の浦、風早の浦、熊毛の浦といった幾多の港を経つつ西へ進んだ。筑紫の那大津で船を乗り換え対馬の隣島である壱岐へ、そこから更に波を渡ってようやく対馬の与良の津へ船が入ったのは、難波津を発ってから実にふた月余ののちであった。気がつけば、氏上の口から対馬の金の話を聞いた時には冬であった季節はいつしか初夏に変わり、行く人でにぎわう与良の津には、潮の香りがすがすがしかった。
(第一章・了)
※ 米を蒸す蒸籠