妖精さんと始める禁煙生活
昨今では、喫煙者は肩身が狭い。
昭和の時代ではタバコを吸いながら打ち合わせしてたとか、路上で喫煙してる人を見ない日はないだとかそれはもう ビバ、喫煙! みたいな世界があったそうだがそれも昔の話。
今となっては分煙が当たり前。喫煙所の数も年々減ってきている。
飲み会でタバコを出すだけで白い目で見られ、吸わない人からすれば臭いだの体に悪いだのと悪態をつけられる。
そんな世の中。
「――理不尽だよなぁ」
そうぼやきながら俺は自分の暮らすアパートのベランダでいつものように煙を燻らせていた。
タバコを吸い始めてかれこれ5年。
正直、やめられる気がしない。
大学生の頃に友達に勧められて吸ってみたのが始まり。
社会人となった今ではこいつを手放すなんて考えられなくなっていた。
それくらいにタバコは俺の生活の一部になっていた。
「……ふぅ」
ゆっくりと肺に入れた煙を夜空に吐き出す。
仕事から帰ってきて晩飯を済ませた後には必ずといっていいほどコイツのお世話になっている。
食後の一服だけは本当にやめられない。
たとえ寿命が縮むことになろうが、そんなことはタバコをやめる理由にはならなかった。
人間、いつかは死ぬのだ。
ジジイになってまで生きようだなんて思えない。
むしろ無理に辞める方がストレスになって体に悪いんじゃね? とまで俺は考える。
ほら、人の体に一番害のある要因はストレスって言うし。
そんなありふれた言い訳を宣いながらも今日もタバコを吸う。
俺は、そんな掃いて捨てるほどにいる喫煙者の一人だった。
「――さて、ちょっと仕事して寝るか」
確かメールが何通か来てたはずだ。
取引先からの無茶ぶりじゃなければいいが、とつぶやきながら俺はベランダから部屋へと戻っていった。
――そしたら、そこには何かがいた。
「…………」
部屋の中央に星座しているのは、金髪の女。
まるでおとぎ話から出てきたかのような緑色の民族衣装を身にまとっている。
そしてなにより目を引いたのが、その背中。
透明な羽だろうか、静かに揺らめく4枚の薄布のようなそれはどこかで妖精を思わせる。
そして胸。デカイ。なんだこれ。
今時作り物でもこんなサイズにはしないぞ。
とにかく主張の激しいそれが、何よりも俺の目線を釘付けにした。
「忠告します。今すぐにタバコをやめてください」
俺が胸を凝視しているのにも関わらず、その女は開口一番にそう言った。
「…………」
「聞こえませんでしたか? 返事は?」
「…………」
「反応まで鈍くなっちゃってるようですね。それだけ体に悪いんですよタバコは。今すぐやめましょう」
――なんだ、この状況は?
俺はさっきまで吸っていたタバコのパッケージに目を移した。
喫煙は、あなたにとって心筋梗塞の危険性を高めます。
パッケージにそうデカデカと記すことを義務付けられたその言葉を頭の中で反芻する。
――脳にも悪いなら、そう書いといてくれよ……
おかげで幻覚を見てるようだ。
確かにこの年になって彼女の一人も出来たことのない非モテ男ではあるが、それが祟って部屋にパツキンの巨乳女(妖精)を幻覚で見るっていうのは流石に笑えない。
こればっかりはタバコの吸いすぎで見てる幻覚症状ってことにしときたかった。
だが現実は無情にも俺に事実を叩きつけてくる。
「話聞いてますか!? なんとか言ったらどうです!?」
目頭を押さえて瞼を何度も見開くが、視界が写す景色は変わらない。
――目の前には、パツキンの巨乳妖精が俺に禁煙を勧めてくる。
「……勘弁してくれよ」
この短時間で、もう一本タバコが吸いたくなった。
◆
「申し遅れました。私の名前はメルル。通りすがりの妖精です」
正座を崩さずにメルルと名乗ったその妖精は綺麗に頭を下げる。
その拍子に大きなお胸もふるりと垂れる。
重力って偉大だ。
――じゃなくてだな。
俺はなんとか目の前の現実を受け入れようと、極めて冷静に努めようとした。
しかし流石に色々と無理があることに俺は秒で気づいた。
不法侵入。まあ理解はしよう。納得はしないが。
喫煙への忠告。まあこれも理解はしよう。絶対にやめないが。
巨乳。理解しよう。
だけど妖精ってなんだよ。しかも通りすがりって。
そう安々と妖精が通りすがってたまるか。
だが、この妖精と名乗るパツキン女の背中にはどうにも作り物と切り捨てるには出来すぎている羽が生えている。
まずはこれを確認せねば。
「あの、その背中のは……」
「ああこれですか? ちゃんと本物ですよ。触ってみます?」
あ、触っていいのね。
背を向けるメルルに遠慮せず、俺は背中から生えているであろう羽に触れてみる。
……思ったより柔らかい。
ザラっとしてるけど、撫でる方向によってはスっと指が走るくらいにサラサラでもある。
こんな感触は初めてだ。
とても作り物とは思えない。多分。
「羽があるってことは……飛べるのか?」
「――女性にそういうデリケートな話を振るのはどうかと思いますよ」
背中ごしにジト目で睨まれる。
え? 飛べるかどうかってそんなにデリケートな話題だったか?
