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第五章 椎根にて(三)

      * * * * *


 防人を十人ばかり引き連れて、武官が椎根にやって来た。前日のこと、漁に出た村人が小島の陰に不審な小舟が隠れるのを見た。新羅の海賊かもしれぬとの報を受け、警備のために樫根の銀山から来たのだった。


 盗賊たちの目的は椎根の村ではなく、樫根の銀山である。が、銀山のある樫根は内陸の奥であり、しかも深い山谷(さんこく)に囲まれているために、椎根にある河口部から佐須川を上って行くより他、道はない。逆に守る側からすれば、椎根に兵を置き、上陸したところを捕えるのが最も守りやすいということになる。


「何事もなければよいが。何しろ相手は鬼畜だから」


 急にものものしくなった海岸を遠目に見ながら、村人は不安げであった。盗賊の一番の目的は銀山を襲って銀石を奪うことだが、それは途中の村々が無傷で済むということにはならないのである。防備が固過ぎるために銀をあきらめ、代わりに付近の村を荒らして帰る者もあるし、行きがけに通りすがりの村に押し込む賊もある。特にこの椎根の浦里は、前述のように上陸地点にあたっているため、賊が出ると大きな災いに見舞われることが多かった。穀物や家財、人が奪われることすら珍しくない。命が助かるなら物くらいくれてやるのだが、しかし殺戮が目的のような気違いじみた輩もいるから、と、村人は言葉の端に恐怖を滲ませた。


 鶏知では、銀山が開かれてから盗人が増えたのが少々困りものだなどと言っていたが、常に海賊の吐く息を耳元に感じて暮らしている椎根の人々は、困りものどころの話ではない。憤る気力も既にしぼみ、まだ日が高いというのに、おびえた様子で家の戸じまりに使う木や石を運ぶ姿があちこちに見られた。


 昼過ぎ、五瀬が御堂で仕事をしているところへ不意に武官が訪ねて来た。何事かと恐る恐る出て行くと、武官は、都の話を聞きに来たと、呑気なことを言った。


「都の話、でございますか」


「おう、左様じゃ。わしはここへ来てもう三年にもなる。懐かしゅうてならぬのだ。おぬしはつい昨年来たばかりというから、わしの知らぬ様子など知っておろう」


「はあ。しかし都と申しましても、我は飛鳥谷の工房しか存じませぬが」


「なに、都の話であれば何でも構わぬ」


「貴方様の望むような話が出来るかどうか」


「構わぬと申しておろうが。さっさと語らぬか」


 武官の後をついて村のあちこちを歩きながら、五瀬は工房で耳にした巷の噂話などを、思い出しては語って聞かせた。それは、ある村で雀が黒い雛を産み、吉兆であると噂になったとか、または、とある木に季節はずれの花が咲いたというので人々がこぞって見に出かけたとか、そんなどうでもよい話ばかりで、五瀬は、武官が今に怒り出すのではと内心ひやひやしたのだが、しかし聞いている武官の方は、怒るどころか機嫌良さそうに口元を緩め、時には笑い声まで上げていた。どうやらこの男は、都のにおいをまだ体に残している者が語る「藤原の宮城」とか「都の大路」といった懐かしい言葉が聞ければ、それで充分に満足らしかった。


 話を続けながら、二人は海岸の方まで来た。砂浜に防人の兵士が二人、簡単な肩あてと胸あてをつけ、弓を持って立っていた。見張りである。武官の姿に目を止め、姿勢を正してから一礼した。


「お主。東国者と話したことはあるか」


 防人たちをちらりと見て、武官が訊いた。五瀬はないと答えた。


「ないか。それは幸いだ。連中は何を言うておるか分からん。口をきいておると苛立ってしょうがないからな」


 武官は鼻先で小さく笑った。


「奴らは菰をケメと言う。恋しをクフシと言うし、小枝はコヤデだ。しかもその音がいちいち奇妙と来ている。今もって慣れるということが出来ぬ。奴ら、見た目はわしやお主のような大和人と変わらぬが、やはり人ではないな」


