第1頁 声なき同胞たち
ん…?
なんだ、ここは。
身体が重たい。目を開けるのも辛い。
だがまだ生きている実感がある。
あの日あの時私は地面に落ちたはずだ。酷い浮遊感と共に意識が途絶えたので、明言は出来ないものの、死んでいないとは考えにくい。
よしんば生きていたしても私は病院に居るはずだ。
だがぼやけた私の視界に映るのは水浸しの荒れた地面のみで、体勢は手の力を抜いてブラブラしたまま二足で立ち、頭は地面を向いている。
なぜ意識を失ったのちに私は立ってなどいるのか。
なぜ目に見える私の足は、肌が膿みに膿んでしまったかのような、ドロドロした裸足なのか。
なぜ身体の感覚が重たく、それでいて以前よりどことなく細身でどこか物足りなく思えてしまうのか。
そしてなぜこうも、顔を上げるのが辛いのか……さっぱり分からない。
否、思い当たる節がないワケではない。
いくつかの宗教でお馴染みの地獄とやらに私は居るのではないだろうか。馬鹿げた話だが、私は意識を持ったまま所謂亡者とかいう存在になったのではなかろうか。
確かにあらゆることに億劫で腕を振り上げることすらままならないこの肉体は罰と呼ぶのに相応しいだろう。
少なくとも法律では罰せられることをそれなりにやってきた自覚はある。私としてはただの愛情表現だったのだが、どうもかの世界の神とやらは許してはくれなかったようだ。ああ違うな、地獄というなら閻魔大王だったか。
……だとしても、だ。
せっかくならばこの身体の全容を見てみたいものだ。ついでに私と同じような存在と出逢って愛して食べてみたいものだ。
恋をするのに大事なのは見た目より中身だ。物理的にも、精神的にも。
マトモに対話が出来るのであれば、この亡者らしき身体でも愛せる…と思う。後は、そうだな……もしもここが地獄ならば鬼なんて存在もいるかもしれない。
私はバイでもホモでもないから、女性の鬼が居てくれると嬉しいところだ。
尋常じゃないほどに身体が怠いが、このままでは何もかも忘れて、無意味に立ち尽くすだけになってしまう……そんな嫌な予感が頭をよぎる。
動かねば。
…一歩歩こうとしただけで足が砕けるような痛みを感じた。
おいおい、いくらなんでもキツ過ぎないか? これなら頭を上げる方が楽かもしれーー
「ガァイ!」
うん、我ながら恐ろしく醜い呻き声だな。ちなみに痛いと言ったのだが、言葉の発音は無理のようだ。
これでは同種族であっても会話が出来ないのではないだろうか。流石に身振り手振り(無茶苦茶痛い)で愛を育むのは難易度が高過ぎるぞ。
しかもなんとか頭を上げて目に入った光景は大量の亡者の群れだ。というか、私もその一員だ。ピクリとも動かないお隣さんたちの様子から察するに、彼らと愛を育むのは不可能そうだ。
どうも私のように動こうという気が無いようだしね。さらに見た目……私自身もそうなのだろうが身体中がドロドロで顔まで歪んでおり辛うじて目や鼻、口の在り処が分かるくらいの代物だ。ついでにメインのカラーが肌色のままなのが却って痛ましい。いや肌が剥がれた部分は赤みがあるし、一応衣服らしきボロ切れこそ羽織ってはいるものの、やはりグロテスクには違いない。
スプラッタに耐性がないものには衝撃的な映像だろう。
まあなんというか、私は亡者というよりも漫画などで見かける昨今のステレオタイプなゾンビになっているみたいだ。ここが地獄ならもう鬼の皆様が何かしら説明に来るだろうしね。
と、いうことはだ。ここはあのホテルが荒廃した跡地だったりするのだろうか。死体をゾンビ化させる技術など聞いたことがないが、もしかしたら存在していたのかもしれない。なぜかぼろ切れを羽織っているし、それも含めて誰かの裁量だということは充分に有り得そうだ。
もう一つの可能性としては、私がこのゾンビに転生したという可能性があるのではないだろうか。その場合このぼろ切れは……なんだろう、デフォルトで装備していたのだろうか。
まあSFにしろ転生ファンタジーにしろ、私には有り余る状況には違いないのだが。
しかし地獄で無いのなら、どちらが正解でも人が存在するとも考えられる。そこに希望を見出したいところだ。
あぁ……それにしても、なんだって警察のマークに身の潔白を示そうと仕方なく過ごしていた街で死ななければならなかったのだろうか。
かつての恋人の弟との思わぬ再会自体は愉快だったのだが……ああも無茶な男だとはな。
4日後
ああ4日だよ諸君。
意識が常に薄いし、くだらないモノローグでも思い浮かべていなければお隣さんたちと同じ物言わぬ物体Xになってしまいそうだ。
日付の話については正確な時間などさっぱりだが、この虚ろな眼でも明るいか暗いかくらいは判断は余裕で出来て、日が沈んで昇るのが4回あったのだ。
ついでに化け物の身体のくせに夜は眠くなるらしく、4度眠りについた。姿勢は立ったままだが。
その間私が歩けたのはたったの21歩だ。笑いたければ笑いたまえ。一歩進んでは全身が軋むような痛みを感じるのだ。実際の肉体にはなんら変化は起きていないというのに。
ああ、全くなんと嘆かわしいことか……だが、一つだけ良い点も見つけた。
どれだけ時間が経過しようと一向に腹が減らないのである。ゾンビと言えば年がら年中飢えているイメージがあったのだが、どうもそれは違うらしい。少なくとも現在の私には当てはまらないようだ。
これは私が愛を注ぐ上で実に良く働くだろう……以前であれば愛情だの欲情だのという純粋なものにどう足掻こうが食欲という不純物を混ぜなければならなかったからね。この点は実に素晴らしい。いやまあその食欲混じりの融合は融合で良いものでもあったのだが、選択肢が無いのが残念だったのだ。
ただ腹が減らない代わりに身体が全然動いてくれないわけなのだが。ナマケモノか何かなのだろうか、私は。
と頭の中でごちゃごちゃ言い訳を述べつつ次の一歩までの休憩をしている中、1人の人間がこのゾンビの群れの元に現れた。いや正確には隠れており、目では簡単には見つけられないのだが、生きた物体の臭いが激しく私の嗅覚 (らしきもの)を刺激してきた。
途端に身体が軽くなる。
異様な食欲が私を満たす。
……なるほどこの身体はとんでもない欠陥品らしい。自然に身体が駆け出そうとするのを止めるので精一杯だ。
「しまった近付き過ぎたっす! 奴等に見つかった、早く来てくれっす!」
姿は見えないが、声は若い男で言語は私がおかしくなっていなければ日本語に違いない。そして移動速度は……細かくは分からないが私の嗅覚がかつてテレビで見たことのあるオリンピック選手にも負けていない動きをしていることを把握してくれる。
同時に他のゾンビたちの走る速度もそれと同等に近いと感じられる。あぁ、私も今すぐ走り出したい……!