「……飛べないのか?」
「な!ッ……そんなことありませんよ! 飛べます! 確かに最近はご飯が美味しい季節ですけどそんな増えてないし、飛べなくなったわけじゃないですよ! なんならスイスイ~ですよ! 2分くらい!」
突然焦ったように捲し立てる妖精さん。
どうやら妖精に対して飛べる飛べないはわりとデリケートな問題みたいだ。
暗に体重を遠まわしに聞いてるとか、そういうことではないはずだ。うん。
メルルはぷりぷりと怒りながらもお腹周りを気にするように撫でている。
違う。そこじゃない。もうちょい上だ。重いとしたらその脂肪と夢の塊だ。
――というか、ますます頭が重くなってきた。
簡単に妖精と信じるのはどうかとも思うが、現に一服している一瞬の間に音も気配もなくコイツは我が家に不法侵入を成功させている。
妖精じゃなければ忍者だ。どっちにしろ恐ろしい。
「そんなことより! あなた、タバコ吸いすぎですよ」
怒りもそのままに、メルルはビシっと机に置いたタバコを指差しながら言い放った。
「今日1日あなたの様子を見てましたけどなんですかあれ。今日だけで40本は吸ってるじゃないですか」
「今日は少ない方だ。いつもは3箱で調子がいい時は4箱目に手が伸びる」
「うっわ、しんっじらんない……」
まるで汚物でも見るかのような目つきを向けてくるメルル。
女の子からこういった目で見られるとなんかアレだ。グッと……間違った。グサっとくるものがある。
そう、俺は重度のヘビースモーカーなのだ。
チェーンスモークは当たり前。酒が回っててひどいときには2本まとめて吸ったりしてることもある。
タールも中々に重いやつを愛煙してるので、同じ喫煙者からもヤバいと言われることもしばしば。
「本当に早死しますよあなた」
「やりたいことやって死ねるなら本望よ」
「もう少し立派なことやってからそのセリフ言ってください」
やれやれ。気を遣いすぎだ。
大変お節介な妖精さんのようだが、大きなお世話だ。
全く……と腕を組みながら唸るメルルを他所に俺を机のタバコに無意識で手が伸びた。
それに気づいたメルルはパシっと俺の手を叩く。
「何すんだよ」
「あんだけ吸っておいてまだ吸う気ですか!? 本当にバカじゃないですか!?」
「うっさいな。大人には色々とあるんだよ、色々と」
「今どき子供でも納得しないような言い訳使わないでください!」
ウガーッっと獣のように捲し立ててくる。
俺はしぶしぶ手を引っ込めた。
「いいですか。私の目の黒いうちはあなたに1本たりともそんな毒ガス吸わせませんから!」
「毒ガス言うな」
「こんなもの吸うくらいなら風俗行って女の子の乳首吸ってた方がまだマシですよ!」
「お前意外とブッ込んでくるのな」
というか本当にやかましい妖精だ。
「私はあなたを禁煙させるためにここに来たんですから。ちゃんと我慢してもらいますよ」
「ふざけんな。俺は絶対に禁煙なんぞしないぞ」
「いいえやめてもらいます。じゃないと早死しちゃいますからね」
「そんなに禁煙して欲しければ代わりにお前の乳首吸わせろ。それで手を打ってやる」
「あなた、一回死んだらどうですか?」
さっきよりもガチ感の増した「汚物を見るような目」がこちらを向いた。
「――クソ、付き合ってられるか」
俺は机の上に置いてあるタバコを諦め、ポケットの中にあるタバコを吸うことにした。
ふふ、残念だったな。この家にはそこらじゅうにタバコを配置してあるんだよ。
常備している分はもちろん、机の上、棚の中、更には枕の下にまで置いてある。
まあ、出先のコンビニで買った分が部屋に散乱しているだけなのだが。
俺はベランダに出ようと立ち上がった。
すると。
「――たった今、1本タバコを吸う度に身長が1センチ縮む呪いをあなたにかけました」
「……は?」
その言葉に、俺は取り出しかけたライターを床に落とした。
「あなたの身長は約174センチ。100本も吸えばまとも生活できない体になるでしょうね」
唖然とする俺を他所に、ニマニマと笑いながら言葉を続けるメルル。
「――タバコを吸ってチビになるか、タバコをやめて肺を綺麗にするか。選んでくださいね」
「てめえの血は何色だああああああああああああああああああああああああああ!!!」
俺は我を失ったかのようにこのクソ女に掴みかかった。
「ちょ、急に騒がないでくださいよ! ていうか近い、近い!」
「戻せ! 今すぐに戻せ!!」
「冗談に決まってるじゃないですか!! そんな悪魔みたいな呪い、清らかな妖精である私が使えるわけないじゃないですか!!!」
