4話
鳥の声で目が覚めた。
窓の外が白んでいる。夜明け前の薄青い光が部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせて、ソファの上で丸まった自分の格好の悪さを突きつけてくる。背中が痛い。首も軋む。一週間経ってもこのソファには慣れない。
——一週間。
あの奴隷市の日から、もうそれだけの時間が過ぎていた。
体を起こして、まず部屋を見渡す。習慣になっていた。寝台のほう、窓のそば、扉の前。ルシェがどこにいるか確認する。それが俺の朝の最初の動作だった。
いた。
扉の横に、壁に背を預けるようにして立っている。両手を前で組み、視線を床に落として、微動だにしない。白い髪が朝の薄光を受けて、ほのかに青みを帯びて見える。ここ数日、彼女は俺より先に起きていた。いつ起きているのか、そもそも眠れているのか、それすらわからない。
ただ俺が目を覚ました時には必ず——必ず——あの場所に立っていた。
扉の横。部屋の隅。主人が最初に目にする場所で、かつ、最も邪魔にならない場所。命令をいつでも受けられるように。逃げていないことを証明するために。
十二年かけて刻まれた体の記憶は、一週間では消えない。
「……おはよう」
声をかけると、ルシェの肩がわずかに揺れた。顔を上げる。紫水晶の瞳が俺を捉えて、すぐに伏せられる。
「——おはよう、ございます」
囁くような声。一週間前には返事すらなかった。「おはよう」と言われて何を返せばいいのかわからず、ただ怯えた目で俺を見ていた。三日目の朝に、ようやくこの四文字が返ってきた。それが嬉しくて、でもその嬉しさの正体がよくわからなくて、俺は何でもない顔をしてソファから立ち上がった。
今日も同じようにする。何でもない顔で、当たり前のように朝を始める。
洗面台で顔を洗った。戻ると、テーブルの上に木の皿が並んでいた。固いパンと、干し果物と、水差し。ルシェが用意したものだ。
最初の頃は何もしなかった。というより、何をすればいいのかわからなかったのだろう。三日目に俺が朝食の支度をしているのを黙って見ていて、四日目から自分でやるようになった。誰に命じられたわけでもなく。ただ、俺の動作を観察して、正確に再現していた。パンの切り方、皿の並べ方、水差しの位置。すべて俺がやった通りに。
——奴隷の生存技術だ、と思った。主人の癖を読み、先回りして動く。怒られないために。存在を許されるために。
それを「成長」と呼ぶのは違う。「順応」とも少し違う。もっと切実な、息をするために水面に顔を出すような動き。
「座れ」
椅子を引いて言うと、ルシェは静かに座った。これも一週間で変わったことの一つだ。最初は椅子に座ること自体を怖がった。食卓につくことを許されるという概念が存在しなかった。今はまだ体が強張っているけれど、「座れ」と言えば座る。「食え」と言えば食べる。
命令には従える。命令がなければ動けない。
ルシェは俺が最初の一口を食べるのを待っていた。毎朝そうだ。主人が食べ始めるまで、自分の皿には手をつけない。これは直せなかった。何度「先に食え」と言っても、翌朝にはまた待っている。たぶん、五人の主人の下で叩き込まれたルールなのだ。主人より先に食べた奴隷がどうなるか、この子は知っている。
俺がパンをちぎった。ルシェがそっと自分の分に手を伸ばす。
——食べ方が変わった。
最初の夜、この子はスープを啜るように、奪われる前に流し込むように食べていた。あれから一週間。パンを小さくちぎって、一口ずつ口に運ぶようになった。噛む回数が増えた。味わう、という行為に少しだけ近づいている。
それから——顔色だ。
あの日、奴隷市の檻の中にいたルシェは、灰色をしていた。肌も、唇も、瞳の奥までも。栄養が足りず、陽にも当たらず、生きているのが不思議なほど色を失っていた。
