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第七章 持統と忍壁(一)

 文武四年(七〇〇)三月十五日、令の読習、及び律の条文作成を命じる詔(※1)が、文武帝の下で発せられた。


 編者の選定が完了し、いよいよ律令作成、編纂の作業が開始されたのである。


 編者は以下の如くである。総勢十九名。忍壁(おさかべ)皇子を総裁、藤原不比等を副総裁とし、粟田真人、下毛野古麻呂(しもつけのこまろ)伊吉博徳(いきのはかとこ)伊余部馬飼(いよべのうまかい)調老人(つきのおきな)。直広肆(※2)以上の位階を持つこれらの者に、大学の博士を務める唐人、薩弘格(さっこうかく)を加えた八人が、責任者、兼相談役として様々の調整を行う。そしてあとの十一名の有識者で数冊ずつ担当分を分け、それぞれ下級官人を指揮して、作成編纂を進めて行くことになる。


 刑法である律は条文を作成しなければならない。飛鳥浄御原令下の律は唐からの輸入品をそのまま組み込んだため、国の実情には合っていない部分が多々あった。それを、実用に足るように、例えば書き加え、または削り落として書き直しなどして、条文を新たに作成して行くのである。撰令所には一日中、原稿の修正のためこうぞ紙を小刀で削る音が絶え間なく続いた。


 政の規定である令の方は、読習の作業となる。


 令は持統女帝の下で作成、頒布されて以来、十年に渡り運用されて来た実績がある。そのため一から条文を作り直す必要はないのだが、しかし十年の間に世情と合わなくなった部分や、見直すべき部分はやはりある。つまり読習とは、令の条文を今一度吟味し、訂正や調整などを行う作業であった。


「全ての条文が矛盾なく機能しなければ、律令は働きを成さぬ」


 編纂作業が開始される旨を報告に来た不比等に向かって、持統は、律令はかくあるべしという自らの考えを語った。先の詔を発したのは文武であるが、事業を実際に主導するのは文武ではなく、無論、持統の方である。


 浄御原令の抱える問題点は、国の実情に合わないということばかりではない。律令として整合性を欠いているという欠点も持っていた。令と、借りものである唐律とが整合しないことは当然であるし、令の条文同士ですら、矛盾する箇所が実はあちこちにある。それがしばしば、裁判をはじめ政務をさまたげる要因ともなっていたのだった。


 律令とは精緻に設計された水路の如きものであると、持統は言葉を継いだ。一見複雑に入り組んでいるように見える水路でも、それが精巧に作られているならば、何処か一つの水門を開けるだけで、水は複雑にめぐらされた溝をくまなくめぐり、全ての水車をとどこおりなく回すことが出来る。条文の矛盾を改めれば当然、これまでのように膨大な律令をあちこち参照してまわる必要はなくなる。政も、律令自体も、ずっと円滑に機能するはずだと持統は語った。


 しかし全ての条文を整合させると、そう言ってしまえば簡単だが、ことは持統の言う程易くはない。何といっても条文は千条にも及ぶのである。それを丹念に調べ上げ、互いに矛盾が生じぬよう、少しずつ調整を加えていかねばならない。実に神経のすり減る作業であった。


 加えて、編纂作業の現場にはもう一つ、神経をすり減らされることがあった。


 忍壁と不比等の対立である。


 これについては、まず朝廷をめぐる状況から、順を追って述べねばならない。


 現在、朝廷では有力貴族の官人が強い発言力を持っているが、しかし天武帝によってこの朝廷が開かれた当初は、むしろ天武が押し進めたのは皇親政治であった。すなわち、朝廷の首脳部を、帝と皇后、及び皇子ら、帝の一族で占めるという、その名の如く皇族による独占体制である。


 何故、皇親から貴族の官人へ、朝廷の中心が移ったか、そこには、文武をめぐる皇位継承問題がからんでいる。皇太子であった草壁が病で急逝したのち、持統が女帝となり朝廷を治めたことは既に述べた。この時、彼女は執政の補佐役として、天武の長子、高市皇子(たけちのみこ)を、太政大臣に据えた。


 太政大臣とは、太政官の長官である。司法、行政、立法を司る国家機関が太政官であるから、その長官とは、執政の頭ということになる。これを任命する場合には、皇族から選出することが規定となっていた。


 この官職を考案したのは、かの天智帝だった。天智天皇十年(六七一)一月、自らの息子、大友皇子を太政大臣に任じ、事実上の後継者としたのが初見だが、その原型というべきものは、天智がまだ称制(※3)を執っていた天智称制三年(六六四)に遡る。弟の大海人に、皇太子に順ずる地位と、同等の権限を与え、執政を任せたのがそれであった。


 大海人の時は、皇族が大臣となる前例がなかったため、正式な官位や官職が定められたわけではなかったが、しかし、この大海人と、先の大友、二人の例を見ると、太政大臣というものの性質が、おのずと見えて来る。


 それは、帝と共に国を統治する摂政であり、かつ、最も有力の皇位継承者である。つまり太政大臣に就くことはそのまま、皇太子に指定されることとほぼ同じ意味を持っていたと言ってもよい。


 愛孫、軽に皇位を引き継がせたい持統としては、だから高市を太政大臣にすることにはかなりためらいがあった。しかし女帝が即位した場合は、政治の安定のために摂政を置くことが慣例のようになっており、持統もそれを無視するというわけにはいかなかった。考えあぐねたすえ、彼女は、高市が皇位に就いた時には、必ずや、皇太子に軽を立てるとの密約を交わし、太政大臣に任じた。


