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美醜と男女が逆転した異世界で、銅貨五枚の「超絶美少女」を買って限界まで溺愛する  作者: ただの学生


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2話

 干し魚の匂いが鼻を突いた。


 生臭いというほどではないが、潮気と脂の混じった独特の重さがあって、風向きが変わるたびにこちらまで流れてくる。隣の屋台では香辛料を山盛りにした壺が並んでいて、赤や黄色の粉末が朝の光を浴びてぎらぎらと目に痛い。


「ぼんやりするんじゃないよ、ソーマ。市場ってのは足を止めた方が負けなんだ」


 ガレアが振り返りもせずに言った。人混みの中を肩で風を切って進む背中は、いかにもこの場所の主という風格がある。


 ガレアの商会で働き始めて五日。俺はようやく、この世界の「日常」に体が慣れてきたところだった。朝は日の出とともに起き、商会の倉庫で荷物の仕分けを手伝い、昼は帳簿の数字を覚え、夜は街の地理を頭に叩き込む。元IT営業の経験が意外と役に立った。数字の扱いと、相手の顔色を読むことだけは、どの世界でも共通らしい。


「今日はあんたに中央市場を見せてやる。商売の基本は、何がどこでいくらで動いてるか知ることだからね」


「了解です」


「あと、あんまりきょろきょろするんじゃないよ。付き添いのいる男が落ち着きなく目を動かしてると、品がないと思われる」


「……はい」


 この世界の男のマナーは覚えることが多い。視線を上げすぎるな。声を張るな。女の前では一歩下がれ。日本で新入社員だった頃に叩き込まれたビジネスマナーと、似ているようで根本的に違う。あの頃は「社会人として」のルールだったが、ここでは「男として」のルールだ。


 中央市場は、ガレアの商会がある通りから石畳の坂を下った先に広がっていた。


 広い。日本のアメ横を五倍にしたような規模の市場が、石造りの柱に布屋根を張った回廊式の建物の中にひしめいている。通路の両側に店が並び、その前に屋台がせり出し、屋台の前に客がたむろしている。人の密度が高く、革と汗と香辛料と焼いた肉の匂いが渾然一体になって充満していた。


「ここがレームブルクの心臓だよ」ガレアが太い腕を広げた。「食料、布地、金属、魔石、薬、何でも揃う。地方の農産物がここに集まって、ここから各地に散っていく」


 言われるまま見て回った。


 穀物を量り売りする店では、褐色の肌の女主人がでかい秤を片手で操っていた。客の女が値切り、主人が突っぱね、間に立つ男の従業員がおろおろしている。その構図がどこかの日本の商店街と重なって、少しだけ懐かしくなった。


 革製品の店では、分厚い腕をした職人が鞣しの実演をしながら客を呼び込んでいる。革を伸ばす手つきに迷いがない。隣の金物屋では鍋やら鎌やらが天井から吊り下げられていて、風が吹くたびにがしゃがしゃと音を立てた。


 魔石を扱う専門店は、薄暗い奥で淡く光る石が棚に並んでいて、少し近づいただけで肌がぴりぴりした。


「魔石にはあまり近づくんじゃないよ。素人が素手で触ると火傷する」


「触る気はないです」


「あと、値段を聞くときは必ずあたしを通しな。男が直接値段交渉すると足元を見られる」


 商売の世界でも、男の発言権は限定的らしい。


 ガレアは歩きながら次々と相場を教えてくれた。小麦粉一袋が銅貨二十枚。魔石の照明用が銀貨三枚。革のブーツが銀貨一枚から五枚。数字を頭に入れながら、この世界の経済感覚を体に馴染ませていく。元IT営業として数字を扱い慣れた脳が、ここぞとばかりにフル回転していた。


 市場の中を二時間ほど歩き回り、ガレアが扱っている商品の仕入れ先や競合の店まで把握したところで、ふと気づいた。


 市場の一角に、他と明らかに雰囲気の違う区画があった。


 通りに面した部分に太い鉄柵が渡されていて、その奥に木の台がいくつか並んでいる。台の上に——人が、立っていた。


 足を止めた。


「ああ、奴隷市だね」


 ガレアの声に感情の色はなかった。八百屋の隣にある豆腐屋を指差すような、日常の声。


「……奴隷」


「そんな顔するんじゃないよ。この国では合法だ。戦で捕まった戦奴、借金を返せなかった債奴、罪人の罪奴、それから生まれながらの生奴。種類はいろいろだけど、どれも正式な手続きを経た取引だ」


