第四章 持統の思い(一)
都の藤原京では、文武四年(七〇〇)の正月が明けた。
前の年、宮中には不幸が相次いだ。七月には天武の第六皇子、弓削皇子が二十七才の若さで薨去した。次いで九月には天武の妃であった新田部皇女が、そして十二月にはやはり天武の妃であった大江皇女が、共に病でみまかった。大江皇女は、弓削皇子の生母である。息子を失った心痛が、もともと病がちであった皇女の命を縮めたのである。
皇家を立て続けに襲った不幸は、宮中に目に見えない不吉の雲を広げていた。一昨年は金の発見という吉報に沸き返ったばかりであっただけに、凶兆の感は余計に、藤原京の人々には強かった。三者の殯(※1)は未だに続いており、宮中は何かと繁忙であったが、そのような忙しさは心をかき立てる糧にはなり得ない。いきおい、華やかさとは程遠い初春の明けであった。
弓削皇子の夭折もさることながら、持統の心にことさらに深い影を落としたのは、新田部皇女と大江皇女の死であった。新田部と大江は、天武の妃であったと共に、天智の娘でもあった。持統とはつまり異母姉妹なのである。父と夫を同じくして生きた二皇女が、わずか三月余りのうちに続けて薨じたことは、持統の心に、まるで両の腕を切り取られたような痛みと心細さとを、与えずにはおかなかった。
『人にとって親の血は重いものだ。そして女性にとって夫はこの世の誰よりも密に近しい者だ。その二つを共々に同じうした、わたくしと皇女であるもの。大江と新田部の死に、そのままわたくし自身の死の影を垣間見てしまうのは無理からぬことではあるまいか。この頃の鬱々とした心持は、ただ悲しみのせいばかりではなく、そのためでもあろう……』
ようやく律令の編纂事業が動き出したというのに、重く沈んで一向に奮わぬ我が身が、持統には腹立たしい。自らに冷徹な分析眼を向けることで、ともすれば苛立ちがちな心を落ち着けようと努めるのだった。
鬱とした心の翳りゆえか、年明けてからの持統は、椅子にもたれてものを思うことがしばしばとなった。いや、それはもの思いとは少し様子が違っていた。くさぐさの記憶はあたかも刺客のように常に背後に寄り添っていた。そして、ふと、心が虚となった一瞬を突いて、それは心に忍び入り体を満たしてしまうのだった。疲れのあまり自制が効かぬまま沈み込んで行く眠りに、その感覚は似ていた。
今も、持統は窓近くに寄せた椅子に肘を突き、ぼんやりと思いを巡らせている。大納言、大伴御行を部屋に呼んでおり、その来訪を待っているのだったが、みなもの浮き草のように記憶の中を漂う彼女の脳裏からは、そのことはすっかり忘れ去られていた。
日没が間近い。開け放った窓の外は木々の葉にも建物の柱にも、塗りつけたように夕映えが赤かった。
『血濡れの色だ』
持統の唇がつぶやいた。彼女の精神は、朱を見ればほとんど本能的に、血を思わずにはいられない。事実、持統の華やかな人生を折々に彩って来たのは、匂やかな花の色でも、あでやかな衣の色でもなく、鮮烈な流血の色であるのに違いなかった。
* * * * *
持統が生まれたのは皇極五年(六四五)、父である天智帝――この当時はまだ中大兄皇子といった――が、朝廷の重臣であり、政の事実上の執行者であった蘇我鞍作臣入鹿を大極殿にて暗殺した、あの乙巳の変の起きた年であった。
入鹿暗殺の急報に、入鹿の父、蝦夷は己の命運を悟り屋敷に火を放って自害した。始祖、武内宿禰以来朝廷の重臣として、また皇家の外戚として力を振るって来た蘇我本宗家は一日で斃れ、大極殿に流れた血と、甘樫丘を焼いた炎とで、飛鳥の一帯は朱に染まった。
しかし、これで流血が終わったわけではなかった。乙巳の変のあと、叔父孝徳帝を戴き皇太子となった天智は、政変からわずか四月の後、謀反の企てありとして、出家し吉野に隠遁していた異母兄、古人大兄皇子を討った。古人大兄は、入鹿が後ろ楯となって次の帝に推していた人であった。入鹿・蝦夷の縁故の者や、朝廷に反発する勢力が、古人大兄を奉じて叛乱を起こすことを危ぶんだ天智が、先手を打ったのである。
