6話
焦げた匂いがした。
それも、ほのかに漂う程度のものじゃない。廊下の角を曲がった瞬間、鼻腔を直撃してきた。炭化した何かと、甘い穀物と、香辛料がごちゃまぜになった——言うなれば「料理未遂」の匂い。
嫌な予感がした。正確に言えば、嫌な予感というより、ある一点に向かって思考が収束していく感覚。この商館で料理をする人間は限られている。ガレアの料理番のおばさんは、もうとっくに帰っている時間だ。ガレアは今夜は商談で遅い。となると——
足が自然に速くなった。
部屋の扉を開ける前に、廊下の奥にある厨房の方から物音が聞こえた。何かが転がる音。液体が跳ねる音。そして、か細い悲鳴のような声。
厨房の扉は半開きだった。
中を覗いた瞬間、俺は立ち尽くした。
白い。
厨房が——白い。
正確には、厨房の半分くらいが白い粉で覆われていた。調理台の上、床の一部、棚の取手、そして——厨房の真ん中に立っている銀髪の少女。頭のてっぺんから肩にかけて、まるで初雪を浴びたかのように小麦粉をかぶっている。
ルシェだった。
エプロンらしき布を前に結んでいるが、そのエプロンも白く染まっていた。右手に木べらを握りしめ、左手で鍋の蓋を押さえている。足元には割れた陶器の破片。調理台の上には切りかけの野菜が散乱し、何かの液体がゆっくりとこぼれ落ちている。
そして竈の上の鍋から、灰色の煙がもくもくと立ち上っていた。
凄惨だった。戦場だった。調理という名の戦争の跡だった。
ルシェが俺に気づいた。
紫水晶の瞳が、限界まで見開かれた。白い粉をかぶった顔に、赤いソースの跳ねが右頬についていて、全体として「化け物に襲われた小動物」のような風情だった。——いや、俺の目には信じられないくらい可愛く映ったのだが、それはさておき。
ルシェの体が硬直した。木べらを握る手が震え始める。唇が動いたが、声になるまでに数秒かかった。
「そ、蒼真様——」
次の瞬間、ルシェは木べらを手放し、その場に崩れるように膝をついた。額を床に押しつけんばかりに頭を下げる。小麦粉が舞い上がった。
「も、申し訳、ありません……っ。勝手に、厨房を……お許しなく……」
声が震えていた。全身も震えていた。白い粉の下から覗く耳が真っ赤で、でもそれは恥ずかしさじゃなくて恐怖の色だった。
——ああ、またこれだ。
何かを「してしまった」時のルシェの反応。即座に謝罪。即座に土下座。罰を受ける体勢。十二年かけて体に刻み込まれた条件反射。何をしても殴られた。何をしなくても蹴られた。だから先に謝る。先に身を低くする。少しでもダメージを減らすために。
胸が軋んだ。いつものことだ。いつものことだが、慣れない。慣れたくない。
「お願い、します……罰は、何でも……厨房を汚して、しまって……食材も、無駄に……」
言葉が途切れ途切れになっている。過呼吸の一歩手前。指先が床の上で白くなっている。
俺は一つ息を吸って——
——竈の上の鍋を見た。灰色の煙。何かぐつぐつ煮えている。液面がぶくぶくと泡立って、よく見ると鍋の中身は元が何だったかほぼ判別不能な、茶色と灰色の中間みたいな色をした物体だった。
調理台の上に視線を移す。皮を半分だけ剥かれた根菜。不揃いに切られた何かの葉物。割れた卵の殻が三つ。いや、四つ。いや——殻の破片が多すぎて数えられない。たぶん五個は割っている。その卵液がどこに行ったのかは、床の水たまりが無言で語っていた。
棚の上には、開きっぱなしの調味料の瓶がいくつか。一つは完全に横倒しになっていて、赤い粉が調理台の端からさらさらと滝のように流れ落ちている。
そして、もう一度ルシェを見た。
頭から小麦粉をかぶった銀髪の少女。右頬にソースの赤い跳ね。エプロンの前は白と茶色のまだら模様。額を床につけて、小さな体を丸めて震えている。
——ぶふ、と。
口から変な音が出た。
こらえた。こらえようとした。でも無理だった。
