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渡り廊下の向こう

作者: touko

「好き」

 彼女が振り返ると制服のスカートがふわりと揺れた。

 肩までの長さの、緩く癖のついた髪の毛もふわりと揺れる。

 細い体はふわりと浮いてしまうかのような錯覚。

 もう一度彼女は言った。オレに。

「好き」

 甘酸っぱい言葉が立ち尽くすオレの心の中に落ちてゆく。

 二人は渡り廊下で見つめあう。

 彼女は綿菓子みたいな甘くふわふわした笑顔で、更にオレに言った。

「お願い、ドキドキして」

 シュワッとオレの心の中でソーダ水が弾ける。

 青い空、白い雲。

 眩しい太陽、蝉の声。

 夏休みの学校。


 桑原は、細い。と言うより、軽い。

 気がついたらふわりと浮いてしまいそうだ。

 顔も軽い。というか薄い、うーん違う。ふわっとして、ふわふわとしている。……巧く、言葉には出来ない。とにかく、よく笑う。

 今だってずっと笑っている。

 こんな数式解きながら、よく笑えるなと感心してしまう。

 数式はそっちのけで、教室の前の方の席に座る桑原を、オレはじっと観察する。

 窓の外からは野球部の声、少し遠くからはテニス部の声。体育館からはバスケ部とバレー部の声がする。ここまで届く声ってどれだけ大きな声なんだ?

 少し前まで、自分もあの中にいたのに。今は教室で補習を受けている。

 高三の夏は辛い。

 部活のことなんて忘れてしまいたいのに、毎日学校に行かなきゃ行けない。うっとうしいBGM聞きながら。

 それにしてもわかんねぇ。

 わかんねぇのがあたりまえか、この間まで勉強なんてそっちのけでボール追いかけていたんだから。とはいっても、ここは進学校なので定期テストで赤点取ると試合に出れないというルールがあり、おかげでオレでも何とか授業には三年間ついていっている。教科書に載っている問題なら何とか解けるが、少しひねりをくわえられるととたんにわからなくなる。

 取り敢えず、オレはプリントの数式に真っ正面からぶつかってみた。が、数式にオレの想いは伝わらず、真っ正面から弾き飛ばされる。

 カキーン!

 窓の外からボールがバットに当たる音がする。


「村上、疲れてるね」

 休み時間になると、前の席の向かいがニヤニヤ笑いながらくるりと振り返った。

「グラウンド走らされるほうがマシ……」

 オレは机にうつぶせになりながら向井に答える。

「オレはグラウンド走らされるほうがヤダ」

「向井は頭いいからな」

「いやいや~、数学も生物もただ好きなだけですよ~」

「サッカー部のくせに」

「オレは体力作りのためにやってただけだしね」

「キャプテンのくせに」

「なーんか、押し付けられちゃってね~」

 裏切り者・向井はだる~い感じで話しながら窓の外を見た。つられてオレも窓の外を見てしまう。

 この教室のある校舎から職員室のある校舎につながる渡り廊下が見える。その渡り廊下をさっきまで黒板の前でわけのわからんことをごじゃごじゃ言っていた教師が歩いていて、誰かに呼び止められたらしく立ち止まる。桑原の後姿が教師に近づき、何かを話しているようだ。

「桑原さんって可愛いよね」

 突然向井が言った。

 オレは昨日のことがあってすぐに返せる言葉が見つからなかった。

「笑顔がいーね」

 向井が桑原をにやついた笑顔で見つめながら言った。

 教師と話す桑原の横顔は笑顔だ。

「頭もいーんだよ」

 向井は桑原情報をオレにくれる。

 頭がいい、意外だ。

 脳味噌まで綿菓子か何かで出来ていそうなのにとオレは思った。

「英語は常にトップらしいよ。この間の期末は満点だったらしいし。あの顔で数学も得意なんだって。他はあんまりらしいけどね」

 向井がなんとなくだらだらした印象を受ける話し方で桑原について語る。

 数学が得意、更に意外だ。でも、なるほど。それでさっきの時間の数学のプリントを楽しそうにといていたわけだ。昨日の一件で、オレは見るつもりはなくともついつい桑原に視線がいってしまっていた。

