3話
市場を離れるにつれて、喧騒が薄れていく。
干し魚と香辛料の入り混じった濃い匂いが遠ざかり、代わりに石畳を熱した陽の匂い——乾いた埃と、どこかの軒先で干されている洗濯物の石鹸の残り香が鼻を掠めた。午後の風はぬるく、路地に伸びた建物の影を揺らしもしない。
俺は歩いていた。
後ろに、少女を連れて。
三歩。正確に三歩、後ろを歩いている。振り返るたびに確認した。前の主人にそう躾けられたのだろう。俺が足を止めれば少女も止まり、俺が歩き出せばまた三歩の距離を保って付いてくる。顔は俯いたまま。銀白色の髪が頬に垂れて、表情は見えない。
裸足だった。
市場で気づくべきだった。汚れた麻のワンピース一枚に、靴はない。石畳の上を小さな足が踏むたびに、かすかに——本当にかすかに——歩調が乱れる。右足を庇うようにして、左足に体重を逃がしている。
足を怪我している。
俺は歩く速度を落とした。半分くらいまで。少女の歩調に合わせたつもりだったが、三歩の距離は変わらない。俺が遅くなれば、少女も遅くなる。あくまで後ろ。あくまで三歩。それが彼女にとっての「正しい位置」なのだ。
「——なあ」
声をかけた。少女の肩が、びくりと跳ねた。
「足、痛いか」
沈黙。数秒の間があって、小さな声が返ってきた。
「……いいえ」
嘘だ。右足を引きずっているのは見ればわかる。でも奴隷が主人に弱みを見せれば、厄介払いの口実になる。痛くないと答えるしかないのだろう。十二年かけて刷り込まれた生存の知恵。
「そうか」
それ以上は聞かなかった。追及しても少女を怯えさせるだけだ。代わりに、もう少しだけ歩く速度を落とした。気づかれないくらいに。
「名前、ルシェでいいんだよな」
「……はい」
「俺は蒼真。ソウマ」
「…………」
「呼びにくかったら、まあ、好きに呼んでくれ」
返事はなかった。好きに、という言葉の意味が通じなかったのかもしれない。奴隷に「好きにしろ」と言うのは、この世界では命令の放棄に等しい。命令がなければ奴隷は動けない。そんなことも俺はまだ分かっていなかった。
路地を二つ曲がった。角を曲がるたびに、後ろの足音がほんの一瞬途切れる。追いつこうとして右足に体重がかかり、息を呑む気配。でも声は上げない。唇を噛んで堪えているのだろう。
——せめて、もう少し近くを歩いてくれないか。
そう言いかけて、やめた。距離を詰めろと命じれば従うだろう。でもそれは「命令に従った」だけで、何も変わらない。
結局、俺は何も言えないまま歩き続けた。ぬるい風が路地を抜けていく。前を行く俺の影と、三歩後ろの小さな影が、石畳の上に並ぶことなく伸びている。
ガレアの商館は、中央通りから一本裏に入った煉瓦造りの三階建てだった。一階が店舗と倉庫、二階が事務所と商談室、三階が住居。ガレアが一代で築いた商会にしては立派な構えで、玄関の両脇には鉄製のランタンが掛かっている。
扉を開けると、帳場に座っていたガレアがこちらを見た。琥珀色の目が俺を捉え、その視線が俺の後ろに移る。ルシェの姿を認めた瞬間、ガレアは深い——心底深いため息をついた。
「あんた、本当に買ったんだね」
「……ああ」
「銅貨五枚で人ひとり。あたしの人生で一番安い買い物を見たよ」
ガレアは帳場から立ち上がり、腕を組んだ。百七十六センチの長身が、薄暗い商館の入口に影を落とす。その視線がルシェに向いた。品定めをしているわけではない。商人として、この取引の行く末を計算しているのだ。
ルシェは石のように動かなかった。俺の背中に隠れるように——いや、違う。隠れているのではなく、存在を消そうとしている。頭を垂れ、肩を縮め、呼吸すら浅くして。自分が目に留まれば、ろくなことにならない。そう学んできたのだ。
