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第九話:氷の執行官の休日

【ミッション・インポッシブル(笑)】

「……ターゲット、移動を開始した」

休日の朝、活気に満ちた渋谷の雑踏。

電柱の陰から、低い声で無線を入れる男がいた。

迷彩柄のバンダナにサングラス、そして季節外れのトレンチコート。どう見ても不審者だが、本人は完璧な変装のつもりらしい。

「こちらアルファ。了解だ、鉄男さん。……でも、その格好、逆に目立ってない?」

「何を言う。市街地迷彩の基本だ」

私はカフェのテラス席で、メニュー表に隠れながら溜息をついた。

今日のミッションは、パンドラ史上最も異質かつ、デリケートな任務。

一条蓮いちじょう れんの休日を尾行せよ』だ。

あの仕事人間で、感情という機能が実装されているか怪しい一条さんが、休暇を取った。

しかも「私用だ」と言い残して。

これはただ事ではない。私たちのオタク的勘が、「これは重要なイベントフラグだ」と警鐘を鳴らしているのだ。

「ターゲット、駅前の本屋に入店。……おいおい、マジかよ」

双眼鏡を覗いていた陽翔はるとが、呆れた声を上げた。

彼は今日、顔バレ防止のために深めのキャップと黒マスクをしているが、派手なオレンジ髪が隠しきれていない。

「どうしたの?」

「あいつ、ビジネス書のコーナーで『効率的な部下の叱り方』なんて本を立ち読みしてやがる。休日まで仕事かよ!」

「……真面目すぎる」

チェロケース(中身はハンマー)を背負った、ゴスロリ私服の雫ちゃんがボソリと突っ込む。

その後も、一条さんの行動は私たちの想像を絶するほど「無味乾燥」だった。

昼食はチェーン店の牛丼屋で並盛り(つゆだく無し)。

移動は最短ルート。

スマホを見ることもなく、ただ淡々と、ロボットのようにスケジュールを消化していく。

「……ねえ。一条さんって、本当に人間なのかな?」

「俺も疑わしくなってきた。推しのグッズショップに寄るとか、聖地巡礼するとか、そういう『潤い』が一切ねえ」

陽翔が頭を抱える。

私たちにとって、休日は「推し活」のためにある。エネルギーをチャージする時間だ。

でも、彼の休日には「色」がない。ただ時間を消費しているだけに見える。

「……待て。動きがあったぞ」

鉄男さんの緊張した声。

牛丼屋を出た一条さんが、ふと足を止め、どこか遠くを見るような目をした。

そして、踵を返し、人通りの少ない路地裏へと入っていく。

「あっちの方向は……廃ビル街か?」

「行こう。何があるか分からない」

私たちは顔を見合わせ、慎重に距離を詰めた。

繁華街の喧騒が遠ざかり、ビルの隙間を抜ける風の音だけが響く。

彼が辿り着いたのは、古びた、今はもう営業していない映画館の前だった。

『シネマ・パラダイス』。

看板は錆びつき、ポスターは破れている。

彼はその閉ざされたシャッターの前に、ただ一人、立ち尽くしていた。


【色彩を持たない男】

「……出てきたらどうだ。尾行が下手すぎる」

背中を向けたまま、一条さんが言った。

バレてた。まあ、鉄男さんの変装の時点でバレていただろうけど。

私たちは観念して、物陰から姿を現した。

「す、すみません! でも、一条さんが心配で……」

「……俺が、マエストロ側に寝返るとでも思ったか?」

「そ、そんなこと思ってません! ただ、その……」

一条さんは振り返り、私たちを冷ややかな目で見つめた。

怒っているわけではない。ただ、どうしようもなく「無」なのだ。

「……ここは、俺が初めて『映画』というものを見た場所だ」

彼は、錆びついた看板を見上げて、独り言のように語り始めた。

「子供の頃、両親に連れられて来た。超大作のアクション映画だったらしい。観客は全員、興奮し、涙し、スクリーンに釘付けになっていた」

彼は、自分の胸に手を当てた。

「だが、俺だけは違った。……何も、感じなかったんだ」

「え……?」

「ストーリーの構造は理解できた。映像技術の高さも分析できた。だが、なぜ人々がそこで泣くのか、なぜ主人公に感情移入するのか、俺には全く理解できなかった」

彼の告白に、私たちは言葉を失った。

「それ以来、俺はあらゆるエンタメに触れた。アニメ、漫画、音楽、ゲーム。……結果は同じだ。俺の心は、何一つ反応しない。色彩を感じない色覚異常者のように、俺は『情熱パッション』を感じ取る受容体が欠落している」