「向井助かった!」

 その時窓から隣のクラスの野辺が電子辞書を向井に渡す。そういえば朝借りに来てたな。野辺の隣にはいつもべったり引っ付いている土居が。

「冬美も飽きないなぁ。まだ野辺がいいの?そろそろオレにかえない?」

 電子辞書を受け取りながら土居に軽口を叩く向井。「彼女いるでしょ?」と土居は軽くあしらう。「野辺だっているじゃん」と突っ込む向井に、野辺は少し困ったように笑う。

 土居はたぶん美人だ。男にもてないはずはないと思うのだが、入学以来ずっと野辺にくついている。嘘か真か知らないが、土居は野辺に告白らしい。本当なら野辺は土居をふったのか、どういうふうにだろう?そして、ふられた後でもどうして土居は野辺と一緒にいれるのだろう?不思議だ。

 野辺はかっこいい部類に入るのだろうけど、そこまで執着をするものなのか?身長はオレより低いぞ。

 用の済んだ野辺と土居は仲良くくっついて、というより、土居にくっつかれて隣の教室に戻っていった。

二人の後姿の向こうで教師との話が終わったのか、桑原がくるりとこちらに振り返る。

 ふんわりとスカートがゆれた。髪の毛もふわり。

 オレは昨日のことをふと思い出した。

 するとバチッとオレと桑原は目が合ってしまった。

 桑原はオレににっこりと笑いかけてくれた。オレはとっさに、思いっきりわざとらしく桑原から顔を背けた。

子どもじみた反応を返してしまって、自分でも恥ずかしかった。闇雲にふった首が少し痛かった。

クソッとオレは心の中で愚痴ったが、もう一度桑原のほうを振り返る勇気もなかった。

「村上、桑原さんに勉強教えてもらえば?」

 向井が窓の向こうの桑原に手を振りながらオレに言った。

 そんなことできるわけねーだろ。


 反対方向から廊下を歩いてきた桑原がにっこりとオレに笑いかけてくれる。さっきのオレの子どもじみた態度は気にしていない様子だ。

 真ん前から桑原はオレに向かってきて、よけようともしないから、俺は立ち止まらざるおえなくなる。反対方向に向かって回れ右をして恥の上塗りはしたくない。

 桑原が何かを言おうと口を開きかけたので、オレはつい慌てて口を開いた。さっき視線をそらした挽回をしたかった。

「マヨネーズの匂い」

 間抜けなことを言ったしまったと自分でわかっている。桑原からマヨネーズの匂いがしたから、つい。

「お昼、たまごサンド食べちゃった……」

 桑原が少し照れたような困ったような複雑な笑顔で顔を歪め、オレの横をすり抜けて教室の入り口に駆けよった。

「だれかBanかして!」

 桑原の少し焦った声が廊下にも響く。

 すると教室の中から緑色の制汗スプレーがなげられ、桑原の手にキャッチされる。キャッチすると桑原はまたオレの横をすり抜けて女子トイレに駆け込んだ。

 向井が教室の入り口でくくくと笑いを堪えていた。周りにいる女子が冷たい目でオレを見た。

 どうやらオレは桑原に失礼なことをしてしまったらしい。


「あれ~、なんで村上くんだけ残ってるの?」

 程なく教室に入ってきた桑原からは爽やかな香りがふんわりした。

 オレは教室に残って一人で数学のプリントを解いていた。

「謝ろうと思って……」

 オレはシャーペンを持ったままごにょごにょと桑原に呟く。「待っていろ」と女子と向井に言われたんだけど。

「何を?」

 桑原はにこっと笑ってオレに訊ねる。

「マヨネーズって……」

「あぁ、そんなこと。気にしてないよ。むしろ私がごめんだよ。マヨネーズの匂いさせて」

「いや、あー……」

 桑原はなんでもないことのようににこにこ笑う。オレはごにょごにょ……。

 昨日の桑原のせいだ。

