プロローグ
白い光が、視界を焼いた。
横断歩道の信号が青に変わって、一歩を踏み出した瞬間だった。左から。光。エンジンの唸り。そこまでは覚えている。反射的に首を回した先に、巨大なヘッドライトが二つ、闇の中で膨れ上がるように迫ってきて——。
衝撃は、意外なほど音がしなかった。
体が浮いた、と思った。アスファルトの匂い。焼けたゴムの匂い。何かが折れる鈍い感覚が全身を走り抜けて、それから世界がゆっくりと傾いだ。街灯の光が滲んで、コンビニの看板が引き伸ばされて、どこか遠くでクラクションが鳴っている。
地面に叩きつけられた瞬間、肺の中の空気が全部押し出された。口の中に鉄の味が広がる。息を吸おうとして、吸えない。胸が動かない。指先が冷たい。
——ああ、これ、だめなやつだ。
不思議と、怖くはなかった。痛みはもうほとんど感じない。全身がしびれて、感覚が遠のいていく。視界の端に、転がった自分の鞄が見えた。中にはノートパソコンと、提出期限を三日過ぎた見積書のデータが入っている。
——課長、すみません。明日の朝一で出しますって言ったのに。
そんなことを考えている自分がおかしくて、血の味がする唇が少しだけ持ち上がった。
二十五年間、生きてきた。
思い返してみれば、ろくな人生じゃなかった。中学で両親が離婚して、母さんは再婚して新しい家庭を作った。父さんとは連絡先すら知らない。大学を出て就職して、配属先はIT企業の営業部。入社三年目には同期の半分が辞めていた。残った半分は俺みたいに、辞める気力もなくなった連中だった。
毎朝六時に起きて、終電で帰る。コンビニ弁当を食べて、風呂に入って、四時間眠って、また六時に起きる。たまの休日は布団の中で過ごした。友人と呼べる人間は、いつの間にかいなくなっていた。彼女なんて、いた試しがない。
それでも、死にたいと思ったことはなかった。ただ、生きていたいとも、あまり思わなかった。
——結局、誰にも必要とされないまま死ぬのか。
冷たいアスファルトの上で、視界がどんどん狭くなっていく。夜空が見えた。星は見えない。東京の空はいつだってそうだ。遠くのサイレンの音が水の底から聞こえるように歪んで、やがてそれも消えた。
意識の最後のひとかけらが、暗闇に沈む。
さよなら、とは思わなかった。言う相手がいなかったから。
——。
——————。
暗闇の底で、声が聞こえた気がした。
誰のものでもない、透き通った声。言葉にはならない。でも——呼ばれている、と感じた。暗闇の向こうに、白い光がちらついていた。星でもなく、月でもなく、もっと温かい何か。手を伸ばしかけた瞬間、光が弾けて——。
最初に感じたのは、土の匂いだった。
湿った、深い土の匂い。コンビニの裏にある花壇とか、そういう生ぬるいものじゃない。もっと原始的な——何千年も積み重なった落ち葉が腐って、虫が潜って、雨が染み込んで、そうやって途方もない時間をかけて出来上がった土の匂いだ。
次に、鳥の声。
聞いたことのない鳴き声だった。高くて透き通っていて、でもどこか不安を煽るような、長い余韻を残す鳴き方。鴬でもなければ鴉でもない。東京で聞いたどの鳥の声とも違う。
背中に何かが当たっている。硬い。ごつごつしている。木の根だ。
目を開けた。
緑だった。
視界いっぱいに、濃い緑が広がっていた。見上げた先に巨大な木の幹が何本もそびえていて、その枝が複雑に絡み合って天蓋のようになっている。木漏れ日が差し込んで、空気中の細かい粒子がきらきらと光っていた。葉の形が変だった。日本で見る楓やケヤキとは全然違う。もっと肉厚で、先端が三つに割れていて、裏側が淡い紫色をしている。
俺は仰向けに倒れていた。地面の上に直接。服は——会社帰りのスーツのままだ。ネクタイがずれて、ワイシャツの第二ボタンが飛んでいる。革靴の片方が脱げて、少し離れた場所に転がっていた。
