5話
インクの匂いがした。
鉄錆と植物を混ぜたような、少し青臭い匂い。市場の文具屋で買った安物のインク壺から漂ってくるそれは、どこか懐かしかった。小学校の書道の時間、墨汁の蓋を開けた瞬間の匂いに似ている。もう二度と嗅ぐことはないと思っていた種類の懐かしさだった。
ルシェを買って、二週間が経っていた。
気づいたのは三日前だ。ガレアの商館で帳簿の整理をしていた時、ふと思い立ってルシェに荷札を渡した。「これ、読めるか」と聞いた。木の札に焼印で押された商品名と数量。この世界の文字で「干し肉・二十束」と書いてある。
ルシェは札を受け取り、じっと見つめ、それからゆっくり首を横に振った。
恥じるように肩をすぼめたその姿を見て、俺は自分の愚かさに気づいた。——当然だ。六歳で売られた子どもが、文字を習う機会などあるはずがない。奴隷に教育は与えられない。必要なのは命令を聞く耳と、動く体だけだ。十二年間、この子は文字のない世界を生きてきた。
その夜、市場で紙とペンとインクを買った。紙は羊皮紙ではなく、安い木綿パルプの粗末なものだ。ペンは木軸に金属の先をつけた、この世界のつけペン。インクは前述の安物。全部合わせて銅貨五枚。日当の一日分とちょっと。
ガレアには何を買ったか聞かれなかった。市場で文具を物色する俺を見て、一瞬だけ眉を持ち上げたが、何も言わずに先を歩いた。あの人は、聞かないでいてくれる賢さを持っている。
——で、今日。
テーブルの上にインク壺と紙とペンを並べて、ルシェの顔を見た。
「今日から文字を教える」
ルシェは俺とテーブルの上の道具を交互に見た。紫水晶の瞳が、インク壺の表面に映る光を追っている。
「……文字、を」
「ああ。読み書きができると、いろいろ便利だからな」
理由としてはそれで十分だと思った。実際、便利だ。買い物の札が読める。荷の名前がわかる。帳簿の手伝いもできるようになる。ルシェがこの世界で生きていくために、文字は武器になる。
——本当の理由は別にある。でも、それはまだうまく言葉にできない。
ルシェが文字を覚えれば、この子の世界が広がる。命令を待つだけの毎日に、自分で読み、自分で書くという行為が加わる。それは、この子が「自分」を持つための第一歩になるかもしれない。
大層なことを考えている自覚はある。たかが読み書きだ。でも、六歳から十二年間、名前すら文字にしたことのない人間にとって、それはたかが、ではないはずだ。
「こっちに座れ」
テーブルの俺の隣の椅子を引いた。向かい側ではなく、隣。文字を教えるなら横に並んだほうがいい。俺が書くのを同じ向きで見られるから。
理屈としては正しい。正しいのだが、ルシェが椅子に座った瞬間、その距離に少し後悔した。
近い。
肩と肩の間は拳ひとつ分もない。テーブルに向かって並ぶと、自然とそうなった。ルシェの体が小さいぶん、余計に近く感じるのかもしれない。あるいは、向かい合って座る時とは単純に距離の質が違う。横並びは、視界の端に常に相手がいる。呼吸が聞こえる。体温が伝わる。
——匂いがする。
石鹸の匂いだった。この世界の石鹸は獣脂と灰を混ぜた素朴なもので、強い香りはない。でもルシェが体を洗うようになってから——自分で髪を洗ったあの日から——この子からは石鹸のほのかな香りがするようになった。奴隷市で感じた埃と血錆の匂いはもうない。代わりに、清潔で、柔らかくて、少し甘いような匂い。
意識するな。集中しろ。文字を教えるんだ。
咳払いをひとつして、ペンを取った。インク壺に先端を浸し、紙の上に一文字書く。
「まずはこれだ。この世界の文字の基本——横線と縦線の組み合わせでできている。これが"ア"」
この世界の文字体系は、ある意味では日本語のカタカナに近い。一音一字で、角張った線の組み合わせで構成されている。俺自身、ガレアに教わって二週間足らずで基本的な読み書きができるようになった。不思議なことに、この世界の文字は一度見た形が記憶に焼き付く。日本語の漢字を覚えるのとは比較にならない速度だ。渡り人の恩恵なのかもしれない。
