第38話【実体なき脅威】床に残る“靄”と剣が捉えた空白。魔術顧問を待たず、セブンは独りその存在に挑む
【前回までのあらすじ】
王妃前室でエリシアと警備兵二名が同時に倒れ、セブンの手に入れたばかりの日常は一瞬で崩れ去った。
三人を襲ったのは、姿も音もなく“気配だけが通り抜ける”という、人の理を外れた存在。
前室に残された痕跡はゼロ――セブンは不可視の侵入者の正体を探るため、最前線へと再び引き戻される。
「エリシア殿も……同じ瞬間に倒れたはずだ」
二人の証言は完全に一致していた。 姿は見えず、音もない。
ただ“気配”だけが通り抜け、その瞬間に三人同時に意識を失った。
これは物理的な襲撃ではない。しかし“何か”が前室を通ったのは確実だった。
背後でガルド隊長が静かに言葉を落とす。
「セブン。お前の聞き取りは十分だ。この二人の証言は“前室で何が起きたか”を知る上で重要だ。次は――前室そのものを確認してくれ」
牢であった時以来、その存在を忘れかけていた“影”を思い出す。
影はこの世界の観測者であり、干渉はできないはずだ。しかし、それも自分自身の想像に過ぎない。
今はまず状況把握だ。前室の中をくまなく調べることに決めた。
前室の扉をくぐった瞬間、空気が変わった。
冷たく、静かすぎる。まるで“何かが通った後”だけが残っているような、不自然な静寂。
俺は前室を調べ始めた。足音を最小限に抑え、視線を床から天井まで走らせる。
扉、壁、家具、装飾品、そして王妃の部屋の扉の周囲まで。
ガルド隊長は後ろで黙って見守っている。
調査の結果、争った形跡はどこにもなかった。家具も装飾品もすべて“いつも通り”で、倒れた拍子に物が落ちた跡さえない。
王妃の部屋の扉は内側から施錠されており、無理やり開けた痕跡もなかった。王妃殿下は無事で、室内にも異常がないことは報告済みだ。
だが、床の一部。
そこには薄い、靄のような跡が残っていた。触れても消えないが、物質でもない。光の反射がわずかに歪んでいるだけの、何かが通った軌跡。
さらに空気の流れが不自然だった。密閉空間に近い前室に、風が通った後のような揺らぎが残っている。
音もなく、姿もなく、ただ通り抜けただけの存在。それはカインとヨルンの証言と合致していた。
調査を終えたセブンに、ガルド隊長が声をかける。
「……セブン。何か“変わっているもの”はあったか」
隊長は事件の解決を求めているのではない。ただ、前室警備兵としての報告を求めていた。
俺は見聞きしたそのままを、忠実にガルド隊長へ報告した。見たもの、感じた違和感、そして二人の証言。一切の脚色なく言葉を尽くした。
隊長は言葉を遮らず、一つひとつを噛みしめるように聞き、最後には深く、低く息を吐いた。
「……なるほど。三人同時に“気配”だけで意識を落とされた、か」
隊長は腕を組み、床に残る靄のような痕跡へ視線を落とす。
「争った形跡なし。侵入の痕跡なし。王妃殿下の部屋も無事。だが――“何かが通った”痕跡だけが残っている」
隊長が向き直る。その目は鋭いが、セブンを最も信頼できる報告者として見ている。
「セブン。お前の報告は正確だ。助かる。この状況は……“人間の仕業ではない”可能性が高い」
隊長はそこで言葉を切り、声を低くした。
「だが、お前に追わせるつもりはない。これは“内部監察”と“魔術顧問”の領分だ。お前は前室警備兵として、見たものを報告すればそれでいい」
影への疑念はセブンの胸の奥で揺れていたが、隊長は彼が深入りしないよう、明確に線を引いてくれた。
「セブン。お前の任務は変わらん。前室の安全を確保し、異常があれば報告する。それだけだ」
隊長は前室の扉を見つめ、短く命じた。
「今から魔術顧問を呼ぶ。お前はその間、前室の外で待機していろ」
ガルド隊長の指示は明確だった。
「“影”のような存在が再び通る可能性もある。そのときは――感じたままを報告すればいい」
「わかりました。これよりカインとヨルンに代わり前室警備にあたります。もう一人必要ですので、誰か手配をお願いいたします」
その言葉を聞いた瞬間、ガルド隊長がわずかに目を細め、すぐに力強く頷いた。
「……助かる、セブン。お前が前室に立ってくれるだけで、状況が一つ締まる」
隊長はすぐに周囲へ指示を飛ばした。
「おい、そこの二名! セブンの補佐に一人つけろ。経験者を優先だ! カインとヨルンは医務室へ運べ。魔術顧問が来るまで触れるな!」
兵たちが迅速に動き出し、一人の兵士がセブンの横に駆け寄った。
「セブン殿、補佐に入りました。指示をお願いします!」
若いが、その目に怯えはない。前室勤務の経験もあるリオという男だった。セブンは軽く頷き、前室の入口へと立った。
前室の内部は封鎖され、王妃の部屋の安全は確認されている。ガルド隊長は後方で指揮を執り、魔術顧問の到着を待つ。
前室に立った俺の胸の奥には、二つの懸念がひっかかっていた。
訓練された近衛兵であるカインとヨルンは、体力が戻ればすぐに回復するだろう。だが、同じ瞬間に倒れたエリシアがいまだ意識を失ったままなのが気にかかる。