今は違う。
頬にわずかな赤みが差している。唇に血の色が戻りつつある。髪も——そうだ、髪が変わった。三日前だったか、厨房で湯を沸かしていた時、ルシェが水場から戻ってきた。髪が濡れていた。自分で洗ったのだ。誰に言われたわけでもなく。
乾いた髪は驚くほど美しかった。汚れと埃に隠されていた銀白色が本来の光沢を取り戻して、絹のように滑らかに背中に流れていた。俺は見惚れて、慌てて目を逸らした。あの時と同じだ。この子の美しさに気づくたびに、後ろめたさのような感情が胸を刺す。
お前は主人だ。この子を買った人間だ。見惚れていい立場じゃない。
——でも、綺麗なものは綺麗だ。その事実は消せない。
朝食を終えた頃、階下で聞き慣れた声がした。
「蒼真ー、起きてるかい」
ガレアだ。階段を上がってくる足音が大きい。この人はいつも存在感が過剰だ。身長176センチの筋肉質な体躯が廊下を歩くだけで空気が揺れる。
扉を開ける前にルシェを見た。椅子から立ち上がり、反射的に壁際に寄っていた。ガレアが来ると必ずこうなる。ルシェにとって、俺以外の人間はすべて脅威だ。
「おう、ガレア」
「今日の荷の確認、先にやっとくよ。あんたは——」
ガレアが部屋を覗き込み、壁際のルシェに目をやった。それから俺に視線を戻す。口の端がにやりと上がった。
「本当にあの醜い子を手元に置いてるんだ。一週間経っても手放してないとはねえ。奇特な男だよ、あんた」
腹の底がざわりとした。
ガレアに悪意はない。この世界の基準で言っているだけだ。銀白色の髪、白い肌、華奢な体つき——この世界では「醜さ」の象徴だ。ガレアの目にルシェが醜く映るのは、俺の目にこの世界の「美人」が異様に映るのと同じこと。文化が違う。美の基準が違う。頭ではわかっている。
それでも——「醜い」という言葉が、喉に小骨のように引っかかった。
「……まあな」
それだけ言った。否定も肯定もせず、曖昧に流す。ガレアに説明したところで伝わらない。「あの子は綺麗だ」と言えば、頭がおかしいと思われるだけだ。
ガレアが去った後、ルシェを見た。表情は変わっていない。「醜い」と言われたことに傷ついた様子もない。——当然だ。十八年間ずっと言われ続けてきたのだ。空気と同じだ。そこにあるのが当たり前すぎて、もう痛みすら感じない。
そのことが、一番つらかった。
商館へ向かう支度をした。ガレアの下で働き始めてから一週間、荷の検品と帳簿の整理を任されている。元の世界でのExcelスキルは使えないが、数字に強いことと几帳面な性格は役に立った。この世界の文字もだいぶ読めるようになった。
「行ってくる」
扉の前でそう言うと、ルシェが深く頭を下げた。
「……いってらっしゃいませ」
それも最近覚えた言葉だ。俺が毎朝「行ってくる」と言うのを聞いて、四日目にぎこちなく返してきた。たぶん意味はわかっていない。ただ俺が出かける時にはこう言うものだ、とパターンを学んだだけだ。
でも——声が震えていたことに、俺は気づいていた。
この子にとって、俺が出ていくことは恐怖なのだ。戻ってこないかもしれない。次の主人に売られるかもしれない。あるいは「出ていけ」と言われて路上に放り出されるかもしれない。毎朝そう思いながら、「いってらっしゃいませ」と言っている。
行ってくる、とは言える。「必ず帰る」とは、まだ言えなかった。そこまで踏み込む覚悟が、俺にはまだなかった。
——商館での一日は、いつも通りに過ぎた。
荷の検品。数量の照合。ガレアの助手として市場を回り、取引先と交渉する彼女の横で商品知識を吸収する。肉体労働もある。木箱を運び、革袋を積み、汗をかく。この世界には台車はあるがフォークリフトはない。腰が痛い。