「不気味な存在してる奴が何言ってやがる!! 妙に説得力あってマジでビビっただろうがこのアマ!」
「だから近い近いってば! ていうか息がタバコ臭い!」
こんな感じでドッタンバッタンと大騒ぎしては、隣の住民に文句を言われるまで約1分。
こうして俺の家にハタ迷惑な妖精が現れたと同時に。
俺の初めての禁煙生活がスタートした。
◆
「地獄だ……」
あの妖精がウチに押しかけてきてから約1週間。
俺は見事に禁煙に成功していた。
というか、成功せざるを得なかった。
というのも、あの妖精が常に俺を監視しているのだ。
「私ほどの妖精にもなれば人から認識されないようにするのもほほいのほい!ですよ」とかふざけたことを言って常に俺の背後か頭上にメルルはいる。
もちろん最初は従う気なんてなかった。
だが俺がタバコを手にして火を点けようとするたびの謎のご都合主義的魔法でそれはそれは酷い嫌がらせを仕掛けてくるのだ。
最初はメルルが来て翌日。仕事に向かう時だった。
家にあったタバコとライターは無情にも全て処分されてしまったので、俺は速攻でコンビニに駆け込んでいつも買っているタバコと100円のライターを購入した。
コンビニの前に灰皿に向かいながら封を空け、早速1本取り出す。
待ちに待ったスモーキングタイム。ビバ、ニコチン。
俺は意気揚々とライターの着火ボタンに指をかけ、力を込めた。次の瞬間。
――ライターから勢いよく水が吹き出した。
「ぶへっ!!」
とんでもない勢いで吹き出した水は見事に俺の顔面を直撃。
仰け反る俺の体をものの数秒で水浸しにした。
寒い冬の季節。冷えた風が一層冷たく感じる。
「…………」
すぐに理解した。
あのクソ妖精の仕業だと。
だがこんなのはまだ可愛い方だ。
――あれは、会社の喫煙所でのことだ。
「お疲れ」
「おう、今日も憂鬱そうな顔してるねぇ」
「わかる?」
同じ喫煙者の同僚といつものようにコーヒーを飲みながら雑談をしていた。
「最近あのハゲまたウチの女の子に手を出したらしいよ」
「マジ? 今年で何人目だよ」
「さぁ?」
くだらない話をしつつ、俺は持っていたタバコを取り出し口にくわえ、火を点けようとした。次の瞬間。
「――お前……」
同僚が何か見てはいけないようなものを見てしまったような目でこちらを向いている。
「そんな趣味……あったのか?」
「ふぇ?」
その目線の先には俺の口元。
俺はタバコをくわえてたはずだ。
しかし、口にくわえてたものを手に取ってみると、俺は口元を引きつらせた。
――俺の手には、おしゃぶりが握られていた。
「…………」
「…………」
俺もいい年だ。
いまこの喫煙所で流れている空気がとてつもなく重いものだということくらい理解できる。
だが、信じて欲しい。
「……なんか悩みでもあるのか?」
「ち、ちが」
「気にすんなよ! いい年こいた俺達にだって、そういうのあるよ、うん、な、ほら」
気遣うように絞り出された言葉がなんとまあ空虚なこと。
どんな因果か知らないが、それからしばらく俺は赤ちゃんプレイが好みだと会社で知れ渡ることになった。
流石にこれは効いた。
――特に酷かったのは、男子トイレでのことだ。
「流石にここまでは来れないだろ……」
俺はあの女の監視を逃れるために少し古めのカラオケボックスに駆け込んでいた。
最近ではトイレにも火災報知機をつけている場所がほとんどだが、古い建物にはまだなかったりする。
まあトイレで喫煙なんてモラル的にもアウトなのだが、煙を吸えていないストレスと過度な仕打ちによって冷静な判断が取れていなかったのもある。
なんでもいいから、とにかくタバコが吸いたかった。
俺は便座に座り、タバコを取り出す。
「ようやく……ようやくだ――」
俺が恍惚な笑みを浮かべた、次の瞬間だった。
視界がブレた。
「ッ!?」
テレビの砂嵐のようなものが視界を駆け抜け、体がどこかに放り出される。
座っていたはずの便座も消え、俺はどこかの床に尻餅をついていた。
「…………」
そして、俺はすぐにこの場所がどこかを理解した。
同じカラオケボックスのトイレ。
トイレには違いないのだが、そこは男である俺が絶対に立ち入ってはならない場所だった。
手洗い場の鏡で化粧のチェックをしている女性。
ハンカチで手を拭きながら今にもトイレから出ていこうとする女性。
たった今お花摘みを終わらせ、個室から出てきたであろう女性。
女性、女性、女性――そう、ここは。
「きゃああああああああああああああああああああ!!!!!」
言うまでもない。
俺は、人生で初めて社会的抹殺の危機を感じてその場からダッシュで逃げ出した。