そして、相棒のライエルはどうしているのか。彼女が大変な時に、そばにいてやれないのだろうか。
セブンがほんの一瞬だけ視線を落とすと、ガルド隊長はその気配を察したように低い声で応じた。
「カインとヨルンは問題ない。すぐ復帰できるだろう。だが……エリシアはまだ意識が戻らん」
隊長の声には、普段の厳しさとは違う重みがあった。エリシアは単なる侍女ではない。
王妃の側近であり、兵たちからも深く信頼されている。彼女が倒れたままという事実は、現場の士気にも影を落としていた。
そして隊長は、セブンが名を口にする前にその先を告げた。
「ライエルなら……王妃殿下の部屋の中にいる」
俺の脳裏に、あの皮肉屋で、それでいてエリシアのことを何かと気にかけていた相棒の顔が浮かぶ。
「エリシアが倒れたと聞いて、真っ先に駆けつけたが……“前室にとどまるな”と俺が止めた。今は王妃殿下の護衛に回っている」
ライエルは、エリシアのそばに行きたくても行けないのだ。王妃の安全が最優先されるこの状況下で、不安定な前室へ彼を出すわけにはいかない。
「……あいつは心配している。だが、任務を放り出すような男ではない。エリシア殿の容体が安定したら、すぐに知らせるつもりだ」
隊長の言葉に、少しだけ落ち着いた。
「セブン殿……前室、異常なしです」
若い兵が緊張した声で報告する。セブンは深く息を吸い、視線を真っ直ぐ前へ向けた。
エリシアのことは気になる。ライエルのことも気になる。だが今は――前室警備兵としてここに立つことが、結果として二人のためにもなる。
「わかった。リオ、警備にあたろう。お前はそっちに立ってくれ」
俺が指示を出すと、リオは「了解しました」と短く答え、指定された位置へとすっと移動した。俺もいつも通りの“前室警備の構え”を取る。
(この騒ぎだ。すぐに二次被害は起きないだろう。だが……王妃殿下を守るため、警備は常に万全でなければならない)
俺はただ、警備を続ける。職務に忠実に。考えることは山ほどあるが、自分の仕事を完璧にこなすことこそが、今の王宮のためになる。
背筋を伸ばし、呼吸を整え、ただ職務に集中する。
「……セブン殿が隣にいると、不思議と落ち着きますね」
リオの声は小さかったが、それは偽らざる本音だろう。
後方から、ガルド隊長の声が届く。
「……セブン。そのまま持ち場を頼む」
短く、だが深い信頼の滲む言葉だった。セブンが立っているだけで、隊長はこの場を任せることができた。
前室の空気がわずかに揺れた。
風ではない。音でもない。気配ですらない。
ただ、“何かが遠くで動いた”ような、極めて微細な変化。
隣に立つリオが、小さく身じろぎした。
「……セブン殿、今……何か……?」
次の波が近づいている気配。
隊長は「内部監察と魔術顧問の領分」だと言ったが、リオの不安に呼応するように、セブンの五感もまた、何者かの気配を捉えていた。
(これは……魔術か? 魔物か? それとも……あの“影”か?)
「セブン殿……やっぱり、何か……いますよね……?」
リオは震えてはいなかったが、訓練された兵士としての本能的な違和感を捉えていた。
一瞬、空気が“波打つ”感覚が走る。風でも魔力でもない。ただ存在だけが通り抜けるような、あの時と同じ質の揺らぎ。セブンの背筋がわずかに粟立つ。
「リオ! “何かがいる”……来ている! すぐに隊長を呼べ、ここは俺に任せろ!」
セブンの鋭い声に、リオの顔から血の気が引く。しかし彼は訓練通り、即座に身体を反転させた。
「は、はいっ! すぐに隊長を!」
リオが走り去る背中を確認すると同時に、俺は剣を抜き放ち、下段に構えた。
金属の冷たい感触が掌に伝わる。その瞬間、前室の空気がセブンの構えに反応するように、さらに激しく揺れた。
目には見えず、音もない。だが、確実に“そこ”にいる。
生き物の気配ではなく、ただ、“存在”だけがそこにある。
セブンは剣を握り直し、前室の中央へ一歩踏み込んだ。
瞬間、空気が物理的に押し返してくるような錯覚に陥る。圧力ではない。
ただ、そこに“何か”が立っているのだ。剣先は、その見えない空白を正確に捉えていた。
(……いる。確実にここにいる)
それはセブンを見ているようで、見ていないようで、ただそこに在るだけのようでもあった。しかし、確実に前室を通り抜け、奥へと進もうとしている。
王妃の部屋にはライエルがいる。エリシアは倒れたまま。今、この前室を、二人を、王妃を守れるのは自分一人だ。
「ここは通さん!!」
気配に押しつぶされぬよう、意識的に声を張り上げる。それは恐怖を払うためではなく、一人の近衛兵としての確固たる宣言だった。
俺は剣を下段から一気に振り上げた。 何かを斬れるとは思っていない。
だが、牽制にはなるはずだ。
踏み込みとともに振り上げられた剣は、そのまま上段へと構えを変える。
前室の空気が、まるでセブンの叫びに呼応するように震えた。 剣先が向けられた空間は、存在感を増していく。
セブンの構えに合わせるように、その“何か”が、わずかに動いた。
(押しつぶされるな……! これは気配じゃない。“存在そのもの”だ……!)
『…………………』