 だからオレはどうしていいかわからなくなる。上手く話せない。昨日からずっと桑原の顔が浮かんでくる。

「今なにやってるのー?」

 桑原がオレのプリントを覗き込む。

 近い、顔が近い。

 オレはドキドキする。

「今朝のプリント?」

「あ、あ……」

「これは当てはめる公式が違うんだよ。ここはねぇ、教科書のっと……」

 桑原は自分の机まで行き、鞄の中から教科書を取り出してまた俺の机まで戻ってきた。

「この公式を使ってとくんだよ」

 教科書のその公式が載っているページを、桑原はオレに見えるように開いて、公式を指差して教えてくれた。

「ね、問題の数をこの公式にあてはめてみて」

 ぼーっとしているオレににっこり桑原は言う。

 オレはハッとして桑原の指差している公式にプリントの問題文の数字を当てはめて、計算をする。

「村上くんって計算速いねー」

「そうか?」

「そうだよ、速い!」

 桑原は楽しげにオレに声をかける。オレはそんなことでほめられたことがないのでどうして言いかわからず、取り敢えず計算をする。

「まだ残っているのか?」

 教室の入り口から教師がオレと桑原に声をかけた。

「はい、数学やっています!」

 桑原は冴えない中年数学教師に向かってにこにこと答える。

「おっ、ゴーカな先生だな、村上」

「はぁ……」

 からかうように言う教師にオレはテキトーに相槌を打つ。

「期末テスト数学学年2位だぞ、ありがたく思えよ」

「あー!もう」

 にっとそのさえない顔に悪戯っぽい笑顔をのせて言う教師に、桑原が困ったような声を出す。

「まぁ、がんばれよ。村上」

 教師はそういい残して教室を出て行った。

「すげーな」

 オレはボソッと呟いた。

 向井から頭がいいと聞いてはいたが、学年2位、本物だ。でも、それで特進クラスに入れないっていうことは、数学と英語以外はけっこうひどい点ということか?やっぱりバカなのか?

「でも私、野球はできないよ」

 桑原はさくっと笑顔で言った。

 向井の言葉をオレは思い出した。『笑顔がいーね』

「ホント、村上くん計算速いね。それに正確、正解」

 話しながら、というか話しを聞きながら、コツコツと計算をしていたオレがその問題を解き終わるとすぐ、桑原は嬉しそうにオレをほめた。

 桑原が何がそんなに嬉しいのかはわからないが、ほめられたオレはちょっと嬉しくなる。

 ほめられるのはちょっと気持ちいい。子どもっぽいから絶対口に出して『嬉しい』なんて言わないけど。

 ただほめられて嬉しいのか、桑原にほめられて嬉しいのかはよくわからないが。

「まだ、プリント解く?」

 桑原がオレに訊ねた。まだオレのプリントには解けていない問題がたくさんあった。

「いや、もう、いい……です……」

 もう少し、桑原にほめられたいような気もしたが、オレはぎこちなく断った。

「じゃあ、村上くんも帰る?」

「うん……」

 桑原は鞄の中に教科書をしまって、教室の入り口で立ち止まりオレを見た。

 オレはとろとろと鞄の中にペンケースやプリントを入れた。桑原がオレを待っていてくれるのはわかっていた、わかっていたからなんだか気恥ずかしい。

 どれだけゆっくりしても、いつか帰り支度は終わる。オレは覚悟を決めて、桑原の側に近づいた。

 桑原はにっこりとオレに笑いかける。

 よく笑うヤツだ。そんなに楽しいことがあるのかと感心してしまう。

 教室から出て、あの渡り廊下を二人で歩く。

 オレの前を行く桑原の足取りは軽い。まるで、雲の上でも歩いているかのよう。

 桑原のスカートがゆれる。髪もゆれる。

 オレの心も、ゆれる……?

