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朝露と剪定ばさみ

後宮の朝は、王城の他の場所よりも、ほんのわずかだけ遅れて目を覚ます。


政務棟ではもう文官たちが机に向かい、兵舎では交代の号令が響き、城門のあたりには荷車の軋む音が混じり始めている時刻でも、この庭だけはまだ夜の名残を薄く抱いたまま、静かな湖面のように呼吸をしていた。


最初に耳へ届いたのは、水の音だった。


庭を横切る細い水路に朝の光が落ち、石の縁をなぞるように流れる水が、ほとんど聞き取れないほど小さな音を立てている。


そのあとで、ぱちん、と乾いた音がひとつ響き、庭師の剪定ばさみが枝を落とすたび、低木の葉がかすかに揺れて、夜露を含んだ水滴が石畳へ落ちていった。


レイナは窓辺に立ち、その様子を眺めていた。


この部屋は後宮の南側に面している。


窓は広く、石の枠は胸の高さまであり、その外側には浅い飾り棚のような縁がついていて、そこに白い陶器の鉢がいくつか並べられていた。白い小花が朝露をまとい、低く差し込む光を受けて、花弁の縁だけがほのかに輝いている。


ヴァルディアの建築は、光を取り込むための造りをしているのだと、昨夜のうちに何となく感じていた。


アストレアの城では窓はもっと小さく、壁は厚く、光は細い帯のように室内へ差し込むものだったが、ここでは部屋と庭のあいだにある境目が驚くほど柔らかく、窓を少し押し開けば、湿った土の匂いと花の甘い香り、それに水の冷たい気配が、何のためらいもなく部屋の中へ流れ込んでくる。


「……暖かいのね」


思わず、そんな言葉が唇からこぼれた。


山に近いアストレアの朝は、もう少し鋭い。


窓を開ければ頬が軽く刺されるような冷たさがあり、手水に触れた指先が一瞬できゅっと縮むような朝が多かった。


ヴァルディアの王都はそれに比べるとずいぶん湿り気を含んでいて、冷たいというより柔らかい。


外交婚姻で嫁いできた姫の最初の朝としては、もう少し胸の奥が重く沈むようなものを想像していたのだが、実際には息苦しさより先に美しい空気を鼻から吸い込んだ頭の方が澄んで働いているのだから、人間の直感とは当たらないものだな、とレイナは思う。


扉が、控えめに叩かれた。


「姫様」


振り向くと、侍女のエミーが扉のそばで礼をしていた。眠そうな気配を少しも見せず、きちんと背筋を伸ばして立っているあたり、後宮付きの侍女として相応に鍛えられているのだろう。


「夜の星は退き、黄金の朝が訪れております。太陽神の光が、本日も姫様の御身と御歩みに穏やかな祝福をもたらしますよう」


その挨拶は、祈りと儀礼のちょうどあいだに置かれたような、美しい言葉だった。


レイナはまばたきをひとつしてから、やわらかく応じる。


「あなたにも、朝の加護がございますように、エミー」


エミーの表情に、わずかに安堵の色が浮かぶ。

よかった、とレイナは内心で思う。

こういう最初の返し方は大事だ。少し硬すぎれば距離ができるし、軽すぎれば侮りと見なされる。

礼儀というのはきれいな額縁のようなもので、中に何を入れるかはともかく、最初にきちんと整えておくに越したことはない。


「王妃様よりお言伝てがございます。もしご都合がよろしければ、朝のお茶をご一緒にとのことです」


レイナは少し目を見開く。


「もう起きていらっしゃるの?」


「はい。王妃様は朝がお早いのです」


そう言われてみれば、あの人ならそうだろう、という気もする。

遅くまで灯りのついた執務室より、夜明けと一緒に起きて静かなうちに考える方が似合う。


レイナは窓辺を離れ、洗面台のそばまで歩いた。

小さな銅の水差しと洗面鉢が置かれている。

ヴァルディアでは朝の清めは浴室で済ませるのが普通らしいが、レイナはどうしても最初に指先へ水を流したくなる。

山国の朝は、手を清めるところから始まるものだった。

手のひらに薄く張った水の冷たさが、一日の輪郭をはっきりさせる。


エミーはその動作を見ていたが、特に何も言わなかった。


「少し待たせてしまうわね」


「いいえ。王妃様は庭でお待ちです」


エミーの手で衣装部屋の扉が開く。


整然と並ぶ衣装の中で、一着のドレスが朝の光を受けて淡く輝いていた。


淡い青のドレスである。


胸元から肩へ細い銀糸の刺繍が流れるように入り、袖口には小さな真珠が散っている。装飾そのものは控えめなのに、布地の質がよいせいで、光を受けるたび色が静かな水面のように揺れた。