「まあ、いいさ」ガレアは肩をすくめた。「あんたが食わせるんだろ。あたしの飯を減らすんじゃないよ」
「恩に着る」
「恩もなにも——」ガレアは言いかけて、口をつぐんだ。ルシェをもう一度見て、それから俺を見た。何か言いたそうな顔だったが、結局「まったく」とだけ呟いて帳場に戻った。
反対はしない。かといって賛成もしない。ガレアなりの距離の取り方なのだろう。ありがたかった。
三階への階段を上がる。木の階段は古く、踏むたびに軋んだ。俺が与えられている部屋は三階の奥、六畳ほどの小さな一室だった。木製の寝台にソファが一脚、小さなテーブルと椅子が二つ。窓からはレームブルクの赤い屋根が見える。居候の身には十分すぎる部屋だ。
扉を開けて、中に入った。振り返ると、ルシェは部屋の敷居の手前で立ち止まっていた。
入らない。
俺が入れと言うまで、入らないのだ。
「……入っていいぞ」
ルシェの視線が一瞬だけ上がった。敷居を、扉の枠を、部屋の中を確認するように見て——それからおそるおそる、左足から一歩、踏み入れた。右足を引きずるようにして続く。部屋に入った途端、壁際に寄って、扉のすぐ横に立った。
そこが奴隷の定位置なのだろう。主人の視界の端で、邪魔にならない場所。すぐに呼べて、すぐに殴れる場所。
「座っていい」
ルシェは一瞬だけ逡巡するような間を見せて、その場にすとんと膝をついた。石の床の上に正座。いや、正座というより、崩れ落ちるようにして膝を折ったというほうが近い。両手を膝の上に置いて、頭を垂れる。待機の姿勢。何を命じられても即座に動ける態勢。
違う。そうじゃない——と言いかけて、飲み込んだ。座れと言ったのは俺だ。彼女は座った。命令には従っている。「そうじゃない」と言ったら、この子はどうしていいかわからなくなる。
「……そこは冷たいだろ。寝台に座れ」
ルシェの肩が強張った。
ゆっくりと、信じられないものを見るように顔が上がった。紫水晶の瞳が俺を見た。一瞬だけ——本当に一瞬だけ、その目に恐怖が走った。
奴隷が寝台に座る。それはこの世界では、あり得ない。寝台は主人のものだ。奴隷が触れていいものではない。許可されたとしても、それは罠かもしれない。座った瞬間に「汚い奴隷が俺の寝台に触れた」と殴られた経験が、あるのかもしれない。
だから怖い。命令に従いたい。でも従えば殴られるかもしれない。従わなくても殴られるかもしれない。どちらを選んでも痛みが待っている。その計算が、紫水晶の奥で高速で回っているのが見えた。
「大丈夫だ。怒らない」
低く、できるだけ穏やかな声で言った。意味があるかはわからない。十二年間裏切られ続けた人間に、初対面の男の「大丈夫」が届くはずがない。
でもルシェは——震える手で床を押し、ゆっくりと立ち上がり、寝台の端に腰を下ろした。
端の、本当にぎりぎり端。落ちそうなほど浅く。体重を預けることを恐れるように、背筋を張ったまま。太ももの上に置いた両手が、白くなるほど握りしめられていた。
座った。
それだけのことに、ルシェは全身の勇気を使い果たしたように見えた。
「待ってろ。飯を持ってくる」
言い残して部屋を出た。階段を下りながら、自分の心臓が妙に速く打っているのに気づいた。緊張しているのは俺のほうだ。何を言っても怯えさせる。何をしても恐れられる。正解がわからない。この世界のルールも、奴隷との接し方も、何もかもが手探りで、その手探りの先に生きた人間がいる。間違えたら、傷つくのは俺じゃない。
商館の厨房は一階の奥にあった。ガレアの商会で働く使用人たちの食事を賄う場所で、夕方にはまだ早い今の時間帯は誰もいない。棚にパンが数個残っていた。硬めの黒パン。それと鍋に残ったスープ——豆と根菜を煮込んだ素朴なもの。チーズの塊が布に包まれて吊るされている。