 正式な手続き。人を売り買いすることに、正式な手続きがある。


 頭では理解していた。この世界に奴隷制度があることは、ガレアから聞いて知っていた。社会の仕組みとして。歴史的事実として。だが——知識として知っていることと、目の前で見ることは、全く違う。


 台の上に立たされているのは、首筋に紫色の紋章を刻まれた人間だった。


 最初の一人は、背の高い女だった。浅黒い肌に筋肉質の体。鎖で手首を繋がれているが、顔を上げて堂々と立っている。戦奴だろうか。台の下では、身なりのいい女たちが品定めをしていた。値踏みするように上から下まで眺め、腕の太さを確認し、歯を見せろと命じる。家畜のセリだった。人間が、家畜として選別されている。


「あれは上物だね。戦奴で、体格もいい。銀貨二百は下らないだろう」


 ガレアが商人の目で値踏みする。俺にはただ、鎖に繋がれた人間がそこに立っているという事実しか見えなかった。


「……慣れるものですか、これ」


「慣れるも何も、あたしが物心ついた頃からあるもんだ。あんたの世界にはなかったのかい」


「……ない、とは言い切れない。形を変えて、あった」


 ガレアが意外そうに目を細めたが、それ以上は聞かなかった。


 次の台には男の奴隷が上がっていた。がっしりした体格の若い男で、目を伏せて立っている。こちらは料理ができるという触れ込みで、裕福そうな女たちが値を競り合っていた。銀貨百五十。百八十。二百。声が上がるたびに、男の肩がわずかに揺れる。自分の値段が上がることを喜んでいるのか、怯えているのか——たぶん両方だ。高く売れれば、それだけ丁重に扱われる可能性がある。安値で叩き売られた奴隷がどうなるかは、ここにいる全員が知っている。


 人の値段が、声に出して競られている。


 胃の底がじわりと冷えた。吐き気に近い感覚だったが、それをぐっと飲み込んだ。ここで立ち止まって怒りを表明しても、何も変わらない。この世界の常識に噛みついたところで、浮くのは俺だけだ。


 ——分かっている。分かっているけど、慣れるのは無理だ。


「行こう、ソーマ。この先に布地の問屋が——」


 ガレアが促したとき、奴隷市の奥から声が上がった。


 笑い声だった。


 一人や二人ではない。何人もの声が重なった、嘲るような、容赦のない哄笑。


 足が動いた。ガレアが何か言ったが耳に入らない。人の壁を縫うようにして、声のする方へ進んだ。


 奴隷市の一番奥。日当たりの悪い隅に、それはあった。


 壊れかけの木の台。その前に半円を描くようにして、五、六人の女が立っている。全員が笑っていた。指を差し、肘で隣を突き、下品な声を上げて。


 台の上には——台の上ではなく、台の横の地面に——一人の少女が転がっていた。


 太い革靴が、少女の脇腹を蹴った。


「立て。立てっつってんだよ、この売れ残りが」


 奴隷商らしい中年の女が、苛立ちを隠そうともせずに蹴りを入れていた。腕を組んで見物している女たちが、また笑う。


「まあ、醜いこと。あんなのが商品? 冗談でしょう」


「夢に出てきそう。気味が悪い」


「あの白い肌……病気じゃないの? 触ったらうつるんじゃない?」


 少女は——蹴られても、罵られても、地面に這いつくばったまま動かなかった。汚れた麻の布を一枚だけ纏った体は痩せていて、裸足の足が土にまみれている。長い髪が顔を覆い隠して、表情が見えない。


 それだけなら、俺はたぶん、悲惨な光景に胸を痛めながらも通り過ぎたかもしれない。この世界の奴隷制度に怒りを覚えながらも、自分にはどうしようもないと言い聞かせて、歩き去ったかもしれない。


