第十章 六位の官人(二)
「五瀬、これは何」
ひととおり皿をあさったあと、雪麻呂は珍しそうに部屋をあちこち見回していたが、文机の上に気づいて訊いた。
「嶋司が貸してくれた書物だ」
「すごいな、字が分かるんだね」
「いやいや、分かるものか。読み書きが出来ぬと官人はつとまらぬと嶋司は言うんだが」
紙をぱらぱらと繰りながら五瀬は苦笑いを浮かべた。読み書きどころかその書物を開くまで文字を見たことすらろくになかった五瀬である。教えてくれる者もなく、ただ適当な書物をあてがわれて字を学べと言われても、どだい無理な話であった。
雪麻呂は傍らからのぞき込み指先で字をなぞったりしていたが、すぐに飽きて今度は作業台の方へ興味を向けた。台の上には桃の花枝を模したかんざしと、まだ作りかけの花が二つ、三つ転がしてある。
「金細工のかんざしだ。直しを頼まれているのだよ」
「直すって、型に流して作るの?」
「何、金細工はもっと簡単だ。薄く伸ばした金をたがねで切り抜いて形を作り、白鑞(※)でくっつける。お主、子供の時分木の皮を脂で貼り合わせて舟や人形を作らなかったか。あのようなものと思えばいい」
「ふうん。――こっちは何?」
作業台の隅に乗っていた四角いものを雪麻呂は指さした。帯どめだと五瀬は答えた。大きさは一寸四方、大振りな唐草文様の透かし彫りが全体に入った金の帯どめで、もともとは銅細工の品であったものに五瀬が鍍金をほどこしたのである。仕事を依頼して来たのは東人の副官を務めている男だった。この副官のことは、国庁に呼び出されたその折々に、東人の脇に控えているのを見かけてはいたが、言葉を交わしたのは、帯どめを手に屋敷を訪ねて来た先日が、初めてだった。
「六位殿にこのような頼みは非礼と思いますが」
少し冗談めかした口調で、副官はそう、前置きした。声音が驚く程まろやかで、そのせいか、同じことを東人が言った時には端々にのぞく嫌みがこの男にはなかった。しかし声音のような優しげな人物かというとそうではなく、あとで五瀬が耳にしたところによると、武技に長け、新羅の海賊討伐にその腕をふるい、めざましい功を上げたこともあるらしかった。
「とんでもない」
相手の穏やかな物腰につられて、五瀬も笑みを浮かべた。
「確かに住まいはこのように変わりましたが、我は未だ金鍛冶のようなものでございます。その帯どめはお預かり致しましょう」
と、つい戯れ言めいたことを言いながら預かった。
「この仕事はもう終わり?」
「帯どめはつや拭きだけだが、かんざしはまだかかるな」
「じゃあ今度、仕事の様子を見に来てもいい?」
翌日から、雪麻呂はしばしば、金細工の仕事を見物しに来るようになった。漁に出、田畑の耕作を済ませてから来るので、訪れるのはたいてい午後であった。その日獲った魚を一匹か二匹下げて来る。まずそれを厨で炙るか煮るかして貰って二人で皿を囲み、作業台に座るのはそのあとだった。
五瀬の手元で金板が自在に切り抜かれ、花弁や葉に変化して行く様を雪麻呂は目を大きく見開いて見守った。ある時、ふと思いついて戯れにたがねと槌を持たせてみると、雪麻呂はすぐに見よう見まねで葉のようなものを一枚作った。
「金は、柔らかいね」
思いがけない器用さに驚く五瀬を尻目に、雪麻呂の方はそんなことに驚いた。
「うん。銅や鉄や、金属は様々あるが、金は中でも一番柔らかい。だからいろいろな使い方が出来る。ああ、そうだ。面白いものを見せてやろう」