体を起こそうとして、腕に力を入れる。
動いた。
痛みがない。さっきまで——いや、どれくらい前だ? トラックに轢かれたはずだ。全身の骨が砕けるような衝撃を受けて、血を吐いて、意識を失った。それなのに、体のどこにも傷がない。スーツには土と葉っぱがついているだけで、血の染みひとつない。
ゆっくりと立ち上がった。膝が少し震えたけれど、それは怪我のせいじゃなく、純粋な困惑のせいだった。
ここは、どこだ。
周囲を見回す。森だ。どこまでも森。人工物がひとつもない。アスファルトも、電柱も、看板も、自販機も。見渡す限りの木と、苔むした岩と、名前のわからない植物。足元には柔らかい腐葉土が広がっていて、少し歩くだけで靴底がずぶりと沈む。
空を見上げたが、木々の隙間から覗く空の色に、一瞬息を呑んだ。
青かった。ただし、東京で見るどの青空よりもずっと深い、透き通るような青。そして——その空の高いところに、薄っすらと、もうひとつの月のような影が浮かんでいた。昼間なのに。丸くて、淡い琥珀色をした、巨大な天体。
俺の知っている空に、あんなものはない。
足が止まった。背筋を冷たいものが這い上がる。
——落ち着け。
深呼吸する。土と草の匂いが肺を満たした。心臓がうるさい。こめかみの血管が脈打つのが分かる。
整理しろ。順番に考えろ。
一、俺はトラックに轢かれた。あの衝撃と出血量からして、ほぼ間違いなく死んだ。
二、気がついたら森の中にいた。怪我はない。
三、ここは日本じゃない。空に変なものが浮かんでいる。植物が見たことないやつばかりだ。
結論。
——意味がわからない。
IT営業を三年やって鍛えたはずの論理的思考が、まるで役に立たない。というか、この状況に論理的な説明なんてあるのか。「死んだ人間が異世界に転生する」なんてのは、大学時代に暇つぶしで読んだラノベの中だけの話だろう。
でも現実に、俺はここにいる。
立ち尽くしていても仕方がない。とにかく人を探そう。人がいれば言葉が通じなくても何とかなる——たぶん。
脱げた革靴を拾って履き直し、歩き出した。方角なんてわからない。太陽の位置から大まかな東西を推測しようとしたが、そもそもこの世界の太陽がどっちから昇るのかすら分からないことに気づいて、すぐに諦めた。
下り坂を選んだ。水は低い方に流れる。人は水辺に集まる。それくらいの知識は、高校の地理で習った。
歩きながら、自分の体の状態を確認する。両手を開いて、閉じて。首を回して、腰を捻って。どこも異常なし。むしろ、日本にいた頃より体が軽い気がする。あの慢性的な肩こりと、朝起きるたびに感じていた腰の鈍痛が、嘘みたいに消えていた。
——二十五歳の体で死ぬ前よりコンディションがいいって、どういうことだ。
木の根を跨ぎ、苔むした岩を回り込み、しばらく歩くと小さな沢に出た。岩の間を透き通った水が流れている。膝をついて手を浸すと、指先が痺れるほど冷たかった。両手で掬って飲む。鉄分の少ない、まろやかな水。喉を滑り落ちる感覚が、五臓六腑に染み渡るようだった。
顔を洗った。冷たい水が目元や頬の感覚を取り戻させる。水面に映った自分の顔は、土埃で汚れてはいたが、傷ひとつなかった。つい数時間前——いや、時間の感覚がもう怪しい——トラックに轢かれて全身を砕かれたはずの顔が、まるで何事もなかったかのように、そこにある。
沢沿いに下流へ向かった。水の流れる音が心を落ち着かせてくれる。東京では聞けなかった音だ。エアコンの低いうなりでもなく、オフィスのキーボードを叩く音でもなく、自然が作り出す、不規則で優しいノイズ。
足元の感覚で、土の質が変わったことに気づいた。腐葉土の柔らかさから、踏み固められた硬い地面に変わっている。道だ。獣道よりは広いが、舗装はされていない。轍の跡がうっすらと残っている。馬車か何かだろうか。
