21話 聖英雄
俺の名前は聖英雄。
俺は自分の名前が嫌いだ。
何故なら俺は……。
◇
「行ってきまーす!」
「気をつけて行ってらっしゃいねー」
元気に出かけた少年の名前は、聖英雄。
小学二年生の男の子だ。
英雄には、まがった事が大嫌いな父親と、いつも優しい母親と、まだ赤ちゃんの可愛い妹がいる。
そんな家族の中で真っ直ぐ成長していた英雄は、この日もいつもの様に小学校へと登校して行った。
「おはよー」
「おはよー」
学校に登校し終えると、英雄は学校の友達の皆と挨拶をしながら教室へ向かう。
教室に着いてからも、同じ様に挨拶をして自分の席へと向かった。
それから少し経って学校のチャイムが鳴ると、いつも通り教室に先生が入って来た。
だけど、この日はいつも通りではなかった。
「みんなー。席についてねー。今日はみんなに、新しいお友達を紹介しますよー」
先生の言葉で、クラス中が大騒ぎする。
もちろん、英雄も皆と一緒に騒いでいた。
「はーい。静かにしてねー? 騒いでたら入って来れないよみんなー」
先生の言葉で、今度はしーんと静まりかえる。
英雄も口に手を当てて、声を出さない様に注意した。
「入っておいでー」
「はい」
先生に呼ばれて教室に入って来たのは、気の強そうな男の子だった。
男の子が教室に入って来ると、またクラス中がワイワイと騒ぎ出す。
「みんな静かにしなさーい!」
先生の言葉で、またクラスがしーんと静まりかえる。
だけど、皆ソワソワしていた。
「うん。みんな良い子」
先生がクラス全体を見まわして、笑顔で頷く。
「それじゃあ、自己紹介してね?」
「禊大和です。よろしくお願いします」
「「よろしくー」」
こうして挨拶を終え、自己紹介も終えて、授業が始まった。
休み時間では、転校生の禊くんの周りは、クラスの子供達であふれかえっていた。
話題は、何所に住んでいたのかや好きな物など様々で、この日は一日中そう言った話題で盛り上がっていた。
授業も終わり、放課後がやってくる。
英雄は休み時間も皆に囲まれて教室を出れなかったからと、禊くんに学校を案内してあげようと考えた。
禊くんは喜んで承諾して、英雄は学校の色んな所を紹介した。
そして、放課後の学校案内を終えた頃、禊くんから出た言葉に、英雄は驚いて困惑した。
「おまえの名前、ひーろーだなんて変な名前だよな?」
「え?」
「親に変な名前つけられて可哀想」
「そんな事ない! お母さんとお父さんがつけてくれた名前なんだ!」
「あれ? その名前気に入ってるの? だっせー!」
英雄は開いた口が塞がらなかった。
そして信じられなかった。
まさか今日転校してきた禊くんに、名前の事をそんな風に言われるとは思わなかったからだ。
それに、英雄は今までも、そんな事を言われた事が無かった。
だからこそ、初めて自分の名前を馬鹿にされて、困惑してしまった。
しかし、その困惑は長く続かなかった。
「ひーろーって、だっさい名前! 何と戦ってんだよ!?」
禊くんが大口を開けて、ゲラゲラと笑い出す。
「知ってるぞ! それってキラキラネームって言うんだろ!? 親の趣味でつけられた可哀想な名前なんだぞ!」
「違う!」
「違わないよ! お前は馬鹿親の子供なんだ!」
英雄は親を馬鹿にされた怒りで頭に血が上ってしまって、気が付けば禊くんの顔を殴ってしまっていた。
そして、英雄と禊くんの取っ組み合いの大喧嘩が始まってしまう。
その騒ぎを聞きつけた先生達が現場に着いたのは、英雄が禊くんに怪我を負わせて泣かした後の事だった。
先生達に事情を説明すると、先生達は皆声を揃えて言う。
「そんな事で暴力を振るったのか?」
「暴力は駄目な事なんだよ?」
「転校初日で不安もあるんだから、仕方がないんだよ?」
「何もここまでする事は無いだろう?」
唯一、英雄を庇ってくれたのは、担任の先生だけだった。
だけど、その担任も他の先生に「担任なんだから、こんな所にいないで、親御さんに連絡を入れて来るのが常識だろ」と言われてしまい、他の先生達に追い出されてしまった。
そして、英雄は呼び出された母親に連れられて、注意を受けて家に帰った。
その日、英雄の父親は家に帰って来ると、英雄を連れて禊くんの家へと謝罪しに行く事にした。
英雄は悪いのは自分じゃないと言って、謝りたくなかったけど、父親と母親から謝らないと駄目だと説得された。
禊くんの家に着くと、禊くんの母親が玄関で出迎えた。
しかし、禊くん本人は会いたくないと言って、出て来る事は無かった。