「——っはは」
笑ってしまった。
声に出して、笑ってしまった。
腹の底から込み上げてくるものが止められなかった。この光景が——小麦粉の雪景色と、煙を上げる鍋と、床一面の卵液と、調味料の滝と、その真ん中で土下座している粉まみれの美少女——あまりにも完璧に「大惨事」で、でも誰も怪我してなくて、何もかもが滅茶苦茶で、そのくせルシェだけはどこまでも健気で、一周回って可笑しかった。申し訳ないが、可笑しかった。
「あは、はは——いや、すまん、すまん」
目尻を拭った。涙が出ていた。笑いすぎた。いつ以来だ、こんなに笑ったのは。この世界に来てから? いや、元の世界でも、こんなふうに腹を抱えて笑ったことがあっただろうか。
ルシェが恐る恐る顔を上げた。紫水晶の瞳に困惑が浮かんでいる。殴られると思っていたのに、笑われている。その意味がわからなくて、ルシェの目が不安げに揺れた。
「蒼真、様……?」
「いや——」
笑いの余韻を飲み込んで、息を整えた。しゃがみ込んで、ルシェと目線を合わせた。
「怒ってない。全然怒ってない」
ルシェの瞳がわずかに揺れた。信じていいのか判断できずにいる目だった。
「ただ……何があった? いや、何を作ろうとした?」
「……」
ルシェは視線を床に落とした。小麦粉の上に膝をついたまま、唇を震わせている。
「蒼真様が……おっしゃっていました。この世界の料理は味が足りないと。もっと……蒼真様の国の料理が食べたいと」
——ああ。
三日前のことだ。夕食の席で、ガレアの料理番が作った肉と根菜の煮込みを食べながら、ぽろっと愚痴をこぼしたのだ。「不味くはないんだけどな。でもたまに恋しくなる。味噌汁とか、白飯とか。あったかい家庭料理みたいなやつ」と。
独り言のつもりだった。ルシェに聞かせるつもりもなかった。ただこの世界に来て三週間、塩味が基本のぶっきらぼうな料理を毎日食べていると、日本の出汁の繊細な味わいが無性に恋しくなる瞬間がある。あの時はそれが出ただけだった。
——聞いていたのか。
「蒼真様の国の料理は、わたしにはわかりません。でも……せめて、温かくて、美味しいものを。蒼真様がお疲れで戻られた時に、何か……」
言葉がしぼんでいく。小さくなっていく。まるで自分の行動が許されないことだと、言葉にすればするほど確信していくように。
「勝手なことを……いたしました。お命じいただいたわけでもないのに……」
そこだった。
お命じいただいたわけでもないのに。
つまり、これは命令じゃない。ルシェが自分で考えて、自分で決めて、自分で動いた。俺に言われたからじゃない。怒られるのが怖いからでもない。「蒼真様に温かいものを食べさせたい」——その気持ちだけで、この子は初めて厨房に立った。
料理なんてしたことないだろう。いや、前の主人の下で下働きとして何かやらされたことはあるかもしれない。でも「誰かのために作りたい」と思って台所に立つのは、おそらく生まれて初めてだ。
結果は御覧の通りの大惨事だが——
俺の胸の中に、じわりと熱いものが広がった。
「ルシェ」
「……はい」
「立てるか」
手を差し出した。ルシェが怯えたように俺の手を見て、それからゆっくりと指を伸ばした。冷たい指先が俺の手のひらに触れる。握って、引き上げた。白い粉が二人の間にぱさりと散った。
「一緒に作ろう」
ルシェが目を瞬かせた。
「一緒に……?」
「ああ。この鍋は——まあ、ちょっと手遅れっぽいが」
竈の上の鍋を覗き込む。中身は完全に焦げ付いた何かになっていた。元の食材が何だったか推測するのは考古学の領域だ。
「これは諦めよう。新しく作り直す。俺も手伝うから」
「で、ですが……わたしは、料理など……このように失敗して——」
「失敗したから一緒にやるんだ」
言い切った。ルシェが口を閉じた。
「最初から上手くできるやつなんていない。それに——」
