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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

蓮蛇

作者: quiet




「あなた、不思議な顔をしているのね」

 鱗にまみれた私の顔を撫でる女の手は、白く、柔らかく、労苦を知らないひとつの肉だった。

 春の宵のこと。

 私の住む神沙我池に現れた最後の贄は、盲目の、その地の姫だった――。




 生まれたとき、他の兄弟よりもずうっと身体が大きかった。どころか、蛇の身体に似合わぬ手足までもがついていた。その巨体のために虐げられることはなかったが、疎外されていた。そのことについて、今頃どう思うということもない。寂しさというのは、ただ独りという状態が自然でない生き物だけが覚える感情だ。しかし今にして思うのは、私は生まれながらに不安だったのである。蛇の腹から生まれ、蛇の同胞を持つ私が、まるで蛇に似ていない。そのことは、最後の最後まで私の心に毒滴のように痣を残した。

 母は神沙我池のある山一帯を縄張りとする大おろちだった。その体長といったら、山の中の最も古い木をぐるりと二巻きするほどだったが、それほど間を置かず、私はその大きさを通り越した。母は山の主に相応しい獰猛な気性の蛇で、同時にそれは、子を守る親の熱するような執着心を意味していたが、私は守るべきか弱い子には見えなかったらしい。

「お前は蛇ではなく、大蛟なのかもしれないね」

 母と言葉を交わしたのは、そのたった一度だった。ひょっとすれば忘れているだけで、もっと話したこともあったかもしれないが、どうせ記憶に残らないようなことなのだから、話していないのと同じである。蛟、というのが蛇に四足のついたかたちをした水辺の妖であることを、結局私は母からではなく、私を信仰する人間たちから知ることになる。

 不思議と、飯を食う必要はなかった。腹が空かないのである。だから、近くの村の人間どもが差し出す人柱などというのにも、手を出したことはなかった。

 ほんの二度三度のことである。山歩きの猟人とすれ違った。その二度三度が百季節ほどの間を空けたからかは知らないが、いつの間にやら人は、私を恐れるようになった。祠を建て、祀り、日照りが来ればそこに訪れるようになった。

「どうぞどうぞ、水神様。雨をお降らせくだせえ」

 そうして小汚い人間が手をすり合わせる行為を『祈り』と呼ぶことも、それで知った。何度か、ひとりでその『祈り』とやらをやってみたことがある。両の手を合わせて、擦る。一体何が楽しいのかわからなかった。

 私に雨を降らせる力などはなかった。ただ物を食べず、足があり、大きいだけ。それだけのことが、何を天に働きかける力になるのか。蛇の変わり物である私にわかることが、あの二足の生き物たちにはわからないらしかった。

 雲行きが怪しくなったのは、殿様、と呼ばれる男が現れてからである。城、と呼ばれる整った住処に、外から人が住み越して、日照りになるとそのたび大げさに喚き、神沙我の池を訪ねにきた。

「ううむ、これは……」

 山から見える城というのがとても大きいものだったから、てっきりそこに住む殿とやらも巨大な生き物であろうと思っていたが、まるでそんなことはなかった。きれいな布を羽織った、痩せた小男だった。

「この神沙我池というのは、濁り水の上に咲く蓮の花が何とも清らかで素晴らしい。蛟が住むというのもあながち嘘ではあるまい」

 神沙我の池は、周りの土が柔らかいから、いつも泥に汚れている。その上には蓮の葉がぷかりぷかりと浮かんでいて、春になると花をつける。殿という小男は、ちょうどその春に来て、仏だなんだとよくわからない話をして、最後にはこう言った。