 しかし太政大臣となってわずか七年後の持統十年(六九六)七月、高市は病を得、現職のまま逝去してしまう。朝廷は急ぎ、次の後継者を選ばねばならなかった。廟議において、持統は軽を推した。この時軽は十四才、確かに若年だが立太子に不可能な年令ではないと持統は主張したが、彼女のこの断には反対の声が少なくなかった。


 そもそも帝にせよ皇太子にせよ、国に何らかの変事があった際には、朝廷を率いて先頭に立たねばならぬ者である。そのためその座につくならば、それにふさわしい器量と年令でなければならぬというのが、この当時の考え方であった。宮中には、第四皇子の忍壁以下、天武の諸皇子がいまだ健在なのである。それら有力の者を差し置いて、わずか十四の少年を太子に立てるのは心もとないという批判は、特に皇族の間から多く上がったのだった。


 廟議が紛糾する中、皇族から葛野王(かどのおう)が進み出、こう大声で進言した。


「我が国では皇位は子孫相承が神代よりの法である。兄弟間の相続は乱の起こるもととなる。それを思えば、帝の思し召しがたとえ如何様であれ、誰を皇太子にすべきかは既に定まっている」


 葛野王のこの言は、しかし事実ではない。むしろ古来より大和の朝廷で主に行われて来たのは、兄から弟へ、そして兄の嫡子へという兄弟継承の形である。すぐに反論が上がったが、葛野王はそれを一喝し、それを端に廟議の空気は軽皇子を立太子する方へと流れた。


 この葛野王という人は、壬申の乱で敗死した、天智の皇子、大友の遺児である。その血筋ゆえに彼は、天武朝では冷遇に甘んじざるを得なかった。恐らく彼としては、この廟議の席上で持統の意を迎え、自身の地位を向上させようという意図があったのだろうが、しかし「皇位は子孫相承が神代よりの法」とあえて事実と異なる主張をした胸の内は、それだけではなかったかもしれない。


 繰り返しになるが、彼は大友皇子の遺児である。天武と持統は、天智帝が嫡子大友を後継者としたことに異を唱え、兵を挙げ、近江朝を攻め滅ぼした。壬申の乱の起こった時、葛野王はわずか三才であるが、戦いの記憶も、父がその戦いに敗れ自害した記憶も、胸に鮮明であろう。その持統が、今度は天武の皇子らをしりぞけ自身の孫を跡継ぎにしようと躍起になる様に皮肉を感じたとしてもおかしくはない。


 葛野王の心情はもはや分からないが、ともかくも彼の一言が廟議の流れを決し、持統の思惑通り軽は皇太子に立った。この時の功により葛野王はのちに正四位にのぼり、式部卿に任ぜられている。


 廟議は決着したものの、持統と、皇太子、軽皇子への反発は、皇族の内に残った。持統は対抗策として、皇族の者が占めていた朝廷中枢に、有力の貴族を数多く、取り込んだ。官人組織を強化して内政の充実をはかり、若年の皇太子を補佐するというのが表向きの理由であったが、しかしその本音は、貴族官人らを自らの与党とし、反発の声に対抗するところにあった。


 さて、持統に信頼を寄せられ、文武帝のもとに娘を入内させている不比等は当然の如く、持統の与党である。それはつまり、持統の肝いりで現在朝廷中枢に組み入れられている官僚たちの代表と言いかえてもよい。そのため彼としては、これまでの朝廷の流れを更に押し進め、官僚組織が朝廷を動かす、貴族政治を確立させたいと考えていた。


 一方で忍壁は、こちらは皇族たちの声を代表する立場である。彼の思惑は、不比等とは逆に、朝廷における皇族の権力と発言力が強化されるよう、流れを押し戻すところにあった。


 いわば、全くあいいれない思惑を持つ二つの勢力を背後に負っている、忍壁と不比等なのである。律令をめぐる両者の利害は一致するはずがなく、至るところで意見は対立を見た。


 例えば前述の太政大臣の官職をめぐって、忍壁と不比等が激しく対立したことがあった。太政大臣の在り方にかんして、不比等が職員令(しきいんれい)に新たに書き加えた一文に、忍壁が激怒したのだった。


 それは以下の一文だった。


「師範一人、儀形四海、経邦諭道、燮理陰陽、无其人則闕」

(一人に師範として、四海に儀形たり、邦をおさめ道を論じ、陰陽を燮理す、その人なければすなわちけよ)


 意味は

 (太政大臣とは)帝の師範であり手本となる者である。また国家を治め道理を論じ陰陽を調和させる者である。ふさわしい人物がなければ空位とせよ。となる。


 一読すると非常に権威のある官職に見えるが、その実は、太政大臣というものの性質、心構えの如きものが記されてあるのみで、何の具体的な職掌(職務)も、そこには定められていない。


 これまで太政大臣については、前述のような漠然とした共通認識があるだけで、どのような官職であるか、明確な規定はなかったのである。それを令に明文化することによって、その権限は逆に大幅に削減される結果となった。


 忍壁はすぐさま撰令所にのり込み、不比等を詰問した。

※1 みことのり・天皇の言葉、命令

※2 従五位下

※3 即位せず皇太子のままで政を行うこと

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