言葉を選んだ。正確に、伝えたかった。
「お前が作ってくれようとした。それだけで十分だ」
ルシェの唇が震えた。紫水晶の瞳に薄い膜が張る。でも涙は落ちなかった。代わりに、こくりと小さく頷いた。
「……はい」
それだけで、十分だった。
* * *
まず片付けだ。
焦げた鍋の中身を処分し、床の卵液を布巾で拭き、散らばった小麦粉を掃いた。ルシェが掃除を手伝おうとするのを止めなかった。一緒にやるというのはそういうことだ。黙々と手を動かしながら、俺は厨房にある食材を確認した。
根菜が数種類。この世界の芋は日本のジャガイモに似ている。丸くて、皮が薄茶色で、中は白い。味も近い。人参に似た橙色の根菜もある。それから玉ねぎに相当するもの。紫がかった外皮の、拳大の球根。切ると目が痛くなるのは万国共通——いや、異世界共通らしい。
肉は塩漬けの干し肉が棚にあった。硬いが、煮込めば柔らかくなる。香辛料は——さっき棚で倒れていた赤い粉を嗅いでみた。辛い。唐辛子系だ。その隣に、もう少しマイルドな茶色い粉。嗅ぐと、甘い土のような匂い。使えそうだ。塩の壺。それから油の瓶。
日本の調味料はない。味噌も醤油も出汁もない。当たり前だ。
でも、シンプルな煮込み——具沢山のスープなら作れる。肉と根菜を切って、塩で味を調えて、じっくり煮る。ポトフみたいなやつだ。元の世界で一人暮らしの時に何度も作った。材料を鍋に放り込んで煮るだけの、怠惰と実用の産物。
「よし。まず野菜を切るぞ」
調理台の上を整理して、芋と根菜と紫玉ねぎを並べた。包丁を二本出す。この世界の包丁は日本のものより分厚くて重い。切れ味は悪くない。
「ルシェ、こっち来い」
ルシェが隣に立った。調理台は二人が並ぶとちょうどいい幅で、肩が触れるか触れないかの距離だった。ルシェの頭は俺の肩あたりまでしか届かない。小麦粉をかぶった銀髪が、ランタンの灯りを受けて白く光っている。まだ粉を払いきれていない。
「まず芋の皮を剥く。こうやって——ナイフの背で引くと薄く剥ける。力は入れすぎるなよ」
手本を見せた。芋を左手で回しながら、右手の包丁で皮を削いでいく。元の世界ではピーラーを使っていたが、この世界にそんな文明の利器はない。
「……こう、ですか」
ルシェが芋を手に取り、包丁を構えた。持ち方は悪くない。たぶん前の主人の家で何らかの下働きはしていたのだろう。でも動きがぎこちない。芋を固定する左手に力が入りすぎていて、指先が白い。
「もう少し力を抜け。芋は逃げないから」
「はい……」
力を抜こうとして、今度は芋がするりと手から滑り出した。調理台の上を転がって——俺の手に当たって止まった。
「あ——」
ルシェの指が芋を追いかけて伸び、俺の手の甲に触れた。
一瞬。
指と指が重なった時間は、たぶん一秒にも満たなかった。でもルシェの手がびくりと引っ込んで、紫水晶の瞳が俺を見上げた。
「すみま——」
「いいから。ほら」
芋をルシェの手に戻した。指先が触れた。今度はルシェは引っ込めなかった。でも、耳の先が赤い。小麦粉の白い中に、その赤がよく映えた。
——可愛い、と思った。不意に。理性のフィルターを通す前に。
咳払いをした。
「次、紫玉ねぎ。半分に切ったら、繊維に沿って薄切りにする」
玉ねぎを俺が半分に切った。断面から強烈な刺激が立ち上る。目が——痛い。
「っ——」
「蒼真様っ!」
「いや、大丈夫。玉ねぎはこういうもんだ。目にくる」
涙を拭いながら言うと、ルシェが心配そうに俺の顔を覗き込んだ。近い。至近距離で紫水晶の瞳と目が合う。ルシェも目の縁が赤くなっている。玉ねぎの仕業だ。
「ルシェも泣いてるぞ」
「え——あ」
ルシェが慌てて目元を擦った。その手は小麦粉だらけで、結果として目の周りに白い粉がついた。さらにひどいことになった。
笑いを噛み殺した。殺しきれなかった。
「何というか——お前、今すごい顔してるぞ」