「王国の仕立てね」


レイナが指先で布をそっと撫でながら言うと、エミーは頷いた。


「後宮ではこの形が多うございます。王妃様のお好みでもありまして」


レイナは「王様の好みではなくて?」という言葉を飲み込み、鏡の前に腰掛ける。


白銀に近い長い髪は、朝の光を受けると細い糸の束のようにやわらかくほどけ、櫛を通すたび肩へさらさらと落ちていく。


侍女たちは手際よく髪をゆるくまとめ、細い銀の髪飾りを差し込んだ。

髪を高く結い上げるのではなく、長さを残したまま流れを整えるのがヴァルディアでは好まれるらしい。

たしかに、この国の衣装は首や肩の線を隠しすぎないので、その方が釣り合いがいい。


鏡に映る自分を見る。


白い髪、淡い青のドレス、銀の飾り。


アストレアの姫というより、もうずいぶんヴァルディアの空気に染まって見える。

外交婚姻とはこういうものだ。国境を越えるというのは、地図の上を移動するだけではなく、布の形や髪のまとめ方まで変わるということなのだろう。


回廊へ出ると、石の床にはまだ夜の冷たさが薄く残っていた。


柱の間から見える庭では、さっきと同じように剪定ばさみの音が、一定の間隔で静かに響いている。


庭の奥に小さな東屋があった。


白い石柱が円を描き、その上に軽い屋根がかかっていて、柱には計算された蔦が絡み、朝露を含んだ花がところどころに咲いている。


中央には丸い石のテーブル、その周囲に低い背の椅子が四脚。


東屋そのものは小さいのに、そこへ続く小道や植え込みの取り方が巧みなせいで、ひどく奥行きのある場所に見えた。


王妃エレノアは、そのうちの一つに腰掛けていた。


黒髪は長く、朝の光を受けて静かな艶を帯びている。

昨夜のような正式の装いではなく、象牙色の軽いドレスに薄いショールを羽織っただけの姿だったが、かえってその方が、もともとの輪郭の整い方がよく分かった。

テーブルには銀の茶器が置かれ、紅茶の湯気が細く立ちのぼっている。

蜂蜜の小壺と、薄く焼かれた小さな菓子。

椅子はすでに一つ引かれていた。


レイナが近づくと、エレノアは顔を上げた。

王妃の視線は驚くほど静かだった。

観察する視線ではあるが、冷たく切り分けるものではなく、宝石商が石を光に透かして、その質のよさを確かめる時のような落ち着いた確かさがある。


「夜の帳は退き、太陽の車輪が新しい日を運んでまいりました。レイナ姫、この朝があなたに穏やかな始まりをもたらしますよう」


それはエミーの挨拶よりさらに整えられ、洗練された宮廷の言葉だった。


レイナは深く礼をする。


「エレノアさまにも、黄金の光と諸神の加護がございますように。この王国の朝はとてもやさしくて、穏やかなのですね」


エレノアは頷き、目の前の椅子をそっと示した。


「どうぞ。朝の庭は、立って眺めるより、座って香りを吸い込んだ方がよいものですから」


レイナは裾を軽く整えてから椅子に腰掛ける。

石の椅子には薄いクッションが敷かれており、思いのほか座り心地がよかった。

テーブルのあいだを風が抜けるたび、花の匂いと茶の香りがゆるやかに混ざる。


「昨夜は眠れたかしら?」


エレノアが紅茶を注ぎながら問う。


レイナはカップを受け取り、湯気の向こうに目を細めた。


「はい。皆さまがとてもお優しくて、安心してしまったのか、気づいたら朝日が昇っておりました。もっと眠れないものかと思っていたのですが、どうやら私は、案外どこでも図太く寝られるようです」


最後の言い方にほんのりと自嘲を混ぜると、王妃の口元がごくわずかにやわらいだ。


「それは良かった。後宮で眠れないのは、たいてい本人より周りの方ですもの」


その言い方の意味を測りかねて、レイナはカップに口をつける。


蜂蜜の甘さが静かに舌に広がった。


おいしい。


昨夜の食事もそうだったが、この王国は本当に食べ物が丁寧だ。

小国の外交婚姻としては、かなり当たりの配置かもしれない、とレイナは内心で思う。

部屋は快適で、侍女は行き届き、食事は美味しく、建物も洗練されている。

アストレアより文化水準が高いのでは、という身も蓋もない感想が頭をよぎるが、そこは心の中だけに留めておく。


エレノアはきめ細やかな白い指でカップの持ち手をなぞりながら言った。


「うちの子たちはね、皆かわいいの」


その言葉には、王妃というより家の主の響きがあった。


「マルティナはあの表情で随分と損をしているのよ。冷たく見えるでしょう? でもあの子、本当にとても優しいの。数字で世界を測るくせに、人の涙には誰よりも弱いのだから、あれでいて損な性分をしている、可愛い子」