紙の上に基本の文字を五つ並べた。ルシェは身じろぎもせず、俺の手元を見つめている。その集中力の高さに少し驚いた。
「次、お前の番だ」
ペンを差し出した。ルシェが受け取る。細い指がペンの軸を握った——途端に、その手が震えた。
ペンを持ったことがないのだ。当たり前だ。文字を知らない人間がペンを握る理由はない。スプーンや箒は持てる。ナイフも使える。でもペンは——ペンは、ルシェの十八年間の人生に一度も存在しなかった道具だ。
握り方がわからないのだろう。五本の指がペンの上で所在なく動いている。強く握りすぎて指先が白くなったかと思えば、次の瞬間にはするりと滑り落ちそうになる。
「貸してみろ」
言って、手を伸ばした。ルシェの右手に自分の右手を重ねる。
——指が、冷たかった。
細くて、小さくて、骨の形がわかるほど肉の薄い指。ルシェの手は俺の手の中にすっぽり収まった。その冷たさと華奢さに、胸の奥が軋んだ。
ルシェの息が止まった。
比喩ではない。文字通り、呼吸が止まった。横に並んでいるから、胸の動きが見える。それが完全に静止していた。
「力を抜け。ペンはこう持つ。親指と人差し指で挟んで、中指で支える」
できるだけ事務的に言った。声が平坦であるよう努めた。手が震えていないことを祈った——震えていたかもしれない。わからない。ルシェの指の冷たさと、その下にある体温と、指の関節の小さな突起の感触が、全部まとめて手のひらに押し寄せてきて、自分の手がどうなっているのか把握できなかった。
ルシェの指を一本ずつ正しい位置に導く。親指をここ。人差し指をここ。中指はペンの下側に添えて。
「そう。そのまま」
呼吸が戻ってきた。ルシェの胸がゆっくりと上下し始める。でも浅い。明らかに意識している。——何を? 俺の手か。ペンの感触か。両方か。
「じゃあ、一緒に書くぞ。力は入れなくていい、俺が動かすから」
ルシェの手を握ったまま、ペン先をインクに浸す。紙の上に持っていく。最初の一画を引いた。横線。ルシェの手が俺の手の中で微かに震えている。ペン先が紙に触れる感触が、ルシェの指を通して俺の指にも伝わってくる。
二画目。縦線を下ろす。ルシェの手が、ほんの少しだけ俺の動きに沿った。抵抗していた力が抜けて、手を委ねてきた。
"ア"の字が紙の上に現れた。不格好で、線が震えていて、インクの太さもまちまちだ。でも——文字だった。ルシェが生まれて初めて書いた文字だった。
「できたな」
手を離した。離した瞬間、ルシェの右手が所在なく宙に浮いた。今まで俺の手があった場所に、空白が残っている。その空白を見つめるルシェの横顔を、俺は視界の端で捉えていた。
「次は一人で書いてみろ。同じ文字をもう一度」
ルシェはペンを握り直した。さっき教えた持ち方を、必死に再現しようとしている。指の位置がずれる。直す。また少しずれる。何度か調整して、ようやくそれらしい形になった。
紙にペン先を下ろす。横線を引く——震える。縦線を下ろす——揺れる。でも書いた。一人で。
その字は、先ほど二人で書いたものより更にぎこちなかった。横線は右に下がり、縦線は微妙に曲がっている。だがルシェはその文字を、まるで信じられないものを見るような目で見つめていた。
——自分が、書いたのだ。
その事実が、今この瞬間にルシェの中に生まれていた。
「じゃあ、次」
五つの基本文字を一通り教えた。ルシェは一文字ごとに何度も書き直し、そのたびに少しずつ線が安定していった。集中している時、この子は無意識に唇を薄く開く癖があるらしい。そのことに気づいて、すぐに気づかなかったことにした。
一時間ほど経った頃、ルシェの指先にインクの染みがいくつもついていた。紙の上には練習の跡がびっしりと残っている。最初の一文字と最後の一文字を比べると、明らかに上達していた。
「筋がいいな」
素直に言った。お世辞ではない。ルシェは間違いを修正する速度が速い。一度指摘したことは次の試行で改善している。観察力が高いのだ。——十二年間、主人の顔色を読むことで生き延びてきた子だ。人の動きを見て再現する能力は、磨かれていて当然かもしれない。