「……え」
鍋に水を張って覗き込むと、水面に映ったルシェの顔は白粉おばけみたいだった。ルシェが自分の姿を見て、珍しく目を丸くした。——ほんの少しだけ、唇の端が動いた気がした。笑いかけたのかもしれない。見間違いかもしれない。でも、そう思いたかった。
「後で顔は洗おう。今は先に煮込みだ」
鍋を竈にかけ、水を入れた。干し肉を手で割いて投入する。ルシェが切った芋と根菜——不揃いだが許容範囲だ——を加えて、紫玉ねぎも入れた。塩をひとつかみ。茶色い香辛料を少々。
「あとは火を弱めて、じっくり煮る。焦がさないように時々かき混ぜる」
「はい」
「——さっきの鍋は、たぶん火が強すぎたんだな」
「……申し訳、ありません」
「いや、俺も昔やった。初めて自炊した時、カレーを焦がした」
カレーという単語にルシェが首を傾げる。この世界にはない料理だ。
「まあ、似たようなもんだ。煮込み料理を焦がすのは初心者あるある——つまり、誰でもやるってことだ」
ルシェは少し首を傾げたまま、それでも「はい」と頷いた。
鍋がことことと音を立て始める。蒸気が上がり、肉と根菜の匂いが厨房に広がった。まだ完成には遠いが、この匂いだけで少し安心する。煮込み料理の匂いには、どこか「帰ってきた」感がある。元の世界の一人暮らしのアパートで、安い野菜を鍋に放り込んで煮ていた時の匂い。あの頃は寂しかったが、鍋が温まると部屋の空気も温まった。
「蒼真様」
「ん?」
「あの……かき混ぜるのは、わたしがやっても……いいですか」
木べらを握りしめて、おずおずと聞いてくる。やっても「いい」ですか。許可を求める形。でも、その目はさっきまでの恐怖とは違っていた。こわごわだが、何かを「したい」という光が灯っている。
「ああ。頼む」
ルシェが鍋の前に立った。木べらを入れて、ゆっくりとかき混ぜる。真剣な目だった。鍋の中身を見つめる紫水晶の瞳に、湯気が映り込んでいる。
その横顔を、俺は調理台に軽くもたれて眺めた。
小麦粉をかぶった銀髪。右頬のソースの跡。エプロンの汚れ。でも鍋をかき混ぜるその姿は、不思議と様になっていた。ぎこちないが、丁寧だ。木べらの動きにルシェの性格が出ている。
——三週間前、この子は廊下の端で立ったまま朝を待っていた。
二週間前、ペンの持ち方を知らなかった。
今は鍋の前に立って、木べらを握っている。
その事実が、胸の奥をじわりと温めた。
「ルシェ、ちょっとそのまま動くなよ」
「え——」
考える前に手が動いていた。
ルシェの右頬についたソースの跡。赤い汁が乾きかけて、白い肌の上に残っている。それが——ずっと気になっていた。
右手の親指で、そっと拭った。
ルシェの体が固まった。文字通り、石のように。呼吸が止まった。第五章のペンの時と同じだ。でも今回は、震えていなかった。固まっているだけだった。
頬は柔らかかった。指の腹に、ルシェの肌の感触が残っている。磁器のように滑らかで、でも温かい。ソースの跡は一度では取りきれなくて、もう一度親指でそっと擦った。
「……ほら。取れた」
声が思ったより低く出た。
指を離した。離すのに、わずかな抵抗が要った。離したくないという衝動が指先に残っていた。
ルシェの頬が——白い肌が——耳から首筋にかけて、薄紅色に染まっていった。夕焼けが雪原に差すみたいに。白い粉の下から透けて見えるその赤みが、ランタンの灯りの中でひどく綺麗だった。
「あ……」
ルシェが小さく声を漏らした。俺を見上げている。目が潤んでいる。涙じゃない。何か別の——名前のつけられない感情が、紫水晶の瞳の奥で揺れていた。
木べらが鍋の縁に当たって、かちゃん、と音を立てた。その音で俺は我に返った。
「——煮込み、焦げるぞ」
「は、はいっ」
ルシェが慌てて鍋に向き直る。木べらを動かす手が、さっきより少しぎこちなくなっていた。