カップを軽く回し、湯気の向こうを眺めるようにしながら、次の名を口にする。


「ソフィアは……とても綺麗でしょう?」


庭の光が銀の茶器に反射し、王妃の黒髪の縁を淡く照らした。


「初めて会う人は、たいていあの子の顔に少し驚くの。あれだけ整った顔立ちで、あれだけ堅い礼儀を崩さないものだから、まるで大聖堂の彫像みたいに見えるのよ。でもね、あれは癖のようなものなの。外交官だから、まず礼儀で世界を測るのよ。心を許すと、とても愛らしいの」


王妃の声は穏やかだが、その言葉のひとつひとつに、確かな寵愛が乗っていた。


「リュシアは朝が弱いのだけれど、夜になると魔術塔の灯りを全部消すまで帰ってこないの。研究というのは、ああいうものなのでしょうね。あの子の頭の中には、時々、私たちのいる世界と少し違う空が広がっているみたいだけど、星空のように輝く瞳の奥に私だけを移している時は愛おしい気持ちになるわ」


そして、わずかに視線を横へ流す。


「カサンドラは、ほら」


柱の影に気配があった。


「ああして静かに立っていることが多いの。あの子は物事を先に見つけておきたい性分だから、何も起きていない時ほど、よく見ているのよ。……これは内緒だけど、あの子がいちばんの寂しがり屋」


レイナもそちらを見る。回廊の柱に寄りかかるように、カサンドラが立っていた。黒に近い濃紺の髪を後ろで束ね、腕を組み、こちらへ視線を寄こしているのかどうかも分からない距離感で、ただ庭の空気に溶け込むようにそこにいる。


「邪魔はしていません」


影の方から、短い声が落ちる。


「ええ、してないわ」


エレノアはごく自然にそう返し、それから改めてレイナへ視線を戻した。


その視線はやはり静かだった。だがその静けさの奥で、非常に速い思考が走っていることを、レイナは何となく感じ取る。


王妃は資料の上では自分を知っている。アストレア第三王女、外交婚姻の駒、教育は十分、容姿も整っている――おそらくそんなところだろう。


けれど実物はまた別だ。自分もそうだが、王妃だって実際に顔を合わせてみなければ分からないことが多いはずだ。


「……かわいい子ね」


エレノアは独り言のように、しかし確かに聞かせる声音で言った。


レイナは目を伏せる。


「恐れ入ります」


「いいえ、褒めているのよ」


王妃は紅茶のカップを置いた。


「昨夜から見ていたけれど、あなたは愛嬌の使い方をよく知っているわ。愛嬌というのは案外、賢さがないと綺麗には使えないものなのだけれど、あなたはそのあたりをよく分かっている」


レイナはカップの縁を指先でそっとなぞる。

そこまで見抜かれているか、と思いながらも、あまり驚いた顔はしない方がいい。驚きすぎれば子どもっぽいし、平然としすぎれば可愛げがない。


「わたくしの国は小さいので、姫が一人でも機嫌を損ねると、時々、外交が崩れることがあります」


やわらかくそう答えると、エレノアの視線がわずかに深くなった。


「まあ」


それだけで終えたのに、その一音の中に、思っていたより話が分かる子ね、という評価がきれいに含まれているのが分かった。


しばし沈黙が落ちる。噴水の音と、遠くの剪定ばさみの音が、そのあいだを埋める。


やがてエレノアは言った。


「あなたには、まだ何も命じません」


朝の光がテーブルに落ちる。


「あなたはもう十分に役目を果たしています。国境を越えてここへ来た、その時点でね。ですから、あとは無理に賢く振る舞わなくていいし、何かを証明しようとしなくてもいい。」


エレノアはレイナの目を捉えて続ける。


「ただ、愛嬌よく、かわいらしく、楽しく過ごしていなさい」


その言葉は甘やかしのようでもあり、指示のようでもあった。


レイナは静かに頷く。

仕事だから来た。けれど、思っていたより待遇がよく、王妃は聡明で美しく、この場所そのものも洗練されている。悪くない、どころか、かなり良い。

そう思っている自分を隠す必要も、あまりない気がした。


「それなら、できそうです」


レイナがそう言うと、王妃の眼差しに、ごくうっすらと満足の色が差した。


その時、侍女が駆けてきた。


東屋の入口で息を整え、王妃へ耳打ちする。


エレノアは話を聞き終えると、ゆっくりと立ち上がった。象牙色のドレスが朝の光を受けて静かに揺れる。王妃はレイナに手を差し出した。


「では参りましょう」


そして、ほんのわずかに楽しげな気配を声の底へ含ませながら言った。


「まずは、ソフィアが今朝どれほど美しく不機嫌かを見ていただきます」

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