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黒の兵科章  作者: べりや
9/19

悪夢

 どこか、暗い世界。

 わたしはそこに一人立っていた。

 そしてわたしの真向かいにもう一人のわたしが立っている。

 彼女は今のわたしよりも髪が少し短く、肩に付いた階級章は一等兵のそれだった。


 彼女はただ何も言わずにただわたしを見ている。

 わたしはその視線が不気味だったので後ずさろうとするが、そこで足が動かない事に気が付いた。

 ふと、周囲に視線をめぐらすといつの間にか手術台の上に拘束されていた。どうりで足が動かないはずだ。

 その時、どこからか呪文が聞こえてきた。


 クトゥルフ・フタグン。ニャルラトテップ・ツガー。シャメッシュ。シャメッシュ 。ニャルラトテップ・ツガー。クトゥルフ・フタグン――


 冒涜的なその呪詛にわたしはよりもがくが、それでも拘束は解けない。

 だがそれだけではなかった。

 もう一人のわたしは人の身では行えないようなユラユラとした動きをし、段々と形が崩れていく。

 それは手足が消失し、いつの間にか黒い軟体生物の触手を思わせる不快感の固まりのような、名状しがたいものへと変貌をとげ、顔の無い化け物へと成長して行った。


 その姿にわたしは喉が張り裂けんばかりに叫ぶが、それは声とはならず、目をつぶろうとも瞠目した瞳は黒い化け物を一心に見つめ、わたしの正気を貪り喰う。


 その時、どこからともなくナイアラが現れた。

 相変わらず薄く表皮に張り付けただけの笑みを乗せた彼は高らかに両手を広げながら高説を垂れる。



「これが外宇宙の生命体。ユゴスより来たりし者。わかりますか? ドッペルゲンガーこそ、天と地の狭間にある、我々の哲学の及ばない存在であり、そういうものをわたくしは帝大で学んでいたのですが、いやはや。お恥ずかしい。あまり熱心にやっていなかったので、雑誌の編集が大変なのです。

 それで、二十五連隊の件で、カンバラ中尉がわたくしを尾行していたようですが、鬱陶しかったので、真理をお話しました。

 そしてこれこそ、真理の一端です」



 ナイアラは自分の言葉に酔っているのか、これまた高らかに笑う。

 だが、その言葉は支離滅裂でまったく意味がわからない。



「さて、時間切れのようですね」



 ナイアラの言葉で我に返ると、わずかに残った正気が逃げろと必死の警告を送って来た。



「さようなら、ドッペルゲンガー」



 ナイアラの言葉でわたしの視界は暗転した。






 オガタが目を覚ますと見慣れた天井が見えた。

 慌てて彼女は起きあがって自身の手足を確認していく。右手、左手、右足、左足。どれも五体満足であり、拘束などされていない。


 そして彼女はようやく先ほどの事が夢だった事に安堵した。

 だが、夢の出来事を思い出した彼女の胃が悲鳴をあげ、その内包物を逆流させようとする。

 オガタは急いで――それでも下宿先の家族を起こさないように気をつけながらトイレに向かい、胃の中の物を全て吐き出した。

 そうすると寝起きの頭と嘔吐感に酔っていた頭が覚醒する。

 そして昨晩の悪夢のような出来事があの夢を見させたに違いないと確信した。


 そう、昨日の夜。

 記者を名乗るナイアラ・ホテフの後を付けていたカンバラと出会ったオガタは彼が平常の心理状態では無いことを悟り、そして意識が暗転しそうになったのだが、寸での所でそれを耐えて救急車を呼んだのだ。

 救急隊の話ではカンバラは錯乱しているだけとのことだったが、彼の姿が尋常では無かったためにオガタの精神を苛んだ事に代わりはない。

 病院から彼女は分屯所に連絡を入れた後、疲れた足取りで下宿先に帰って、床につくと一気にあの夢の世界に飛び込んでしまったのだ。



「最悪……」



 オガタは時計を確認して小さな居室に戻るといそいそと襦袢を脱ぐ。

 軍人とだけあって無駄の無い引き締まった雪のような肢体に一つ襟のシャツを着込み、軍袴の紐を縛り上げる。



「出勤したくないな……」



 だが、下手にサボるとそれは脱走兵の烙印を押される事になるし、何より考課を重視する憲兵への転科に響いてしまう。

 彼女はいっそ、原隊に戻ろうかと思ったが、それをすぐに否定した。

 今は帰れない。帰ったら何をされるかわからない。

 そう思ったのだ。


 そして止めていた手を動かして詰め襟のジャケットを着込もうとして、ふと自分の姿が映った鏡の中の自分に目を移した。

 思い出したくもない昨夜、ナイアラに問われた『もし、自分がドッペルゲンガーだったら?』という問いが何故か蘇ったのだ。


 誰にも気づかれずに自分という存在が入れ替わっていたら?

