津見と伐
「なるほど、後はどれだ?」
「下の、二つです」
美華は早くも諦めて隼人に全てを預けてしまう。考えを切り替えれば、これは二人きりで街中を歩ける唯一の機会だ。彼女は一度きりでもそうなれるのならと、気持ちを切り替えていた。
「そうか、だからあの路地を抜けようとしたのか」
隼人は紙片に書かれている内容から、彼女のおおよその行動経路を把握したようだった。
「今回で懲りたら、二度と危ない所へは行かないようにな」
「はい、でも殿下に会えるのなら、もう一回ぐらいは怖い思いをしても、平気かな」
「毎回、助けられる訳ではない。そういう期待はするな」
苦笑混じりで隼人は受け答える。上目遣いで彼の表情を盗み見た美華は少し落胆した。あまりにも女心に鈍感なので、気疲れが押し寄せたのだ。
「……と、ここか」
「あ、私、行って来ます」
目的の店まで来たので、美華は店内へ急いで入って行った。努めて速やかに彼女は表で待っていた隼人の元に戻って来る。
「お待たせしました」
「何、俺が勝手について来ているのだ、気にするな」
隼人の答えは彼女に新鮮な驚きを与える。今までの為政者とは違う匂いを彼女は感じ取っていた。お使いの必要物を全て揃えた彼女は、隼人と並んで治療院への道を歩き始める。彼は愛姫に用事があるので目的地は同じだ。二人の間に暫く沈黙が続く。それを破ったのは美華だった。
「あの、殿下……」
「ん、何だ?」
無造作に隼人は返答する。
「殿下と院長の関係って、一体……?」
美華にとっては、ずっと気になり続けていた問題だった。
「そうか、一般には知られていないのか」
隼人はその質問に後頭部を掻く。美華の内心は乱れたままなので早く回答が欲しかった。
「俺と愛姫……、だけではないが、陛下や真津侯、八山侯、閣軍師は、ちょっと前までこの島を巡る冒険者をしていたんだ」
「冒険、者?」
「そうだ。聖院長の技術はその冒険で磨かれた実戦的な技術だ。だからこそ、陛下は彼女に治療院を任せたんだ」
「そうだったんですか」
美華はそれで隼人の強さの秘密を知ったような気になった。それと愛姫の技術の裏付けも。但し、彼女が質問していた本来の回答は得ていない。
「では、殿下と院長の関係は、その冒険の時の仲間なのですね?」
「そうだ」
隼人は大きく頷いた。美華は内心、ホッと胸を撫で下ろす。現金なもので、そうと分かると彼女は微笑みながら彼に話し掛けた。
「良かった~。じゃ、殿下には好きな方とかは今……」
「何を言っている。俺は陛下と婚姻する予定だぞ。三ヶ月前に告知したではないか」
「え? あ、そうでした」
苦笑混じりに告げられた彼の言葉に、美華はしゅんとなる。その態度でおおよそを感じ取った隼人は彼女の頭を優しく撫でた。
「お前は充分に可愛らしいのだから、俺以外でもっといい男を見付けられるだろう。そう落胆するな」
「は、はい、有り難うございます」
思いもかけぬ言葉に彼女は真っ赤になると、足早に彼との距離を引き離した。
「わ、私、急いでこれを届けますので、これで失礼します!」
「ああ、気を付けてな」
既に治療院、丘の上の神殿が見える距離まで来ていたので、隼人は彼女をそのまま見送った。美華は早足から駆け出して、神殿下の階段までやって来る。
「殿下は、やっぱり素敵な人」
走っただけではない激しい動悸に、彼女は胸を押さえた。チラリと後ろを振り返り、隼人がゆっくりと向かって来ているのを確認してから階段を登り始める。
「可愛らしい、か……」
先程言われた言葉を反復して彼女は照れた。嬉しくてたまらない。
「うふ、殿下の為にも、頑張らなくっちゃ」
治療術に対する熱い情熱も湧き上がって来る。彼女は軽やかな足取りで階段を登り切ると、真っ直ぐに院長室へと向かった。
「只今、戻りました」
「ご苦労様、ちょっと遅かったけど、何かありましたか?」
院長室で書類の決済をしていた愛姫は、仕事の手を休めて彼女に尋ね掛けた。
「はい、途中で殿下に会いました。今からこちらにいらっしゃいます」
「今から?」
愛姫は報告されて慌てて机の上を片付け始めた。あまり散らかす方ではないが、それでも接客時に机の上へ書類などを常置させておくのは、彼女の美意識が許さない。
「何の御用か聞いていないの?」
「院長代理には嬉しい知らせだと思います」
満面に笑みを浮かべる美華に、愛姫は小首を傾げるだけだ。問い質そうとした所へノックの音が響いた。
「院長代理、柴津王殿下がお越しです」
「通して頂戴」
愛姫の言葉に従って扉が開く。美華はそそくさと部屋の隅へ移動した。開かれた扉から堂々とした足取りで隼人が入って来る。彼は懐から書類を取り出すと、その文面を読み上げ始めた。
「辞令だ。本日付けをもって、聖愛治療院院長代理を、正式に治療院院長とする。八牙帝王葦原瑞穂発布。受け取り給え」
愛姫は差し出された書類を訳も分からないままに受け取った。改めて文面を読み返す。
「院長代理から、院長に……?」
「おめでとうございます!」
間髪を入れず美華が祝賀の言葉を述べた。しかし愛姫はその辞令を隼人へ返そうとする。
「わ、私には院長の重責を引き受けるだけの実績がありません。この話はなかったことに」
「愛姫、陛下の命令に従わないつもりか?」
「そうではありません。ただ、院長の舞さんが……」
彼女の懸念はそこだった。治療院院長は旭野舞、先の盟主の妻であり、彼女に治療術を教えてくれた人物だ。現在は日郷侯として八多橋に邸宅を構えているが、実績としては彼女の方が上だ。
「その件に関しては心配無用だ。姐上は快く愛姫に院長を任せると言っていた」
「でも……」
それでも彼女は峻巡した。そこへ畳み掛けるように隼人は言葉を重ねる。
「受けなければ、推挙した姐上の落胆も大きいだろう」
「推挙?」
愛姫は驚愕の眼差しで隼人を見詰める。彼は慌てることなく言葉を紡ぎ出した。
「そうだ。先日、上屋治療士見習いの提案を陛下に伝えようとしたのだが、それよりも先に陛下より相談を持ち掛けられてな。内容は今言ったように、姐上からの推挙の話だった。周囲がお前の努力を評価しているのだ、受けなければ皆の期待を裏切る結果に繋がるぞ?」
彼の言葉に偽りは感じられず、愛姫は辞令に目を落とす。次に彼に向けられた彼女の視線には力強い光が籠められていた。
「謹んで拝命致します。誠心誠意、治療術を伝えると陛下にお伝え下さい」
「分かった。今の言葉に偽りのないように」
隼人がそう告げると、愛姫は深々と頭を下げた。それを見届けて、彼は退出して行く。彼が退出すると、すぐに美華が彼女の元へ駆け寄った。
「院長、頑張りましょう!」
「そうね、美華も普段通りに戻ったみたいだし、これからも頑張って行きましょう」
「はい!」
院長室に朗らかな笑い声が響いていた。