第十章 六位の官人(一)
屋敷の修繕はひと月のうちに終わり、五瀬は命じられたとおりに、小屋を片づけそちらへ移った。身の周りの物をひとまとめに背負ったみすぼらしいなりの五瀬を待っていたのは、敷居をまたぐのが気おくれするような立派な屋敷だった。
まず小さいながらも門構えがある。屋敷の入り口はムシロ戸などではなく厚い木戸がはめ込んである。壁は土で塗られ、建物に入ってみるとおもての音も風も内部には入り込まず、深い岩室に閉じこもったようだった。
外観だけではなく、中も立派なものである。厨家や、家人が寝泊りする大部屋、客人を迎える広間など幾つもの部屋に区切られ、廊下がつないでいる。最後に五瀬の私室であるという部屋に案内されたが、その一部屋だけでもう、故郷で父母と三人で暮らしていた小屋より大きかった。下級官人の住まいとしてはごく普通のものなのだが、五瀬の目には、壮麗な宮殿を一つあてがわれたようであった。
「じきに夕げをお持ち致します。それまでゆるりとお休み下さいませ」
屋敷を案内してくれた男はそう言い置いて、部屋に五瀬一人を残し出て行った。彼は五瀬がこの屋敷で使う家人である。こうした家人が数人、それから厨を仕切る老女が一人とすすぎものや繕いものなどをする女たち、そして五瀬の身の周りの世話をする下女として若い娘が一人、この屋敷には住み込んでいた。皆近くの村から徴集された者たちである。
『夢のようだな』
室内をぐるりと見回しながら、五瀬は困惑ぎみにつぶやいた。足の下になめらかな床板の感触がある。ずっと土間敷の小屋に住んでいた五瀬には、部屋や廊下が全て板張りであることも、非常な驚きだった。
室内には調度の類も様々とそろえられてあった。用途のよく分からない飾り壷や、大きな行李、文机。行李には衣が、使い切れない程たっぷりと入っていた。部屋の隅には塗りの厨子まであり、扉を開けてみると小さな釈迦像が鎮座していた。
文机にはすずりや筆などの筆記具が一式、整えられていた。ふと思い出して、以前東人から借用した書物を取り出し、すずりの隣に置いてみた。置いてみるとそれだけで、部屋が急に官人のものらしく見え始め、五瀬は我ながらおかしかった。
文机から立って、奥の寝所ものぞいてみた。帷をかかげ、伸べてあった菅のしとねに横たわった。しっかりと目をつめて編んだ厚いしとねは肌触りがさらりとして、土間にわらを敷いただけのものとは比べものにならない心地良さであった。幾度も寝返りをうって、五瀬はしとねの手ざわりを愉しんだが、これから四六時中、このような豪奢な部屋で暮らすことを思うとどうにも落ち着きが悪く、どことなく心細くすらあった。
翌日、贈物をたずさえて国麻呂が真っ先に屋敷を訪れた。広間へ通し、家人たちに手伝ってもらいながら、五瀬は慣れぬ接待をした。国麻呂はすすめられた盃を干し、そして手ずから五瀬に盃を返しながら、満面に心地の良い笑みを浮かべ、肩を抱かんばかりの喜色を溢れさせて、新しい屋敷の完成と栄進とを何度も祝ってくれた。そうしていると、樫根で掘られた砂が金ではないと報告した時、五瀬に罵声を浴びせ鼻を蹴り折った男と同一人物とはとても思われず、五瀬は国麻呂というこの老人がまた分からなくなった。
その後も屋敷には、主に下県の豪族らが入れ替わり、祝いを述べに訪れた。特に対馬県家は、分家である対馬卜部家の者を占卜の技能者として出仕させており、朝廷とは何かとかかわりがある。下級であれ官人と親しい交わりを持っておけば何かの際には役立つかもしれぬという実利的なもくろみであったが、また一方では、一晩で鍛冶から六位の官人へ出世を果たした五瀬のことは既に島中の噂になっており、話の種にその男をひと目見ようという、田舎者らしい無邪気な好奇心にうながされた部分もあるらしかった。
