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第七章 持統と忍壁(三)

      * * * * *


 不比等との間に言い合いがあってから、数日ののち、忍壁は持統の部屋に呼ばれた。


「太政大臣のことですが」


 訪れた忍壁に向かって、持統は切り出した。


「職員令の条文は戻さずに、あのままと致します。これまでの太政大臣の在り方は、新しい律令体制にはそぐわぬものです。何かしら手を加えるべきでしょう」


 と言った。太政大臣の存在が皇位継承の流れを混乱させる恐れに加え、職掌の曖昧であることも、持統が気にかけている点であった。


 というのは、前述のように、太政大臣は、帝を補佐する摂政にして皇位継承の最有力の候補であり、太政大臣に任ぜられることは、皇太子に立つことと同義というのが、朝廷における認識である。しかしそれは、前例に従って人々の内に暗黙裡に了解されているに過ぎず、正式に規定された事項とは言えぬ面があった。


 それは太政大臣という官職の成り立ちにゆえんがある。そもそも太政大臣とは、天智帝が、皇太弟と定めたはずの大海人を押しのけ、嫡男大友皇子を後継に据える既成事実を創出するために考え出されたものという色合いが濃いのである。「最有力の」後継者候補であり、皇太子と「同義とみなされる」という立場の不明瞭さは、大海人と大友の間で苦慮を重ねた天智帝の心の内をそのまま映していると言って良い。


 その結果、現在の太政大臣の職は、大きな権威がありながらその立場は必ずしも絶対ではないという厄介な性質を有しているのだった。その性質ゆえに、朝廷内での扱いもいきおい、難しいものになる。官職が出来てからの三十年余の間に、結局太政大臣に就いたのが、近江朝での大友と、持統の下での高市、わずかにこの二人しかいないところにもそれは表れている。朝廷の方針が、皇位は子孫相承と定まった以上、今後その扱いが更に難しいものになることは日を見るよりも明らかであった。のちのちのためにも思い切って廃するのが妥当であろうと持統は断じた。


「しかしそなたが懸念するように女帝が即位することもあろう。だからその際にだけ、帝の下に摂政として太政大臣を置く。つまり臨時職ということです。そして皇族の官職については、太政大臣に代わる、職掌の明確な官職を設け、これを皇族から任ずるという形にしようと思うが、如何であろう。そなたの考えを聞きたい」


 ――不比等の進言だな。小賢しいことを考えおって。


 新しい体制化で太政大臣に就くという望みはこれでなくなったと、忍壁は心の内で肩を落とした。その落胆には、太上天皇は何故、不比等の言ばかり容れるのかという恨みもまじっていた。


 撰令所で忍壁と不比等が対立すると、持統の裁断が取り上げるのはまず間違いなく、不比等の意見の方であった。不比等は持統派とも呼ぶべき一派の筆頭であるから、律令や執政の方針について、考えが持統と近いのは不自然ではない。が、高市の存命中、持統はその手腕を非常に頼みとしていた。それを良く覚えていただけに、他のことならばいざ知らずこの太政大臣の件に関しては、自らの意見が取り上げられるものと忍壁はあて込んでいたのだった。


『これでは何のために律令事業に加わっているのか分からぬ』


 密かにため息を洩らした。


「忍壁、思うところがあるならば、構わぬ、言いなさい」


 押し黙っている忍壁に持統はうながした。忍壁は床に視線を落とした。逡巡(しゅんじゅん)の影がある。思うところならば確かに山ほどあった。しかしうながされるままにそれを申し述べれば、それは持統の政治方針の否定につながる。不興を買い総裁の任を解かれては、との懸念が胸をよぎったが、


 ――いや、構うまい。どうせ太政大臣の念願は叶わなくなったのだ。


 忍壁は目を上げた。


「ならば、申し上げます。太上天皇は何故、我が父帝の遺された政を軽んぜられまする」


「それは如何なる意味ですか」


「貴女様は中納言の言を容れ、朝廷の執政を貴族官人の手にゆだねようとなさっておられます。中納言は、摂政としての太政大臣の官職は不要とし、今後は廟議が帝をお助け申し上げると述べました。