ただ、その能力の由来を考えると手放しで褒められない。この子の「筋の良さ」は、才能ではなく生存本能の産物だ。
「蒼真様」
ルシェが小さな声で言った。視線は紙の上に落としたまま。
「はい」
「——ルシェの名前は、どう書くのですか」
不意を突かれた。
ルシェが自分から何かを聞いてきた。質問という形で、自発的な意思を表した。これまでルシェの口から出る言葉は、挨拶と、命令への返答と、俺の言葉に対する最低限の応答だけだった。
自分の名前を書きたい。
その欲求が、ルシェの中に生まれていた。
「——書くぞ、見てろ」
声が少しだけかすれた。気づかれなかったと思う。
ペンを取り、インクを含ませる。紙の余白に、丁寧に書いた。
ル。シェ。
この世界の文字で、ルシェの名前を構成する二文字。角張った線の組み合わせが、紙の上でひとつの名前になる。
「これがお前の名前だ」
ルシェは身を乗り出した。紙に顔を近づけて、その二文字を食い入るように見つめている。唇が微かに動いた。声にならない声で、自分の名前をなぞっている。
「書いてみるか」
こくり、と頷いた。普段より大きな動きだった。
ペンを握る。インクを含ませる。紙にペン先を下ろす。——手が、これまでで一番震えていた。
ルシェは慎重に、一画一画を引いていった。横線を引き、止め、次の線に移る。さっき練習した基本文字の動きを思い出しながら、組み合わせていく。ペン先が紙を引っ掻く小さな音が、静かな部屋に響いた。
二文字目を書き終えた時、ルシェの手が止まった。
紙の上には——ルシェ、と書いてあった。
お世辞にも綺麗とは言えない。一文字目は大きすぎて二文字目は小さすぎる。線は震えているし、インクの溜まりが何箇所かある。でも読める。間違いなく、ルシェ、と読める。
ルシェはその文字を見つめていた。
長い時間、動かなかった。ペンを握ったまま、自分が書いた自分の名前を、ただ見つめていた。
「これが……わたし、ですか」
声が震えていた。目が潤んでいた。紫水晶の虹彩の縁に、薄い水の膜が張っている。
泣くのか、と思った。また泣かせてしまうのか、と。
でもルシェは泣かなかった。涙は溢れる寸前で止まり、代わりに——笑った。
笑った、と言っていいのかわからない。口元がほんの数ミリ持ち上がっただけだ。目元の強張りがわずかに緩んだだけだ。他人が見たら何の変化も感じないかもしれない。
でも俺には見えた。二週間、この子の顔だけを見てきた俺には、その数ミリが何を意味するか、はっきりとわかった。
ルシェが初めて見せた笑顔だった。
「——ああ。それがお前だ」
声が震えなかったのは奇跡だと思う。
* * *
それから、文字の時間は毎日の習慣になった。
夕方、俺が商館から戻って夕食を終えた後。テーブルの上にインクと紙とペンを広げて、ランタンの灯りの下で文字を教える。一日に覚える文字は三つから五つ。急がせる必要はない。ルシェのペースでいい。
三日目にはルシェが自分でインクと紙を出して待っているようになった。
俺が部屋に戻ると、テーブルの上に道具が並んでいる。紙はまっすぐに置かれ、ペンはその右側に、インク壺は紙の左上に。毎日同じ配置。俺がそうしたのを見て、正確に再現している——最初はそう思った。
でも、四日目に気づいた。配置が微妙に違う。紙の位置がテーブルの端から少し中央寄りになっている。つまり、俺の席とルシェの席の中間。二人で見やすいように、ルシェが自分で調整したのだ。
それは小さな変化だった。命令を再現するのではなく、自分で考えて配置を変えた。ルシェの中で「こうしたほうがいい」という判断が生まれていた。
五日目から、ルシェが授業の前に椅子を二脚並べるようになった。俺の分とルシェの分。椅子の間隔は日を追うごとに狭くなっていった。
初日は拳ひとつ分。三日目には拳半分。五日目には——ほとんど隙間がなかった。
意図的なのか無意識なのか、わからない。聞く勇気もなかった。ただ座ると、ルシェの肩が俺の腕に触れそうな距離にある。ページをめくるたびに指が掠める距離にある。
俺は何も言わなかった。椅子を離しもしなかった。
——たぶん、俺も同じことを望んでいた。
