津見と伐
四月二九日
「全く、こんなに早く出番が回って来るとは思いもしませんでした」
溜め息混じりに愛姫は誰にともなく呟いた。現在、彼女は治療院の責任者としてその腕を揮っている。清潔感を表すような白衣に身を包んだ彼女は、更なる溜め息を禁じ得ない。
「院長代理、これはどうしましょうか?」
「それは、そっちの棚に入れて」
素早く指示を下す。瓶を抱えて来ていた少女は、指示された棚へそれらを収めた。
「ふう、やっと終わりましたね」
「ええ。だけど、これでは本来の陛下の御命令を遂行できないわね」
愛姫は手にしていた包帯を別の棚にしまい込むと、悪戯っぽく微笑んだ。
「今日は休みよ。自由にしなさい」
「うわあ、本当ですか? 皆、喜びますよ!」
少女は満面に笑みを浮かべている。それもそのはず、彼女たちは治療士の卵で、日夜勉学に励んで来た。それが昨日のお祭り騒ぎでケガ人が続出し、その治療にと彼女たちの出番がやって来たのだ。全てのケガ人の処置を終えたのがつい先程で、既に日が中程まで昇っている。そしてこれまでに彼女たちには休みらしい休みは与えられていなかった。
「皆の頑張りよ。教えたことをきちんと理解していたから」
「はい! すぐに伝えて来ます」
少女は部屋を飛び出して行った。一人残された愛姫は椅子に腰かける。そこへ誰かがやって来た。
「どうだ、首尾の方は?」
「隼人様……」
愛姫は今最も会いたい人物が目の前に来たことで、やや混乱しかけた。しかしすぐに気を取り直す。
「ケガ人の処置も終了して、院生たちに休養を命じたばかりです」
「そうか、苦労をかけると、陛下からのお言葉だ」
「謹んで、承りました」
二人の間に沈黙の時が流れる。それを破ったのは意外にも隼人の方だった。
「陛下はこの治療院には、いたくご執心だ。期待されているのだぞ、愛姫」
「そのようですわね。殿下を直々に遣わしてのお言葉ですもの」
愛姫は言った後で吹き出す。
「畏まり過ぎね、私たち」
「まあ、そうだな……」
隼人も気を許せる相手なので態度を軟化させた。
「それで、院生たちの首尾は?」
「そうね、本日の手際を私がいなくても……」
「院長代理、伝えて来ました!」
勢いよく少女が戻って来た。しかし彼女は室内にいる隼人に気が付いて、慌てて頭を下げる。
「柴津王様がいらっしゃるなんて……、失礼しました!」
「構わない、俺にはあまり畏まるな」
隼人は言葉を選びつつ声を掛けた。
「殿下の仰る通りよ。あまり畏まる必要はないわ、特にここではね」
「愛姫、言ってる内容と言葉遣いが矛盾しているぞ」
「あら、そうだった?」
愛姫は舌先をちょろっと出して悪戯っぽく微笑んだ。二人のやり取りの間、少女はその場に立ちすくんでいる。
「美華、殿下を案内するから、貴女もついて来なさい」
「は、はい!」
愛姫は隼人を連れて治療院内を案内する。その後ろを少女もついて行った。
治療院は丘の上にある神殿内に仮住居の状態だ。さほど広くない神殿内を板などで仕切りを作り、幾つかの部屋を形成している。
「今はまだ仮住居だが、陛下は折りを見て治療院を別の位置へ建設する予定だ。それまでは苦労もあると思うが、しっかりと学んでくれ」
隼人は一通り見終わってから、美華にそう声を掛けた。彼女は畏まって深々と頭を下げる。
「しかし、二十日足らずでここまでの成果を挙げるとは、俺は愛姫を侮っていたのかも知れないな」
「少しは見直して頂けましたか?」
愛姫はにっこりと微笑んだ。彼に褒められて嬉しくなったのだ。だから、目の前に美華がいるのも忘れていた。彼女に気が付くと慌てて愛姫は表情を引き締める。院長代理という立場上、彼女はなるべく厳しい表情を作るように心懸けていたからだ。
「まあ、それはいいとして……」
隼人は話題を変えようとする。
「困った事や要望などがあれば陛下に伝える。何かあるか?」
「そうですね……」
愛姫は少し考えた。その彼女が口を開く前に美華が割り込む。
「私、院長を見たのが一度きりだったのですけれども、院長代理を院長にしては頂けないのですか?」
彼女にとっては素朴な疑問と要望なのだろう、けれどもそれは彼らにとっては触れてはならない問題だった。治療院院長、それは先の盟主旭野昇の妻である舞が務めている。しかし現在の彼女は、外部との接触をとりたがらないのだ。それで瑞穂が院長に推挙したのだが、現状は愛姫が院長代理として切り盛りしているのである。
「戻って陛下に相談しよう。他には?」
「人数的に限界がありますので、人員を増やしても良いか、お伝え下さい」
愛姫が気を取り直して告げた。
「それは構わない。院長代理の一存で決定してくれ。陛下はより多くの治療士を求めておいでだ」
「畏まりました」
美華の手前、形式張らなければならない二人は、表面を取り繕う。
「私は現在の立場で充分です。陛下にはそうお伝え下さい」
「いや、院長については陛下と協議して、追って沙汰する。えっと……」
「上屋です」
「上屋治療士見習いの考えは正当だ。よく言ってくれた」
隼人は彼女を真剣な眼差しで見詰めた。鋭い眼光ではあるが、この視線に女性が弱いとは彼自身は全く気が付いていない。たちまち美華の顔面は上気して、俯いてしまった。
「ん? どうした?」
「殿下、あまり女性を見詰めるものではありませんよ」
愛姫が嫉妬を絡めて揶揄する。それでも隼人は訳が分からない。
「ま、まあ、とにかく、陛下にはよくやっていると報告するから、本日はこれにて」
彼は軽く頭を下げると、部屋から退出して行った。それを見届けてから、愛姫は未だに俯いたままの美華に声を掛ける。
「美華、殿下には既に陛下がいますよ」
すると美華は顔を上げて大きく首を横に振った。
「ち、違います! 殿下に恋心なんて……!」
言っている最中に愛姫はにやりと笑う。その言葉で充分だった。
「競合者が増えただけかしら?」
愛姫の頭の中では隼人を巡る競合者がもう一人加わって、三人になっていた。