津見と伐
星暦一四二五(初元元)年三月一〇日
帝国が建ってから、一ヶ月近くが過ぎた。国内の整備と、周辺諸侯への対応に追われ、この間はあっという間に過ぎ去った感がある。
「ふぅ……」
柴津の政庁で、赤毛の女性は息を吐き出した。目の前には幾つかの書類の山。
「一向に無くなる気配が無いな」
帝王たる彼女、葦原瑞穂は毎日大量の書類を処理決済している筈なのだが、その量は日ごとに増えこそすれ、減る気配は無い。
「こちらをどうぞ」
色白の少女が彼女に湯呑みを差し出した。
「気が利くな、愛姫」
「陛下の苦労を思えば、些細な事柄です」
湯呑みを手渡すと、彼女は一礼して自らの席に戻った。その様子を瑞穂は見届けて思いを巡らせる。彼女が即位するまでは、どちらかと言うと反抗的だった彼女が、ここ最近では急に甲斐甲斐しくなって来ている。その理由に思いを馳せた。
「……、隼人との婚約が利いたか?」
即位後、愛姫が思いを寄せていた彼を自らの婚姻相手だと宣言した。しかし本来ならば愛姫の横恋慕だったのだから、これは正当な結末である。
「隼人を諦めて、他の誰かに思いを向ければ良いのだがな……」
彼女の願いも虚しい。外回りの用事を済ませて隼人が政庁に戻って来ると、愛姫が席を立って真っ先に迎えに出た。
「お帰りなさいませ、隼人様」
隼人は苦笑しながらも、彼女に手にしていた荷物を受け渡す。その二人を見ながら瑞穂はやや複雑な面持ちだった。彼女は立場上、彼よりも位が上なので、出迎えると言う行為はできない。その辺りは彼も理解しているので問題にはならないけれども、やはりこうして目の前で他の女性が彼に親しくするのは、腹立たしくなる。それでも彼女は立場を考慮して、怒鳴りたいのを堪えた。唯一の救いは、隼人が愛姫に対して今までのように優しく接していない事だった。
「愛姫、陛下への報告がある、後にしろ」
荷物を受け取っただけでは飽き足らず、更に彼に世話を焼こうとした彼女を一蹴する。
「柴津王、それでは報告を述べよ」
「柴津の港は船の出入りが少ない。出入りしても真津や八山、伊和乃の船ぐらいで、これらの都市から持ち込まれる物品に対して税を掛けても、その収益は薄い。望むらくは高価な物品の取り引きを行いたい」
「よく分かった。されど、高価な物品が必要とは、とても思えぬが……?」
「それは早計ですぞ、陛下」
一体どこで聞いていたのか、執務室の扉を開けて一人の男性が入って来た。彼は椅子に腰掛けたままで、その椅子を一人の女性が押している。
「智顕、何か良い案があるのか?」
「はい、交易を行えばよろしいかと」
「交易?」
瑞穂と隼人の聞き返した声が期せずして揃った。
「西の紗那、北の津浜。いずれも大陸との交易を行い、莫大な利益を上げているとか。話半分として見ても、やらない手はありません」
「しかし、大陸へ渡る船は無いぞ?」
「陛下の仰る通りです。そこでこの智顕、一計を案じましたので、裁可を得たく、参上致しました」
「うむ、では智顕の案を聞こう」
瑞穂は彼の話を聞き、やや考えた末に結論を下した。
「諾、許可する。速やかに用意を整えよ」
「ははっ」
三月一二日
その日、瑞穂は街中の巡察から政庁に戻ると、人払いをした後、愛姫を呼んだ。
「お呼びでしょうか?」
滅多な事柄では呼び出されない為、彼女の表情は硬い。
「愛姫は確か、治療術を修得していたな?」
「はい。以前にもお目に掛けたと思いますが……?」
彼女は首を傾げた。治療術の実演は、冒険をしていた頃に披露している。今更確認されるまでもない筈だ。
「お前の腕を見込んで頼みが有る」
不意に瑞穂は頭を下げた。その対応に愛姫は狼狽える。
「へ、陛下!」
「柴津には医師や薬師の絶対数が足りぬ。そこで有望な若者たちを教育して、治療院の設立に携わって貰えぬか?」
「治療院?」
彼女は驚きの連続だった。瑞穂が頼み事をするのも驚きだが、その頼まれた事柄に対しても驚きを禁じ得ない。治療院の設立が急がれるほど、柴津の街は治安が悪い訳ではないからだ。それでも愛姫は頷いた。
「陛下のご命令とあれば、喜んで」
「そうか、受けてくれるか。助かるぞ。これからは戦も増える。それに比してケガ人の数も増えるだろうからな。今の内から手を打っておかなければ、間に合わない所だった」
瑞穂は安堵したように息を抜く。
「三ヶ月だ。この間に、二十人を教育してくれ。政務は別の者に代行させる。何か要望はあるか?」
「えっと……、助手として、二人ほど医師か薬師を願います」
「分かった、そのように手配する。場所は丘の上に在る神殿で行ってくれ」
「はい、畏まりました」
一礼して愛姫は執務室から退去した。瑞穂は交易が始まった場合、津見との戦争が避けられないと感じている。
「三ヶ月……、果たしてそれまで保つか?」
もっと早く開戦するのではないかと、彼女は危惧していた。