二人分の皿を出した。パンを二つに割り、スープをよそい、チーズを切り分ける。木の盆に載せて、慎重に階段を上がった。
部屋に戻ると、ルシェは寝台の端に座ったまま微動だにしていなかった。俺が出ていった時と寸分違わぬ姿勢で、頭を垂れている。指先の位置すら変わっていないように見えた。息をしているのか不安になるほどの静止。奴隷は主人がいない間、動いてはいけない——そう教えられてきたのだろう。
小さなテーブルに盆を置いた。椅子を引いて、皿を並べる。スープの皿を二つ、パンを二つ、チーズを二切れ。向かい合わせに。
「こっちに来い。飯だ」
ルシェが顔を上げた。テーブルを見た。二つ並んだ皿を見た。
その目が——わずかに見開かれた。
理解できないのだ。皿が二つある意味が。自分の前にも食事が置かれるという状況が。奴隷の食事は主人の残り物か、床に投げられた屑だ。皿に盛られ、テーブルに並べられ、椅子に座って食べる——そんなことは人間のすることであって、奴隷のすることではない。
「聞こえたか。座れ」
ルシェは寝台から降りた。裸足の足が床を踏む音がして、テーブルの前まで来た。椅子を見下ろしている。また、あの計算をしているのだ。座っていいのか。罠ではないのか。
俺は先に椅子に座った。自分の皿のスープを匙ですくって、一口飲んだ。豆の甘さとわずかな塩気。質素だが、温かい。
「冷めるぞ」
その一言が決め手だったのか、あるいは限界だったのか。ルシェは椅子を引き、音を立てないようにそっと腰を下ろした。背筋は棒を飲んだように真っ直ぐで、膝は揃えられ、手は膝の上。テーブルに手を伸ばさない。食べ物を見ない。目は伏せたまま。
許可を待っている。
「食え」
短い命令。敬語は使わなかった。穏やかに言うよりも、命令のほうが通じると思った。この子にとって「食べていいよ」は意味不明でも、「食え」は理解できる。
ルシェの手が動いた。テーブルの上のパンに伸びて——途中で止まった。指先が震えている。本当に取っていいのか、最後の確認。俺の顔を窺う視線を感じた。
俺は自分のパンをちぎって口に入れた。目を合わせなかった。見られていると食べられないだろう。
数秒の沈黙。
それから、ルシェの指がパンに触れた。
小さくちぎった。小鳥がついばむような、ほんの一欠片。唇の間にそっと入れて、噛んだ。ゆっくりと、確かめるように。毒が入っていないか確認しているのか、それとも、味を忘れてしまっていたのか。
二口目は、少しだけ早かった。
三口目は、もう少し。
四口目——パンをちぎる手が、かすかに速くなった。俺はスープを飲むふりをしながら、視界の端で見ていた。ルシェの喉が動く。嚥下するたびに、細い喉が上下する。指先がパンの欠片を追いかけるように皿の上を這う。チーズに手が伸びる。一口。もう一口。スープの皿に手が伸びかけて——止まった。
匙の使い方がわからないのだ。あるいは、匙を使って食事をした経験がないのか。
「持てるか。匙」
ルシェは匙を取った。握り方がぎこちない。拳で握るようにして、スープをすくい、口に運ぶ。少し零れた。慌てて口元を手の甲で拭って、俺の顔色を見た。零したことを怒られると思ったのだろう。
「気にするな」
ルシェは俺の表情を数秒間じっと見つめてから、もう一度匙を口に運んだ。
二口目。三口目。スープの温かさが体の中に染みていくのが、見ているこちらにも伝わってきた。冷えきった体が内側から温められていくような——少女の肩から、わずかに力が抜けた。ほんの少しだけ。
それからルシェは、パンをスープに浸して食べ始めた。誰に教わったのでもないだろう。硬いパンを柔らかくする方法を、体が覚えていたのだ。六歳で奴隷になる前の、かすかな記憶の残滓かもしれない。