俺は調理台の端に視線を逃がした。指の腹に残る感触を、握り込むようにして消そうとした。消えなかった。
——何やってるんだ、俺は。
頬を拭っただけだ。ソースがついていたから、取ってやっただけだ。それだけだ。大した意味はない。自然な行動だ。
——嘘つけ。
自分の中の冷静な部分が即座に否定した。自然な行動なら、指を離す時にあんな抵抗を感じるわけがない。頬の感触がいつまでも指に残るわけがない。
鍋がことこと音を立てている。ルシェが木べらを回している。厨房にはあたたかい湯気と、煮込み料理の匂いが充満していた。
その中で、俺は指の腹を何度も親指の側面で擦りながら、あの柔らかさを消すことを諦めた。
* * *
煮込みが完成したのは、それから小半時ほど後だった。
芋が箸——この世界にはないので木のフォーク——で崩れる程度に柔らかくなるまで煮て、最後に味を見て塩を少し足した。肉は硬めだが、出汁がよく出ている。根菜の甘みが溶け込んで、素朴だが悪くない味になった。
日本のポトフとは違う。味噌汁でもない。コンソメもブイヨンもない、塩と香辛料だけの異世界式煮込み。でも——温かい。それだけで十分な価値がある。
深皿に二人分を盛り付けた。粗末な木のテーブルの上に並べる。湯気が立ち上る。
ルシェは自分の皿を見つめていた。
じっと。動かず。湯気の向こうから、皿の中身を覗き込んでいる。
「食うぞ」
「……はい」
木のスプーンで煮汁をすくい、口に運んだ。——うん。旨い、とまでは言えない。だが不味くもない。温かくて、塩味がちょうどよくて、芋のほくほくした食感と肉の旨味が合わさって、ちゃんと「料理」の味がする。ガレアの料理番の味付けより塩が控えめだが、そのぶん素材の味がわかる。
元の世界なら六十点。でも、異世界の台所で、二人で作ったということを加味すれば百点だ。——いや、それは採点基準がおかしい。知ったことか。
ルシェがまだスプーンを動かしていなかった。
皿を見ている。スプーンを握っている。でも、口に運ばない。
「ルシェ?」
「……」
何かを確かめるような目だった。皿の中身を見て、それから俺を見て、また皿に目を戻す。
「これは……わたしも、食べて、いいの……ですか」
「当たり前だろ。一緒に作ったんだから、一緒に食べる」
ルシェのスプーンが動いた。煮汁と一緒に小さく切られた芋をすくい上げて——ゆっくりと口に入れた。
咀嚼する。一度、二度、三度。飲み込む。
間があった。
長い間だった。三秒か、五秒か。ルシェは口元に手を添えて、じっと動かなかった。
何かを、味わっていた。
ただ栄養を摂取するためではなく。飢えを満たすためでもなく。舌の上の味を、確かめるように。噛み締めるように。
それから、ルシェは顔を上げた。
俺と目が合った。紫水晶の瞳が、ランタンの灯りを受けて潤んでいる。
「……美味しい、です」
かすれた声だった。
ほとんど聞き取れないくらい小さな声だった。でも確かに、ルシェの唇がその言葉を形作っていた。
「美味しい……」
もう一度、ルシェは呟いた。今度は自分自身に言い聞かせるように。自分が今発した言葉の意味を、自分の中で確認するように。
——「美味しい」。
好きだ、という意味だ。
これが好き。この味が好き。この煮込みが好き。そう言ったのだ。ルシェが。自分の意志で。命令されたからじゃなく、聞かれたから答えたのでもなく、自発的に——「美味しい」と。
好悪を表明した。嗜好を述べた。「わたしはこれが好きだ」と世界に向かって宣言した。
——泣きそうになった。
不意打ちだった。全く準備していなかった。
この子が、たった一言「美味しい」と言った。それだけのことだ。世界中の人間が毎日何百万回と口にする、ありふれた感想だ。何の変哲もない。特別な意味なんてない。
——嘘だ。ある。