 それも寸分も違わない自分と入れ替わっていたら?


 鏡の中の自分は青ざめた顔でただ立ち尽くしていた。

 自分でもコンプレックスを抱く童顔、軍の規定よりも長く延びた髪。

 その髪に完全に隠れた首筋。

 タケナガはドッペルゲンガーについて後天的についた傷は再現できないと言っていた事を思い出した。


 オガタは恐る恐る髪に手をかける。

 その髪をまくれば大逆事件の時にできた古傷があるはずだ。

 しかし彼女は髪に手を伸ばした姿勢で固まってしまった。それは恐怖故に手が止まってしまった。

 もし、自分という存在が自分では無かったら? その場合、今いるわたしとはいったい何なのであろうかと彼女は恐怖に震え、そのせいで髪の下を見る事ができないでいた。

 アイデンティティーの喪失に彼女は震えたのだ。

 だが、いつまでも震えてはいられない。すでに出勤の時間が迫っている。

 オガタは鏡を見ないように詰め襟の軍服を着込んでその下から髪を書き上げる。

 急いで外套を着込み、腰に茶色い革のベルトを巻くと、またソロリと玄関に向かう。

 そこでいつも通り靴を履き、ゲートルを巻くと下宿を後にした。


 そう、全ていつも通り。


 早朝の町を行く人々も、元気よく吠える近所の犬も、全てはいつも通り。

 このいつも通りに紛れ込んだ者がいるなんて誰も思っていないだろう。

 その現実にオガタは軽い目眩を覚えながら駆け足で憲兵分屯所に向かった。

 憲兵分屯所につくと、すでに出勤していた兵達が暗い顔でヒソヒソと内緒話をしているのをオガタは見た。



「おはようございます」



 その集団に話しかけると、すぐに見知った顔を見つけた。ハスタだ。



「おはようココロ」

「おはようございます。ハスタ少尉」



 ビシと敬礼をすると、彼女も見本のように決まった姿勢でそれを返した。

 だが、その表情はすぐに曇ってしまう。



「昨日は大変だったね。まさかカンバラさんが……」

「その後、何か?」

「カンバラさんの運ばれた病院の先生から、当直に連絡があったらしんだけど、長期の療養がいるとか」

「え? それじゃ――」

「様子を見て、病気除隊になるかもしれない」



 オガタはその時、カンバラは一生あの不気味な呪文を口ずさみ続けてしまうのだろうと、確信にも似た予感を感じた。



「それにしても、どうしてカンバラさんが発狂なんて……。

 人は見かけによらないって言うけど、ココロも気をつけなね。こういうのって、真面目な人ほどなりやすいって言うし、何かあれば相談になるよ」



 ハスタの包み込むような優しさにオガタは頭を下げるが、ハスタに自分が直面している問題を告げるわけにはいかないと思った。

 それはドッペルゲンガーなどと思考の海でしか生まれ得ないモノが――と話しても信じないだろうという諦観の念もあった。



「さて、朝礼だ。行こう」



 ハスタが懐から時計を取り出し、そう告げると先ほどまでヒソヒソ話をしていた面々はキリキリと外に出て分屯所所長のヤマナカから訓辞を受けてから軍属が経営する食堂に入って朝食を取り出す。