――魂の、色覚異常。

それが、彼の正体だった。

私たちオタクが当たり前のように持っている「尊い」「エモい」という感覚。

それが、彼には物理的に存在しない。

「だから俺は、パンドラの執行官になった。俺はノイズの影響を受けない。奴らは『感情』を食うが、俺には食わせる感情がないからな。……皮肉なものだ。誰よりも『推し』から遠い人間が、オタクたちの守護者をしているとは」

彼の声には、自嘲すら混じっていなかった。ただの事実確認。

それが、あまりにも悲しかった。

「一条さん……」

「同情は不要だ。感情がない分、俺は常に冷静でいられる。指揮官としては最適――」

「素晴らしい。実に効率的で、空虚で、美しい在り方だ」

不意に、第三者の声が響いた。

一条さんの言葉を遮るように、映画館の屋上から、拍手の音が降ってくる。

「誰だ!」

鉄男さんが即座に銃を構える。

そこに立っていたのは、黒いスーツに銀縁眼鏡をかけた、神経質そうな男だった。

手にはタブレット端末を持ち、私たちを見下ろしている。

「初めまして、パンドラの諸君。私は黒岩くろいわ。マエストロ様の忠実な批評家クリティックだ」

「批評家……!」

あの時の最後に姿を見せた、あの男だ。

彼から放たれるプレッシャーは、これまでのノイズとは桁が違う。

物理的な威圧感ではない。知性による、冷たく鋭い刃のような気配。

「一条蓮。君のデータは非常に興味深い。『無』であることは、この世界で最も強固な盾だ。だが……君の部下たちはどうかな?」

黒岩が指を鳴らす。

すると、彼を中心に世界の色が反転した。

空が白く、地面が黒く、風景がワイヤーフレーム(線画)のような無機質な空間に書き換えられていく。

「領域展開……『批評空間クリティック・ゾーン』」

黒岩が冷徹に告げる。

「さあ、始めようか。君たちの『愛』が、論理的批判に耐えうるかどうかの……査定レビューを」


【論理という名の暴力】

「なんだこの空間は……! 力が入らねえ!」

陽翔が叫ぶ。

この空間では、私たちの「感情エネルギー」が著しく抑制されていた。

空気が重い。まるで、アンチスレや批判レビューで埋め尽くされた掲示板の中に放り込まれたような、息苦しさ。

「まずは、君からだ」

黒岩がタブレットを操作し、陽翔を指差した。

陽翔が反射的に歌い出す。

「させるかよ! 俺の歌で……!」

「『陳腐クリシェ』」

黒岩が一言、呟いた。

それだけで、陽翔の周囲に展開されかけた金色のオーラが、ガラスのように砕け散った。

「なっ……!?」

「君の歌は、商業主義に迎合した量産型のポップソングだ。コード進行はありきたり、歌詞は薄っぺらな応援歌。そこにオリジナリティはあるのかね? 魂の叫びはあるのかね? ……否、ただのノイズだ」