あの時すぐに逃げていなかったらどうなっていたことか。少なくとも、しばらくあの近辺には近寄りたくなかった。
この時ばかりはあのクソ妖精の羽をちぎり取ってやろうかと思った。
――こんな感じで、俺がタバコを吸おうとするたびに、何時如何なる場所でもこうした邪魔が入る。
家だろうと外だろうと関係ない。とにかく俺にタバコを吸わせまいと嫌がらせを仕掛けてくるので、ここ1週間ニコチンが摂取できていない。
もう流石に我慢の限界だった。マジでハゲる。
俺はプライドも何もかもをかなぐり捨てて、家で膝をつき、腰を折り、勢いよく振りかぶった。
「――ここから、出て行ってください!!!」
俺の部屋でルービックキューブをいじくり回すメルルに対して、俺はそれはそれは素晴らしい土下座を披露した。
こうなったらプライドも威厳もクソもあるか。
この妖精は人外の技を使って徹底的に喫煙の邪魔をしてきやがる。
たかが人間である俺がいくら実力行使に出たところで恐らく意にも介さないだろう。
ならもう、頼むしかない。頭を下げるしかない。
誠心誠意を込めてお願いするしかない。
そんな俺の様子の何が面白かったのか、メルルは俺の頭をつつきながらふざけたことを宣い始めた。
「ええ~~どうしよっかな~~私はあなたのためを思ってやってるんだけどなぁ~~そんなにタバコ吸わせてほしい~~?」
このアマ、いい気になりやがって…ッ!
頭を下げているからわからないが、その顔を見てしまえばぶん殴りたくなるくらいにはニンマリとした笑顔を広げているだろう。クソムカつく。
だがここはおだてておこう。
いい気分のままでいれば、聞き入れてくれるかも――
「……そんなに吸いたかったら、ここに行けばいいですよ」
そう言ってメルルは、一枚の紙切れを俺に渡す。
俺はその小さな紙切れを受け取り、目を通した。そこには――
『人妻なでしこ 熟れた果実』
女体を模したシルエットと共に書かれた淫靡な文字。
どう見てもアレな店の名刺だった。
俺は無言でメルルの脳天にチョップを入れた。
あうッと声を上げながら仰け反るメルル。
「ちょ、痛い! 何するのさ! もうこの際乳首でいいじゃん! 吸えればなんでもいいんでしょ!? ていうか好きでしょ乳首!!」
「俺が摂取したいのはニコチンだ!! ババアの乳首で満足すると思ってんのか!!? 喫煙者なめんな!!」
「あなた最初私の乳首吸わせてくれたら禁煙するとか言ってたじゃないですか!?」
「お前みたいな乳オバケの乳首なんて母乳しか出ねえだろうが!! いーよじゃあわかったよ母乳で我慢してやるよだから乳首吸わせろ!!」
「言ってること滅茶苦茶じゃないですかあなた!!! わかりましたよ吸わせますよ! その代わり私の乳首吸ってもまたタバコ吸いたいとか言ったらマジでブチのめしますからね!!!」
口も悪ければ中身も最悪。おまけに話の方向も支離滅裂になってきたので流石にこの辺で止めた。
この妖精、基本敬語なのに口が悪すぎて色々台無し過ぎる。喋る内容もシモばっかりだし。
妖精の看板に泥を塗りたくるにもほどがある。
お互い息を荒げる中、俺は前々から問いたいことを口にした。
「――そもそも、なんでそんなに俺に禁煙させたがるんだよ?」
「私は健康を司る妖精ですから。タバコなんて悪ですよ悪。将来早死しちゃってもいいんですか?」
「俺はお前の嫌がらせによるストレスで死にそうだよ……」
心底、健康の意味を辞書で引き直して欲しいと思った。
「あなたは長生きしたいとは思わないんですか?」
「思わないね」
だいたいタバコが寿命に与える影響なんてたかがしれている。
健常者より10年ほど短くなる、というのが一般的な見解だ。
それもジジイになってからの10年。
そんなものに固執してタバコを手放すなんて馬鹿げてる。若い今を楽しめればそれでいい。
「あなたはそう思うかもしれませんが……」
「いいんだよ。俺の人生なんだから俺の好きに生きさせてくれ」
「……」
俺がそう言うと、メルルは落胆するようにため息をつく。
「まあいいでしょう。確かにここ最近のあなたの顔色は優れているとは言えません。ストレスで体を壊されちゃ本末転倒ですからね」
「いやだからそのストレスの原因はお前……」
「一気に断つ、というよりも少しずつ減らす方向でいったほうがいいかもしれません。その方が徐々に慣れてストレスも抑えられるかもしれません」
「いや聞けよ。お前だよお前。ストレスの原因」
メルルは勝手に納得したようにうんうんと頷く。ダメだ聞いちゃいない。
だが、徐々に減らすとは言えタバコが吸える、というのはありがたい。