 それが終わると各自の部署に戻り、それぞれの任務につく事になる。

 それはオガタも同じであり、いつも通りに朝食をすませると自分の部署に向かう。

 そこにはいつも通り上官であるマモリがデスクで何か書き物をしている所だった。



「おはようございます。マモリ少尉」

「おう、おはよう」



 マモリは書類から目を離す事無く挨拶を返す。

 そしてマモリは書類を茶色い封筒に入れると、それに厳重に封をした。



「これから帝都に行ってくる」

「帝都? またどうして……?」

「昨晩の件は当事者だったな。実はカンバラ中尉の代わりにナイアラという男を調べるよう命令された」



 二十五連隊での反乱騒ぎの調査を命ぜられていたマモリだが、それは非公式な任務だ。

 表向きには任務についていない手漉きとなっていたがために、マモリが選ばれたと言える。



「マモリ少尉。あの男は危険です。カンバラ中尉があのようになってしまったのも、きっと奴が何か――」

「何を言っているんだ? それより、まずは奴を知らなきゃならない。

 帝都に行って奴を調べてもらうよう依頼してくる」



 依頼という言葉にオガタが首をひねると、「特高につてがある」とマモリは言った。

 そしてオガタは特高とは言え、軍の任務を委託するのはどうかと思ったのだが、ナイアラとこれ以上関わらなくてすむかもしれないと安堵した。



「幼なじみが特別高等警察に入っている。ナイアラが連隊の確信のようなモノに触れられたとなれば、それだけ深く取材していた事になる。

 それで、探っちゃいけない物を他にも探っているかもしれないだろ? その際に特高のお世話になった可能性もある。

 それに帝都出版にも行って、奴の事を調べてくる。あと、ついでに参謀本部に顔を出してアラキ大佐の件も調べてみようともう」



 帝都に出る旨をオガタに伝えたマモリは茶封筒を書類ケースにしまうと、「駅まで送ってくれ」と言った。



「あ、あの、その間にわたしは何をすれば?」

「今のところはハスタについて不明機の捜索に参加しろ。

 それでタケナガの言っていた、館? を探せ。他に必要な指示はあるか?」

「そうですね……。大丈夫だと思います。

 あ、そういえばタケナガは?」

「あいつは俺の旧友という事で官舎に泊めてもらっている。

 昼間は町にいるだろうから、必要なら適当に引っ張っていけ」



 オガタはその言葉に頷くと、自身も支度を始める。

 拳銃の収まったホルスターを装着し、マモリの支度を待って車を回した。



「では、駅ですね?」

「頼む」



 スムーズに車は加速して行き、車窓の景色が瞬く間に後方に流れていく。

 そして奇しくもナイアラの泊まっている旅館の前を通りすぎた。



「マモリ少尉……」



 オガタはナイアラが二十五連隊の事で深い事情を知っているという事を告げた。

 それこそ包み隠さず、昨夜の会話の全てを話すと、マモリは「車を止めろ」と小さく言った。



「お前な。カンバラ中尉がナイアラによってどうにかされたって、お前。今時の小学生だって信じないぞ。それよりどうして迂闊に動いた。

 迂闊に接触したせいで、ナイアラが逃げ出したらどうする?」



 その言葉にオガタは昨日の軽率な行動を恥じた。

 昨日、ナイアラは事が終わるまでこの町にいるとは言っていたが、それは口約束でしかない。

 今も雲隠れされるかもしれないのだ。



「今すぐにでも拘束した方が良いですよね?」

「そうだな。こうなっては奴が消えるのも時間の問題か……。

 だが、すまん。汽車の時刻が……。仕方ない。とりあえず駅まで行ってくれ。今から帝都での連絡先を教えるから、ナイアラを逮捕したら一報入れ――」



 そうオガタとマモリが話あっていると、突然車のガラスが叩かれた。

 二人そろってその方向に視線を向けると、薄く笑うナイアラと目が合った。

 ナイアラは驚きのあまり固まっている二人に目もくれる事無く、後部座席にスルリと入り込んだ。



「やぁやぁ。お二方。外は寒いので少し失礼しますよ」

「な、ナイアラ、さん?」



 オガタが戸惑った口調で名前を呼ぶと、ナイアラは「なんでしょうか?」と世間話をするように口を開く。



「いやぁ、タバコが切れてしまって。その買い物に出ていたら偶然(・・)にもお二方を見つけたので。

 もしかして誰かを逮捕する話でもしていました?」

 


 こいつ確信犯だ。オガタは口を開こうとして、だが言葉にならずに口を閉じてを繰り返した。



「クスクスクス。オガタさん。金魚じゃないんですから、ほら、落ち着いてください」

「ナイアラさん。あんた、いったい何用です?」

「確か……」



 ナイアラがこめかみに人差し指を当ててマモリの名前を思いだそうとするが、故意か、それとも天然なのか思い出せないでいた。



「マモリです」

「そう! マモリさん! いやはや、すいません。それで、なんでわたくしがここにいるのか、でしたっけ? ですからタバコが――」



 そういう話が聞きたいのではない、と殺気の籠もった声がマモリから出ると、ナイアラは降参とばかりに両手をあげた。



「いやはや。昨夜は首を洗って待っていろと言われましたが、待っているのは性にあわなかたもので、こうして出向きました。

 その方が何かと便利でしょう?」



 その言葉に二人は面食らったが、ナイアラはやはり笑ったままだった。



「マモリさん。まだ宿に荷物を置いてあるのです。それを取ってきたいのですが、よろしいですか?」

「……わかった。オガタついていけ」

「良いんですか?」

「俺は歩いて駅に行く。お前はナイアラさんを分屯所に。その後は独自に動いて良い」



 その言葉を拒否したいとオガタは思ったが、上等兵の身分に拒否権は無かった。

 そのためこの薄笑いを浮かべた男と共にいる苦行の時間を思うと、自然とため息が漏れるのであった。



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