道なりに進むと、木々がまばらになり始めた。遠くに開けた場所が見える。草原——いや、畑かもしれない。そして、その先に。
人影。
六、七人の集団が、道の向こうからこちらに向かって歩いてきている。
思わず足を速めかけて、止まった。
何かがおかしい。
距離が縮まるにつれて、集団の様子がはっきりしてくる。先頭を歩いているのは——女性、だと思う。背が高い。俺より高い。百八十センチは優に超えているだろう。褐色の肌に、引き締まった筋肉質の腕。その腕が丸出しだった。肩から二の腕、前腕まで、日焼けした肌が惜しげもなくさらされている。腰には剣——本物の剣を帯びている。短く刈り込んだ髪。歩き方に重心の低い安定感があって、一目で体を鍛えている人間だと分かる。
その隣にも女性。こちらも背が高く、がっしりした体格で、革の胸当てのようなものをつけている。腕の筋肉の隆起がはっきり見えた。背中に弓を背負っている。
そのさらに後ろにも女性が三人。全員が武装していて、全員が筋骨隆々で、全員が肌をかなり見せた格好をしていた。
そして、その女性たちの後ろに——男性が二人、歩いていた。
最初、俺はそれが男性だと気づかなかった。長い袖の服を着て、首にストールを巻いて、手袋までしている。真夏みたいに木漏れ日が暖かいこの森で、露出しているのは顔だけだ。背は女性たちより低く、体つきも細い。目を伏せて、半歩ほど女性たちの後ろを歩いている。
——なんだ、これ。
頭の中で、何かが噛み合わない歯車のようにがりがりと回った。
女が武装して先頭を歩き、男が着込んで後ろに従う。女が堂々と肌を見せ、男が全身を覆い隠す。
日本の常識が、根底からひっくり返されたような光景だった。
俺が道端で立ち尽くしているのに気づいたのは、先頭の女性だった。
視線がかち合う。
彼女の目が俺の全身を上から下まで舐めるように見た。汚れたスーツ。ずれたネクタイ。場違いな革靴。そしてたぶん、この世界の人間じゃない顔立ち。
女性が何か言った。聞き取れない。知らない言語だ。だが口調と表情から、友好的な挨拶でないことくらいは分かった。眉を寄せ、腰の剣に手をかけたまま、早口で何かを言い募っている。
俺は両手を上げた。敵意はないという、たぶん世界共通——であってほしい——ジェスチャー。
「あの、すみません。俺、道に迷って——」
日本語が通じないのは分かっている。でも他に何ができる。
女性が鋭い声で、後ろの仲間に何かを指示した。弓を背負った女性がすっと前に出て、俺との距離を詰める。背後に回り込もうとしている。囲まれる——と直感が告げた。
「待ってくれ、俺は——」
先頭の女性が、今度は俺に向かってゆっくりと、はっきりとした発音で言った。二語か三語。短い。命令形だということは、声の調子で分かった。
俺がぽかんとしていると、彼女は舌打ちをした。
——あ、怒らせた。
女性が片手を上げると、左右から二人が同時に動いた。速い。こっちが反応する前に、腕を掴まれていた。筋肉質の手が、万力みたいに俺の二の腕を挟む。振り払おうとしたが、びくともしない。
「おい、ちょっと——痛い痛い痛い!」
抵抗が完全に無意味だと悟るのに、三秒もかからなかった。女二人に両腕を固められたまま、俺の体は軽々と引きずられていく。足が地面をこする。革靴の踵が土を抉った。
後ろを歩いていた男性二人は、目を伏せたまま微動だにしない。ちらりとこちらを見た一人と目が合ったが、彼はすぐに視線を逸らした。その表情には——同情とも、恐れとも、あるいは「だから言わんこっちゃない」とも取れる、微かな色があった。
先頭の女性が、他の仲間と会話しながら歩いている。時折こちらを振り返り、俺を見る目つきが——なんと言えばいいのか。怒りと、呆れと、それから少しだけ好奇心が混じっている。まるで、犬の散歩中に首輪の外れた見知らぬ犬を見つけた飼い主、みたいな。