六歳から十二年間、自分の感想を持つことを許されなかった人間が、初めて「好き」を言葉にした。「美味しい」と言えるのは、自分の中に「好き」があることを認められた時だけだ。好きがあるということは、嫌いもあるということだ。つまり、自分の中に基準がある。自分というものがある。
ルシェの中に「自分」が生まれている。
少しずつ、少しずつ。砂時計の砂が落ちるように。椅子の距離が縮まるように。九文字の手紙のように。そしてこの「美味しい」のように——ルシェの中で、長い間封じられていた「自分」が、息を吹き返そうとしている。
こらえた。表情には出さなかった——と思う。
「そうか。よかった」
それだけ言うのが精一杯だった。声が掠れなかったのは奇跡に近い。
ルシェが、もう一口すくった。今度は根菜と肉を一緒に。口に入れて、噛んで、飲み込む。そしてまた、あの表情をした。——唇の端がわずかに、本当にわずかに持ち上がる。数ミリの笑顔。これが何口目かまでは数えなかったが、食べ進めるうちに、ルシェのスプーンを動かす速さが少しだけ上がった気がした。
俺も自分の皿に目を戻して、食べた。
温かかった。体の芯まで染み込むような温かさだった。
芋のほくほくした甘さ。肉の出汁の旨味。紫玉ねぎの溶けた甘み。素朴な味だ。こんな単純な煮込みが、どうしてこんなに美味いのか。——わかっている。味だけの問題じゃない。
一緒に作ったからだ。
散らかった厨房を一緒に片付けて、芋の皮を並んで剥いて、玉ねぎで一緒に泣いて、頬のソースを拭って、鍋を交代でかき混ぜて。
その全部の時間が、この味の中に溶け込んでいる。
* * *
食べ終わった後、二人で皿を洗った。
ガレアの商館の厨房には流し台がある。水を溜めた桶に皿を浸して、布巾でこする。ルシェが洗い、俺がすすいで布巾で拭く。自然と役割分担が決まった。誰が決めたわけでもなく、なんとなくそうなった。
水の音。皿が触れ合うかちゃかちゃという音。たまに聞こえるルシェの呼吸。
静かだった。でも寂しくない静かさだった。
ルシェの横顔をちらりと見た。まだ髪に小麦粉が少し残っている。銀髪の中に白い粉が混じって、星が散ったみたいに見える。
「ルシェ」
「はい」
「また今度、一緒に作るか」
ルシェの手が止まった。
水の中に沈めた皿を握ったまま、俺を見上げた。
「……いいの、ですか」
「ああ。次はもう少し焦がさないように作れるだろ」
「……はい」
小さな声だった。でも、その「はい」の中に、さっきの「美味しい」と同じ温度があった。自分で選んだ「はい」の温度が。
洗い物を終えて、厨房の火を落とし、ランタンを持って部屋に戻った。
廊下を並んで歩く。俺が前、ルシェが半歩後ろ。——以前は三歩後ろだった。買った直後はもっと後ろだった。その距離が、今は半歩。
ランタンの灯りが廊下に二つの影を落とす。大きい影と小さい影。並んで歩く影は、一つの大きな影みたいに時々重なった。
部屋に戻った。
着替え、顔を洗う。ルシェも別室で着替えてから戻ってきた。小麦粉はさすがに落としたらしく、銀白色の髪が元の光沢を取り戻していた。薄手の寝巻きに着替えたルシェは、いつもよりさらに小さく見えた。
——寝台に目をやった。
三週間前、ルシェはこの部屋の扉の横の床で眠っていた。壁に背を預けて、膝を抱えて。奴隷として当然の場所だと信じて。
二週間前、ルシェは寝台の端に横たわるようになった。正確には、俺が何度も「寝台で寝ろ」と言い続けて、ようやく端の端——落ちそうなくらい隅——で眠ることに慣れた。
今は、寝台の真ん中とまではいかないが、少なくとも体が落ちない程度の位置で眠れるようになっていた。
「おやすみ、ルシェ」
「おやすみ、なさい。蒼真様」
ランタンを絞った。灯りが落ちて、部屋が暗くなる。窓から差し込むヴェルメイアの月——琥珀色の柔らかな光——だけが、うっすらと部屋を照らしている。
