第七章 持統と忍壁(二)
「いや、お言葉でございますが、これまでのように太政大臣に過分の権限が付されることは、望ましからずと存じまする」
近江朝廷の悪しき前例がございますと、不比等は落ち着き払って言葉を続けた。
「かつて天命開別尊(天智帝)は、弟君である天渟中原瀛真人尊(天武帝)を後継と定め執政をゆだねられました。しかしにもかかわらず、尊はその約定を軽んじ御自身の皇子を太政大臣の座に置かれ摂政に等しい権限を与えられました。これはまさに朝廷に帝の後継が二人並び立つことでございました。そしてその結果如何様にあいなりましたか。皇太弟の長年の忠勤に対する帝の仕打ちを恨む声は朝廷を二分し、先の内乱(壬申の乱)を招きました。
太上天皇は、あのように朝廷と皇家が二手に分かれて刃を交わすようなむごき戦が二度と起こらぬことを、望んでおられます。しかし太政大臣の職を今のままに置けば、その座にどなたかが就いた時、朝廷は同時に内乱の危うさを孕まねばなりませぬ。それゆえにわたくしは……」
不意に、とうとうと語っていた不比等の声がくぐもるように途切れた。それまで腕を組んでじっと聞いていた忍壁が、いきなり大きな手を伸ばして不比等の口をふさいだのだった。
「お主に、左様にとくとくと語り聞かせられずとも分かっておる」
周りの官人たちが驚き青くなるのも意に介さず、忍壁はひどく穏やかな語調で言った。
「先のような内乱を望まぬのはわしとて同じだ。あの時わしは幼少ながら父君に従い吉野から東へと下り、そののち戦場へも赴いた。戦のむごき様は、お主よりもよく知っておる」
そうやって太上天皇の胸中を代弁しているが、お主はあの戦を肌身で知らぬではないかという皮肉が、忍壁の言葉の裏には含まれている。確かに不比等は壬申の乱にはどのような形でもかかわってはいない。しかしそれは不比等が当時十三という若年であったことに加え――ただし忍壁は十才前後である――、父鎌足も没しており政治的態度を明確に出来る立場になかったためで、兵を挙げた天武の皇子である忍壁とは事情が違う。不比等の、忍壁に向けた視線が鋭くなった。
「皇子、何卒手を退けて下さりませ。お腹立ちは察し申し上げまするが、そのなさり方は中納言様にあまりに非礼でございます」
取り巻いた官人の一人が、見かねておずおずと諌めた。
「案ずるな。非礼なことくらい分かっておる」
忍壁は鼻先でからりと笑ったきりであった。そして不比等はといえば、手を振り払うでもなく、憮然としたまなざしを忍壁に向け続けている。諌めた官人はますます青ざめた。
「――ご無礼を。お許し下さいませ」
怒りの矛先が自分に向くのを覚悟で、思い切って忍壁の手を取り、退けた。忍壁は素直に手を引っ込めた。こういう肝の据わった者には怒りを表さない、忍壁である。
「我が兄、高市のことを思い出してみよ」
何事もなかったかのように、忍壁は続けた。
「兄が、太政大臣として帝をお助け申し上げた七年間の間、はたして朝廷に乱の薄雲でもきざしたことがあったか。そうではあるまい。問うべきは太政大臣という官職にあらず、誰を任命するかである。
こののち、朝廷はいずれ再び女帝を戴くこともあろう。やむを得ず幼帝を戴くこともあるやもしれぬ。その場合、補佐する者として太政大臣の職掌は残すべきだ。それは十年前、太上天皇が兄を太政大臣に任じたことでも明らかではないか。むしろ、今後その職に就く者は、兄高市の、帝への忠勤を見習うべしと書くこそが賢明だ」
忍壁は食い下がった。高市の没後、太政大臣の職は空のままになっている。忍壁は、天武の皇子のうちで現在最年長であり、かつ、こうして律令事業の総裁を務めたこともあり、律令完成の暁には恐らく、今度は自らが太政大臣に任じられるのではないかと見込んでいた。であるというのに、肝心の官職を、何やらしかつめらしいだけの中身のないものにされてたまるかという思いが、彼の中にはある。
「そうした際には、重臣らの廟議が、お助け申し上げることにあいなりましょう。そしてそのためにも、優れた者を今以上に登用致し、朝廷の充実をはかる案を作らせておるのです」
「そこは分かった。だが官人を如何に増やそうとも頭がおらぬのでは上手く運ばぬ。廟儀は左様なものではないか。時には力で断を下す者が要る。――そなたがいつまでも生きながらえて、朝廷を動かしてくれるのならば、こうした憂慮は要らぬが」
持統と文武からの信頼を後ろ楯に朝廷内で確固たる力を築きつつある不比等にもう一つ皮肉を言っておいて、忍壁は足元の机から官職令の草稿を取り上げ、傍らの官人の手に押しつけた。
「太政大臣についてはこれまでのとおりとする。令は書き改めよ」
くびすを返した時、
「皇子、よもや貴方様は、帝によこしまなるお心を抱いておるのではございますまいな」
その背に、不比等の声が飛んだ。
「何だと」
怒気を含んで、忍壁は向き直った。
「もう一度申してみよ」
ぐいと不比等につめ寄った。上背は不比等の方が頭半分ばかり高いが、首や肩が肉づきたくましいため、顎を上げて見上げているはずの忍壁の方が、どうかすると背が高いように見える。
「皇位は子へと相承されるべきものとは、皇子もご承知のはず」
不比等も負けじと語気を強めた。