五瀬は金板を取り上げた。槌で手早く叩き紙ほどの薄さまで伸ばすと、細長い形に切った。端を指先でつまんでよじると、つまんだ指の間から金が細い筋になってするすると繰り出された。金糸である。金糸や銀糸は、後の時代になると「線引き法」という、金属を小さな穴に通して引き伸ばす方法が行われるようになるが、そうした技術はこの頃はまだない。精密な作業は熟練した職人の手に頼らざるを得ず、金糸も、このように紙でこよりを作るようにして作られていたのだった。
「――すごい」
針よりも細い金糸をつまみ上げて雪麻呂は驚嘆の声を上げた。麻布を織る糸とさほども違わぬ細さである。五瀬はこの金糸作りの技が得意だった。工房では求めに応じて様々な金糸を作ったが、最も細い糸をよることが出来るのは五瀬であった。
「これを、針に通して縫うの?」
「いや、衣の飾りに使うらしい。おれは部外だからくわしくは知らぬが、金糸で形を作って布をかぶせ、飾りをこしらえると聞いたことがある。金はこうして自在に形を作れるし、時が経っても錆びぬから、そういうことに向いているのだよ」
雪麻呂は感心して頷くと、作業台に頬づえをついて金細工の話をもっと聞きたいとねだった。
こうして、雪麻呂が訪ねて来た日は、五瀬はこつこつとたがねを打ちながら、細工の技のことや工房でのこと、都のことなど、ねだられるままに語って聞かせた。雪麻呂はいつも熱心に耳を傾けた。
「おれ、五瀬のように金鍛冶になろうかな」
ある時、雪麻呂がふとそんなことを言い出したことがあった。ひとりごとだと思って黙っていると、雪麻呂は同意を求めるように、槌を置いてそれまで作っていた細工物を五瀬の手元に転がしてよこした。雪麻呂は金細工がすっかり面白くなって、金板の余った切れ端を貰っては、五瀬に槌やたがねの使い方を教わりながら、戯れに貝殻や花弁のようなものを作るようになっていた。
五瀬は転がって来た細工物を手に取って見た。小さな貝である。対馬の海で獲れる何かの貝を模したものらしい。あちこちいびつになってはいるが、この間たがねを取り始めた子供が作ったと考えれは充分過ぎる出来映えだった。
「出来はいいな」
「じゃあ、鍛冶になれるかな」
「ただなあ。金細工を長くやっていると耳を病むんだよ。金の塊を伸ばすのにそれこそ二刻、三刻と打つだろう。その音で耳をやられるんだ。おれはまだ大丈夫だが。――漁夫は嫌か」
「嫌ではないんだけれど」
雪麻呂は口を尖らせた。雪麻呂は父親と共に舟に乗って漁をしているのだが、その父親が、櫓の動かし方から漁具の操り方までいちいち口を出すのが、わずらわしいし腹立たしいのだと話した。幼い頃から父親について海に出ている雪麻呂としてはもう一人前のつもりでいる。しかし父親がそれをいつまでも認めてくれないので、反発を強めているのだった。
「おれは村の連中に負けていないよ。でも父さだけは半人前扱いだ。ほら、山の工房に働きに取られたから、その分同い年の奴らより技が負けていると思っているんだ。でもそんなことはないよ」
話のあとの方は、五瀬には耳が痛かった。
雪麻呂の熱心は気まぐれで、半刻近くも黙り込んでたがねを打っていることもあれば、少し槌を打っただけで飽きて放り出すこともある。細工に飽きると雪麻呂は文机の筆記具をいじってみたり、厨子を開けてみたりして、部屋に置いてある調度をあれこれ見てまわった。
中でも雪麻呂が特に気に入っていたのは、生まれて初めて見る鏡だった。それは大人の手のひらよりふたまわり程大きな銅鏡で、裏には数匹の禽獣が群れ集っている文様が浮き彫りされてあり、以前国麻呂から贈られたものだった。この当時、鏡は貴重品であり、庶民が手に出来るようなものではなかったから、きれいに磨き上げられた鏡面が、雪麻呂には珍しくて仕方がなかった。部屋のあちこちを鏡に映したり、自分の顔を映してじっと眺めてみたり、または灯火を反射させて壁に真丸い光の影を作ったりして、面白がった。