 しかしかつて父帝は古来よりの有力氏族の合議による政を悪しとし、皇家による政を進められました。それを、太上天皇は今、父帝の意向を軽んじ、暗い過去に政を逆行させようとなさっておられるのではございますまいか」


「忍壁、貴方は誤った目で見ていますよ」


 腹の奥にずっと呑んでいた感情が咽元に突き上げて、忍壁の語調は思わず激しいものになったが、持統は気分を害した様子もなく、椅子に座したまま鷹揚に袖を振った。


「中納言の申しておるのは、かつての合議とは違います。合議を決するのは氏族の利害でした。しかしこれよりのちは、律であり令が、政を規定し決するのです。それゆえに、律令を如何に厳守し、かつ、とどこおりなく用いてゆくか、それが執政の軸となります。

 ですが、そなたも知ってのとおり、律令の条文は千を越える。それを皇家の者だけで動かして行くことは出来ぬ。これからの朝廷は、多数の官人を抱え、それをしっかりと組織して、人ではなく組織でもって政を執り行わねば成り立ちませぬ。律令政治とはそういうことです」


 実際に、唐の政はそのように行われているではないかと持統は続けた。唐のような律令体制の完成こそが、天万豊日尊あめよろずとよすめらみこと(孝徳帝)の代から始まった国造りの根幹である。忍壁は先程、天武の政を軽んじていると責めたが、しかしこれは天武も含めた皇家が選んだ道に他ならないのだと持統に説かれて、忍壁は言葉につまった。しばらく視線を落とし黙っていたが、しかし、と、再び口を開いた。


「しかし皇家が求めて参ったのは、律令政治と共に、国の全ての民と土地を帝が統べる、そうした体制でもあったはずです。貴女様は、官人貴族に権限を与える一方で、皇族の力を削ごうとなさっておられる。帝可愛さゆえに、その即位に異を唱えた者を退けようというのであれば、軽々な断にございます。いずれ帝御自身の力を弱めることにもつながりましょう」


「それはそなたの心得違いであると、わたくしはここではっきりと申しておきます。わたくしは皇家の力を削ぐつもりもなければ、貴族に肩入れもしてはおりませぬ。これまでも申して来たように、全ては律令による政を望んでのことであって、執政の中心が皇家か貴族か、それは瑣末なことです。

 それに、わたくしは帝のことのみを案じて、国政を整えようとしているのではない。わたくしがその安泰を強く願っているのはむしろ、我らの遠い子々孫々です。忍壁、あの血生臭い内乱を覚えておろう。あのような、皇家が互いに血を流し合うような様だけは、たとえ何を犠牲にしても繰り返させぬと、わたくしは硬く決めているのです」


「――つまり、皇家が流して来た血を、今後は諸臣らに流させようということですか」


 一瞬、部屋がしんと静まった。忍壁の鋭い視線が持統を射た。この皇子の、時に水に吸い込まれるように黒く鋭い目が、持統には好ましくなかった。いぶかしげな表情を装って、彼女はさらりとその視線をかわした。


「太上天皇、律令は争いをなくすることは出来ませぬ。成程おっしゃられたとおり、政の実権が官僚組織に移れば、帝や皇家は、長い歴史の中で繰り返されて来た権力争いや流血から解放されるかもしれませぬ。しかし、今度は代わりに貴族の間に、権力をめぐる争いが起こりましょう。しかもそれは恐らく、皇家がなめたよりもずっと陰惨で、終わりの見えぬものになる。貴女様ならば察しがついておられるはずです」


「皇家の血と臣下の血を同列に語ることは出来ぬ」


 持統はずるい。言葉巧みに、忍壁の指摘から逃げた。


「皇家は、この国の柱なのです。もしも皇家が斃れ、血が絶えれば、その時にはこの国も共に斃れる。皇家の血を守るのは、何よりも民のためであり、臣下のために他なりません」


 再び、部屋が静まり返った。


「太上天皇、わたくしは無論、皇家の争いは望みませぬ。しかし、時によっては、皇家が自ら血を流すことも必要であると、思うております。その覚悟を示せばこそ、諸臣も民も帝につき従うのではございますまいか。父帝も御祖父様(天智帝)もまさにそのような方にございました……」