本当に限界だったのだ。禁煙に成功した人たちはマジですげえって思う。
禁煙に成功した人たちは、いったい何を思ってそれを成し遂げたのだろうか……
「はい、どうぞ」
メルルはおもむろに胸元の谷間に手を突っ込み、そこからタバコは3本ほど取り出した。
紙煙草を抜き取る拍子に巨大なメロンがふるっと揺れる。
「…………」
「今日から1日に3本までなら吸ってもいいですよ。一週間ごとに1本ずつ減らしていきます。そうすれば3週間後には見事禁煙できてるはずです」
ツッコミ待ちか? 俺にそのおっぱいで温めたであろうタバコを吸えと。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
「いや、本当にありがとうございます」
「いえいえ、そうなお礼なんて」
俺は1週間ぶりのタバコを手に取り、鼻に近づけて葉っぱの香りを楽しむ。
いや、これは葉っぱの香りを楽しんでいるだけだ。断じてそういう意味ではない。断じてだ。
そうだ、俺はようやく吸えるのだ。交渉した甲斐があった。
急いでニコチンを楽しむべく、ベランダに出る。
タバコを口にくわえ、ライターで火をつける。
じゅわっと葉が赤く燃え、フィルターから通す煙をようやく肺に収めると、俺は涙が出そうになるのを堪えながら煙を吐き出す。
「――はぁ~~……」
素晴らしい。
死ぬほどに我慢した後に吸う1本。
俺はこの時のために生まれてきたのだとさえ思えるほどに、突き抜けた快感は相当なものだった。
ありがとうインペリアル。ありがとうフィリップ・モリス。
俺は数あるメーカーに感謝の念を捧げながら、その1本を楽しんだ。
だが、タバコというものはすぐにただの灰に変わってしまう。
1本がなくなると次の1本。それもなくなるとまた次の。
そうしているうちにもらった3本のタバコは早々になくなってしまった。
「…………」
そうか。1日3本か。
無理だ。
俺には無理だ。せめて1箱はないと。
俺はベランダから部屋に戻り、再びルービックキューブに向き合っているメルルに向き合い膝をつく。
「あの、お願いがあるんですが」
「ダメですよ」
「まだ何も言ってないんですが……」
「1日3本まで。これは守ってもらいます」
「違うんです。これは違うんです。まだ初日じゃないですか。せめてあと1本だけでも」
「――本当に喫煙者ってクズばっかですねぇ」
呆れたようにそう漏らすメルル。
おいこら、そういうこと言うもんじゃない。
ニコチンに依存してるってだけでクズと一括りにするな。
「頼む。この通り」
再び土下座。なんとも情けないことこの上ない。
「一体どの通り、なんですかねぇ~」
ニヤニヤとした表情を浮かべながらメルルは立ち上がり、仁王立ちする
こいつ、楽しんでやがる。
たかがタバコ1本で軽々と頭を下げる俺を弄んで、楽しんでやがる。マジで性格悪いなこのアマ。
「情けないですねぇ~ニコチンを摂取したいがためにそんな簡単に頭を下げて。本当に依存性って怖いですねぇ」
「ぐっ……」
「そうは思いませんか? こんなに可愛くてスタイルも良くて妖精界でも絶世の美女とうたわれる私とは言え、こんな小娘相手に大の大人がタバコのために頭を下げるだなんで」
自分で言うな、自分で。
だが、いくらプライドを捨てていると自覚していてもここまで言われると流石にイライラしてきた。
この女は一体、何の権利があって俺にここまでするのか?
「お前、ほんといい加減に……」
「タバコは悪ですよ。自分にも他人にも迷惑をかける。そんな悪いものをあなたから取り上げることになんの間違いがあるんですか?」
その言葉には、自分が絶対的に正しいという思いが端的に込められていた。
そして、次の言葉で俺は我を失う。
「あなたが間違っていて、私が正しいんです。いい加減聞き分けてください」
目の前が真っ白になった。
一般的なものの見方として、今の言葉には多くの人が正というかも知れない。
喫煙は悪いもの。それらが生み出す煙は吸う人にも、吸わない人にも健康に害を与える。
百害あって一理なし。
確かに、そうかも知れない。
けど。
「……お前に何がわかるんだよ」
「え?」
俺は立ち上がり、強くいい放つ。
「吸わない奴に、吸ってる奴の何がわかるって言うだよ!」
俺は、昔から疑問だったことがある。
非喫煙者は常に言う。
なぜ、タバコをやめられないのか?
そんなものやめようと思えばやめられるだろう。
やめられないのは、意志が弱いからだ。お前がダメだからやめられないのだ、と。
なぜ、吸わない人にそこまで言う権利があるのだろうか?
