川を渡る者
海は静かだった。けれども、大海に出る船の港は、三隻の木造帆船で混雑していた。老練な船長や航海士が、近づく嵐を察知して船を避難させたのだ。大型船のための港とは言え、普段は一隻来るかどうかの静かな田舎町の港だ。三隻分の、外洋を行く大きな帆船の乗組員達がかけあう声で、港の周辺は騒がしかった。
今日は昼も夜も月が無い、新月だ。
どの船の乗組員も、明るい午後の間に、船倉の荷物が崩れないように、船が流されないようにと、動き回ってロープを結んでいた。防水や防腐のために、甲板や船体にタールを塗りこむ者も、あちこちにいる。
嵐に備えた作業は続いているが、日が沈みかけても空と海は穏やかだった。
交代時間が来るまで、仕事から解放された若い水夫達は、港近くの安い酒場にたむろして、ビールやラム酒を飲んでいた。酔ってくると、「船長達は臆病風に吹かれた。時化るものか」と、テーブルを囲む仲間と肩を組んで、せせら笑う。
嵐が来るとわかる腕の確かな船長で良かったと、後でわかるだろう。今夜の海は荒れるのだ。
オレの船は、港で作業する三隻と違い、すでに準備を終えていた。
船の乗客は、暗くなる頃に、連れが港に案内してくる。
それまでは、この港にいる船員の命が、海に投げ出されずに済むことを祝おう。
オレは横目で若い水夫達を見て、ぼんやりと思っていた。
一人でカウンター席に座り、連れが港に現れるのを待つだけだ。飲んでいる水は、支払った代金は酒よりも高かったが、ぬるくて新鮮でもないし、うまいと感じるものでもなかった。
その時、水夫の一人と目が合った。二十代前半の水夫は、オレの年恰好を見て、自分と同じくらいだと思ったようだ。酔った陽気さで、若い水夫はジョッキを掲げて言った。
「なぁ、あんたも船に乗って五、六年ってところだろ? 酒の肴に、なんか面白い話はあるか?」
無邪気な様子に、オレは思わず顔がほころんだ。体を、カウンターから水夫達に向けた。連れが来るまでの暇潰しにもなるだろう。
「そうだな……。オレが奴隷だった時のことだ……」
オレがいた農場は、川幅が一キロ半あるアユール川に接して広がっていた。
ある日、オレのいた農場から、アユール川の数キロ上流にある農場の奴隷だったトムジという男が殺された。溺死でな。
そこの農場主は、トムジが結婚したばかりだったから、「結婚が気にくわないやつの仕業だろう」と、トムジの新妻の奴隷を、次の日には遠くの農場に売っちまった。
川岸にあがったトムジの冷たい額に「永遠」と刻まれてるような、気味の悪い殺人事件だからな、揉め事の種を始末したかったんだ。奴隷が殺されたって警察は動かないし、自由民も何とも思わない…そんな時代だった。
だが、その頃は一方で、国のあちこちで奴隷の廃止が進んでいた。オレの住むアユール川のこっちは奴隷制の続く州、川の向こうは奴隷が廃止になった州だった。
農場主のダンナに気に入られていたオレは、家の中の楽な仕事をすればよかった。広い農場を好きに歩くこともできたし、農場の外に、馬車や手漕ぎボートでダンナの使いに出ることもあった。
うちのダンナは、農場で働く者にも気を配って無理をさせることはなかったから、オレ達はダンナを慕っていた。
でも、オレのところみたいに優しいダンナは珍しい。大抵が酷い主人だから、逃げ出す奴隷は多かった。
オレはトムジの仲間のガンガに頼まれて、月のない夜や月の細い夜に、逃亡奴隷を手漕ぎボートに乗せることになった。川幅の広いアユール川は水の流れが複雑で、泳ぎに自信のあるやつでも超えるのは難しい。今まではトムジが渡し守をやっていたと、そのとき初めて知った。
逃亡奴隷を逃がすなんて、ばれたら当然、オレは自由民の法律で死刑にされる。優しいダンナも無事ではすまないと思った。だが、奴隷同士で少ない金をやりとりしながら、こっそり助けあってきたのも事実だ。