英雄の父親は、お詫びとしてお菓子を禊くんの母親に渡すと、英雄の頭を掴んで一緒になって頭を下げた。
すると、禊くんの母親は、不愉快そうな顔で英雄の父親を見て口を開いた。
「ふん。もういいわよ。大和ちゃんも、幸い大きなな怪我が無かったみたいだしね。ただ」
禊くんの母親はため息を吐き出して、英雄を一瞥してから言葉を続ける。
「今後は気をつけてくれないと、安心して学校に行かせてあげられないでしょう? これがきっかけで、登校拒否なんて事になっちゃったら大和ちゃんが可哀想じゃない? ちゃんとお子さんに、悪い事はしては駄目だって教えてあげて下さいね? 今回は子供の喧嘩って事で見逃してあげるけど、次は許しませんからね」
「もちろん。悪い事はしないように、言い聞かせてますんで! 本当にすみませんでしたー」
英雄の父親はそう言うと、もう一度、今度は一人で頭を下げた。
「本当に気をつけて下さいね」
禊くんの母親はため息をまた一つ吐き出して、玄関の扉を閉めた。
残された英雄と父親は閉じた扉を見つめて、ゆっくりと後ろを向いた。
「帰るか」
「ぼくは悪くない!」
我慢の限界を迎えた英雄は、涙を流して訴える。
何でぼくが謝らなきゃいけないのと。
悪いのは、お母さんとお父さんとぼくの名前を馬鹿にした禊くんなのにと。
すると、父親は英雄を抱き上げて、頭を撫でて優しく微笑む。
「分かってる。分かってるから」
父親はそう言って、泣き止まない英雄を連れて、近くの公園まで足を運んだ。
公園に着くと、英雄はベンチに座らされた。
「ちょっと待っててな? ジュース買って来てあげるから」
「……うん」
英雄が返事をすると、父親は近くにある自販機でジュースを買ってきた。
父親は英雄にジュースを渡すと、その隣に腰かける。
「いやー。まいったな。ありゃ、完全にモンペだよモンペ。今時あんなのいるんだなあって、英雄の前で言う事でもないか。……すまん」
父親はそう言って苦笑するが、英雄は笑わなかった。
英雄は悲しくて、どうしよも無かった。
ぼくがこんなに嫌な気持ちなのに、何でお父さんは笑ってるの?
そんな風に英雄は感じていた。
すると、父親は少しだけ焦る様な表情をして、肩を落とす。
「あぁ、ほら。ジュースでも飲んで元気出せ。と言うか、あんなの気にするな」
「だっで……ぼぐ、悪ぐない」
「分かってるって」
「わがっでないよ! じゃあ、何で謝るの!? ぼくは……っ」
英雄の涙は止まらない。
「ごめんな、英雄。でもな、お父さんは思うんだよ。確かに英雄は悪くないかもしれない」
父親は英雄の頭を撫でる。
「だけどな、英雄が禊くんに怪我をさせてしまったのは、本当の事だろう? だから謝るんだ」
英雄が顔を上げて、父親を見つめる。
「英雄は心を傷つけられたけど、同じ様に禊くんは体に傷をつけられたんだ。それは、とっても悲しい事だろう?」
父親はそう言うと、英雄の頭を優しく撫でる。
「もし今回の事で英雄が謝らなかったら、自分が悪くなければ、誰かを傷つけても良いと思ってしまう大人になってしまうと思うんだ」
父親は英雄に優しく微笑む。
「これは父さんの我が儘だけど、英雄にはそんな大人になってほしくないんだよ。辛い事をされたとしても復讐なんてせず、それを乗り越えて真っ直ぐ優しい人間になってほしいんだ」
英雄の涙は、いつの間にか止まっていた。
「だから、相手を傷つけるんじゃなくて、笑い飛ばして許してあげれるくらいに、かっこいい大人になってほしいな」
「かっこいい大人?」
英雄が聞き返すと、父親はニッと歯を見せて笑った。
「そうだ! かっこいい大人だよ」
父親はそう言って、英雄の頭をまた撫でる。
英雄にはそれが凄く嬉しくて心地よかった。
嬉しくて英雄が微笑むと、父親はどこか遠くを見て話し出す。
「禊くんなー。前の学校でいじめにあったんだってさ」
「え……?」
「禊くんは名前の事で馬鹿にされて、いじめられたんだ。だから転校して来たらしい」
英雄は驚いた。
まさか禊くんに、そんな辛い過去があったなんて思わなかったからだ。
「でも、だからと言って、自分が受けたのと同じ事をして良いとはお父さんは思わない。それは、仕方ないで片付けちゃダメな事なんだ。だけど」
英雄の両肩を父親が掴み、真剣な顔でジッと英雄と目を合わせた。
「英雄。お父さんとお母さんはね、英雄って言う名前に決めたのは理由があるんだ」
強く真剣な眼差しで英雄を見るその瞳はとても真っ直ぐで、英雄は吸い込まれる様に父親の瞳を見た。