確かにこちら側が煙で他人に迷惑をかけている以上、タバコを吸うなと喫煙者に言う権利はあるだろう。
だが、吸っている人たちの人間性まで否定する権利などないはずだ。
お前は間違っていると、この世にいてはいけないのだと。
煙の害を盾にとって、必要以上に言い放たれる誹謗中傷。まるで犯罪者を見るかのような眼差し。
俺は、それが我慢ならなかった。
タバコを吸っているだけでその人は間違っていて、この世にいてはいけなくて、排除されるべき存在だと言い捨てられるのが我慢できなかった。
「俺だって簡単にやめられるもんならやめてるよ。こんなもん体に悪いし金もかかるし、マジでやってらんねぇ! でも無理なんだよ!」
「なにいきなり逆ギレしてるんですか……」
「だったら受け入れるしかないだろうが! それをお前は頭ごなしにやめろだの吸うなだの、間違ってるだの。お前は何様だ!」
「間違ってますよ! だって他人に迷惑をかけてるんですよ! だったらやめるべきじゃないですか」
ああ正しいよ。他人に迷惑をかけているからやめろ。本当にぐうの音も出ないほどの正論だ。
吐き気がするほどに、ド正論。
それでも俺は言わずにはいられない。
「俺の勝手にさせてくれ! こっちは全部わかった上で吸ってるんだよ。それで何言われても文句言えないのはわかってる。だから押さえつけるのはやめろ」
「……ほんっとうに、自分勝手ですね」
とうとう呆れたのか、メルルは持っていたであろうタバコを懐からありったけ取り出し、部屋に投げ散らす。
「だったら好きなだけ吸ってさっさと死ねばいいんですよバーカ! もう勝手にしてください!」
そう言い放ち、メルルは姿を消した。俺から認識を阻害したのだろう。
恐らく、もう部屋を出ているはずだ。
最後の最後まで口の悪いやつだったな……
「……」
俺は息をつき、そのへんに散らばったタバコの1箱を手に取ってベランダに出る。
そして火を点けた。
「――ふぅ……」
自分勝手、ね。
わかってる。悪いのは自分だ。喫煙者たちだ。これまで好き勝手をしすぎたのだ。
だからこそ、世の中は喫煙者達を隔離しようとしている。
「……少し、言いすぎたかな」
何を今更、といまの言葉に自分で笑えてくる。
だが、彼女は、メルルは他でもない俺のために禁煙しろと言ってくれてた。
俺を常に監視して、1秒でもタバコの煙に触れないように。
まああの嫌がらせに関しては気に障ることの方が多かったのだが。
「まあいいか。これで」
確かに、後ろ髪引かれる思いもある。
禁煙のチャンスを逃したのでは、という思いも僅かにある。
だが、これでいいんだ。
いつもの日常に戻った。
タバコと共にある、いつもの日常に。
そう思いつつ、俺は箱から2本目を取り出した。
◆
メルルがいなくなってから3週間程の月日が流れた。
あれからも変わらずにタバコは吸っている。
ただ今まで受けたメルルからの嫌がらせが相当キテるのか、火を点ける度にあたりを警戒してしまう癖がついた。
「……いない、よな」
そうつぶやき、火をつける。
「…………」
そう、もういないのだ。
あの口うるさい妖精は。
俺が追い出したのだ。
「なんかアレだな……なんというか」
自分でもよくわからない何かが、タバコを吸うたびに胸を疼かせる。
気持ち悪い、なんだこれは?
タバコの副作用か?
とにかく、落ち着かない。
だが、これに似た感情なら知っている気がする。
タバコがないときに感じる、口寂しいと感じる欲求。
寂しい。え。そうなのか?
俺は寂しいとか思ってるのか?
「……まさかな」
確かに騒がしい日々で気が休まる時がなかったが、なんというか。
正直、あの時間は悪くなかったような気もする。
家を出て上京してから一人暮らしの日々。友達もいない。彼女もいない。仕事に追われて忙しい毎日。
俺に口うるさく言ってくるような存在は今までいなかったのだ。
俺を心配してくれるような存在も、いなかった。
そこに現れたのが、メルルだった。
確かに喧しい上に口を開けばタバコをやめろと迫ってくるのはこの上なく鬱陶しく思うときもあったが。
ただどこかで、俺は安心していたのかもしれない。
俺の体を心配してくれる、メルルという存在に。
だが、俺はそんな存在を追い出したのだ。
自分勝手な持論を押し付け、突き放した。
「――本当に自分勝手だよな、俺……」
タバコを吸って口寂しいという欲求を解消することはできても、今この胸に疼く口寂しさは消えない。
これじゃ、タバコを吸ってる意味がないじゃないか……
だが、悲しいことに体は無意識にニコチンを欲している。
そんなことは関係ないとばかりに、手はタバコに伸びている。
「…………」
そんな物思いに耽っている時だった。
ポケットに入れていたスマホが震えた。
電話だ。
「はい、もしもし」
通話ボタンを押すと、聴き慣れた声が聞こえた。
母だ。
『久しぶりやね。元気しとったか?』
「まあね、こっちはこっちで楽しくやってるよ」
母からの着信など久しぶりだ。
何かあったのだろうか?