 だが——風が、吹いた。


 市場を吹き抜けた風が、少女の顔を覆っていた髪をさらった。


 銀色だった。


 白に近い、透き通るような銀。太陽の光を受けて、一瞬だけ虹色に煌めいた。風に攫われた髪が宙に広がり、それは——空気の中を泳ぐ光の糸のようだった。


 そして、その下から現れた顔を見た瞬間。


 俺の足が止まった。


 呼吸が、止まった。


 白磁の肌。精緻な、という言葉では足りない造形。小さな鼻、薄い桜色の唇、華奢な顎のライン。長い睫毛が伏せられた目元は、人形のように整っていて——いや、人形なんかじゃない。人形にはない生々しさがあった。頬にこびりついた泥と、額に滲んだ汗と、唇の端が微かに切れて血が滲んでいること。それが、この顔を造り物ではなく生身の人間のものにしていた。


 周囲の音が遠退いた。


 市場の喧騒が。嘲笑が。奴隷商の怒声が。何もかもが水の底に沈んだように遠くなって、俺の意識はその顔だけに釘付けになっていた。


 ——綺麗だ。


 その言葉が、思考ではなく感覚として脳を貫いた。


 日本で二十五年生きてきて、テレビで、街で、画面の中で、数えきれないほどの顔を見てきた。綺麗な人も、可愛い人も、美しい人もいた。でもこんな——こんな、心臓を鷲掴みにされるような顔は、見たことがなかった。


 泥に汚れている。頬は痩けている。唇は乾いてひび割れている。それでも——いや、だからこそかもしれない。その全てを含めて、この少女の顔は異様なほど美しかった。汚れの下にある造形の完璧さが、隠しきれずに透けて見えている。磨かれていない宝石が、それでも光を放つように。


 少女がゆっくりと顔を上げた。


 紫水晶の瞳。


 大きくて、深くて、透明で——そして、何も映していなかった。光を吸い込んで何も返さない、底なしの泉のような目。怒りもなく、悲しみもなく、恐怖すらなく。その瞳はただ、空っぽだった。


 俺はその目を見て、胸の奥に冷たいものが落ちるのを感じた。こんなに綺麗な目が、こんなに何も語らない。十二、三歳の子どもが浮かべるような諦観でもない。これはもっと深い——感情そのものが、枯れ果てた目だった。


「ほら見な、今日も誰も買わない。当たり前だよ、こんな醜いのを引き取る物好きがどこにいるんだい」


 奴隷商が少女の髪を掴んで引き上げた。少女は抵抗しなかった。痛みに顔をしかめることすらしなかった。ただ、されるがままに首を上向かされて——首筋の左側に、紫色の紋章が浮かんでいるのが見えた。隷属の刻印。


「明日だ。明日までに買い手がつかなきゃ、処分するよ。餌代だって馬鹿にならないんだ。こんな醜い奴隷に飯を食わせるくらいなら、犬にやった方がまだましだ」


 処分。


 その言葉が、空気の中を刃物のように横切った。


「値段は銅貨五枚。たった五枚だよ。道端の石ころを拾う方がまだ金がかかるって値段だ。——それでも、誰も買わないんだから笑えるね」


 見物していた女たちが、また笑った。銅貨五枚。この世界の通貨で、パン一個が銅貨二枚。つまりこの少女の値段は、パン二個半。奴隷の相場が銀貨数十枚から金貨数枚だということを、この数日で嫌というほど聞いていた。銅貨五枚は——値段ですらない。処分前の在庫一掃だ。


 奴隷商が少女の髪を放した。少女は音もなく地面に崩れ落ちた。


 その動き方で、分かった。背中を見た。薄い麻の布の隙間から、白い肌の上に走る線が何本も見えた。古い傷。鞭の跡だ。手首にも、縄で擦れたような赤黒い痕がある。


 五人の主人。十二年間。この少女がどんな扱いを受けてきたか、その傷が全てを語っていた。


 ——動け。


 頭の中で声がした。自分の声だ。


 ——動け、藤宮蒼真。


 でも、足が動かなかった。


 奴隷を買う。人を買う。その行為そのものが、俺の中の何かに引っかかっている。日本で育った二十五年間の常識が、道徳が、倫理が、全力で腕を引っ張っている。お前が人を「買う」のか。それは、どんな理由をつけても、人身売買だぞ。


 分かっている。


 頭の中の別の声が言う。じゃあどうする。見て見ぬふりをして帰るのか。明日この子が「処分」されたとき、お前はそれを知りながら眠れるのか。


 元の世界でもそうだった。満員電車で女性が痴漢されているのを見て見ぬふりをする人間。路上で酔っぱらいに絡まれている人を素通りする人間。俺はああなりたくないと思いながら、結局いつも動けなかった。正義感だけは人一倍あるくせに、行動に移す勇気がなかった。