一週間が経つと、ルシェは基本文字をすべて覚えた。簡単な単語が読めるようになった。市場の看板の文字を指さして「あれは"パン屋"です、蒼真様」と言った時、不覚にも鼻の奥がつんとした。
教えているのは俺のはずなのに、なぜかルシェが何かを覚えるたびに、俺のほうが胸がいっぱいになる。この感情に名前をつけるのは、まだ早い気がした。
* * *
変化に気づいたのは、ガレアだった。
昼食の時間、市場の屋台で串焼きを齧りながら、ガレアが唐突に言った。
「あの子、変わったね」
「……何が」
「目だよ。あの子の目が変わった」
ガレアは串焼きの骨を皿に置いて、琥珀色の瞳で俺を見た。商人の目だ。人を値踏みし、品定めする目。でもそこに、今は好奇心が混じっていた。
「あたしが最初に見た時はさ、ありゃ死んだ魚の目だった。いや、魚のほうがまだ光ってるか。何も映してない。何も見てない。目は開いてるけど、中身が空っぽ。奴隷に多いんだよ、ああいう目。長くやられた子ほど、目が死ぬ」
串焼きの脂が皿に落ちる音が、妙に大きく聞こえた。
「今はね、違う。まだ怯えてるし、暗いけど——何かを見てる。ちゃんと見てる。あんたが部屋に入ってきた時、あの子の目が動くんだよ。追いかけるんだ、あんたの姿を」
知っている、と思った。でも口には出さなかった。
「あんた、何したんだい?」
「……文字を教えてる」
「文字?」
ガレアが目を丸くした。それから、大きな声で笑った。屋台の主人が振り返るほどの笑い声だ。
「奴隷に文字を教える主人なんて聞いたことないよ! あんた本当に変わってるねえ。いや——」
笑いが収まった。ガレアの表情が、少しだけ柔らかくなった。
「変わってるのは、いいことさ」
それだけ言って、ガレアは新しい串焼きに手を伸ばした。
俺は黙って水を飲んだ。ルシェの目が変わった。それはガレアに言われなくてもわかっていた。わかっていて、でも他人の口から聞くと、実感が増す。何かが進んでいるのだ。ゆっくりと、少しずつ、だが確実に。
* * *
十日目の授業だった。
この日は少し難しい文字に挑戦していた。画数が多く、線が込み入っている。ルシェは何度も書き直していた。紙の上に消し跡——この世界に消しゴムはないから、上から線を重ねた跡——が増えていく。
ルシェの眉間にしわが寄っていた。唇を噛んでいる。ペンを握る指に力が入りすぎて、紙にインクの滲みが広がった。
「……っ」
小さな声が漏れた。苛立ちの声だった。ルシェが苛立ちを表に出すのを、俺は初めて聞いた。
奴隷は苛立たない。苛立ちは不満の表明であり、不満は主人への反逆と同義だ。どんな理不尽にも感情を殺して耐える。それが十二年間のルールだった。
でも今、ルシェは苛立っていた。文字がうまく書けないことに。自分の手が思い通りに動かないことに。——それは、「うまく書きたい」という意志がある証拠だった。
「ここの角は一度止めてから方向を変えるんだ。急に曲げると線が乱れる」
隣から声をかけた。ルシェは頷いて、もう一度挑戦した。——また滲んだ。
「……蒼真様、わたしは……」
何かを言いかけて、ルシェは口をつぐんだ。何を言おうとしたのかはわからない。「わたしにはできません」だったかもしれない。「わたしは頭が悪いです」だったかもしれない。
どちらにしても、ルシェはそれを飲み込んだ。飲み込んで、またペンを握り直した。
何度目かの挑戦だった。ルシェの呼吸が浅くなっていた。集中と苛立ちで余裕がなくなっている。ペン先が紙の上で止まり、動かなくなった。
そして——ルシェの額が、俺の肩に触れた。
ことん、と。
軽い、小さな衝撃。額が肩に当たった感触。銀白色の髪が腕に触れて、さらりと流れ落ちる。石鹸の匂いが、さっきより近くなった。
ルシェが額を俺の肩に預けていた。
無意識だったのだと思う。疲労と集中の果てに、体が自然と一番近いものにもたれかかった。それがたまたま俺の肩だった。——いや、たまたまではない。ルシェの隣には最初から俺しかいなかった。
時間が止まった。