「それにもかかわらず、貴方様は太政大臣の権威に固執し、手を加えることを拒んでおられます。お分かりになりませぬか。それは帝の座をおびやかし、乱を望むものと同義にございまするぞ」
「中納言殿、お慎みなされませ」
見かねた真人が慌てて、二人の間に割って入った。
「皇子は帝には叔父君にございます。そして、太上天皇、及び先々帝のもとで如何に忠勤に励まれたかを思い起こせば、皇子が朝廷によこしまなお心を抱くはずなどないことは、おのずから見えて参りましょう。
中納言殿、人の心にありもせぬ邪や鬼を見てはなりませぬ。中納言殿が見ておるのは己が心の鏡であると、いずれいわれなきそしりとなって帰って来ぬとも限りませぬゆえ」
婦人のような温かい声で、真人は不比等を諌めた。大宰府長官として外交の場数を踏んで来た真人は、こうした場面をさばくのには慣れている。気を削がれる形で、不比等も忍壁も口を閉ざして黙った。
「――おや、そなた、何の用だ」
入り口の方で声がして、皆そちらを振り返った。扉が少し開かれ、若い女官がおどおどした顔を廊下からのぞかせていた。何事か用事があって来たのだが、室内の殺伐とした様子に腰が引けて、声をかけられずにいたのだろう。こわごわと入って来ると、女官は、皇太后様がお見えでございますと、持統が作業の視察に来ていることを告げた。
やがて数人の女官と共に持統が戸口に姿を見せた。不比等は深く一礼してすばやく歩み寄って迎えたが、既に何事もなかったかのように部屋の隅に行って官人らと草稿に目を通していた忍壁は、一礼したきりその場から動こうとしなかった。自らの気性を、忍壁はよく知っている。持統とはもともと反りが合わぬところがある。加えて不比等への怒りも腹の底にくすぶっている今は、何かのはずみに、今度は持統の顔につかみかからないとも限らない。無礼は承知で、距離を置いて逃げてしまった方が良いのである。
持統は忍壁の態度はさほど気にとめた様子もなく、不比等から新たに綴じ上がった分の草稿を受け取り、紙を繰り始めた。内容についてところどころ不比等に確認しながら熱心に紙を繰り、ひと通り目を通したのち、
「幾つか、条文が分かりづらい箇所がある」
持統は指摘した。例えばここ、と、めくりながら目印に折ったのだろう、端が小さく折られた部分をあらためて開き、不比等に示した。
「言い回しがいささか曖昧で、文が幾通りにも読める。これではのちのち、誤って解釈される恐れもある。書き改める必要はないけれど、注釈を添えるべきかもしれぬ」
「は」
「中納言。あらためて申すまでもないが、条文は遠いのちの世のことまでも考えて作りなさい。律令の作成にたずさわっている我々が死んで、それで条文の意図するものが正しく分からなくなるようでは困る。
百年ののちでも、この律令さえひも解けば国を円滑に営んで行くことが出来る、大仰に聞こえようがそうしたものにしたい。藤原不比等、わたくしの申しておることが、分かっていますか」
不比等の顔が屈辱に紅潮し、頬の肉がわずかに痙攣した。彼は、忍壁などはしょせん凡夫であると腹の底では見下しているから、先程のようにたとえ顔につかみかかられたとしても、犬に小便をひっかけられたくらいに受け流すことも出来る。しかし持統のような才ある人に、律令の何たるかを分かっておらぬとばかりに叱責されるのは、身にこたえた。
「今一度条文を全てあらためさせ、必要なものには注釈を加えまする」
こわばった顔を伏せ、持統の手から草稿を受け取った。持統は部屋の官人らにねぎらいの言葉をかけ、撰令所から退出した。
廊下に出ると、持統は、口元にあてた袖の陰でちらりと笑みを浮かべた。
持統は不比等の才を高く買っている。思考の明晰さ、柔軟さ、判断の機敏さ、そしてその思考力が難題にあい対しても容易に倒れぬ、強靭なものであることも、彼女は非常に評価していた。
膨大な数に上る律令の条文を来年の内に完成させるとは確かに大変な難事業ではあるが、この不比等がその才を存分に駆使すれば必ずや成就出来ようと持統は確信している。
そうしたわけで彼女は、この才溢れる野心家の自尊心を、時に持ち上げてみたり、また時にくじいたりしては、それこそ油かすから更に油を絞るようにして不比等の才能を絞り上げ、思うままに酷使していた。無論、ただ働きさせるつもりはない。律令完成ののちには、過分な栄達をもって、その労に報いるつもりである。
「ご覧になりましたか、中納言様のお顔」
「見ましたわ。怒っていらっしゃいましたね」
男ばかりの気づまりな撰令所から逃れると、持統を囲んでいた女官たちは、息をついたように一斉に喋り出した。
「そうでしょうか。普段どおりのご様子でしたけれど」
「貴女の立っていたところからは見えなかったかもしれませんわ。お顔が赤くなって、ひどく怖い目をしていらっしゃったのですよ。――皇太后様、ああいうお方でも立腹なさることがあるのですね」
「ほほほ、中納言は滅多に腹を立てる人ではありませんからね。でも怒らせるこつがあるのですよ」
「まあ、では皇太后様はわざとあのように。お人が悪うございますわ」
女たちは驚いて目を見合わせ、それから面白そうにくすくすと笑い出した。冷静沈着、朝廷一の才人と謳われる藤原不比等中納言が、どうやら皇太后様の手に遊ばれたらしいことが、若い女官たちにはひどく痛快に思われたのだった。