来客の流れが切れぬうちに年があらたまり、屋敷には、今度は年賀の挨拶の客人が溢れた。ひと月ばかりの間に、五瀬にもしだいに自分の状況を愉しむ余裕が生まれた。思えば、故郷では豪族の者と道で出会うと、急いで道をはずれ近くの藪に身を隠したものだった。身を隠す場所がない時は、道の隅に出来るだけ小さくなってやり過ごした。しかしそうやって目に止まらぬように這いつくばっていても、運悪く相手の虫の居所が悪かったりすると、腹いせに引きずり出されて鞭で打たれたりといったことは、それこそしょっちゅうあったのだった。
その、恐ろしい「豪族」たちが、自分のような生まれの賤しい男の住まいにわざわざ足を運び、丁寧に挨拶などしているのは、やはり痛快な眺めに違いなかった。
「何かの際にはなにとぞお力ぞえを」
そう言って頭を下げる客人に
「承知致しました」
などと鷹揚に答えてみせながら、五瀬は得意であった。
『一族の中で、おれのような出世をした者は他におるまい』
客人らと共に酒を酌み、肴を頬ばる五瀬の胸中には、誇らかな思いが泡の如くに沸き返った。
『人の心とはおかしなものだな』
それと同時に、自分自身を眺めて五瀬はそんなことも思うのだった。この屋敷に移ったばかりの時、立派な部屋を前に五瀬は身の置きどころがなかったものだった。身はしとねの心地良さを感じながらも心は言いようのない不安にかられ、最初の夜は一睡も出来なかった。下県の豪族を次々と屋敷に迎えた時は、どう振舞って良いのかまるで分からず、にこやかに訪れる客人に恐怖すら覚えた。しかし、あれからふた月も経っていないというのに、気づけばこの立派な屋敷に住むことも、豪族を招いての酒宴も、五瀬の心は既に、どこか当たり前のように捉えていた。
「つまり、人というものはどのようなことにも慣れるのだ」
夜、酒を飲みながらふと五瀬はひとりごちた。傍らに座って酌をしていた下女が不思議そうな目を上げた。当たり前といえばこの酒もそうだと、五瀬は独り合点して頷いた。故郷では、酒はほとんど年に一度きり、しかも得体の知れない悪酒を口に出来るのがせいぜいだったのが、今は穀物の酒を当たり前のように毎晩飲み、その贅沢を何とも思わなくなっているではないか。
「酒は器に合わせ如何様にも形を変える」
自分の言葉に自分で悦に入って、五瀬は高く盃をかかげた。
「人も同じだ。貧しくなればいずれ貧しさに慣れ、富めばすぐに贅沢に慣れる。もしも良民が雑戸に落ちたら、やはり雑戸の人生に慣れて行くのだ。人はそのように出来ているのだ」
では雑戸が官人になったならば……? 五瀬は盃を口に運ぶ手を止め小首をかしげたが、すぐに小さく笑った。無論、官人の人生に慣れるだろう。賤民として生まれ生きて来た自分もいずれきっと、官人らしい男に生まれ変わる。五瀬は上機嫌で盃をあおった。傍らで下女の娘は、何か何だか分からぬといった面持ちであった。
* * * * *
屋敷に来客を迎え、時にはよその屋敷に招かれ、客が途切れると気ままに頼まれた金細工の仕事をし、夜は下女の酌で酒を飲み、そのようにして、五瀬の暮らしはゆっくりと過ぎて行った。そんなある日、散歩がてら市などをぶらついて戻って来た五瀬は、門のところに男がたたずんで中の様子をうかがっているのを見つけた。その後ろ姿に、五瀬は見覚えがあった。
「雪麻呂ではないか」
背後から急に声をかけられて、雪麻呂は飛び上がった。咄嗟に逃げ出すそぶりを見せたが、すぐに、声をかけたのが五瀬と気づいて足を止めた。
「わざわざ訪うてくれたのか」
雪麻呂は頷いたが、高価な綿の衣をまとい見違えるように身ぎれいになった五瀬の姿に気後れしたのか、おどおどした様子で口ごもった。そばに寄って、前にそうしてやっていたように頭を手荒いしぐさで撫でてやると、雪麻呂はようやくほっとして白い歯を見せた。