昼、ガレアと市場で飯を食いながら、ふと聞いた。
「女物の靴って、いくらくらいする?」
ガレアが串焼きを齧りながら目を細めた。
「あの子に買ってやるのかい」
「裸足のままだからな」
「安いのなら銅貨三枚ってとこだね。サイズは——まあ、小さいだろうねえ、あの子」
銅貨三枚。今の日当がちょうどそれくらいだ。今日の分を靴に充てよう。
夕方、商館を出る前に靴を買った。革紐で甲を留めるシンプルなものだ。サイズは勘で選んだ。あの子の足は小さかった。怪我の手当てをした時に見たから知っている。
部屋に戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
扉を開ける。
部屋は——完璧に片づいていた。
朝より綺麗だ。テーブルの上は拭き清められ、窓際に積んであった本が整頓され、ソファの毛布が畳まれ、床に埃ひとつない。そしてルシェは、朝と同じ場所に立っていた。扉の横。壁に背を預けて、両手を前で組んで、俺を待っていた。
汗が引いた跡が頬にあった。一日中、掃除をしていたのだろう。一人きりの部屋で、黙々と。他にすることがないのだ。命じられたこと以外、この子には「やりたいこと」がない。
「——ただいま」
「おかえりなさい、ませ」
声が微かに弾んだように聞こえたのは、気のせいだろうか。
「これ」
靴を差し出した。ルシェの目が丸くなる。茶色の革の靴を見つめて、それから俺を見上げて、また靴を見る。
「……ルシェの」
「お前以外に裸足の奴がいるか」
ルシェはゆっくりと手を伸ばして、靴を受け取った。両手で包むようにして、しばらくそのまま動かなかった。指先が革の表面をなぞっている。靴の感触を確かめているのか、それとも、これが本当に自分のものなのか信じられないのか。
……ああ、そうか。この子は多分、何かを「もらう」ということ自体を知らないのだ。奴隷に所有物はない。与えられるのは命令だけだ。
「座って履いてみろ」
椅子を引いた。ルシェが座り、足に靴を通す。——少し大きかった。つま先に余裕がありすぎる。
「ちょっと大きいな」
「い、いえ……ぴったり、です」
初めて聞いた嘘だった。下手すぎて微笑ましかった。
夕食の支度をした。今日は市場でガレアが分けてくれた干し肉がある。鍋に湯を沸かし、干し肉と根菜を放り込んで煮た。料理の腕は元の世界でもたいしたことはなかったが、この世界の食材は素朴だから、煮るだけでそれなりの味になる。
テーブルにスープを並べた。パンを切った。ルシェが向かいの椅子に座る。一週間前は命じなければ座れなかった椅子に、今は自分から——とはいえ、俺が先に座ったのを確認してからだが——腰を下ろすようになっていた。
小さな変化だ。でもこの一週間は、そういう小さな変化の積み重ねだった。
食べ始めた。ルシェも俺が口をつけたのを見届けてから、スプーンを手に取る。
そのとき、部屋の隅で何かが動いた。
鼠だった。
壁の裂け目から灰色の小さな塊が飛び出して、床を走る。この商館は古い建物だ。鼠くらいいるだろう。
俺が反射的にスプーンを置いた時には——ルシェがもう動いていた。
音もなく椅子を立ち、床に膝をつき、壁際に追い詰められた鼠の前にそっと手を差し伸べた。驚くほど自然な動作だった。怯えもしなければ、嫌悪もしない。乱暴に掴むのではなく、逃げ道を塞ぐのでもなく、ただ手のひらを差し出した。
鼠が一瞬ためらい、くんくんと鼻を動かし——ルシェの手のひらに乗った。
息を呑んだ。
ルシェは立ち上がり、窓のところへ行って、手のひらを外に向けた。鼠が指の間からするりと滑り降り、窓の下の屋根を伝って夜の街に消えていく。
ルシェが振り返った。俺と目が合う。
——その瞬間、何かが揺れた。