 蔑んだ視線を今一度、海を見張って立つ防人たちに送り、武官は体を揺すって大きな笑い声を響かせた。


 雑戸の体には生まれつき、穢れた血が流れている。それゆえに下層民に落とされているのだと、五瀬たちは繰り返し、嘲られたものだった。雑戸の卑しいことは、いわば神が定めたもので、幾らあがこうともそれは決して変わらないのだと教え込まれ、五瀬もそれを疑うことなく来た。


 しかし、鶏知で五瀬は、賤民どころか普通の良民と変わらぬ遇を受けた。それは対馬の人が雑戸民を知らぬゆえであった。


 そして今、都から来た武官は明らかに、良民であるはずの防人たちを、雑戸である五瀬の下に置いていた。それは異郷の良民よりも大和の雑戸の方に、より親しみを覚えたという、ただそれだけのためだった。


 如何にも愉快そうに蔑みの笑いを響かせる武官の横顔を、五瀬は複雑な思いを呑んで見つめた。


      * * * * *


 その夜、眠っていた五瀬は、深い闇の向こうから沸き起こった遠音に、耳を覚まされた。小さくて明確には聞き取れぬが、様々の物音が雲のようにまじり合い、もつれ合って、切れ切れに耳に触れて来る。不安を覚え五瀬は急いで身を起こした。扉をわずかに開けると、闇が冷たく鼻先をかすめた。辺りがとりあえず平静なのを確かめてから、三船が寝ている小屋へ走った。


 草をめくって声をかけると、三船は既に目を覚ましていた。


「盗賊が来たらしいな」


「おれもそう思って呼びに来た。今夜は堂に来い。こんな小屋じゃひとたまりもないぞ」


 三船を連れて御堂に駆け戻り、五瀬はぴったりと扉を閉ざした。閂の類がないため、せめて開きづらいようにと、扉の間に仕事に使うへらの先を打ち込んだ。


 闇にふさがれて耳が研ぎ澄まされて来ると、音が徐々に明確になった。やはり大勢の人間の怒号である。かすかだが金属のぶつかり合う音もまじっていた。


「おれが童の時分、隣村が賊に襲われたことがあったよ。あの晩のことを思い出すな」


「何だ。都はもっと穏やかかと思うておったが」


「いや、むしろ物騒かもしれん。どこそこに盗賊が出たという話はしょっちゅう聞こえて来た。おれたち雑戸の村は貧し過ぎるゆえ、襲われたことはなかったが」


 藤原京の造営に大勢の民を動員した結果、田畑が荒れ、村を捨てて逃亡する者が都周辺で相次いだということは、既に述べた。しかし村を捨てたとて、彼らに行くあてがあるわけではなかった。歌や踊りや、何か芸能に秀でていれば、乞食になり、国々を流浪することも出来たが、大抵は盗賊になるより他なく、そのために都には多くの盗賊が跋扈していたのだった。


「やはり浜の方だな。こっちまでは来るまいが」


 三船が耳をそばだてた。


「昨日、件の武官について浜へ行ったのだ。あそこで殺し合いをやっているかと思うと、嫌な気分だ」


 叫び合い、斬り合う音は、闇の底から、時に湧き上がり、時に滲み上がっては、波が引くようにまた消える。大きくなり、小さくなり、近づいたと思うと遠ざかった。そのまま、長い、息のつまるような時が過ぎ、一晩中夜を冒し続けた物音はいつしか、しじまに溶け入るように去った。


 三船が立って、扉を薄く開けた。五瀬も一緒に、そっと表を窺った。朝の透明な光の中に静寂だけがある。扉のきしむ音が大きく響き、すぐ消えた。


 出てみると、それぞれ家の外に様子を見に出て来た村人の姿が、ちらほらと見えた。一様に安堵の面持ちであった。互いの無事を喜び合い、荒らされた畑などがないか調べているところに、知らせが届いた。海賊が一人、捕えられたという。恐れと好奇心のまじった目をしばし見交わし、村人たちはぞろぞろと広場へと向かった。五瀬も三船とそのあとに続いた。


