序章ー
こちらの世界も、空の青さは変わらないんだなぁと水晶は笑う。
深い山奥。空気は清浄で一切の淀みがない。鳥たちは自由に飛び交い、ああ、あの鳥って食べられたっけと物思いに耽る。
背にした方を振り向けば、そこには立派な和式の建築物。平屋ではあるものの、人がゆうに30ほどは余裕を持って入れそうである。
こんな広い家で一人暮らし……。そう思ったのもつかの間。縁側方面からこちらに歩いてくる影が見えた。
黒い艶やかな毛並みに珠玉の瞳。平均的な身長体型の水晶よりも一回り大きい体躯をした虎だ。
狩りを好みそうな恐ろしい獣の姿だが、水晶を目に止めると心なしか瞳を輝かせる。そしてこちらへ駆け寄ってくるのだ。
そうだ、一人ではなくこの獣がいたんだっけ。
故あって水晶はこの獣を憎んでいるが、惜しみなく伝えてくる愛情表現には怒りも湧いてこない。すり寄って撫でてなでてと催促されて、しらんぷりをするのがせめてもの抵抗だ。
「ねえおまえ、私はここで見世を開こうと思うの」
そう語りかけると、 獣は驚いたように顔を上げる。ついでぐりぐりと頭を押し付けてきた。もちろん加減はされているのだが、獣の身体が大きすぎて後ろへ転んでしまいそうになる。
話を聞けと獣の頭を力一杯押しのける。
「言っておくけど何を言っても無駄だから! 私は働きたいの! 稼ぎたいの! ああもう、おまえがむりやり甘やかすから力が弱くなったじゃない。こんなんじゃ外に出れない!」
出なくていいとばかりに獣は駄々をこねる。だが水晶は決めたのだ。今日こそは何をされても自分の意見を押し通す。
「さあ、幻術を解いて! 山奥であろうと来客はあるはずなのに、おまえが張った結界のせいで私は挨拶すらできないのよ。しかもこの山全体に目くらましまでかけて!」
この才能の無駄遣い! と罵ると獣は唸る。
名のある獣なのだが、どうにも水晶への執着度合いが過ぎる。誰にも水晶を会わせたくなくて、山まるごとに護りの結界や幻覚を施したり。力の強いものがここにたどり着けても、水晶の姿だけ見えなくしたり。
「なにも結界を解けと言っているわけじゃないでしょう。私はただ俗世に触れたいだけなのに。……それすらも許されない? すこしばかり他人と関わらせてくれても」
水晶は訴える。しおらしく見えるように瞳をうるませて、声をふるわせて。
急に勢いを失った水晶を獣は心配した。おろおろと水晶の周りをまわり続ける。もうひと押し。
「山から出たいと言っているわけじゃない。どうせここで暮らすしかないなら、観念して楽しみを見つけたかっただけなのに……」
娯楽なら持ってくる! といわんばかりに獣が足で地面を叩く。
「用意された娯楽には、用意された分だけの楽しみしか見出せない!」
自分で見つけてこそ楽しいのに! と水晶は頽れる。
しくしくと淑やかに泣き、たまに鼻を啜る。そうすると獣はとうとう観念したのか、悔しげに幻術を解きに山の麓に向かったようだ。
残された水晶は笑いを必死に堪えた。耳のいい獣はすぐに気づいてしまうだろうから、もし笑うとしても幻術を解いたあとにしなければ。
獣の進んだ方向とは逆の、家の方へ戻る。色々な仕込みが終われば、ここはその日から見世に変わる。
「あ、名前はどうしようか」
考えていなかったなと水晶は顎に手を添える。
この世界において、名は強い意味を持つ。神秘を忘れていない世界だ。まことの名には力が込められているし、隠すものも多い。水晶がその例だ。
また、力あるものが名付けを行うことで、力を得ることもある。名付けは大事だと、この世界に来て改めて知った。
「……名付けは後でもいいか。とりあえずは名無しということで」
名は保留。あの力ある獣に気に入られた水晶が名付けを行えば、何かしら起こるかもしれない。
面倒ごとは放っておいて、準備をしよう。
客はくるだろうか。うまくできるだろうか。そんな心配も少しある。
(娯楽は嘘じゃない。目的はほかにもあるけれど)
水晶はそれを隠す。心の奥底に沈めて鍵をかける。
意識してそうすれば、水晶の波だった感情に平穏が戻ってきた。
「広い家を与えられたんだから、これを使わない手はないよね」
改装、下ごしらえ、大変だけど全部やりがいがある。
改装は獣を使えば直ぐにでも終わるだろう。差し当たって、水晶は『お品書き』でも作ろうか。
「自分……とあの獣以外に料理を作るってなんだか新鮮。素材は散歩がてら取ってこれるし、器具は……うん、それも獣に出してもらおう」
それくらいのわがままは許されて然るべきだ。水晶こそ獣のわがままに付き合わされているのだから。
空気の揺らぎを感じ、空を仰ぐと鳥たちが困っている。幻術は鳥たちにも効いていたみたいで、水晶は引いた。鳥にも姿を見せたくないなんて、愛が重過ぎる。
水晶は家の中へ急いだ。
幻術が解けたのなら獣が戻ってくる。うるさくなる前に用意に取り掛からなければ。