この時持統は生まれたばかりの乳飲み児であったから、一連の出来事は何ひとつ、覚えてはいない。しかし、多くの血が流されたこの皇極五年という年に生を受けたことは、宿命的に持統の人生を朱の色に染め上げずにはおかなかったように思われる。
持統が五才の年には、孝徳朝の重臣である蘇我石川麻呂が、天智からやはり謀反の嫌疑を受けて妻や息子共々自害した。天智の舅であり、持統にも祖父であった人である。持統の目に残っているのは、事件そのものではなく、父の死に、身が裂かれんばかりに泣き叫ぶ母、遠智媛の姿だった。そしてその日以来、幼い少女にとって母は遠い人となった。父の悲運を嘆き悲しむあまり遠智媛は次第に心を病んで行ったのである。持統の心もまた、抜け殻のようになり果てた母を慕うことは出来なかった。四年後、遠智媛は正気を取り戻さぬままに、亡くなった。
しかし持統の心に最も強く灼きついている血の影は、孝徳帝の嫡男である、有間皇子の事件だった。その当時、孝徳帝は既にこの世になく、天智は、母、斉明を女帝に戴きその皇太子として、政を執っていた。そうした頃であった。
あの冬、斉明女帝をねぎらうため、朝廷の者がうちそろって紀の国の温湯へ湯治に出かけたのだった。南紀の荒々しい自然はさほど好もしくも思われなかったが、重臣から妃、奥仕えの女官まで顔をそろえて遊山に出かけるというその目新しさ、物珍しさは、持統の心を明るくときめかせたものだった。紀温湯で過ごした日々は間違いなく、持統の少女時代で最も幸せな時間だった。
祖母の斉明や姉と共に、持統は行宮近くの浜へ遊びに行った。他にも幾人か、妃や女官などが一緒であったような気がする。姉の大田皇女は波しぶきのすぐ間近まで寄り、打ち寄せる波を待っては逃げて遊んでいたが、持統の方は岩に打ちつける太く重たい波音が怖くて、遠くからただ見ていた。
「何にでも度胸を見せる貴女が、今日はどうしたの」
大田はおかしそうに幾度も持統を誘ったが、持統は結局波打ち際に寄らず、砂の乾いた辺りだけを行き来して、袍の裾に貝殻を集めることに熱心した。
「きれいね」
貝拾いの手を止め浜を一望して、持統は心の底から陶酔した。視界いっぱいに広がる澄んだ冬空の下、女たちは思い思いに着飾り、女帝を囲んで無邪気に遊び興じている。美しい平穏に身体を洗われて、しかしふとその時、持統は瞳を曇らせた。
幼い頃から彼女の心は一つの癖を持っていた。心身が幸福を感じると、咄嗟に次に訪れる不幸を予見し、固く身構えてしまうのだった。この時も、明るい昼下がりの砂浜で、持統の胸はゆえ知らずざわついた。そしてその胸騒ぎは的中した。翌日、飛鳥より馳せ参じた使者は、謀反を企てたかどにより、有間皇子とその側近らを捕えたことを告げたのであった。
宮中が空になったところを衝いて飛鳥の皇居を焼き討ちにし、かつ、水軍で淡路の海を封鎖し女帝はじめ朝廷の主だった者を紀の国に足止めして、都を制圧しようというのが、有間の弄した策であったという。その話を聞き、持統は夫、天武のもとへ有間の助命に走った。
持統は、有間と特別に親しかったのではない。つやのない色白の頬と物憂げな瞳を持った青年の面影は、少女の持統の目に印象的に映えはしたが、しかし持統は幼い頃より、年頃になれば叔父の大海人皇子――天武のこと――に嫁ぐのだと言い聞かされて来た身であった。そして一方の有間は、身は酒色にふけるのに忙しく、心は自らの憂いを覗き込むのに忙しくといった有り様で、まだ年端も行かぬつぼみに花の香りを見る余裕など持たなかった。そうしたわけで、二人の間には恋愛の如きものに発展し得る、如何なる感情も芽生えようがなかった。
持統が助命に走ったのはだから、有間に対する親愛ゆえではなかった。あえて言えば持統の理性が、彼女を走らせた。