 広場には広兄の姿が既にあった。皆が固唾を呑む中、武官が鎧兜に身を固め馬に打ちまたがって悠々と姿を見せた。あとに二人の次官と防人の兵が続いた。賊は列の最後尾にいた。両手を胸の辺りで縛り上げられ、縛った縄は長く伸びて兵士の手に握られていた。家畜に縄をつけて連れ歩くのに似た有り様だった。


「賊は追い払った」


 広場の中央に馬を止め、武官は鞍上から誇らしげに叫んだ。広兄が進み出、礼とねぎらいの言葉を述べてこうべを垂れた。


「賊の処置は如何様になりましょう。国衙に連れて行かねばならぬのでございましょうか」


 広兄は訊いた。それについては自分に一任されている、と武官は言下に答えた。


「対馬県、お主に決めさせてやっても良い。彼奴をどうする」


「では死罪を望みまする」


「奴婢にする手もあるぞ。お主の財になる」


 広兄はきっぱりと拒絶し、あくまでもこの場で賊を処刑することを望んだ。この椎根の村は今まで幾度となく新羅の海賊にむごい目に遭わされて来たのだと、広兄は怒りを抑えた声で語った。財を奪われた者、家族の命を奪われた者は幾人になるか分からない。かく言う広兄の父も、盗賊から受けた刀の傷がもとで、命を落としていた。


「わが屋敷では今年、父の法要を行います。それを前にこうして賊が捕らえられたことは父の導きにございましょう。血で償わせ、供養と致したい」


「よかろう」


 広場に、奇妙な光景が展開された。村人を下がらせ広い空間を作ると、盗賊の男が中央に引き出された。続いて一頭の馬が引かれて来た。首をねじり、盗賊は馬を見た。それからゆっくりと首を回し、遠巻きに取り囲んでいる村人をぐるりと見渡した。そのとき初めて五瀬に盗賊の顔が見えた。尖った鼻筋と、鋭い大きな目を持った若者であった。長い眉や目じりが不自然に吊り上がっているのは、大きな目を更に見開いているためであろう。食いしばった薄い唇には、しかしまだ幼さが残っていた


 手首から伸びた縄の先が馬の鞍に結びつけられた。兵士がひらりとまたがり、馬に鞭をあてた。ゆっくりと馬が駆け出した。縄に引っ張られるために盗賊の若者も走らねばならない。馬上の兵士は手綱を巧みに操り、馬の足を徐々に速めた。若者は必死に走ったが、やがて速度について行けなくなった。もんどりうって倒れ、地面をずるずると引きずられた。そのまま広場を一回りして、馬は止まった。


 兵士が何か叫んだ。立て、と言ったのだろう。若者は言われるままに立ち上がった。再び、馬が走った。徐々に速度を速め、よろめいた若者を引いて同じように広場を回り、止まった。


 馬の足が止まると、若者は今度は自分から立った。倒れたはずみに打ちつけたのか、むき出した歯に血がしたたった。馬上の兵士を振り仰いだ目は蛇のように鋭かった。赤々とした怒りの色が燃えた。


 それから何度となく、若者は馬に引かれて走り、倒れては引き回された。白い頬は汗とほこりで黒く汚れ、衣はあちこち血が滲んだ。若者がなぶられるのを、取り囲んだ村人たちはじっと凝視していた。浴びせられる罵声もなかったが、その代わり哀れみのまなざしもなかった。感情を殺した注視に、かえって人々の憎悪が凝っていた。