オレは月の光のない中で、五人か六人しか乗れない小ぶりのボートのオールを漕ぐようになった。ガンガに案内されてきた数人は、いつも闇夜にまぎれて、顔どころか年も性別も、よくわからなかった。探ろうと思うほど興味もない。疲れて怯える者達を、オレは無言で、川の向こうへ渡し続けた。
渡し守になって三か月ほど過ぎて、オレは闇夜の川には慣れたものの、恐ろしくなることがあった。
新月には、ガンガの連れてくる者達の他に、もう一組、川を渡していた。ぼろ布のローブで全身を隠す案内人の一行だ。
最初はガンガの仲間だろうと、気にせずボートに乗せていた。ただ、ガンガは岸辺でボートを見送るが、もう一方の案内人はボートに乗り、川を渡る。向こう岸で、別のローブの案内人が待っているのだ。
岸にいたやつが連れていた数人の案内を、ローブ同士は無言で引き継ぎした。そして岸にいたやつは一人で上流へ、川を渡ったローブは、増えた人数を率いて下流へ去っていった。
不気味なのは、いつだって川を渡る前だ。
ぼろいローブの案内人は、ボートに乗る前に、オレにしか聞こえないように、耳元で必ず囁くのだ。
「決して『永遠』という言葉を口にしてはいけない」
ぼろいローブの衣擦れの音をさせ、深いフードの中でうつむいているような、くぐもった男の声だ。
そいつが案内人の時は、よく知っているアユール川が、底なしの見知らぬ川に思えた。
気配の頼りない連中を乗せて、不気味な川を渡る時は、向こう岸の迎えのランプの火が嬉しかった。底冷えするような青白い灯りだったが、無いよりもましだ。
しかし、四回目の新月の夜、オレは運命を変えるものを見てしまった。
ガンガが連れてきた連中を対岸に渡し、戻ってくると、ローブの案内人がいた。後ろに気配の薄い人影が三つある。
薄気味悪いと思いながら、オレは仕方なく案内人に頷いて、乗るように合図した。
「決して『永遠』という言葉を口にしてはいけない」
いつものように、案内人はオレだけに囁いた。オレは何も言わずに、全員がボートに乗るのを待った。
四人を乗せて、もう一度、対岸を目指して漕いでいく。黒い川の水が、ねっとりとオールに絡みつくように感じるのは、疲れたからか。ふと気づくと、川の向こうに青白い灯りが浮かんでいた。
青い目印で自分を励まして、黒い水が絡んで重たいオールを漕ぎ続けた。ボートが対岸に着く頃には、不思議といつも、青白い灯りは消えていた。
岸にいたローブに促されて、気配が薄い三人が先に岸に上がった。
ボートを降りるのが、あとはローブの男だけという時だった。背筋がぞわっとする強い川風が吹いて、男の被っていたフードをめくったのだ。
「っ!?」
辺りが青白く照らされて、オレは驚きで息をのんだ。
ローブ男には顔が無かった。黒い半球を縦にした器の中で、一本の太い蝋燭が青く燃えていた。
男の蝋燭の火で見ると、今ボートを降りた連中は、うっすらと全身が透けていた。ローブ男の青く揺れる火に照らされても、オレのように驚くこともない。うつろな表情で、生きている感じが、まるで無かった。
ボートに座っているオレは、とっさに逃げることが出来なかった。ボートの上で立ったままのローブ男に対して、オレはオールを棍棒代わりに構えた。
青い火の男は、岸にいるローブの案内人に頷いて合図を送った。岸の案内人も頷いて、川を渡った者と自分が連れている者達をまとめて、下流の方へ歩き出す。
岸の案内人は別れ際に、オレを真っ直ぐ見て、フードを軽くめくって会釈をした。その中身は、いま見たものと同じ、黒い器で燃える青い火の蝋燭だった。
黒い川を渡るオレの心の支えは、岸の案内人の青い炎だったのだ。
驚きを通り越して、自分のまぬけさに気がついたオレに、ボートに残った男が言った。
「おまえは、何も言わずに舟を進める、とても良い渡し守だったのだがな。また新しい渡し守を探さなければならないとは、残念だ」
その言葉で、額に「永遠」と刻まれたトムジの死に方を思い出した。いつも、こいつが言うのも「永遠」だ。
「トムジを殺したのは…おまえか? …オレも…殺す気か……」
案内人をボートから叩き落して、必死に漕いだら逃げ切れるだろうか?