「ねえ、五瀬」
ある時、雪麻呂は鏡に五瀬の横顔を映してしげしげと見入っていたが、急に思いついて言った。
「五瀬は、髭は生やさないの」
「髭?」
突拍子もない話に五瀬は思わず笑い出して、顔を上げた。
「考えたこともなかったな」
「偉くなったんだから、五瀬も生やすといいよ。ほら、国衙の役人も館様も皆生やしているだろう?」
「ふうむ」
「ねえ、次におれが来るまで剃らないでおいて。父さの髭は毎日おれがやってやっているんだ。上手いんだよ。五瀬の髭もやってあげるから」
そこで五瀬は言われたとおり、翌日から顔に剃刀をあてずにおくことにした。老女や下女が「むさ苦しい」と顔をしかめて嫌がるのもかまわず、五、六日も伸ばしたところで、ようやく雪麻呂が訪ねて来た。慣れた手つきで剃刀をせっせと動かして、唇の上にきれいな三日月型の口髭を整えてくれた。しかし、
「何とかという鳥に似ているな」
渡された鏡をのぞいて五瀬は首をかしげた。
「海辺にいて、よく魚をさらうとお主が文句を言っていた鳥がいたろう」
「かもめ?」
「そう、それだ」
五瀬は苦笑した。こうして眺めてみると、五瀬の鼻は少しわし鼻気味で、しかも鼻梁の線が鋭く、鳥のくちばしに感じが似ている。尖った鼻先の下にちょこんと髭が乗ってあると、かもめの、先端が黒いあのくちばしにどことなく印象が重なるのだった。
「本当だ。五瀬はかもめみたいだ」
雪麻呂は転げ回って笑った。みっともないから剃り落とそうと言っても雪麻呂は面白いからと承知せず、とうとう五瀬もあきらめて、雪麻呂と二人鏡をのぞき込んで大いに笑うしかなかった。
五瀬の目の前には平穏があった。そして行く先には明るい希望があると、この時五瀬は確かに思った。故郷へ戻ったら、拝領した土地に屋敷を建てて父や母を呼ぼう。広い田畑を耕し、妻をめとり、雪麻呂のような子を持ち、共に暮らそう。下女も雇い、母には楽をさせてやろう。そして父の体も、良い薬を求めて治してやれるのではないか――。
恐れもなく、翳りもなく、無邪気に幸せを信じることの出来た、短い、しかし真に幸福な日々であった。
* * * * *
日々が穏やかに過ぎ、対馬は夏を迎えようとしていた。
五瀬は国麻呂より酒宴に招かれ、出かけた。実はそれまでも、国麻呂より、館を訪ねてくれるようにとの誘いは幾度となくあったのだった。しかしあの館には、金の精錬でさんざん苦しんだ苦労の記憶が、五瀬にはどうしても深かった。国麻呂が悪いわけではないものの、そうした理由から、招きを受けるたび五瀬は何かと口実をもうけては断って来たのである。しかしせっかくの好意を断り続けるのも心苦しく、また口実も考えつかなくなって、ようやく重い腰を上げたのだった。
迎えの者と共に船で厳原の与良の津を出、五瀬は久し振りに鶏知を訪れた。初めてこの地を踏んだ時と同じように、水田にはみずみずしい青葉が揺れていた。
田の畦に見覚えのある顔が立っていた。ここにいた頃時折菜をくれた農夫だった。五瀬は手を上げて男の名を呼び、挨拶した。男はにこりと笑みを返したが、言葉は何も発せず、代わりにうやうやしくこちらへ頭を垂れたのが、少々寂しく感じられた。
館の広間では着飾った女たちが五瀬を迎えた。五瀬と国麻呂を取り囲むようにしてはべり、酒をついだり、料理を取り分けたりと、きめ細やかにもてなしてくれた。
※しろめ・ハンダなど、金属を蝋づけする合金のこと