「もはや、そのような時代は終わったのです」


 ぴしりと、持統は忍壁の言葉をさえぎった。声音こそ静かであったが、頬を打つような辛辣さがあった。


「そなたの申すとおりである。我が君も、父も、間違いなく、自らが傷つくことを恐れぬ英傑であった。しかし、そのような英傑が国を統べる時は過ぎたのです。わたくしはこの目で見て、知っている。突出した人物が現れれば、国は乱れる。そして失われれば、国はまた乱れねばならぬのです。もはや終わらせねばなりません。

 これからの新しき世において、国を動かして行くのは器量を備えた大君(おおきみ)ではない。執政の組織そのものです。そうすれば、たとえ世が変わり人が変わろうとも、国は安泰の内に営まれて行く。忍壁、そなたはそこを解しておらぬ」


「……?」


 一瞬、忍壁はいぶかしげに持統の顔を凝視した。それから不意に、忍壁の表情がこわばった。持統が長年至上の目的としてかかげて来た「律令による政」、その本質を、この時彼は初めて理解したのである。


「……官人も、皇族の者も、全ては執政と律令の仕組みを動かすただの駒と、貴女様はそのように考えておられるのですか」


「この国を、恒久の安寧に導くために」


「帝も。帝もまた、一個の駒に過ぎぬのですか」


「そう申しても良い。そなたは父帝の命で史書を編んだゆえ、皇家の通って来た血の道を存じておろう。自ら血を流す覚悟と、申せば聞こえは良いが、あのような惨事の連鎖は、わたくしはあってはならぬと思うている。もはや一足たりとも、後戻りさせるつもりはありません。忍壁、そなたは生まれるのが遅過ぎた。もう、そなたの父や祖父の時代ではない。先程申したことは忘れなさい。何よりも、そなたのためです」


 持統の部屋を下がり、忍壁は廊下へ出た。外はもう闇であった。血が上った頬に、夜風が冷たかった。


 両手をゆっくりともたげ、彼は何かを確かめるように顔を覆った。わずか四半刻の間に、自分がひどく老いさらばえたような気がした。


 忍壁にとって帝とは、幼い頃に怖いような憧れをもって眺めていた祖父、天智帝の横顔であり、そして自ら兵を率いてその天智帝の近江朝と戦った父、天武帝の姿だった。この、大君の名にふさわしい二人の英傑こそが、忍壁が胸に抱き続けて来た帝の姿であった。


 しかし持統は、そのような時代は終わったと言った。国を負い己が手で道を開いて行く英雄は、この国にはもはや必要がないのだった。持統の下で構築され、今不比等が完成させようとしている律令政治と、官僚組織。これからの世、かつては、大君は神にしませば(※)と歌われたはずの帝は、その執政組織を機能させるための、単なる無機的な仕組みの一つに堕ちるのである。確かに持統が願ったとおり、皇家が相食み、血を流し合う事態は避けられよう。しかし


『分からぬ。それは真に皇家が進むべき道であったものか……』


 だがこれは、ただ持統の意志にとどまるものではない。律令政治への移行と、それに伴う帝という存在の変容は、この国の長い歴史を眺めた時、確かに避けては通れぬ必然であったように思われる。持統や、不比等の意向ではない。いわば時という、人間には抗えぬ巨大な流れの意志であるのではないか――。


 自らが憧憬を抱き続けた父であり祖父、この両帝のような帝をもう二度と、この国は戴くことが許されぬのだ。気がついて、忍壁は一瞬、めまいにも似た寂寥と絶望を感じた。


 宵闇に包まれた中庭に人の影はなかった。無人の空間を眺めて忍壁は、ふと、肩を震わせた。新しい世へと朝廷の者がことごとく去り、死者と共に彼ひとりのみが、過去に置き捨てられたように感じたのである。


(第七章・了)

※「天皇は神でいらっしゃるので」天皇に奉る歌の枕詞として多く用いられた。柿本人麻呂「大君(おほきみ)は、神にしませば、天雲の、(いかづち)の上に、(いほ)りせるかも」など

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