紫水晶の瞳の奥に、ほんの微かな光が灯っていた。恐怖ではない。服従でもない。もっと柔らかくて、温かくて、壊れやすい何か。小さな命を手のひらに載せた時に、この子の中で眠っていた何かが一瞬だけ目を覚ましたのだ。
ルシェはすぐにその光を消した。はっとしたように目を伏せて、慌てて席に戻る。勝手なことをした、と怯えているのだ。鼠を逃がすなんて命じられていない。余計なことをした。罰されるかもしれない。その計算が、一瞬で少女の顔から表情を奪い去る。
「……すみ、ません」
「何が」
「勝手に……動いて」
「鼠を逃がしただけだろ」
できるだけ軽く言った。何でもないことだと伝わるように。
「……はい」
ルシェがスプーンを取り直す。指先がまだ少し震えている。
——あの光を、もう一度見たいと思った。
食事を続けた。窓の外が暗くなり、テーブルの上の魔石ランタンが部屋の唯一の光源になる。橙色の柔らかな灯り。この世界の夜は暗い。電気がないから、日が落ちればランタンの小さな光だけが世界のすべてになる。
スープを啜りながら、ふと視線を上げた。
——それは、本当に何でもない瞬間だった。
ルシェがスプーンを口に運んでいた。ただそれだけだ。ランタンの灯りの中で、スープを飲んでいる。いつもと同じ夕食の風景。
でも——その日、その時間、その角度でだけ見える何かが、そこにはあった。
ランタンの橙色の光が、銀白色の髪を下から照らしていた。柔らかく、淡く、まるで自ら発光しているかのように。洗い清められた髪は細い絹糸の束のようで、耳にかかる一筋が頬の輪郭に沿って流れ落ちている。
紫の瞳は伏せられ、長い睫毛が頬に影を落としていた。薄い翳りが頬骨の上に三日月型の弧を描いて、その下の肌が白磁のように滑らかに光を受けている。
唇が、かすかに開いていた。スプーンを待つ、ほんの数ミリの隙間。血の色が戻った薄い唇の、その微かなほころび。
頬にさした赤みが、ランタンの光に溶けて、柔らかな桃色に見えた。
あの日——奴隷市の檻の中で蹴られていた少女は、灰色だった。色を失い、光を失い、ただ死を待っていた。今、目の前にいるのは、同じ人間とは思えなかった。一週間で人はこんなに変わるのか。ご飯を食べて、眠る場所があって、殴られない日が続くだけで。
取り戻していたのだ、この子は。少しずつ、少しずつ、奪われていたものを。
——綺麗だ。
思った。心の底から、何の留保もなく。
この世界の人間が何と言おうと関係ない。俺の目が、俺の感覚が、俺のすべてが告げている。この子は綺麗だ。信じられないくらい、綺麗だ。
口が動いた。
考えるより先に。止める暇もなく。二十五年間生きてきた日本人としての美的感覚が、嘘をつくことを許さなかった。
「——綺麗だな」
声に出ていた。
スプーンが止まった。
金属が陶器の縁に当たって、かちりと小さな音を立てた。その音が、静かな部屋に波紋のように広がった。
ルシェの目が上がった。紫水晶の瞳が俺を捉え——見開かれた。
空気が変わった。
それまでの穏やかな夕食の空気が、一瞬で凍りついた。ルシェの顔から、血の気が引いていくのが見えた。唇が震えている。スプーンを持つ指が白くなるほど力が入っている。
その目に浮かんでいたのは——恐怖だった。
嘲笑われる恐怖。騙される恐怖。期待してしまう自分への恐怖。
十二年間、この子は「醜い」と言われ続けてきた。売れない奴隷。値打ちのない商品。見るに堪えない容姿。五人の主人の全員が、同じことを言った。市場の商人も、街の人々も、母親でさえ——そう言ったのかもしれない。世界の全員が一致して「お前は醜い」と断言した。それが十八年間のルシェの現実だった。
その現実の中に、突然「綺麗だ」という言葉が落ちてきた。
信じられるはずがない。
「……からかわないで、ください」
声が割れた。