「どれ。ここはひとつ、贄を出そうじゃないか」

 初めは兎だった。

 祠の前に、手足を縛られたそれが、赤い皿に乗って奉じられたのである。

 生来、物は食べない。放っておいたらその兎は死んで、死ぬまでの間にいくらかの雨が降った。

 それがどうも、いけなかったらしい。

「兎が死んでいるのに、雨が降らない? 贄が足りなかったのだろう。次は鹿を出せ。だめなら猪だ」

 雨の降る降らないと贄は何の関係もない。

 ただ、兎が死ぬまでの、鹿が死ぬまでの、猪が死ぬまでの月日が流れていく間に、たまたま日照りが終わり、たまたま恵雨が降るだけだった。

 しかしそれに気付かない。二足の生き物たちは、ある大暑、とうとう猪の死んだのの次に、同族を差し出してきた。

 若い女だった。真っ赤な皿に乗せられて、祠の前に置いてきぼりにされた。

 初めの頃は、母と、父と、それから誰か男の名を呼んでいた。二日もするころにはそれは呪いの言葉に変わり、死に際にはただ、たすけて、とだけ呟いた。十数日ぶりの雨が女の唇を濡らしたときには、もう言葉は発せなくなっていた。

 そのことがあってからは、もう兎も鹿も猪も犠牲になることはなくなり、代わりに初めから女が出てくるようになった。殿とやらが代替わりしたらしい、というのはそのときに知り、山の主も母から兄弟の孫に代わっていた。

 そして、最後の女がやってきた。

 その女は赤い皿には乗せられていたが、手足を縛られていなかった。てっきり逃げ出すものだろうと思ったのが、日が落ちる頃になっても身動きもしない。祠の前に置かれた贄には、どうしてか山の獣どもも手を出さなかったが、それでも闇が降りれば普通の人間は怖がる。が、女はまるで一言も発しなかった。ただ落ちついて、そこに座ったままでいた。

 興味が湧いて、近づいた。

 私は生来、足音が軽い。山の獣は私が近づくことに気付かないし、土の震えを聞く兄弟すらも、ほとんど私の居場所を見破れない。

「誰か、そこにいるの」

 が、女は私を見破った。そして気付いた。この女の目に、光はなかった、初めから見えないのである。それゆえか、私の足音すらも聞き分けた。

 私は、語る言葉を持たなかった。人と話すことなど、したことがない。すると女は、すう、と手を伸ばして、私の鼻面に触れた。

「あなた、不思議な顔をしているのね。蛇かしら」

 ただそれだけ。娘が言ったのはただそれだけだったが、私はこの娘の死ぬまでここで見ていてやろうと思うようになった。

 うれしかったのかもしれない。女の声が、あまりにも無邪気だったから。この身体、この生まれは、者どもを畏れさせたが、親しませることはできなかった。山の蛇に生まれながら、しかし山の蛇の仲間ですらない。孤独は感じなかったが、不安は感じていた。私は私自身の居所を、何も知らなかった。その私を蛇と呼んで、蛇の中に置き据えた女の言葉が、ふっと心を軽くさせた。

 女は一方的に話した。

 自分がこの地の新しい殿の娘であること。生来目が見えず、縁談も進まず、まるで厄介者だったこと。この日照りを機に、領民からの支持を得るためにこれ幸いと差し出されたこと。

「ひどいわよねえ。あなたもそう思わない?」

 苦しい境遇だろうに、女の言いぶりは軽かった。むしろ、面白がっていそうな口ぶりですらあった。

 これまでの人柱と違い、女は誰の名も呼ばなかった。誰に恨み言も言わなかった。私に語り掛ける口調は甘く、やわらかく、ある日私は堪えきれずにこう言った。

「ああ、まったく。ひどい話だ」

 それからはもう、堰を切ったようだった。

 女はときに声高く笑い、大げさに驚いた。話し慣れしない私の話をそうして面白がったのは、きっと女自身、話すことが滅多になかったためでもあったろう。そして私は楽しかった。私を奇妙な蛇と思い続ける女の、素朴な口ぶりが私の心をいたく擽った。

「逃がしてやろうか」

 だから、その言葉が出るのも当然のことだった。

「私がお前の世話をするよ。たかだか百年にも満たない寿命だ。最後まで、何不自由なく暮らさしてやる」

 いい考えだ、と思った。

 私は生来物を食べない。が、物を殺せないわけではない。この女の目となり、手足となり、最後まで喜ばしてやるのも無理なことじゃないだろう。そしてこの女も、最後まで私を喜ばせる。私を蛇と呼んだ女は、私を友として扱うようになる。そうして、私の居所はとうとう定まる。それがいいと、そう思った。