「五瀬が、立派なお屋敷を貰ったと聞いたから。見に来た」
恥ずかしそうに頬のあたりをかいた。
「そうであったか。さあ、入れ」
五瀬は雪麻呂の肩を抱いて門に入った。先に厨家の方へまわり声をかけた。裏口から顔を出した老女に
「何でもいい、美味いものをたらふく作ってやってくれぬか」
五瀬は命じた。老女は頷いたが、傍らの見慣れぬ少年にけげんそうであった。
「おれの弟だ。訪ねて来てくれたのだ」
五瀬はそう言って笑った。
「五瀬は、おれのことなぞ忘れたんだと思うた」
以前と変わらぬ五瀬の態度にすっかり安心したのか、部屋に二人きりになるや、雪麻呂は口を尖らせて文句を言った。
「どうして訪ねてくれなかったの? おれは、五瀬はとっくに都に戻ったんだと思うていた。でも、ここにずっと居たのだろう? せっかく村の場所を教えたのに」
「うむ、そうだな……。まあ何と言うか、あの工房での暮らしはいろいろと辛かったからな。会えばどうしても思い出してしまうだろうし、会わぬ方がおれにとってもお主にとってもよかろうと思うてな」
雪麻呂は不満そうに頬を膨らませていた。
五瀬の言い訳にも嘘がまじっている。山奥の工房での日々を思い出したくないから云々というのは五瀬の都合であって、必ずしも雪麻呂をおもんぱかってとはいえなかった。確かに雪麻呂のことは気にかかってはいたのだが、あの鬱々とした辛さが胸中によみがえって来るのが嫌さに、実際に会うのはどうしても気が進まなかったというのが正直なところだった。しかしこうして顔を合わせればやはり懐かしい。そしてわざわざ訪ねてくれたのはたまらなく嬉しかった。それもまた偽りのない心であった。
「背が伸びたな。幾つになった」
「十四」
以前齢を偽っていたことをすっかり忘れて、雪麻呂は本当の年令を答えた。五瀬は雪麻呂の肩や腕を撫でてみた。背が伸びた分細くなったようにも見えるが、肉づきにはわずかだがたくましさが現れ始めている。それこそ久し振りに会った弟の成長を目の当たりにするような嬉しさがあった。
家人が料理を運んで来た。膝元を埋めたたくさんの皿に雪麻呂は目を見張り、確かめるようにこちらを盗み見た。頷いてみせると、雪麻呂は飛びついて夢中で頬ばり出した。皿を騒がしく鳴らして狼の仔のようににぎやかに、炙った肉や魚を平らげる様を、五瀬は盃を片手に笑いながら見守った。
このように無邪気な時代は自分にはなかったと、雪麻呂を見ながら五瀬はそんなことをつくづくと思った。あれこれとものを深く考えるたちではないくせに、五瀬には幼い頃から、世の中のそこかしこに垣間見える暗さに敏感過ぎるところがあった。人々が雑戸民に向ける侮蔑や蔑みや、時にゆえのない悪意や憎しみといったもの、それらが明確な形をとって目の前に現れるのはもっと後のことだったが、しかし生傷に水や風が染みるように、意識するとせざるとに拘わらず、五瀬はそうした人の心の闇を常に感じずにはいられなかった。幼友達と連れ立って山へ入り野を駆けはしゃぎながらも、心のどこかにはいつも不安な翳りが支配していたような気がする。
無論、雪麻呂とて、人生に苦痛も煩いもあるに違いない。しかし目の前の幸福へ、恐れることもなく身も心も浸しきってしまう無防備な明るさは、五瀬とは無縁のものであった。
『おれが可愛げがなかっただけで、子供とは皆こんなものなのかな』
ふと思った。
『子供というものが雪麻呂のようなら、子を持ってもいいかもしれぬ』
雪麻呂の明るさは心に灯を灯すように思われる。五瀬は今まで家を成そうと思う程睦び合った女もなく、そのためか子を欲しいなどと考えたこともなかったが、初めて、子供を欲しがる者の胸が分かったような気がした。