食べている。
ちゃんと、食べている。
夢中で——とまでは言わない。肩は強張ったままで、一口ごとに俺の様子を窺う目は消えない。でもパンを掴む指先から、スープを啜る口元から、「空腹」という純粋な生理が、恐怖を少しずつ押しのけていくのが見えた。
いつから食べていなかったのだろう。あの奴隷商の扱いを見れば、まともに食事を与えられていたとは思えない。鎖骨が浮き出るほど痩せた体。手首の骨が見える細い腕。この子は今、ひどく飢えている。
最後のパンの欠片を口に入れた時、ルシェの動きが止まった。皿の上にはもう何もない。スープの皿も空。食べ尽くしたことに気づいて、少女は——怯えた顔をした。食べすぎたと思ったのだろう。主人の分まで食べてしまったのではないかと。
「足りたか」
「…………はい。ありがとう、ございます」
ルシェの声を、初めてまともに聞いた気がした。掠れていて、細くて、でも確かに感謝の形をした言葉だった。
俺はスープの残りを飲み干しながら、テーブル越しにルシェを見た。——見てしまった。
スープの温かさのせいか、白磁の頬にうっすらと血の色が差していた。伏せた目を縁取る睫毛は、銀色の髪よりも少しだけ暗い色をしていて、頬に影を落としている。パンの欠片を拾おうとして伸ばされた指先は、汚れてはいるけれど細くて長い。華奢な手首。折れそうなほど細い、でも確かに生きている手。
銀白色の髪が、窓から入る夕方の光を受けて、淡く輝いていた。
——綺麗だ。
この世界の誰が何と言おうと、この子は綺麗だ。
その感想が不意に浮かんで、俺は自分に少し驚いた。慌ててスープの皿に目を落とす。何をやっている。この子は今日買ったばかりの——いや、「買った」という言い方からしておかしい。人を買ったのだ。見惚れている場合か。
皿を片づけた。ルシェが立ち上がろうとしたのを手で制して、自分で盆に載せる。下に降りて厨房で皿を洗い、部屋に戻った。
窓の外はもう暗くなり始めていた。レームブルクの街並みが夕焼けの残照に赤く染まり、遠くで鐘が鳴っている。日没を告げる鐘だ。
寝台の脇の棚から毛布を一枚引っ張り出した。ガレアが余分に置いてくれていたものだ。ルシェに向かって差し出す。
「今日はここで寝ろ」寝台を顎で示した。「俺はソファで寝る」
ルシェの目が、今日一番大きく見開かれた。
パンを差し出された時よりも。椅子に座れと言われた時よりも。明らかに大きな衝撃が、紫水晶の瞳を揺らしていた。
主人が、奴隷に寝台を譲る。
この世界の常識ではあり得ない。罠だと思うほうが自然だ。寝台に寝た翌朝、「主人の寝台を奪った」と罰を与えるための口実——そう考えるだろう。五人の主人に仕えて、そういう手口を見てきたのかもしれない。
「お、お命じ……ください」
声が震えていた。何を命じられているのかわからない、という恐怖。正解を教えてほしいという懇願。ルシェの語彙にある唯一の万能な文句。何を言えばいいかわからない時、奴隷が最後にすがる言葉。
「命令だ。そこで寝ろ」
できるだけ素っ気なく言った。感情を込めると怪しまれる。淡々と、当然のことのように。
ルシェは毛布を受け取った。両手で——壊れ物を抱くようにして、胸の前に押し当てた。
俺はソファに横になった。短い。足がはみ出る。クッションは硬く、背中に木枠の感触が当たる。寝台のほうが何倍も快適に決まっている。でも、まあ、こんなものだ。この世界に来てから、地面で寝たことも石の床で寝たこともある。ソファなんて上等だ。
灯りを消した。魔石のランタンの光が細くなり、部屋が暗闇に沈む。窓から差し込む月明かりだけが、うっすらと輪郭を浮かび上がらせていた。