「桑原……」

「なぁに?」と桑原はオレを振り返る。昨日の桑原と重なる。

桑原は、にっこり、笑う。

「昨日のアレは、どうすればいい?」

 オレは桑原の顔を見れずに、自分の上履きのつま先をじっと見た。

 昨日、桑原は『好き』と「おねがい、ドキドキして」と言うと、笑顔を残して走り去ってしまった。オレの答えとかはいっさい待ってくれなかった。桑原に、オレの答えは必要ないということかもしれない。

 オレには、どうしたらいいかわからない、もやもやしたものだけ、胸に残った。

「昨日のアレかー」

 やっぱり桑原は笑う。

「向井くんとね、」

 そこでなぜ、桑原の口から向井の名前が出てくるのかオレにはわからなかった。

「話してたのね。甲子園の予選が終わってから、村上くん元気ないねーって」

 元気がないのは当たり前だろう。

 野球が好きな人間なら、みんな甲子園に行きたいだろう。行けるのはほんの一握りだとわかっていても、いけなかったら、やっぱりショックだ。やっぱり辛い。

 というか、そもそも桑原と向井は仲がいいのかとオレは疑問に思ったが、桑原の話をわざわざ中断させてまで聞くべきかがわからなくて、オレは口を開かなかった。

「向井くんが、村上くんは野球が好きだったからって」

 そうだ、オレは野球が好きだ。

 ボールを追いかけさせてもらえるならば、しごきのような筋トレもランニングも、ボール拾いもグローブ磨きも、多少の理不尽な先輩の言葉も、なんでもする、何でも耐える。それくらい好きだ。すごくすごく好きだ。

 そういえば、一年の時、サッカー部がボール拾いぐらいしか部活でボールに触れなかった時。グラウンド整備のトンボをサッカー部と一緒に引いていて、肩が当たったとか、トンボの先が当たったとかで向井と殴り合いをしたことがあった。あの時、サッカー部はボールに触れなくて本当にイライラしていた。先輩が途中からほとんどいなくて普通に練習できた野球部がうっとうしかったのはよくわかる、だってオレらも中学まではサッカー部と境遇は同じだったら。周りにいた野球部とサッカー部の一年全員、いつの間にか巻き込んで大喧嘩になっていた。最後は誰を殴っているのかも、何で殴っているのかも、わからなくなっていた。夕方の遅い時間に起こったことで、学校側にはばれることなく、ばれているかもしれないが、怪我のことについて教師に何かを聞かれると野球部もサッカー部も「階段で転びました」という言い訳をしとおした。ケンカなんてとんでもない、暴力沙汰なんて勘弁してくれ。あれだけ殴りあったのに、野球部もサッカー部もすごく冷静だった。

 次の日、オレはすんごい顔で学校に登校した。下駄箱であった向井も、ものすごい顔だった。思わずお互いに、お互いの顔を見て吹き出してしまった。サッカー部も野球部も全員ひどい顔だったが、向井とオレの顔は、一目瞭然、他の部員たちよりもひどかった。