囁きよりも小さな声が、喉の奥でひしゃげた形で押し出された。目が赤くなっている。唇を噛んでいた。歯が食い込んで白くなるほど強く。
「ルシェは……みにく——」
「からかってない」
遮った。自分でも驚くほど強い声だった。
ルシェの体がびくりと震えた。声を荒らげたことに怯えたのだ。しまった、と思った。慌てて声を落とす。
「からかってない。嘘も言ってない」
テーブル越しに、ルシェの目を見た。逸らさなかった。この目を見ていなければ伝わらないと思った。
「本当に綺麗だと思ったんだ。今、お前を見て、そう思った。それだけだ」
ルシェの唇が開いた。何か言おうとしている。でも言葉が出てこない。喉が動いて、吐息が漏れて、音にならなかった。
それから——表情が崩れた。
決壊、という言葉が一番近い。
堪えていた何かが限界を超えて、顔の筋肉が一斉に統制を失った。眉が歪み、口元が引き攣り、紫の瞳にみるみる水膜が張っていく。
涙が、落ちた。
一粒。頬を伝って、顎の先から、テーブルの上に。
続けて二粒、三粒。止まらなかった。ルシェは声を上げなかった。泣き方を知らないのだ。声を出して泣くことを許されたことがないのだ。だから音のない涙だけが、重力に従って真っ直ぐに落ちていく。
ルシェの手がテーブルの端を掴んでいた。しがみつくように。体が前に傾いて、銀白色の髪がカーテンのように顔を隠す。その下から、ぽたりぽたりと水滴が落ち続けている。
「——っ」
息を呑むような、引き攣ったような、音にならない声。泣いているのだと理解するのに数秒かかった。それほど静かで、それほど小さな嗚咽だった。
十二年、泣かなかったのかもしれない。泣いても何も変わらないことを学んで、涙を枯らしたと思い込んでいたのかもしれない。それが今、たった一言で——「綺麗だ」というたった四文字で、蓋が吹き飛んだ。
俺は固まっていた。
何をすればいいかわからなかった。言葉が見つからない。「泣くな」は違う。「大丈夫だ」も違う。何を言っても嘘になる気がした。この子が流している涙の重さに、言葉が釣り合わない。
だから——体が動いた。
椅子を立った。テーブルを回り込んで、ルシェの隣に立った。
手を伸ばした。
何をしようとしているのか、自分でもわかっていなかった。ただ、この子に触れなければいけないと思った。言葉では届かないものを、手のひらで伝えなければいけないと。
指先がルシェの頭に触れた。
びくり、と。
体が跳ねた。全身が一瞬で硬直した。呼吸が止まった。反射だった。頭に手が伸びてきた時、この子が知っている結末はひとつしかない——殴られる。
指を止めた。離さなかった。
髪の上に、指を置いたまま。押し付けず、撫でず、ただ触れている。お前を殴らない、ということを、時間をかけて伝える。言葉ではなく、動かない手のひらで。
三秒。五秒。十秒。
ルシェの硬直がゆるやかに解けていった。
手のひらの下で、銀白色の髪が微かに震えていた。涙で濡れた呼吸が聞こえる。短く、浅く、途切れがちな息。でも——逃げなかった。
指をゆっくりと動かした。髪の上を滑らせる。細い糸のような銀髪が指の間を通り抜けていく感触。思ったより柔らかかった。
撫でた。頭の丸みに沿って、ゆっくりと。壊れ物に触れるように。
——そのとき。
ルシェの頭が、わずかに動いた。
最初は気のせいかと思った。でも違った。確かに——動いた。逃げる方向ではなく。俺の手のひらに向かって。
怯えた動物が、差し出された手にそっと鼻を寄せるように。
ルシェが、俺の手に頭を預けた。
数ミリ。ほんの数ミリ、自分から。
その小さな動きに込められた信頼の重さが、胸を潰しそうだった。
十二年間、人の手は痛みしか運んでこなかった。撫でられたことも、優しく触れられたことも、一度もなかったかもしれない。それでもこの子は——俺の手に頭を預けた。怖いはずだ。また裏切られるかもしれないと、体の奥で警報が鳴っているはずだ。それでも、数ミリ。