目を閉じた。長い一日だった。奴隷市でルシェを見つけてから、まだ数時間しか経っていない。たった数時間で、俺の生活は根底から変わった。異世界に飛ばされた時ですら、ここまでの衝撃はなかったかもしれない。
あの子は今、寝台に横になっているだろうか。毛布を被れているだろうか。足の怪我は大丈夫だろうか。明日、薬を買いに行ったほうがいい。靴も。服も。——いや、待て。金はあるのか。ガレアに前借りを頼めるか。あの子にまず必要なものは。
考えが止まらない。
どこかで、かさりと音がした。
布が擦れるような、小さな音。寝返りにしては長い。何かが動いている。
薄目を開けた。
月明かりの中に、ルシェの姿が見えた。
寝台の——上ではなかった。
寝台の横の、床の上。丸くなって、毛布にくるまって、硬い板張りの床に横たわっている。膝を抱えるようにして体を小さく丸めた姿は、市場の隅で蹴られていた時とほとんど同じだった。
寝台には、手をつけた形跡すらない。
——ああ。
わかっている。わかっていた。「寝台で寝ろ」と言ったくらいで十二年間の習性が変わるはずがない。命令として理解はしても、体がそれを受け入れられないのだ。寝台の柔らかさは奴隷の体が知らないもので、高い場所で眠ることは罰の対象で、主人より良い場所で休むことは許されない——そういう記憶が、骨の髄まで染み込んでいる。
俺に命令されたから寝台に近づいた。でも横になることはできなかった。だから寝台の横の床で、せめて寝台のそばにいることで命令に従ったことにしようとしている。
その苦しいほどの折衷案が、ルシェにとっての精一杯なのだ。
毛布から覗く銀白色の髪が、月の光を受けて青白く光っていた。寝息は聞こえない。まだ眠れていないのだろう。あるいは、俺が見ていることに気づいているのか。主人が動けば目を覚ます。それも奴隷の習性だ。
俺はそっと目を閉じた。
何も言わなかった。「床は冷たいぞ」とも、「せめて寝台に上がれ」とも。今夜はこれでいい。今夜は、この部屋にいるだけでいい。三歩後ろではなく、同じ部屋で、同じ暗闇の中にいる。それだけで十分だ。
——何をやってるんだ、俺は。
天井を見つめて、思った。
人を買った。五枚の銅貨で。それがこの世界では普通のことで、誰も何も言わなくて、ガレアですら「まあいいさ」で済ませた。でも俺の中の、元の世界で生きていた部分が、ずっとざわついている。
あの子を助けたかった。殺される前に、あの場所から出したかった。それは本当だ。
でも——助けた後のことを、何も考えていなかった。この子をどうするのか。奴隷として扱うのか。解放するのか。解放したところで、この世界で「醜い」とされる少女が一人で生きていけるのか。結局、俺の手元にいるしかないのではないか。
それは保護か。それとも——。
考えるのをやめた。
今はまだ、答えを出さなくていい。
床の上で丸くなった少女の呼吸が、少しずつ深くなっていく。浅い、すぐに途切れそうな眠り。でも確かに、眠りに落ちようとしている。
この子は今日、パンを食べた。スープを飲んだ。椅子に座った。毛布を与えられた。たったそれだけのことが、十二年間なかった。
たったそれだけのことを、俺は「してやった」と思いたくない。
あの紫色の目が——食卓で一瞬だけ見せた、恐怖でも服従でもない何かの色が——瞼の裏に残っている。感情の名前すら持たない少女が、温かいスープを飲んだ時にほんの少しだけ肩の力を抜いた、あの瞬間。
それを見た時に、胸の奥で何かがぎゅっと掴まれた感覚を、俺はまだうまく説明できない。
月明かりが傾いていく。レームブルクの夜は静かだった。遠くで犬の声がして、それも消えた。
同じ暗闇の中に、二つの呼吸がある。
ソファの上の俺と、床の上の少女。
最初の夜が、そうして更けていった。