『あんな。落ち着いて聞いて欲しいんだけど』
軽く相槌を打つと、母は言った。
『父ちゃんが倒れたんよ』
◆
俺の父も、喫煙者だ。
吸っている量は俺よりも少ないが、それでも確か1日に1箱は吸っていた気がする。
父曰く、「吸いたいものを吸って体に悪いなんてことがあるか」だった。
その通りだと、俺も思った。
体が欲しているんだから悪いはずがない。
こんな頭の悪い言い訳を、俺は半ば本気で信じていた。
世の中が言うほど、タバコは悪いものじゃない。
「肺がんですね。それもかなり進行している」
医者の言葉に、俺は頭を打ち付けられたような気分になった。
父はまだ50歳になったばかりだ。
あんなことを平気で宣うような父だ。
今でも元気に、もっと長生きするようなもんだと思っていた。
横にいる母はやっぱりか、といった顔をしている。
父の病状がどれほど酷いものなのか、正直言葉で言われてもピンとこなかった。
体の各所に転移しているとか、ここまで倒れるまで生活できていたのが奇跡だとか、それが逆にがんの発見を遅らせてしまっただとか。専門的なことを言われても頷くことしかできない。
俺が一番愕然としたのは、父の姿を見た時だった。
父は強い人間だった。
常に自分はこうだと周りに強く言い、家庭でも外でも決して自分を曲げることをしない。
よくある亭主関白だ。
だがそんな強い父が、俺は好きだった。
ベッドで横たわったまま寝息を立てる父は、そんな強さを微塵も感じさせない程に弱っていた。
かなり痩せている。筋肉も落ちているだろう。
「親父……」
体中に管を通してなんとか生かされている状態の父を見て、俺は立ち尽くすことしかできなかった。
「あんだけやめろやめろと言っとったのにこんなんなるまで吸ってたんだから、自業自得さね」
母は諦めたように言う。
その言葉には、疲れがにじみ出ていた。
父が寝ているため、病室でできることなど多くはない。
俺と母は病院の待合室でソファに座り込む。
母も父に負けないくらいに強く逞しい人間だったはずだが、流石に旦那ががんだと知った今じゃそんな元気もないだろう。
「医者が言うには、原因はタバコだそうさね」
「だろうね」
「あんたも吸ってたやろ?」
「ああ」
「全く、親子揃って。しょうもないもんに手を出しおって」
母は吸わない人だ。
タバコを吸う俺や父を見ては、いつも「しょうもないもん吸ってからに」と軽口を叩いていた。
「あんた見たか。父ちゃんの肺」
「ああ、見たよ」
俺は医者にCTで撮影した父の肺気腫の写真を見せられていた。
正常な肺と比較したときの違いを事細かく説明されたが、説明されるまでもなく違いが見てわかった。
父の肺には、ほとんど白い血管部分が見えなかった。それほどに肺の血管が狭くなっているのだろう。
そしてピンポイントに映る大きな白い影。
それが、父を苦しめているガン細胞だった。
「あんな風になるまでに吸うもんが、そんなにいいんかね?」
「……」
父は恐らく助からない。
進行が進みすぎて、手遅れの状態なのだ。
ここからは病気の進行を緩やかにする治療しか手を打つことができないそうだ。
それも長く、苦しい闘病生活になる。
喫煙者の肺の写真や、CTの写真などは何度か調べたことがある。
俺も喫煙者なのだ。最初の頃はそのリスクとかに興味があった。
だが、どんなに真っ黒になった肺を見ても何も感じなかった。
まだ俺は若い。こんな状態になるにはまだ程遠い。
やばくなったらタバコなんてやめればいい。それで済む。
そう思っていた。
だが、いざ身内となれば流石に堪えるものがあった。
おもむろに母が立ち上がった。
「あんたはもう帰りんしゃい。明日も仕事やろ」
「別にいいよ。明日は休む」
「バカ言うでないよ。あんたがいたってできることもないわ」
そう言って母は立ち去ろうとする。
「あんたもほどほどにしときな。親より先に死ぬ子ほど親不孝なもんはないからね」
「それは――」
去り際に見せた母の顔が、今でも忘れられない。
たかだかタバコ、されどタバコだ。
今じゃ見えないが、その煙は確かに俺の寿命を縮めている。
その結果が、今の父だ。
「…………」
俺は、しばらく病院の待合室で俯いたように座り続けていた。
◆
「……はぁ」
俺は病院を出て、門を出る。
もうすっかり夜だ。この季節はかなり冷える。
吐き出した白い息が宙を舞い、そして静かに消える。
「…………」
俺は外壁にもたれかかり、ポケットに手を入れた。
そこから取り出したのは、いつも俺が吸っているタバコ。
無意識に、俺はそこから1本取り出していた。
口にくわえる。
「…………」
少し躊躇ったが、俺は疲れていたせいかそのままライターで火を灯そうとする。