 が、女は首を振った。

「いいのよ。もう」

「何がいいんだ」

「あなた、私を食べなさいな」

「なぜ」

 驚いて訊くと、女は悲しげに首を振って、こう答えた。

「だってもう、あなたが可哀想なんだもの」

 そのときに、わかった。

 女の目は確かに見えなかった。だが私は蛇の寿命を超えて生き、もう目に見えるような生き物ではなくなっていたのだ。光の見えない女には、光でできていない私の姿が、初めから見えていたのだ。女は初めから、じっと私を見つめていたのだった。

「なりたいものがあるのに、なれていない」

「そんなことはない」

「ならどうして隠すの? 大きな身体があって、手があって、足があって、どうしてそれを隠すの? あなたはただあなたであるのに、あなたであることを嫌っている」

 それは、と言葉の先が定まらなかった。女は私の鼻面を、泣きそうな顔で撫でた。

「何も食べずに生きるなんて、悲しいことだわ」

「どうして」

「傷がないっていうのは、何とも繋がっていないということだもの」

 女の手は滑らかで、傷ひとつ、ついていなかった。

 そうして私は、女を食らうことに決めた。

 どうせなら美しい場所で死にたいわ、と女が言うので、背に乗せて神沙我池まで連れていってやった。生まれた場所に美しさを覚えたことはなかったが、春の宵に、蓮花は盛りに咲きほこり、月の明かりに濡れていた。

「花を取って」

 ここに至って、女は自らの欲を露わにすること甚だしく、背に乗る間には私の鱗を一、二枚剥いでは自分の瞼に貼り付けて、池に着いたと言えば、蓮が見えないと言って私にそう求めた。

 水面に前爪を滑らして、一輪の花を取ってやれば、女はそれを両手に乗せて、顔に近づけ、胸一杯に匂いを嗅いだ。

「泥の匂いだわ」

 女はその花びらの一枚を毟って、口の中に放り込んだ。

「私きっと、手を汚したの、初めて」

 ほら、と言って平手を翳したのに、私は吸い寄せられるようにして、自分の手を合わせた。

「手のひらにまで、鱗があるのね」

 女はくすくすと笑った。私自身、手のひらにまで鱗があることを、初めて自覚した。女は鱗の一枚一枚を確かめるように私の手を擦った。『祈り』について、久しぶりに思い出した。両の手を合わせて、擦る。私はこの女こそが、私の逸れた片手なのかと思った。けれど、すぐにそうではないとわかった。女の手つきは、違う。ただ私にとっての『祈り』が、ふたりでするものであるだけの話であった。女にとってもそうであればいいと、願った。それで『祈り』のすべてがわかった。

 一番輝く星がその身を水面から消す頃に、女は身を投げた。蓮の花を押しのけて、泥にまみれた水の中に、白い肌を汚して飛び込んでいった。私はそれを追いかけて、大口を開けて、初めて生き物というものを頭から食らった。思いがけないほど胃腑に重みは残り、そのまま神沙我の池の底で眠るうち、その春が過ぎ、夏が逝き、秋が暮れ、冬が溶け、やがてまた春の宵になり、私は目覚めた。泥の中で我が身を見下ろすと、四足を纏っていたはずの鱗が消え、滑らかな、毛のない白い肌の生き物に、私は変じていた。すぐ傍には、四足の蛟の抜け殻があった。

 泳ぎ上がって見ると、あの日の蓮がそのままに、また池の水面に咲き誇っていた。あの日とそっくり同じように見えて、それは知らぬ間に咲いた花に違いなかった。戯れに、一輪を嗅いでみたくなり、その茎に手を伸ばすと、ほろりとひとひら、千切るでもなく蓮の花が落ちた。吸い寄せられるようにしてそれを目で追えば、水面に私の顔が映る。そこには死んだはずの、盲目の女の顔があった。

 死を悼む。私は初めて得た瞳で涙を生み、初めて得た瞼で涙を流した。月影にそれが乾けば、水面から足を上げ、神沙我池を後にした。もう祠に、赤い皿はなくなっていた。



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