この数ミリが、この子にとってどれほどの勇気だったか。
俺はただ、撫で続けた。
言葉はなかった。
ランタンの灯りが二人を照らしていた。橙色の光が、テーブルの上に長い影を作っている。スープはとっくに冷めていた。パンは齧りかけのまま皿に残されている。静かな部屋に、ルシェの吐息と、ランタンの灯芯が揺れる微かな音だけがあった。
涙はまだ止まらなかった。テーブルの木肌に、小さな染みが一つ、また一つと増えていく。ルシェは何も言わなかった。俺も何も言わなかった。ただ手のひらの下の温かさと、指の間を流れる銀色の髪の感触だけが、確かなものとしてそこにあった。
どれくらいそうしていたのか、わからない。
ランタンの灯りが一度大きく揺れて、また安定した。窓の外で犬が吠えて、遠くの家の灯りがひとつ消えた。レームブルクの夜が深まっていく。
ルシェの呼吸が変わったのに気づいた。
短く途切れていた吐息が、少しずつ深くなっている。涙の間隔が長くなり、肩の震えが収まっていく。代わりに、体全体がゆっくりと重くなっていくのが手のひらを通して伝わってきた。
目を覗き込むと——紫水晶の瞳が、うっすらと閉じかけていた。
泣き疲れたのだ。
ルシェはテーブルに突っ伏すようにして、眠りに落ちた。腕の上に頭を載せ、銀白色の髪がテーブルに広がっている。涙の跡が頬に光って、睫毛がまだ濡れている。でも表情は——穏やかだった。この一週間で見たどの寝顔よりも。
俺は手を離した。離したくなかった。でも離した。
しゃがんで、ルシェの体に手を回した。背中と膝の裏に腕を通して、持ち上げる。
軽かった。
信じられないほど軽かった。十八歳の少女の体がこんなに軽いはずがない。骨と皮だけだ。一週間食事を摂って、それでもまだこの軽さだ。十二年間の飢餓が、この体から何もかもを削ぎ落としていた。
胸の中で、どうしようもない怒りが渦を巻いた。この子をこんな体にした五人の主人に対する怒り。この世界の「美」の基準に対する怒り。そして——五枚の銅貨でこの子を「買った」自分自身に対する怒り。
寝台にそっと横たえた。毛布を引き上げて、顎の下まで被せる。ルシェは起きなかった。よほど深く眠っているのだ。あるいは——今この瞬間だけは、眠ることを自分に許せたのかもしれない。
毛布の端をそっと整えた。そうしながら、ルシェの寝顔を見下ろしていた。
泣いた跡が残っている。目元が赤くて、頬に涙の筋が乾きかけている。でも口元はほんの少しだけ——ほんの少しだけ、緩んでいるように見えた。
綺麗だ、と思った。また。何度でも。
この子は自分が綺麗だと知らない。
十八年間、世界中から醜いと言われ続けて、それを真実として受け入れてしまった。「綺麗だ」と言われたら嘲笑だと思い、涙を流すしかなかった。自分の顔を鏡で見ても、そこに映るのは「醜い自分」だけだ。世界がそう決めたから。
——俺が教える。
その考えが、自然に浮かんだ。
俺が教える。お前は綺麗だと。何度でも言う。何度否定されても、何度泣かれても。お前が信じるまで、言い続ける。この世界の全員が醜いと言っても、俺だけは綺麗だと言う。
それが正しいのかどうか、わからない。
保護なのか、執着なのか、支配なのか。俺がこの子にしていることの名前は、まだ見つからない。
でも——今夜、あの子が俺の手に頭を預けた。あの数ミリの重さを、俺は一生忘れない。
ランタンを消した。暗闇の中で、ソファに横になる。背中が痛い。首が軋む。でも、悪くない。
静かな部屋に、二つの呼吸がある。
寝台の上の少女と、ソファの上の俺。
一週間前と同じだ。
でも、何かが——決定的に変わった夜だった。




