第7話 坂上つぐみと池田未鈴
瀬戸加奈子にとって一番重要な事は、病気にならないという事だった。
何故なら、健康保険証がないからだ。
もう二年以上前、埼玉県大宮市を離れてから、母親は一度も国民健康保険の更新をしていなかった。無論、支払ってもいなかった。
だから、医療費は全額自己負担になる。保険証があれば三割負担で済むのが、まともに払わなければならない。それは月の収入がコンビニのバイト代十二万程の加奈子にとって、もし病院にかかれば大きな負担になった。
ネットカフェでの月の生活だけでも九万円近くかかる。食事代は別だ。預金(親が離婚する前に作って貰った通帳とカードは持っていた)等、殆ど出来る訳がない。
アパートを借りればと簡単に金額差で思う人もいるが、それも現実的には簡単ではなかった。
アパートを借りる場合、敷金礼金等、まとまったお金が最初に必要になる場合が多く、更に賃貸契約の際、連帯保証人を必要とする。加奈子の母親がそもそもアパートを借りず、ネットカフェを仮の宿としたのもその所為だ。世の中は、システムを利用出来る正規の人間には色々な方法もあるが、日本という国の定めた車輪から外れた者には、何かと生かさず殺さずの現状を強いる場合が多い。
お金さえあればなんとかなる。お金が無ければ追い出されて、何処かで野たれ死にするしかない。
加奈子がここ二年程の間で理解した事だった。
今日も加奈子はネットカフェの一・五畳の部屋で、必要以上に厚着をして、毛布に包まり、横になりながらスマホの画面を眺めていた。
スマホは、かつて母がいたときに一緒に購入したものだった。
母親は免許証を持っていたので(住所は以前住んでいた大宮のアパートの住所のまま)、当面の何かに対して、自分を証明する事が出来た。
しかし加奈子には、それが何もなかった。
母親が住所を前のアパートのままにしてあるのならば、大宮市役所に行けば、戸籍抄本を取る事も可能かも知れないが、その際提示する本人確認の証明証がそもそもないのだから、やはり加奈子は現状存在しない人間という事になった。
(ネットやNHKの特番でも見たし、私だけじゃない。本当はうじゃうじゃいるんだ)
そういう未成年者の存在を知り、表立って見えてはいないけれど、相当数の同じ境遇の人が今日本にはいると思いながらも、漠然とした不安と孤独がいつも心の何処かにあった。
それを忘れさせるのがネットだった。
例えばツイッターの向こうの誰かは、本当の自分を知らない。
-十七歳ですー
と、書き込めば、大抵の人は女子高生だと思うだろう。
そこには現実の境遇とは別の、もう一人の自分がいた。
基本的に心はそのままに、しかし、境遇・生活が違う設定の自分。
加奈子はのめり込む様にツイッターの世界に傾いて行った。
そしてギリギリまで横になりツイッターを眺め、書き込み、今日も寝落ちした。
次の日も普通に朝八時からバイトに入る。
ネットカフェから近いコンビニ。
昔から言われるが、何故池袋は駅の東口に西部デパート、西口に東部デパートがあるのだろうか?
加奈子のバイト先のコンビ二は、東口を出て左に向かい、ニコ○コ本社の裏の方の通りにあった。
だから、基本的にサンシャインや、乙女ロード目的の人はまず来る事はなかった。
午後二時二十分。
「どうする?」
「どうするって言っても……」
つぐみに言われ、アタフタとスマホを上下左右一回転させ地図を見ながら、未鈴は答えた。
「そもそも、いけふくろうって何処にあったんだ? 随分来ちゃった様な気がするけど」
「ホントにいつも未鈴ちゃんは方向音痴なんだから。あー、始まっちゃうよ!」
未鈴の言葉にスマホで時間を見て慌ててつぐみが言った。
「え~、此処は何処なんだ?」
慌てながらも、相変わらずスマホの地図を懸命に見て、何処か呑気に未鈴は答えた。
「あー! もおっ! いいよ、此処のコンビニで聞いてみよ」
未鈴を待っていられないと、目の前のコンビニに坂上つぐみは入った。
「待ってよ!」
慌ててスマホから目線を上げ、池田未鈴もつぐみの後を追って中に入る。
自動ドアが開くと同時に入出のチャイムが鳴る店内。
「いらっしゃいませ~」
顔は正面を見たまま、入って来たお客の方は向かずに、加奈子は言った。
つぐみはそんな加奈子の態度など気にせず、真っ直ぐに加奈子のいるカウンターに向かう。
丁度カウンターに客は立っていなかった。
「すいません。アニ○イト池袋店って、何処ですか?」
「へ?」
思わずつぐみの勢いに押され、加奈子は変な声を出した。
後から入って来た未鈴はガム・飴のコーナーで飴を一つ取り、つぐみの隣に並び、カウンターの上に飴を置いた。
「すいません。これ買いますから」
少し苦笑いしてから、未鈴は置いた飴から目線を上げ、加奈子の方を見た。
「あれ?」
一瞬何かを思い出した様な声をあげた。
「それなら道、大きく左にズレてますね。もっとあっち。サンシャインビルの方を目指して行かないと」
未鈴の言葉を気にせず、つぐみの方を向いて加奈子は手振りを交えてアニ○イトの方向を教えた。
「あ、はい。そっちなんですね」
真剣に道案内を聞くつぐみ。
「珍しいですけどね。駅出て真っ直ぐな道なので、こっちの方来る方が難しいと思うけど。あ、こちらお買い上げですね。有難うございます」
苦笑いしながらそう言って、加奈子はカウンターの上の飴にバーコードをかざした。
「ははは」
つぐみは少し恥ずかしそうに笑った。
「カンカンだよね?」
その時、つぐみの隣で目を丸くして、加奈子を見ていた未鈴が言った。
カンカンは、加奈子の中学時代のあだ名だった。
「えっ」
そう言われ、始めてちゃんと二人の顔を見る。
加奈子にも見覚えがあった。
自分が中学を中退するまで、同じクラスで、更に池田未鈴は同じ部活だった。
卓球部だ。
走馬灯の様に蘇る記憶以上に、加奈子は二人に自分が見つかってしまった事に、恐怖した。
今の自分を、知っている人に見られたくはなかった。
つづく
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