ルシェの額の温度が、シャツの布地を通して肩に伝わっている。吐息が腕に当たっている。髪が腕を撫でている。心臓がうるさい。こんなに近くにいるのに、ルシェには聞こえていないのだろうか。この心臓の音が。
二秒か、三秒か。たぶんそれだけの時間だった。でもその数秒間に、俺は自分の心拍を百回くらい聞いた気がする。
ルシェの体が硬直した。
額が肩から離れる——離れかけた。ルシェが弾かれたように体を起こし、椅子ごと横にずれた。顔が蒼白になっていた。目が見開かれている。唇が震えている。
「も、申し訳、ございませ——」
恐怖だった。
主人の体に触れた。許可なく。自分から。——奴隷がそんなことをすれば、何が起きるか。ルシェは知っている。殴られる。蹴られる。鞭で打たれる。次の主人に売られる。あるいはもっとひどいことが。
ルシェの手がテーブルの下で握りしめられていた。全身が縮こまっている。目を閉じて、打たれるのを待っている。
俺は手を伸ばした。
ルシェの肩に触れた。小さな、骨ばった肩。そのまま、力を込めずに、でもはっきりと——引き寄せた。元の位置に。俺の隣に。
「別にいい」
声が出た。思ったより落ち着いた声だった。中身は全然落ち着いていないのに。
「そのままでいろ」
ルシェの目が開いた。紫水晶の瞳が、至近距離で俺を見上げていた。恐怖と、困惑と、それから——信じられないという表情。蒼白だった顔に、ゆっくりと色が戻っていく。
俺の手はまだルシェの肩に乗っていた。離すべきかもしれない。でも離したら、この子はまた遠くへ行ってしまう気がした。椅子を引いて、壁際に立って、扉の横で縮こまって。その距離に、戻したくなかった。
「力を抜け。文字の続きをやるぞ」
何でもないことのように言った。平静を装った。手を肩からそっと離す。ルシェは数秒間、動かなかった。俺の顔を見つめて、テーブルの上の紙を見つめて、自分の手を見つめて。
それから——体の力が抜けた。
ルシェが、俺の肩にもたれた。
さっきとは違う。今度は無意識ではなく、意識して、自分の意志で。おそるおそる、数ミリずつ距離を詰めて、最後に肩が俺の腕に触れた。額ではなく、側頭部。ちょうど耳の上あたりが、俺の二の腕に当たっている。
温かかった。
ルシェの体温が、腕を通して体の芯まで伝わってくる。石鹸の匂い。かすかな吐息。銀白色の髪が腕にかかって、ランタンの灯りを受けて淡く光っている。
心臓がうるさかった。明らかにうるさかった。ルシェの耳は俺の腕のすぐそばにある。聞こえているかもしれない。聞こえていたら恥ずかしいが、どうしようもない。
「……では、続きを」
ルシェが小さな声で言った。声が震えていた。でも、離れなかった。
「ああ」
ペンを取った。文字を書いた。何を書いたか覚えていない。たぶん次の文字を教えたはずだ。たぶんルシェも練習したはずだ。でもその間ずっと、意識の大半は腕に触れている温もりに持っていかれていた。
ルシェの肩が俺の腕に預けられている。その重さ。その熱。その確かさ。
文字どころではなかった。正直に言えば。
でもこの時間が終わるのが惜しくて、俺はもう三十分、文字の授業を引き延ばした。
* * *
二週間目に入ると、ルシェは簡単な文章を書けるようになっていた。
「パン」「水」「朝」「夜」。身の回りの単語から始めて、少しずつ語彙を増やした。ルシェは教えた単語を片端から吸収していった。夜、授業が終わった後も一人で練習していたらしい。朝起きると、テーブルの上にルシェが夜のうちに書いた練習用の紙が置いてあることがあった。びっしりと文字で埋め尽くされた紙。同じ文字を何十回も繰り返し書いた跡。
それを見るたびに胸が詰まった。この子は文字を覚えることに、飢えている。世界を知ること、自分で読めること、自分の手で書けること——それがどれほどの歓びなのか。六歳から十二年間、暗闇の中にいた人間が、初めて自分の手で灯りをつけたような。
ある朝のことだった。
ソファで目を覚ました。首が痛い。背中が軋む。二週間以上このソファで寝ているが一向に慣れない。人体はこの形の家具で眠るようにできていない。