「グァア!」
私は右の脚で左の脚を踏みつけた。
痛い。異常な身体能力のお陰なのか酷く痛い。
クソ、ふざけるなよ、こんな衝動に負けて喰うその行為は愛などではないっ。それに私は同性愛者ではない! 襲うならば女性に決まっている……!
そう、最悪本能とやらに負けるにしても女性が良い!
「先行し過ぎだ! 私に任せてお前は下がっていろ!」
「く、すんませんっしたっ」
先ほどの男よりも野太い男の声。はっきりと臭いは追えないため、ゾンビとしての(?)衝動は大きくなったりはしない。寧ろ最初に現れた男の臭いの現在地が追えなくなったお陰で興奮が収まってきた。
……これは、逃げた方が良いのではないか?
完全な興奮状態ほどではないが、私は今なら早歩きレベルでならば動けるような感覚がある。同時に小腹が空いた程度の食欲も感じるが……逃げるなら今が良いのではないだろうか。
「アルト、暫し耐えなさい!」
「了解ですヴィエラ様っ! ゾンビどもめ……私に集中せよ!」
その時、鈴の音のような可憐な声が聞こえた。聞こえてしまった。
ああ……私の心が震える。この声は、上玉の予感がする…してしまうのだ! 今すぐその顔を、身体を、心を! 喰らわないまでも一目見たくて仕方がない…!
私の心の興奮がこのゾンビの身体にも伝わったのか、また急に身体が活性化していくのを感じる。食欲たっぷりの下卑た情愛の欲求が止まらない。
私は歓喜の笑みを浮かべて走り出してしまった。まったく、結局愛と食は分けられないのか……!
見えた。
金髪碧眼の美しい女性だ。服は白を基調としたちょっと豪奢なもので、大柄な騎士の裏で何やらブツブツと唱えているその姿は信仰心の高い聖職者のようであった。
その表情は真剣そのもので、多くの同胞(喋ったこともないが)を睨みつけている。
ああ……襲いたい。本来ならば話して仲良くなり段々と距離を縮めてから喰らいたいはずなのに。
愛を築くとまでいかなくても語らい警戒心を解いた上で暗がりに誘い込んで喰いたいはずなのに。
ゾンビとしての本能が混じってしまっているのか、今すぐに押し倒したい感情が私の理性を打ち壊す。なぜか同胞どもはゲームでヘイトを稼がれたモンスターのごとく大柄な騎士にのみ集中しているが……そのお陰で騎士は碌に身動きが取れないようだ。
同胞らは馬鹿なのだろうか、あんな硬そうな筋肉ばりばりの男より柔らかそうで可愛らしい女性の方が良いに決まっているのに。
今なら、いける!
私は以前ならば考えられない異様な速度で騎士の横を走り抜いて、聖職者らしき女性に飛びかかる。
「きゃあ!」
と、驚きに満ちた可愛らしい顔から声が飛び出す。実に心地よい悲鳴である。
「なぜだ!? く、退け化け物ども!」
騎士も驚いているが、反転して助けに来る余裕は無さそうだ。話したこともない我が同胞たちが食い止めてくれていることに感謝くらいしておこう。伝わることはなさそうだが。
とはいえ私がこの場で彼女とことを致す時間を稼げるようには思えない。
聖職者の女性を押さえつけて余裕の出来た私は、彼女を攫うことにした。ふむ、これならば強引だが今までのように仲を良くすることも可能ではないだろうか。
私はお姫様抱っこの要領で彼女を抱き上げる。彼女の困惑と恐怖歪んだ顔が可愛らしい。
攫うという行為はヒトが近くに居る状態を維持出来るので私の身体は柔軟なまま逃走することが可能であったのだった。まあその分理性を強く強く働かせる必要もあるが。
「おのれぇ……! おいテルーノ、お前も隠れてないで手伝え!」
「いやいや無理っすから。ヴィエラ様が持ってかれたのはしゃーないんで、ちょい救援呼んでくるっすよー」
背後からの怒りの声と気怠げな声を耳にしつつ、私は全速力で走り続けるのであった。さらばだ、4日間を共に過ごした声なき同胞たちよ。
読了ありがとうございます。
訂正すべき箇所があれば教えてください。
また感想、評価もお待ちしております。