ソファに横になった。いつものソファだ。体に合わない硬さと狭さ。三週間経っても慣れない。たぶんこの先も慣れない。人体はこの形の家具で安眠するようにできていない。
天井を見つめた。暗い天井の木目は見えないが、そこにあることは知っている。
今日の出来事を反芻した。
焦げた匂い。白い厨房。粉まみれのルシェ。土下座。笑い。芋の皮。玉ねぎの涙。重なった指先。頬の感触。ことこと鳴る鍋。湯気。「美味しい、です」。
——ここが、家みたいだと思った。
不意にそう思った。
一人暮らしのアパートは「住処」だった。「家」ではなかった。帰っても誰もいない。電気をつけても暗い。テレビをつけても静かだ。食事は栄養補給で、入浴は清潔維持で、睡眠は体力回復だった。生きるための機能がそろった箱。それが俺にとっての「部屋」だった。
ここは違う。
帰ると、ルシェがいる。「お帰りなさいませ」と、震えた声で言ってくれる。テーブルの上に「おはようございます」の紙が置いてある。隣に座ると石鹸の匂いがする。文字を教えると肩がもたれてくる。今日は一緒に料理を作った。一緒に食べた。一緒に皿を洗った。
——家だ。
ここは、家になりつつある。
それが嬉しいのか怖いのか、まだよくわからなかった。ルシェがいるから家になったのだとしたら、それは「家」じゃなくて「ルシェ」に依存しているということだ。主人が奴隷に。保護者が被保護者に。それは正しい構造ではない。
でも——正しさなんてものは、この世界に来てからずっと曖昧だ。
ルシェを買ったことが正しかったのか。文字を教えていることが正しいのか。頬を拭ったことは。「一緒に作ろう」と言ったことは。どこまでが善意で、どこからが——
「……蒼真様」
暗闇の中で、声がした。
小さな声。布団の中から聞こえる、かすれた声。
体を起こしかけて、やめた。暗い中で動くとルシェを驚かせる。そのまま横になった姿勢で、耳を傾けた。
「……また」
声が途切れた。沈黙。長い沈黙。
ルシェが何かを言おうとしている。でも、声にならない。言葉を探している。あるいは、言葉にしていいのか迷っている。
待った。急かさなかった。この子が言葉を見つけるのに必要な時間を、黙って差し出した。
「……また……一緒に、作っても……いいですか」
暗闇に、ルシェの声が溶けた。
消え入りそうな声だった。布団に吸い込まれて、もう少しで聞こえなくなるところだった。
——また。
——一緒に。
——作っても。
——いいですか。
許可を求めている。でもこれは、前の「お命じください」とは違う。あれは「命令してくれれば従います」だった。これは「わたしがしたいことをしてもいいですか」だ。
したいことがある。
ルシェに、したいことがある。
一緒に料理を作りたい。もう一度。あの時間をもう一度。——そう「思っている」。そしてそれを「言葉にした」。自分の中の欲求を認識して、それを声に出して、相手に伝えた。
九文字の手紙の次の一歩だった。
「おはようございます」の次に、ルシェが自分の意志で紡いだ言葉。
天井を見つめたまま、目を閉じた。開けていると、たぶん何かがこぼれる。
「ああ」
答えた。
「いつでも」
沈黙が続いた。
でも沈黙の質が変わっていた。さっきまでの沈黙は、言葉を探す沈黙だった。今の沈黙は、言葉を受け取った沈黙だ。温かい沈黙。暗い部屋の中で、二人分の呼吸だけが聞こえる。
毛布が擦れる音がした。ルシェが寝台の上で動いた気配。それから、もう一度——
「……ありがとう、ございます」
声はもう震えていなかった。
俺はソファの上で、天井が見えない天井を見つめながら、左手の指の腹を親指で擦った。ルシェの頬の感触が、まだそこに残っている。
消えなかった。消えないまま、目を閉じた。
厨房の温かさが、まだ体の中に残っていた。芋の甘さと、湯気の匂いと、隣に並んだ小さな肩の温度。
——明日の夕方が、もう待ち遠しかった。