身構えるオレに、男の青い火が、ため息をついたように揺れた。
「私は誰も殺さぬよ。逆上して、トムジを溺死させたのは、亡者達だ」
案内人は、自分が連れているのは亡者だと、いとも簡単に話した。
だが、オレは今まで、亡者に何かをされたことはない。一言も話さなかったし、触れることもなかった。逃がす者と逃げる者は、接点が少ない方がいいと思ったからだ。
「なぜ、亡者がトムジを殺す? 舟に乗せただけだろう」
「あの者は、自分や周りの緊張をほぐそうというのか、いつも喋っていた。そうして、私の警告を忘れて口にしてしまったのだ。『花嫁と永遠の愛を誓った』と」
「愛を誓って何がいけない?」
案内人は、「そうではない」と首をふった。
「亡者は、『永遠』という言葉を嫌うのだ。うつろな様子を見ただろう。疲れきった魂は、そんな状態が永遠に続くのではないかと、脅えているのだ。幸せで満たされたトムジの言葉は、亡者達には呪いとして響いた。亡者達は、その呪いをトムジに返したのだ」
案内人はフードを被り、ボートから岸へ渡った。
「そろそろ、亡者の案内に戻らなければ」
「亡者を、どこへ連れていく? おまえは、なんなんだ?」
「私は永遠の傍らで、亡者を集めるもの、亡者を安息の地へ案内するものだ。導きの火を消さぬように、水辺では渡し守が必要だがな」
オレには、案内人が少し笑ったように聞こえた。けれども背中を向けた案内人は、くぐもった声に戻って言った。
「ここは亡者の世界と重なる境界だ。おまえは、はやく生者の川岸へ戻るがいい」
それから五日後、オレの暮らす州でも奴隷制度が廃止になった。廃止を進める勢力と、それの反対派が小競り合いを起こし、辺りは混乱した。
オレも含めて、ダンナの農場の奴隷は自由民になった。だが、行く当てもないオレ達は、このままダンナのもとで働くのが安心だと思っていた。
しかし混乱の中では、ダンナの善良さが災いした。農場が暴徒に襲われて、収穫物や財産は奪われ、ダンナの一家四人は殺された。ダンナの奴隷だった者は、殺されたか、オレのように逃げのびたか、散り散りだ。
ダンナの農場というオレの世界は、滅んでしまったのだ。
オレは一人きりで、ダンナのボートで川を移動し、騒動をやり過ごしていた。この先、どこへ行くか何をするか、何も決められないままだった。
自分は農場しか知らない…そう思っていたオレは、しかし五度目の新月の日に、別の世界を知っていることに気がついた。
その夜、なるべく水音を立てないようにボートを進めて、ガンガや案内人と落ち合う場所に来た。
案内人が来るかわからなかったが、オレが渡し守だった世界も終わっているなら、終わっているということを知りたかった。
深夜、案内人は、オレをかわいがってくれたダンナ一家を連れて現れた。ダンナ、奥さん、オレが子守をしてきた、やんちゃな姉弟……。うつろな表情が、はかなげに見えた。
「ダンナさん方は、何も悪くありませんよ……。良い人だ……」
上擦った声で、オレは初めて亡者に話しかけたが、何も反応はなかった。暴動で死んだ者は多かっただろうに、まさか、ここでダンナ一家に会うとは思わなかった。…でも、会えて良かった。
フードの案内人は、何も言わずに待っていた。オレは案内人を見て、言った。
「案内人…オレに、向こう岸までダンナの一家を送らせてくれ」
酔った若い水夫は、仲間と大笑いした。
「奴隷制なんて三百年も前のことだろ? おまけに亡者って」
笑い声には構わずに、オレは水を飲み干すと席を立った。港に連れが来たのを感じたのだ。
「オレは、あちこちの川で渡し守を続けた。今じゃ海を渡る、でかい船に乗っている」
「亡者を乗せてか?」
「ああ。案内人は水を避けたがるから、渡し守は生者だったものが多い。今夜の嵐は、亡者の帆船を向こう岸に送る風だ」
水夫達の笑い声を後ろに、オレは酒場を出た。
外は嵐で荒れ始めていて、すっかり暗くなっていた。人通りのない道に、鎧戸を閉めた窓から、僅かにオレンジの光が漏れている。町も港も船も、生者は強まる風雨から身を潜めたようだ。
生者の気配が消えるのと入れ違いに、港には闇と影で出来たような、第四の帆船が姿を現していた。オレの船だ。
その船の側に、うっすらと透けた亡者の集団を率いてきた、オレの連れがいた。
ぼろいローブが、ずぶ濡れで風にはためいている。深く被った防水フードだけは飛ばされないように、しっかりと片手でつかんでいた。
潮でべたつく風雨の中で、オレは濡れた髪をかき上げた。
「マッチがあるから、火が消えたら点けてやるぞ、案内人」
「それは、もう聞き飽きているのだがな」
オレの軽口に、案内人は苦々しくつきあう。
今はオレも、案内人と同じ、永遠の傍らにあるものだ。
「亡者達を渡してくれ、船長」
「ああ。全員乗ったら出港だ」
(終)