多木浩二(たきこうじ)「消費されるスポーツ」解説
◆まとめ
〇「アメリカのスポーツ」
…「産業社会の中で発生してきた「大衆」を基盤にして形成され」、「大衆消費社会と切り離せない」。
「大衆」による「スポーツ」の「日常的」な「消費」。
「スポーツの消費」=「そこから生じるエキサイトメント(興奮)の消費」・「物語の消費」。「読書や芸術のように知的な苦労なしで消費できる娯楽」
・「大衆」…一般市民や労働者を指す。
・「大衆消費社会」=大衆による、大量生産+大量消費
・「消費」…この文章で用いられる「消費」は、ごく簡単に言うと「楽しみ・楽しむこと」の意味。
〇「野球、アメリカンフットボールなどのゲーム構成は、まことに消費に向いていた」ため、「すぐにビジネス化(商品化・商売化・収益化・利益化)できる」。
・ベーブ・ルース…「ビジネスとしてのスポーツから現れた」「ヒーロー」。「次々と記録を塗り替え」、「ファンを熱狂させた」。
「スポーツ産業」・「あらゆる企業」は、「その大衆的人気を」「広告に利用」。
〇「スポーツでは、ヒーローを生み出す前に、まず観客が生み出されなくてはならない」とは?
「大衆を観客に形成する上で顕著な効果を持つのはメディアであ」り、「アメリカ」のような「広大な国」では「遠隔の地に住む人々がゲームの結果を知る方法はメディアを介してしかなかった」。「スポーツ」が「メディアとともに発達してい」く場面では、「スポーツ・オーガナイザー、観客、メディアが手を携えて関連し合って」おり、「そのどの一つが欠けてもアメリカのスポーツは成り立たな」かった。
→メディアと観客が強く関連しあうことによってスポーツは成立・発達したのであり、その土台の上にヒーローは生まれたということ。
〇「メディア・テクノロジーの発達」
…「アメリカのメディアとスポーツの関係の歴史と現状」
1、新聞…「最初のメディア」。「ヘミングウェイなど有名作家によってコラムが書かれるようになり、それらは特に野球の周りに神話的な雰囲気を作り出すのに役立っていた」。
2、ラジオ…「スポーツの報道についての最初の画期的な出来事」。「目に見えないだけにいっそう、想像力を刺激するメディア」。
「日本人が初めて海外からのスポーツ放送を聞いたのは、ベルリン・オリンピックのとき」。「人々の想像力を喚起する(呼び起こす)アナウンサーの語りは特殊な能力である。これは時として扇情的な(欲望をあおる)言説(説明・言葉・表現)になりかねない。ベルリンのときの有名な「前畑がんばれ。」の絶叫はナショナリズム以外の何ものでもなかった」。
「メディアとの関係が深まるにつれて、スポーツは完全に商品としての情報」になった。
・「ナショナリズム」…民族・国家の統一・独立・発展を目指す思想・運動。
3、テレビの登場
「一九六〇年代以後の中心的なメディアになっていく理由」
①「人口の郊外への移動」
②「映像を操作するテクノロジーの発達」…繰り返し、スロー、停止
③「スポーツ番組をめぐるテレビの競争」の「激化」
→テレビの「権力」化…スポーツへの「要求」の「押しつけ」。
=「情報の性質、その重要度、メジャーかマイナーかなどの分類」・「社会的定義」を「押しつけ」、「社会から我々が受け取っている情報全体の中で、スポーツが占める位置を与えている」。「位置づけ」・「階層化」。「その力はルールにも及ぶ」。
→「人々はメディアによる情報の分類を、常識的な知のカテゴリーとして無意識に受け取るようになる」。
〇「日本でもメディアはスポーツの観客を新しく産出し、観客のスポーツの消費を方向づけつつ、スポーツを社会的な現象にしている」とは?
(答) メディアは(スポーツに影響力を持ち)スポーツを社会の中で位置づけている・社会の中の重要な出来事のひとつと定めている ということ。
〇「スポーツはイギリス社会に生まれ洗練されてある形式を持つようになった(基本的な形が作られた)後、アメリカ社会を通過する(スポーツとメディアの結びつき)という大きな経験によって、もう一度大きな変化を被った」。
①「新種のスポーツが生まれた」
②「スポーツなるゲームが大衆消費社会という新しい次元(位置)に展開するようになった」。
〇「スポーツは、社会のどんな層で動く(に影響する)表象なのだろうか。表面だけだろうか。それともはるかに社会の深部にあるのだろうか。あるいはスポーツと社会の関係はまったく違った視線で見なければならないのではないだろうか」。
「メディアによるスポーツの観衆」=「社会全体に拡散した不確定な集合が」、「メディアによって」「形成される」。
「競技場での観衆」は、「異なる時空間」に存在。
〇「集合」=「集団」
種目によって「異なる集合」、「チーム」によって「異なる集団」。
→「その集合は実体(実際の存在)的に固定したものではな」く、「砂が崩れるように解体してゼロになる」。この、「集団の生起(生まれること)、消滅という現象(様子、あらわれ)」によって、「スポーツが社会を可視化(目に見えるように)している」。
※スポーツの観客集団が形成されたり解体したりする様子を通して、我々は社会を具体的に見る・知ることができるようになった、ということ。
「もはやスポーツが社会から生まれるというより、社会の方がたまたまスポーツに触れることで可視的な集合の形式(存在)になり始めているのではないか」。
〇「社会」=「どこにもア・プリオリ(先天的、以前から)にはなく、また定義する(そのように定める、規定する)必要もない。スポーツもその一つの活動であるような、さまざまな活動の総体(総合・総合体)として発見できるような何ものかである」。
※社会は様々な活動でできあがっており、スポーツも、社会の大事な構成要素の一つとなった、ということ。
・「多元的」…様々な角度から。さまざまな要素を。
「もともとは社会が近代スポーツを生み出した」
→「反転」→「現在のスポーツはメディアを介して(通して)観客を含む社会的出来事(現象)そのものとして生み出されている」。
※スポーツは、メディアによって形成された、観客を含む社会活動の一つである、ということ。
そもそも「社会とはこれに類するいくつかの形式の活動をしている(=「多元性」)からこそ、社会であるのではないのか」。
さまざまな「多元」的「活動」の「交錯(入り交じる)」→「社会は単一化しては把握しがたい奥行きをかいま見せる」。
「この活動形式(=スポーツ)の中に」「形成された観衆の視線の中に、我々は個々の競技者の身体が躍動し、エキサイトする観客が群れをなし、余暇を利用してテニスやエアロビクスに打ち込む人々の実践(実際の様子)を発見している」。
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