 ——また、そうするのか。


 分かっているけど——買わなければ、この子は明日「処分」される。


 処分。殺されるということだ。パン二個半の値段がつかなかったから。この世界の基準で「醜い」から。


 誰も助けない。周りで笑っている女たちの目には、この少女は醜い商品にすら値しないゴミだ。奴隷商にとっては餌代が無駄な不良在庫だ。ここにいる誰一人として、この少女を人間だと思っていない。


 そして俺は——俺の目には、彼女が信じられないほど美しく見えている。


 美醜の基準が逆転した世界。この世界で「最も醜い」とされるものは、俺にとっては「最も美しい」。その皮肉が、今この瞬間、俺の足を縛っている倫理の鎖を断ち切った。


 理屈じゃない。正義でもない。


 ただ——あの目を、もう一度見てしまったのだ。空っぽの紫水晶の瞳が、地面を見つめている。何も期待せず、何も求めず、ただ次の蹴りが来るのを待っている。


 あの目をした人間を、見殺しにはできない。


「ソーマ! 何やってんだい、行くよ——」


 追いついてきたガレアが、俺の視線の先を見て、声を落とした。


「ああ……見ない方がいい。売れ残りの処分品だよ。あんな醜いのを買う馬鹿はいない」


「ガレアさん」


「ん?」


「俺に前借りさせてもらった給金、手元にまだありますか」


 ガレアの目が大きくなった。それから、信じられないという顔をした。


「待ちな。まさかあんた——あれを買うつもりじゃないだろうね」


「いくらですか、手持ち」


「銀貨二枚と銅貨三十枚だけど——ソーマ、やめときな。あんなの買ってどうするんだい。醜い、痩せてる、まともに動けそうにもない。奴隷としての価値なんかゼロだ。あんたの数少ない金を溝に捨てるようなもんだよ」


「銅貨五枚で買えます」


「値段の問題じゃないんだよ。聞いてるかい? あんな見た目の奴隷を連れて歩いたら、あんたまで笑われる。商会の信用にも関わる。あたしは——」


「ガレアさん」


 俺はガレアの目を見た。


「すみません。でも、買います」


 沈黙。


 ガレアが俺の目を覗き込んだ。商人の目だった。損得を測り、相手の本気度を計る目。数秒の後、彼女は盛大にため息をついた。


「……あんたさ、ほんっとに変わってるね」


 止めなかった。呆れた顔のまま、一歩下がった。それが許可だと理解して、俺は歩き出した。


 奴隷商の女の前に立った。


「その子を買いたい」


 奴隷商が俺を見上げた。見上げた——俺より背は高いが、しゃがんで少女を蹴っていたからだ。怪訝そうに眉を寄せて、俺とガレア、そして地面の少女を交互に見た。


「……はあ?」


「銅貨五枚だろう。買う」


「あんた——本気で言ってるのかい」


「本気だ」


 奴隷商が目を瞬いた。それから、隣の女と顔を見合わせた。


「こいつを? この、醜い売れ残りを?」


「銅貨五枚。今すぐ払う」


 腰の革袋から銅貨を五枚取り出して、奴隷商の前に差し出した。赤銅色の硬貨が掌の上で鈍く光る。


 奴隷商は十秒ほど俺の顔を凝視してから、ふっと笑った。


「物好きもいたもんだ。——いいよ、持っていきな」


 銅貨を受け取ると、奴隷商は懐から薄い石板を取り出した。表面に魔石の紋様が刻まれている。


「隷属の刻印の移譲手続きだ。ここに手を当てな」


 言われるまま、石板に掌を押し当てた。ぴり、と微かな痛みが走り、石板の紋様が一瞬だけ青く光った。


「はい、譲渡完了。これであんたがこいつの新しい主人だ。——壊れないうちに楽しみな。まあ、あの面じゃ楽しみようもないか」


 奴隷商が下卑た笑いを残して去っていった。見物していた女たちも、口々に何か言いながら散っていく。


「あの男、よっぽどの変わり者だね」


「醜い女の趣味でもあるんじゃないの」


 ——うるさい。


 声には出さなかった。聞こえていないふりをして、少女の前にしゃがんだ。


 近い。


 さっきは離れた場所から見ていたが、今は手を伸ばせば届く距離だ。


 銀白色の髪が、土の上に広がっている。近くで見ると、汚れて絡まってはいるが、その一本一本が絹のように細い。陽の光が当たる角度によって、白銀から淡い虹色に色を変える。こんな髪を、俺は見たことがなかった。