すると――
「――ほんっとうに、懲りない人ですね、あなたは」
「…………」
随分と懐かしく、聴き慣れた声が聞こえた。
俺は静かに声がした方を振り向く。
そこには、メルルがいた。
「……ここ愛知だぞ。どうやってきたんだ」
「私くらいの妖精にもなると、東京から愛知の距離なんてほほいのほいですよ」
自慢げに胸を反らす。
そこには、いつもの調子づいたメルルがいた。
「もうてっきり、呆れられたのかと思ったよ」
「私は懐が深いですからね。あれくらいじゃ怒ったりなんてしませんよ」
その割には去り際に死ねとか言ってた気がするが。
まあいいや。そんなことは。
「――悪かったな、あの時は」
「へ?」
「言いすぎたよ。メルルは俺のためを思って言ってくれてたのに、あんな言い方して」
「え? あ、いや、そ、そうですよ! やっぱりちょっとは傷ついたんですからね! もう!」
今度はぷりぷりと怒り出す。プンスカと擬音が聞こえてきそうだ。
「で、お父さんがタバコで倒れたのを見た直後にあなたは何をくわえてるんですか?」
「タバコ」
「見ればわかりますよ!」
メルルはこちらに鬼気迫る勢いで歩み寄り、俺の口からタバコをひったくる。
「こんなものはこうです!」と言いながら、メルルは怪しい魔法か何かでタバコをキャンディに変えた。
「これならくわえてもいいですよ」
「…………」
「えいっ!」
俺の口に無理やりキャンディが突っ込まれる。
甘い。
普段甘いものなんてあまり食べないのに、それはとても美味しく感じられた。
「――やっぱり、俺はダメだな」
「はい、ダメダメですよ。アホだし自分勝手だし童貞だし。全部タバコのせいです」
「やかましい」
童貞は一切関係ないだろ。
「――あなた言ってましたよね。自分の人生くらい、自分の勝手に生きさせてくれって」
「…………」
「そこはあなたの言うとおりだと思います。他人にあれこれ口を出されて生きていくなんて、私だって嫌です。人によっては耐えられないかもしれません」
メルルは俺の手を取り、優しく握り締める。
「そういう意味ではあなたがタバコを吸っていて、それに対して他人にやめろって口うるさく言われるのは、大きなお世話なのかもしれませんし、聞き入れたくないのかもしれません。でも――あなたを心から心配してくれる人の言葉くらいは、聞き入れてもいいんじゃないでしょうか?」
――そう言うメルルの真剣な眼差しから、俺は目が離せなかった。
その心配そうに見つめる目と表情と、さっきの去り際の母が重なる。
「――大きなお世話だよ、ほんっとに」
「そうですね。大きなお世話です。でも、私は本気であなたに長生きして欲しいって思ってます」
「――そうか」
その言葉に、俺の胸に疼いてた口寂しいという感情が柔らかく溶けていく。
タバコを吸っている時とは比べ物にならないほどに感じる、優しい何か。
「――また、隠れて吸い出すかもしれないぞ?」
「そんなことはさせません。私が常に見張っておきます」
「それが嫌になって、逃げ出すかもしれない」
「そのときは追いかけます。地の果てでも、どこへでも」
「また自分勝手なこといって、メルルを傷つけるかもしれない」
「その時は私の魔法でほほいのほいでブチのめしますから。いつでもかかってこいですよ」
本気でそう言うメルルに、俺は可笑しくて吹き出した。
「ははは、まるで俺の母ちゃんみたいだな」
「そうかも、しれませんね」
そう言って、メルルも可笑しそうに笑い出す。
――俺は今まで、禁煙に成功している人が不思議で不思議でたまらなかった。
ニコチンの暴力にどうやって打ち勝ったのか、本当に疑問だったのだ。
けど、その答えがわかった気がする。
きっと禁煙できた人の隣には、メルルみたいな存在があったのだろう。
口うるさくても理不尽でも、その人を本気で心配してくれる存在。
その存在を見て、きっと喫煙してた人もこう思ったのだろう。
自分のために長生きするだなんてまっぴらごめんだ。
でも、この人のために長生きするなら、悪くない。
そのためなら、タバコを捨ててもいいかもな、って。
現に、俺も今は――
「――帰るか」
俺はメルルの手を取り、優しく手を引いてやった。
それに答えるように、メルルが満面の笑みで返してくれた。
「はい!!」
――喫煙者は自分勝手だ。
自分の都合でタバコを吸い、自分の都合で煙を吐き、自分の都合で他人に迷惑をかける。
そして、自分の都合でタバコを捨てる。
それじゃあな、愛するタバコよ。お別れだ。
またお世話になることもあるかもしれないけど、その時はまたよろしく。
左手に握るタバコを見つめ、俺は道端にあったゴミ箱にそれを放り込んだ。