 向井とよく話すようになったのはその後からだ。

 『サッカーは体力づくりのため~』なんて、ふざけたふりをしているが、向井はサッカーが好きだと思う。それもかなり。

 オレの野球ぐらい。

 殴りあったからわかる。

「私が早く元気になってほしいねっていったら、向井くんがそうだねって」

 桑原は話しをし続けた。

「それで向井くんがね、村上くんは選抜の予選が始まる前にカノジョと別れているし難しいかもよって」

「なにがだよ!」

 向井が何を言っているのか現時点ではまだオレにはよくわからなかったが、嫌な予感だけはビンビンしてくる。

「恋をしたら元気になれるよって向井くんが教えてくれたの。ドキドキしてれば他のこと忘れちゃうからって」

 桑原はにっこりあっさりオレにそう教えてくれた。悪気とかそういうものはいっさいないらしい。

 オレはニヤニヤ笑うクラスメイトの顔を思い出して毒づく。

 そんなことを言う向井も向井だが、真に受ける桑原も桑原だ。

「あのさ、好きとかそういうことは、あんまりカンタンに、言わないほうが、いいと思う」

 桑原の告白を真に受けて色々考えていたオレもオレで恥ずかしくて、ぎこちなく声を出す。

 桑原は一瞬だけ不思議そうにオレを見て、そしてやっぱりオレに笑いかけるのだ。

「『カンタンに』なんて言ってないよ」

 桑原は笑ったまま言った。だけのその言葉には重みがあった。オレは間抜け面を返すしかない。

「向井くんには感謝してるの」

「えっ?」

「私の背中を押してくれてね。正直向井くんがいなきゃ、ファーストからキャッチャーに投げる村上くんを見てるだけで満足してたと思うから。だからね、村上くんにどうしてほしいとかは考えてなかったかも。ただ元気になってほしかったの。ついでにずっと温めていた自分の気持ちを伝えれて、ホントにラッキーだった」

 桑原がさっぱりした顔で言うものだから、オレは更にどうしたら言いかわからなくなる。

「村上くん笑って」

 桑原は唐突にそう言った。

「笑ってほしいな」

「えっ?」

「だって、村上くん笑ってないでしょ、ずっと」

 桑原に言われてオレは気づいた。

 自分が落ち込んでいることは知っていたが、自分が笑えていなかったことは知らなかった。

 選抜の予選で負けてからずっと、桑原の言うとおり、オレは笑ってない。

「私、笑ってる村上くんが好き」

 桑原は笑った。

 オレは笑えなかった。


「おっはよー」

 向井がヘラヘラと笑ってオレに声をかけてくる。

 オレはムッとした顔で向井を見る。

「村上くんこわーい」

 向井はふざけながら自分の席に着いた。

「桑原に余計なこというなよ」

「聞いたの?桑原さん、かわいーよねー。いいな、村上。あんなに桑原さんに想われちゃって」

「別に……」

 オレがむすっと言うと、向井はふーんとにやついた。嫌なヤツだ。心の中を見透かされていそうだ。

「桑原さん、転校するんだって~」

「えっ?」

「本当は一学期終わってすぐに行く予定だったんだけど、みんなとちょっとでも長くいたいおからって、補習に出てたらしいよ」

「しらなかった」

「うん、クラスメイトでもほとんど知らない。オレと、仲いい女子くらいだろうね。しってるの」

「桑原と、仲いいんだ」

「村上のおかげサマで」

 向井は一貫してふざけた口調だ。

 教室の前のほうの席で桑原は友達と話している。やっぱり今日も笑っている。

「アメリカ行くんだって」

「アメリカ……」

 えらく、現実味をおびない場所だなとオレは思った。

「お父さんが転勤らしいよ。お母さんと二人で日本に残るって事も考えたらしいけど、桑原さん留学したがってたから、ちょうどいいチャンスだってついていくことにしたみたい」

「そっか……」

 綿菓子みたいな脳ミソとばかり思っていたが、桑原は見かけよりずっとしっかりしているようだ。少なくとも、野球以外は何にもできなくて、野球を取り上げられたらなんの目標も見つからないオレよりも。

「『夢は世界をマタにかける外交官。憲法第九条はやっぱり国家としておかしいと思う、私は日本をもっと素敵な国にして世界を見返してやるんだー』って、桑原さんが」

「よく知ってるな」

「いやぁ、憲法の解釈なんかについては意見があっちゃって、好きな男の好みも一緒だしねー」

 一見、綿菓子みたいな脳ミソのヤツほど中身はきっとしっかり詰まっているんだと、オレは今知った。

 オレの夢は、甲子園だった。

 向井の夢は国立じゃなかったのか?

 向井は国立のその先が見えているのだろう、オレには見えない。

 野球選手になれるほどの才能がないのには小学校中学年の時に気づいた。でも、野球を始めたときからの夢だった甲子園には、死ぬほどの努力さえすれば手が届くような気がした。

 だからオレは死ぬほど努力したと思う。でも、その夢は叶わなかった。不完全燃焼だ。だと言って、甲子園に行けたとしても、甲子園で優勝したとしても、完全燃焼できていたかはわからない。