「誰よりも強い心を持ってほしくて。誰よりも他人の事を思いやれる優しい心を持ってほしくて。そして誰よりも、誰かの力になってあげられる、助けてあげられる人になってほしくて。お父さんとお母さんはおまえに英雄って名前をつけたんだよ」
父親は言い終えると、凄く優しい顔で微笑んだ。
英雄はそれが凄く嬉しかった。
「だからさ、英雄。禊くんの事を許してあげろなんてお父さんは言わないけど、禊くんと仲良くしてあげてほしい。禊くんも、きっと英雄と一緒で、名前の事でいじめられて辛かったんだから」
父親はそう言うと、自分用に買ってきたジュースを一気に飲み干した。
「まあさ、英雄が嫌なら無理にとは言わないぞ。それだけの事をされたんだ。と言うか、お父さんとしては、あの糞婆……じゃなかった。禊くんのお母さんと仲良くなんてなりたくないし……。だんだん腹立ってきたな。こっちは大事な息子の心に傷つけられたんだ。なんなんだあの態度! はらわたが煮えくり返るわ!」
「お、お父さん?」
「おっと悪い悪い。子供の前でこんな事を言っちゃダメだな。はははっ。俺も反省しねえとな」
「あははははは」
気が付くと英雄は笑っていた。
父親と母親の事を馬鹿にされた事は、もうどうでもよくなっていた。
ぼくの名前は、お父さんとお母さんがぼくの為につけてくれた名前だから。
ぼくのお父さんとお母さんは、馬鹿なんかじゃない。
とってもかっこよくて優しいんだ。
英雄の心は、幸せで満たされていた。
「因みに、お父さんは英雄が将来かっこいい大人になってるイメージが、今からでもできるぞ! お父さんに似た、かっこいい大人だ!」
「ホント!? やったー! ぼくもお父さんみたいに、かっこよくなれるんだ!」
英雄は大はしゃぎで喜ぶ。
「でも、イメージって何?」
「イメージはイメージさ! 英雄も目をつぶって想像してみなさい」
「んー……」
英雄は言われて目をつぶる。
「……よくわからないや」
「英雄には少し早かったかな? はははは。さて、そろそろ帰るか。お母さんもみゆも心配してるぞー」
「うん。でも、みゆはまだ赤ちゃんだから、心配してないと思うよ」
「……英雄。変な所で現実的だな? これが成長ってやつか? お父さん何だか悲しいぞ」
「あははー」
英雄は上機嫌で公園を出る。
英雄の心の中は、晴れやかな気持ちでいっぱいになっていた。
そうだ。
明日は禊くんに会ったら、仕方ないから怪我させた事をちゃんと謝ってあげよう。
お父さんが言ってた、かっこいい大人になる為の第一歩だ。
でも一つだけ言ってやるんだ。
ぼくの名前は変でもダサくも可哀想でもない、馬鹿なんかじゃないかっこよくて優しいお父さんとお母さんがつけてくれた立派な名前なんだって!
その時、英雄は過ちを犯してしまった。
してはいけない過ちを。
馬鹿みたいにはしゃぎ、周りを見ず、公園を飛び出したのだ。
「ひいろぉぉおおおっっ!!」
父親の言葉が聞こえ、英雄は呑気に振り返ろうとする。
「何? おと――」
英雄は何かに突き飛ばされた。
英雄は何が起きたのかわからなくて、突き飛ばされた後に後ろを振り返る。
そして、英雄が見たのは――
トラックに轢かれて、血だらけになって倒れている父親の姿だった。
英雄は急いで駆け寄った。
「お父さん! お父さん!」
英雄の目から涙が溢れ出す。
「お父さん! お父さん!」
英雄の頭の中がぐちゃぐちゃになった。
「お父さん! お父さん!」
その時、父親は弱々しく目を開けて、英雄の顔を見て笑った。
「良か……た。ひぃ…………ろ……おまえ……ぶ……じで…………」
そして、父親は死んだ。
最後に息子の無事を喜び、帰らぬ人となった。
「お父さん! お父さん! 嫌だ! 死なないで! お父さん! お父さん! お父さん…………っ!」
英雄は父親にしがみついて泣き叫んだ。
どうしてこんな事になったの?
何が悪かったの?
ぼくが禊くんを怪我させたからいけなかったの?
もしぼくがお父さんとお母さんや名前の事を馬鹿にされたのを気にしてなかったら、もしぼくが禊くんに怪我をさせなかったら、もしぼくが禊くんの家の前で泣かなかったら、こんな事にはならなかったのに。
ぼくがお父さんを殺したんだ。
ぼくは英雄なんかじゃない。
この日から、父親が死んだこの日の事を思い出すから、その事から逃げ出したくて英雄は……俺は周りに自分の事を『ヒロ』と呼ばせるようになった。
そして、名前の事を馬鹿にされると、それが許せなくて馬鹿にした奴と喧嘩した。
俺の名前は聖英雄。
俺は自分の名前が嫌いだ。
何故なら俺は、この名前にふさわしくないからだ。