体を起こして、まず部屋を見渡す。ルシェは——扉の横にはいなかった。最近はもう立って待っていない。寝台の上で毛布にくるまって眠っている。この変化だけでも、どれほどの距離を歩いてきたかわかる。
テーブルに目をやった。
紙が一枚、置いてあった。
昨夜の授業で使った紙とは別だ。新しい紙だ。その上に、インクで文字が書かれている。
立ち上がって、テーブルに近づいた。
——「おはようございます」
そう書いてあった。
震えた文字だった。「お」の丸みが歪んで、「は」の線が太すぎて、「よ」の払いが短すぎて、「う」は少し傾いていた。「ご」の濁点がずれていて、「ざ」の角が丸くなりすぎていて、「い」は二本の線の間隔が広すぎて、「ま」の最後の画がかすれていて、「す」の丸が閉じきっていなかった。
一文字一文字に、ルシェの手の震えが見えた。ランタンの灯りの下で、一人で、何度も書き直して、これを書いたのだろう。俺が朝起きた時に最初に見るものが、この言葉であるように。
——おはようございます。
それだけだ。たった九文字の、ありふれた朝の挨拶だ。この世界の誰もが毎日口にする言葉だ。何の変哲もない。特別な意味なんてない。
なのに。
俺はその紙を手に取って、しばらく動けなかった。
目の奥が熱かった。鼻の奥がつんとした。喉が締まって、息を吐くのに意識が必要だった。
今まで読んだどんな文章より美しかった。
元の世界で読んだ本も、この世界で読んだ帳簿も、何もかも。震えた線で書かれた九文字が、それら全部を超えていた。理屈じゃない。頭で考えてそう思ったんじゃない。胸の真ん中で、何かがぱきりと音を立てた。鎧の罅が入るみたいに。俺がずっと抱えていた何か——冷静でいよう、主人として適切でいよう、距離を保とう——そういう類のものに、決定的な亀裂が走った。
「……蒼真様?」
声に振り向くと、ルシェが寝台の上で体を起こしていた。毛布を胸元まで引き上げて、不安そうな目でこちらを見ている。俺が紙を手にしているのに気づいて、頬がうっすらと赤くなった。
「あの……変でしたら……捨ててくだ——」
「いや」
遮った。声が掠れた。
「……ああ。おはよう、ルシェ」
いつも通りに言えたかどうか、自信がない。でもルシェは——紫水晶の瞳を少しだけ見開いて、それから、あの数ミリの笑顔を見せた。
「——おはよう、ございます」
いつもの挨拶だ。毎朝交わしている、ただの挨拶だ。
でも今日は、紙の上の九文字がその声に重なって聞こえた。震えた線の一本一本に、ルシェの指の温度が込められている気がした。
紙をテーブルの上に戻した。いや——戻そうとして、やめた。折り畳んで、上着の内ポケットにしまった。
ルシェが不思議そうに首を傾げた。俺は何でもない顔をして顔を洗いに行った。
これはもう、ただの読み書きの練習じゃない。
文字を教えている。椅子を並べて、肩が触れる距離で。インクの匂いの中で、ペンを握る手を重ねて。肩にもたれる温もりを感じながら。朝、この子が残した九文字で胸がいっぱいになりながら。
——何が変わっているのか、本当はわかっている。
わかっていて、名前をつけるのを避けている。名前をつけたら戻れなくなる。主人と奴隷という関係の枠から、決定的にはみ出してしまう。
顔を洗った。冷たい水で頬を叩いた。鏡を見る。異世界の安物の鏡に映る自分の顔は、二週間前と変わらない。黒い髪、この世界では珍しい細い目。見た目は何も変わっていない。
中身が変わっている。
この子のそばにいる時間が、俺を変えている。
鏡から目を逸らした。内ポケットの紙の感触を、指先で確かめた。
——おはようございます。
九文字。ルシェの手で書かれた、俺だけに宛てられた、最初の手紙。
まずい、と思った。
取り返しがつかなくなる前に、線を引き直すべきだと。主人と奴隷の適切な距離に戻るべきだと。頭の片隅で、元サラリーマンの理性がそう警告していた。
でも体は——指先は——あの紙を手放す気配がなかった。
今日も夕方になれば、テーブルに紙とインクを並べるだろう。ルシェが椅子を二つ、隙間なく並べるだろう。肩が触れる距離で座って、文字を教えるだろう。
その時間が待ち遠しいと思っている自分を、もう誤魔化せなかった。