 ともかく、オレの人生は、夢が叶わなかったそれでおしまいではいけないらしい。甲子園のその先を見つけなければいけないらしいいが、オレにはちっとも見えてこない。

「いーの?村上、このままで」

 目の前のものに向き合っていないオレを見透かしたかのように向井が言った。

 いいわけない。

 わかっている。


 チャンスが見つからなかった。

 桑原に話しかけるチャンスだ。

 あっという間に、今日の補習は終わってしまった。いつもは死ぬほど長いくせに。

 向井は「まー、がんばって」とオレに言うと帰ってしまった。帰ったんだか、彼女と遊んでるんだか、国立の向こうに向かって走ってるんだか、知らないが。ちょっとはオレに協力してくれても罰は当たらないと思う。

 桑原も女子たちと話しながら教室を出て行ってしまった。

 オレも帰ろうと思って席を立った。

 桑原には明日話しかけたらいい。明日もどうせ補習だ。

 この胸の中のもやもやを消すためには桑原に向き合わなくてはいけないと思ったが、桑原に何を話したらいいのか、どういう態度で臨んだらいいのか、まだオレにもわからない。

 オレが渡り廊下に出ると桑原が一人で歩いてきた。

 オレが待っていたチャンスだ。

 だが、オレは桑原に話しかけるのを躊躇った。できれは明日まで待っていてほしかった。どうすればいいか結論は出ていない。

 嫌いじゃないのは好きなのか?桑原はオレと付き合いたいのか?オレは桑原と付き合いたいのか?告白されて行き着く結論は『付き合う』、『付き合わない』その二つだけなのか?なんども繰り返した質問をもう一度繰り返す。

「おつかれサマ」

 桑原からオレに声をかけてくれた。今日もにっこり笑ってくれる。

「おつかれ」

 オレはボソボソと返事をした。

 桑原はそのままオレの横を通り過ぎようとした。

「あのさ!」

 オレは慌てて声をかける。桑原は立ち止まる。

「アメリカって、いついくの?」

 他に桑原との話題なんてない。だってオレは桑原のことなんて何にも知らないから。

「向井くんから聞いたの?」

「うん」

 桑原は苦笑いをする。

「明後日」

「えっ?」

「学校とは今日でお別れなの。明日は色々と準備しないといけないから」

 桑原は軽い感じで言った。

 早すぎだろっとオレは心の中で突っ込んだ。

 オレは、今ここでぐじぐじ悩んだり、後悔したりする時間はないらしい。

 結論を出さなければいけない。その想いだけが空回りをし始める。結論って、オレの結論っていったいなんだ?

「がんばれよ……」

 オレはそのくらいしか桑原にかける言葉を思いつかなかった。オレよりずっと頑張っている人に『がんばれ』っていうのもおかしい感じがする。けれどオレがそう言うと、桑原は嬉しそうに「うん」と頷いた。

「寂しくなったら空見るから」

 桑原は笑顔でオレに言った。

「不思議だよね、どんなに離れていても村上くんも私も、見上げる空は同じ空なんだよ。この空はアメリカにもつながってる」

 桑原は空を見上げて、そしてオレを見て笑いかけてくれた。オレも、桑原ににっこり笑った、つもりだったけど、少しぎこちなかったかもしれない。

 それでもオレが笑うと桑原はもっと嬉しそうに笑った。

「次、会う時はもっと笑えるようになってるから」

 オレは恥ずかしいのをぐっと我慢して、桑原に伝えた。

「次、また会えるの?」

「帰ってくるだろう?」

「帰ってこないかもしれないよ」

「なら、オレが会いに行く」

「本当?」

「うん」

「嬉しい」

 オレはすらすらと言葉が出た。桑原はやっぱり笑う。

「オレも空見るな」

 二人で一緒に空を見上げた。

 オレの心がふんわり軽くなる。今までぐるぐると考えていたことが、桑原の言葉と空の青さに消えていく。あんなに悩み続けていたのが不思議なぐらい簡単に。

 オレには少し明日が見えた気がした。

 甲子園の先だ。

 きっと桑原がそれをくれたんだと思う。オレの未来に一筋の光を。

 大丈夫、オレはその一筋の光をしっかりたどっていける。

 その光はきっと、桑原に繋がっている気がする。


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