 新羅の若者もまた、一声も発しなかった。人々の視線の中、うめき声もたてずに犬のように走らされ、引きずり回された。朝の明るい陽光の下で、広場に二つの憎悪が対峙していた。財や家族を奪われた者の憎悪と、いたずらに命を弄ばれ、屈辱を与えられ続ける者の憎悪と。遥か遠くの梢で、小鳥が軽やかに鳴き交わすのを、五瀬の耳は聞いた。


 何度目かに地面をわら人形のように転がされたあと、若者の力は尽きた。両足をあがかせ縛られた手で地面をかきむしって、彼は意地になって立ち上がろうと試みた。が、尻がわずかに持ち上がっただけで、砂ぼこりの中に倒れ伏した。


「立たぬか」


 兵士が縄を手荒に引いた。若者の体は動かない。ただ、うつぶせになった背が呼吸だけはしている。


「もう、よかろう」


 見守っていた武官から、声がかかった。は、と短く答え、兵士は鞍から降りた。腰に帯びていた刀をすらりと抜いた。


 若者が、地面から顔を上げた。ほこりまみれの顔のすぐ前に、抜き放った刀身の切っ先があった。肘を突っ張り、よろめきながら若者は渾身の力で立ち上がった。刀を見て逃げ出そうとするかと思えば、そうではなかった。顎を上げ、目を見開いて、彼は処刑人の目をぐっと見据えた。


 兵士の手が若者の肩をつかんだ。刀が一閃し、左の脇の下から真横に、深々と体を貫いた。若者の大きな目は食い入るように、兵士の目を覗き込んでいた。やがて、一度、それからまた、一度、目は瞬きをした。支えを失ったわら束のように、若者の体はひとかたまりに地面にくずおれた。


 周りから防人の兵士が歩み寄り、両足をつかんで広場から死体を引きずり出して行った。なりゆきをじっと見守っていた村人たちは、それぞれ小さなため息を残し、背を向け黙然と立ち去った。わずかの間に、村の広場はまぶしくなり始めた朝日の満ちる、普段どおりの光景に戻っていた。死体が転がった土の上には黒いしみが名残をとどめていたが、すぐに陽光に乾き風に散ってしまうと思われた。


 五瀬は皆について広場をあとにし、しかし御堂には戻らずそっと村はずれの雑木林に歩を向けた。踏み荒らさされた草の跡をたどり、ようやく、樫の木の下に打ち捨てられた死体を見つけた。こぶだらけの根を枕に若者は窮屈そうに横たわっていた。頭が大きく反り返り、ここまで引きずられて来る間にとけた髪が、黒い血のように頭の下に広がっていた。両手が縛り上げられたまま、胸の上におとなしく乗っている様が、どこか滑稽であった。


 若いむくろの傍らに、五瀬は膝をついた。この名も知らぬ若者に、五瀬は十五の時の自分を重ねずにはいられなかった。罪人として兵士になぶり殺された様はそのまま、磐来を殴りつけたために大人たちに叩きのめされた五瀬の姿であった。殺されて行く盗賊を、怒りの感情も見せず眺めていた村人の目はそのまま、血にまみれて倒れた自分を見下ろしていた大人たちの目であった。


 若者の目は倒れてなお、見開き空を見つめていた。そのおもてに苦悶の色はなかった。しかし、それは死んで安らぎを得たのではあるまい、苦痛と屈辱に耐えて魂をすりつぶしたのだろうと、五瀬は思った。


 五瀬は手首の縄を解き、目を閉じさせてやった。硬直は始まっていないはずだが、若者はなかなかまぶたを閉じようとはせず、半ば無理矢理閉じさせねばならなかった。しばらく死に顔を眺めていたが、ふと気がついて、天を仰ぎ任那の祝詞を低い声でうたった。血をたどれば兄弟であるかもしれぬ、新羅の若者であった。三田一族の祖霊が降り、何卒この者の魂を海の向こうへ運んでくれるように――。梢に閉ざされた木暗(こぐら)い天へ、五瀬は遠く、祝詞をうたい上げた。

(第五章・了)

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