——俺は犬か。
抗議する気力も萎えた腕の中で、自分の状況を再度整理する。
一、異世界らしき場所にいる。
二、言葉が通じない。
三、武装した女性集団に捕まった。
四、この世界では、どうやら女が男を支配する側にいるらしい。
五、俺は今、なんかよく分からない容疑で連行されている。
状況整理の結果、俺の脳が導き出した結論は単純明快だった。
——詰んでる。
森を抜けた。視界が開けて、緩やかな丘の向こうに町が見えた。石造りの建物が連なり、煙突から細い煙が昇っている。入り口には木の門があり、その脇に立っている番人も——やはり武装した女性だった。
門番が俺を見て何か声をかけた。俺を掴んでいる女が応答する。門番は俺を上から下まで眺め、ふん、と鼻を鳴らしてから、門を開いた。
町の中に入ると、人々の視線が集まった。道端で野菜を売っている——肩幅の広い、日焼けした女性。荷車を引いている——腕の太い女性。鍛冶場から出てきた——革エプロンの下に膨れ上がった筋肉を覗かせる女性。彼女たちの目が、好奇と警戒を含んで俺を捉える。
一方、建物の窓から顔を出したり、店の奥から覗き見たりしているのは——長袖の服を着た男性たち。彼らは俺の姿を見ると目を丸くし、慌てて窓を閉めたり、カーテンを引いたりした。まるで、裸の男が通りを歩いているのを見たような反応。
——ああ。
ようやく理解が追いついた。
俺のスーツ姿。ジャケットの下のワイシャツは汗と土で汚れて、ところどころ肌が透けている。第二ボタンは飛んでいるから、首元も胸元もがら空きだ。ネクタイが外れかけて、鎖骨が丸見えになっている。腕まくりした前腕。
この世界の男の基準で言えば、俺は今、ほとんど裸同然の格好で町中を引きずり回されているようなものなのかもしれない。
顔が熱くなったのは、恥ずかしさなのか、混乱なのか、自分でも分からなかった。
連行されている俺の脇を、三人の子供が走り抜けていった。全員女の子——たぶん。小さいのに筋肉質で、木の棒を振り回してじゃれ合っている。そのうちの一人が俺を指差して何か叫んだ。高い声。笑いを含んだ声。周囲の大人たちにも笑いが広がる。
何を言っているか分からない。でも、からかわれていることくらいは分かる。
——笑えよ。俺だって笑いたいくらいだ。
石畳の道を引きずられながら、町の中心に近づいていく。建物が大きくなり、人通りが増えた。どこかから食べ物の匂いがする——肉を焼く匂いと、知らない香辛料の匂い。腹が鳴った。最後に食べたのはいつだっけ。会社の自販機で買った缶コーヒーが最後だった気がする。それももう、たぶん、手の届かない過去の話だ。
一際大きな石造りの建物の前で、ようやく足が止まった。門の上に何か文字が刻まれている。読めない。でも、建物の前に立っている女性たちの装備が一段上等なことから察するに、公的な施設——役所か、詰め所か、そういった場所だろう。
俺を連行してきた先頭の女性が、建物の中に入っていった。残された俺は、二人の女性に両腕を押さえられたまま、門前に放置された。
空を見上げた。あの琥珀色の天体が、西に傾いた太陽の横でぼんやりと光っている。
——俺は、死んだ。
その事実が、今さらのように胸の奥に落ちてきた。
誰にも看取られず、誰にも悲しまれず。
それは悲しいことのはずだった。
でも、胸に手を当てて正直に感じ取ってみると——悲しみよりも先に来たのは、妙な、静かな解放感だった。
終電も、見積書も、課長の小言も、もうない。
あの空っぽな日々は終わった。
代わりに始まったのが、言葉の通じない世界で女に腕を掴まれて身動きが取れない状況だというのは、なんの冗談だ。
——でも。
風が吹いた。土と草と、知らない花の匂いを運んでくる風。東京のビル風にはない、生きものの気配がぎゅっと詰まった風。