 少女はうつむいたまま動かなかった。


 呼吸はしている。肩が微かに上下しているのが分かる。でもそれだけだ。新しい主人が来たことに、反応がない。顔を上げない。声も出さない。


 ——また、蹴られると思っているのか。


 あるいは、誰が主人になっても同じだと。また殴られ、罵られ、いずれ次の主人に売られるか、捨てられるか。十二年間それを繰り返してきた人間にとって、主人が替わることに何の意味もないのだろう。


 俺は右手を伸ばした。


 少女の肩が、びくりと跳ねた。


 反射だった。殴られる前の、条件反射。体が勝手に縮こまり、頭を庇うように両腕が上がりかけて——途中で止まった。奴隷が主人の手を避ける動きをしたら、もっと酷い目に遭う。それを体が覚えているのだろう。腕を上げかけた姿勢のまま、少女は石のように固まった。


 目を閉じている。


 歯を食いしばっている。


 唇の端が白くなるほど力を込めて、次に来る痛みに備えている。


 胸が、ぎゅっと締まった。


 俺は手を下ろした。触れなかった。代わりに、しゃがんだまま、少女の目線の高さに自分の顔を持っていった。


 数秒、待った。


 少女が薄く目を開けた。紫水晶の瞳が、地面を経由して、おそるおそる俺の方を見た。何も映さない目。期待のかけらもない目。ただ、次に何をされるかを確認するためだけの視線。


「——立てるか?」


 殴らなかった。怒鳴らなかった。命令しなかった。


 ただ、それだけを聞いた。


 少女の目が——紫水晶の瞳が——ほんの僅かに、見開かれた。


 零コンマ数ミリ。他の誰にも分からないくらいの、微かな変化。


 でも、俺には見えた。


 空っぽだった目に、何かが揺れた。感情と呼ぶには淡すぎる、でも確かにそこにあった——戸惑い。この少女が十二年ぶりに見せた、最初の感情の欠片。


 痛みでも恐怖でも服従でもない言葉を、たぶん、この子は長い間聞いていなかった。


 風が吹いた。銀白色の髪がふわりと揺れて、左の首筋に刻まれた紫色の刻印が陽光に晒された。


 ——俺は今、人を買った。


 その事実の重さが、銅貨五枚とは比べものにならない質量で、腹の底に沈んでいく。


 正しいことをしたのかは分からない。奴隷制度を利用して人を救ったと言えば聞こえはいいが、結局のところ俺は人を「所有」したのだ。どんな綺麗事を並べても、それは変わらない。


 でも——あの紫水晶の瞳に揺れた光を、見なかったことにはできなかった。


「立てるか」


 もう一度、同じ言葉を繰り返した。今度は少しだけ声を柔らかくして。


 少女は俺を見ていた。さっきまでの空虚な目とは、少しだけ違う目で。何かを測るような——いや、信じていいのか確かめるような。水面の底から、かすかに光を見上げているような。


 長い沈黙の後。


 少女の唇が、かすかに動いた。声にはならなかった。でも唇の形が——「はい」と読めた気がした。


 俺は立ち上がって、もう一度右手を差し出した。


 今度は——打たれると分かっていても手を庇う反射が、ほんの少しだけ遅れた。


 その手は震えていた。怯えではなく——もっと深い場所から来る、体が忘れかけていた何かを思い出そうとするときの震え。


 後ろでガレアがため息をついたのが聞こえた。市場の喧騒は変わらず続いている。干し魚の匂いと香辛料の匂いが風に混じって流れてくる。何もかもが、さっきまでと同じ日常を続けている。


 でも俺にとっては、もう同じ世界ではなかった。


 差し出した手のひらの上に、薄い日差しが落ちている。紫水晶の瞳が、その手を見つめていた。


 触れるでも、掴むでもない。ただそこにある手を、少女は長い時間をかけて見つめていた。まるで、それが何であるか思い出そうとしているように。


 ——いい。急がなくていい。


 そう心の中で呟いた。


 風が、銀白色の髪を揺らしている。市場の一番奥の、日陰の隅で、俺と少女はただ向かい合っていた。


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