「有間様は無実です」
天武の膝にすがって持統は訴えた。
「謀反の話をお聞きになったでしょう? あのようなずさんな策でまことに都を奪えるとは思えません。有間様はそのような愚かな方ではありません。これは何者かが、有間様を陥れようと描いた筋書きです。なにとぞ、罪を免じて下さいますよう、父上に進言なさって下さいませ」
持統の訴えを天武は困ったように聞いていたが、やがていたわるようなしぐさで持統をそばに引き寄せ、菟野(※2)、と、一言、声優しく呼んだ。
「朝廷を乱さぬため、世を治めるためには、やむを得ぬのだ。兄上を責めてはならぬ」
あっと息を呑んで、持統はこの事件のからくりを何もかも理解した。有間は天智と不仲であった。また以前から、朝廷の政に公然と批判を口にしてもいた。先帝の嫡男である有間には、皇位の継承権がある。影響力の決して小さくない有間が現朝廷に反発を抱いているとは、確かに危うい事態であった。不満分子が有間を帝として奉じ、挙兵することもあり得るのである。しかしだからといって、無実の人に罪を負わせ、しかも大儀のためにはやむを得ぬとは、人を統べる者の行うべきことではないと、持統は憤りを覚えた。心の中でどうしても、父を蔑まずにはいられなかった。
しかし。のちに持統は、蔑んだはずの父と同じ道をたどることになる。
薨去した天武の殯の場で、姉の大田が天武との間に遺した息子、大津皇子を捕え、謀反の疑いありとして処刑したのである。
息子、草壁と同様に天智帝の直孫という血統を持ち、かつ朝廷内での人望も厚かった大津は、天武朝においては常に、草壁に次ぐ立場にあった。つまり皇太子となった草壁を脅かし得る存在だったのである。
とは言うものの、持統は始めから大津の存在を危ぶんでいたわけではなかった。天武が自らの後継と明言したのは草壁である。しかも草壁の後ろには皇后たる持統がいた。それにひきかえ、大津は幼いうちに母を亡くしてしまっており、後ろ楯という点においても、二人は比較にならぬはずであった。しかし、天武の薨去が予想以上の動揺となって朝廷に広がるのを見た時、持統の中に大津を生かしておくことへの危惧が生まれた。
天武帝を父に、天智帝を祖父に持ち、年令はわずかに一才違いという具合に、よく似かよった星の下に生まれ落ちた草壁と大津だが、その気質は、二人はまるで正反対であった。
草壁は、文武に受け継がれたものが示すように、細やかで心静かな人となりであった。一方、奔放で闊達な、英雄の風とも呼べる気性を持っていたのが大津であった。
皇子たちの中では大津が自分に最も似ていると、生前天武は語ったことがある。また存命の頃には天智もまた、大津の文武の才を褒め、可愛がったものだった。それは、夫も、父も、大津に自らの姿を重ね、愛したのに違いなかったが、しかし持統は逆に、大津の中に躍動する英傑の気宇にこそ、危険を感じた。
彼女に言わせれば、英雄的人物は諸刃の剣なのだった。確かに英傑は世を導く一条の光である。父も夫も、まさにそのような人生を送った。しかし、よりしばしば、そうした人物はむしろ世を乱し、破壊する元凶にもなり得る。英雄とは乱れた世に救いとして現れるのではない。英雄の気宇を抱く者が現れた時、その壮大な英気に世が否応なく巻き込まれ、混乱にみまわれるのだと、天智、天武という、まさに不世出の英傑を身近に見、共に生きた持統は思うのだった。
この国はもはや動乱の時代を乗り切り、平穏の中で円熟して行かねばならぬのである。天武の死でただでさえ動揺している朝廷に、大津のような者がいてはならぬ。動乱の目に見えぬ雲が集まり出す前に、禍根は絶たねばならぬと持統が心を決するまでに、さほどの時は要らなかった。そして方策については、かつて父が目の前で示してくれた。大津が死を賜ったのは、天武薨去からわずかにひと月ののちだった。
※1 貴人の死体を、葬る前に棺に納めてしばらく安置して行う儀式
※2 持統の実名