胸の奥で、何かが小さく動いた。恐怖でもなく、絶望でもない。名前をつけるなら——好奇心、というのが一番近いかもしれない。
ここがどこであれ、俺は生きている。
心臓は動いているし、腹は減るし、腕は痛い。死んだはずなのに、確かにここにいる。
さっきまでは、死んでも誰も困らない男だった。でもこの世界には、俺を知っている人間が一人もいない。つまり過去もない。肩書きもない。あの息苦しい日常のどの部分も、もう俺を縛らない。
まっさらだ。
それは、怖い。けれど——。
建物の扉が開いて、さっきの女性が出てきた。後ろに、もう一人。さらに体格のいい、銀色の短髪をした女性。腰に太い剣を下げていて、顔には古い傷跡がある。偉そうな雰囲気——指揮官か、この建物の責任者か。
銀髪の女性が俺の前に立ち、腕を組んで見下ろした。
俺とは頭半分以上の身長差がある。威圧感がすごい。目つきが鋭くて、値踏みするような視線が全身を這う。
彼女が何か言った。低い声。質問の形。
俺は答えられない。代わりに、苦笑いを浮かべた。
「すみません。何言ってるか全然わかんないです」
銀髪の女性が眉をひそめた。隣の女と顔を見合わせ、短いやり取りを交わす。それから、俺に向き直って。
ゆっくりと、左手で建物の中を指し示した。
入れ、ということらしい。
まあ、断れる立場じゃない。
両腕を掴まれたまま、薄暗い石造りの建物の中に引き込まれていく。ひんやりとした空気が肌に触れた。窓が小さくて、光が少ない。壁に据え付けられた——蝋燭じゃない。淡い光を放つ石のようなものが、等間隔で並んでいる。
奥に通されて、椅子に座らされた。木の椅子。硬い。両隣に立つ女性は離れない。
銀髪の女性が正面の机に腰を預けて、また何か話しかけてくる。
言葉は分からない。でも、問い詰めている口調だということは分かった。お前は何者だ。どこから来た。なぜ一人で歩いていた。たぶん、そんなところだろう。
俺はただ、首を横に振ることしかできなかった。
「分からない」と、日本語で言った。「何も、分からないんだ」
声が自分で思ったより掠れていた。
銀髪の女性は黙って俺を見つめた。数秒。それから、小さく嘆息して、背後の部下に何か短い指示を出した。
部下が奥の部屋に消える。しばらくして、水の入った陶器のコップを持って戻ってきた。
それを、俺の前に置いた。
——水。
飲んでいいのか。目で銀髪の女性を見ると、彼女は顎で促した。
手を伸ばして、コップを取った。両手で包むように持ち上げて、口をつける。冷たい水が喉を流れ落ちていく。甘い。水道水とは全然違う。湧き水のような、柔らかい水。
一口飲んだら止まらなくなって、一気に飲み干した。空になったコップを机に置くと、手が震えていることに気づいた。
——怖いんじゃない。
たぶん、疲れているだけだ。
死んで、目覚めて、森を歩いて、捕まって。人間の処理能力には限界がある。たとえ体に怪我がなくても、心のほうは追いつかない。
銀髪の女性が、もう一杯水を持ってくるよう指示した——と思う。部下がまたコップを満たして持ってきた。
俺はそれを受け取りながら、ぼんやりと考えていた。
ここは異世界だ。たぶん。
女が支配し、男が従う世界。
言葉は通じない。知り合いもいない。金もない。帰る方法もない。
完璧に詰んでいる。
でも、水をくれた。
敵意むき出しで連行してきた女たちが、それでも水はくれた。すぐに殺すつもりなら、わざわざ水なんか出さないだろう。たぶん。——希望的観測すぎるか。
二杯目の水を飲み干して、俺は深く息を吐いた。
石の壁に囲まれた薄暗い部屋で、言葉の通じない女たちに囲まれて、これからどうなるかも分からない。
それでも。
——死んだ男が、もう一度朝を迎えるかもしれない。
その可能性だけが、今の俺にとっては、暗闇の中の小さな灯りだった。