「や、やめろ……!」

陽翔が膝をつく。

物理的な攻撃ではない。

「お前の好きは価値がない」という、論理武装された言葉のナイフが、彼のアイデンティティを直接切り裂いたのだ。

「次は君だ」

黒岩の視線が雫ちゃんに向く。

彼女がハンマーを振りかぶる。

「『非現実的ナンセンス』」

黒岩の言葉と共に、雫ちゃんのハンマーが、まるで風船のように軽く、無力なものに変わってしまった。

「そんな細い腕で巨大な鉄塊を振るう。物理法則を無視したご都合主義。君の強さは、製作者が与えた『設定』という名の甘えに過ぎない」

「……っ!」

雫ちゃんが唇を噛み、ハンマーを取り落とす。

ゲームという「虚構」を愛する彼女にとって、その虚構性を冷笑されることは、存在否定に等しい。

「そして、君」

最後に、鉄男さんに視線が向けられる。

「『時代錯誤アナクロニズム』。現代戦において、そのような感情的な突撃は無意味だ。君の美学は、ただの懐古趣味だ」

鉄男さんの銃が、砂のように崩れ去る。

強い。強すぎる。

これまでの敵は、物理的に襲ってくるか、世界観を変えるだけだった。

でも、こいつは違う。

私たちの「好き」を分析し、解体し、「価値がない」と断定することで、力の源である情熱を消滅させてくる。

「これが批評だ。感情などという不確定な要素を取り除けば、君たちの力など、ただの妄想に過ぎない」

黒岩が、冷ややかに私を見た。

「さあ、天野杏奈。君はどうだ? 他人の作品を借りてくるだけの、空っぽの模倣者イミテーター。君自身の言葉はどこにある?」

言葉に詰まる。

図星だった。私はいつも、誰かの力を借りている。

「私自身の言葉」なんて、持っていないかもしれない。

「消えろ。駄作ども」

黒岩の手から、黒い光線――『却下リジェクト』のビームが放たれた。

今の私たちには、それを防ぐ術がない。

「――させん!」

その時、私たちの前に影が躍り出た。

一条蓮だ。

彼は、生身の体で、黒い光線の前に立ちはだかった。

「一条さん!?」

「ぐぅっ……!!」

光線が直撃する。

しかし、彼は倒れない。

彼の体は光らず、バリアも張っていない。ただの肉体だ。

だが、黒岩の「批評」が、彼には通用していない。

「ほう……?」

黒岩が眉をひそめる。

「なぜ効かない? 私の攻撃は、対象の『情熱』を逆流させて破壊するものだぞ」

「……残念だったな」

一条さんが、血を吐きながら、不敵に笑った。

「俺には、破壊されるべき『情熱』がない。お前の理屈も、批判も、俺にとってはただの『音声データ』だ。……痛くも痒くもない」

彼は、虚無だった。

だからこそ、最強の盾になれた。

「好き」がないから、「好きを否定する攻撃」が当たらない。

それは最強の耐性であり、同時に、あまりにも悲しい強さだった。

「……退がれ、お前たち! こいつは相性が悪すぎる!」

一条さんが叫ぶ。

その背中は、ボロボロだった。

情熱がないから精神ダメージは受けない。けれど、物理的な衝撃は生身の体がすべて受け止めている。

「嫌です! 置いていけません!」

私は叫んだ。

彼を守りたい。でも、私のスキルは「推しへの愛」が燃料だ。

「愛」を否定するこの空間では、どんなキャラを憑依させても、一瞬で「批評」されて消されてしまう。

どうすればいい?

論理を上回るもの。

批評さえも黙らせる、圧倒的なもの。

(……考えろ。批評家が、唯一手を出せない領域)

私の脳内データベースが、高速で回転する。

完成された作品は批評される。

未熟な作品も批評される。

なら、まだ形になっていない、これから生まれる「可能性」の塊なら?

あるいは、論理を超越した「混沌」なら?

「……みんな! 耳を塞いで!」

私は、イチかバチかの賭けに出た。

スキル発動。

特定のキャラじゃない。

ネットの海を漂う、名もなきクリエイターたちの、初期衝動の塊!

『アンフィニッシュド・カオス(未完成の叫び)』!

「うわぁぁぁぁぁ! 好きだぁぁぁぁ! 尊いんじゃぁぁぁぁ!!」

私は、ただただ、意味のない叫び声を上げた。

論理も、構成も、文脈もない。

ただ「好き」という感情だけを、生のままぶつける。

それは作品ですらない。ただのノイズだ。

「な、なんだその汚い音は……!」

黒岩が初めて顔をしかめた。

彼の「批評」は、形あるものを解体する力。

だが、私の放った叫びは、形すらない「感情の原液」だ。

解体しようがない。

「今だ! 一条さんを連れて逃げるよ!」

黒岩がひるんだ一瞬の隙をついて、鉄男さんが一条さんを担ぎ上げる。

雫ちゃんが煙幕スモークを張り、陽翔が目くらましの閃光を放つ。

「チッ……。野蛮な……」

黒岩の舌打ちを背に、私たちは映画館を脱出した。

無様な敗走だった。

でも、全員生き残った。


【空っぽの器に注ぐもの】

パンドラ本部の医務室。

一条さんは、全身に包帯を巻かれて眠っていた。

命に別状はないが、かなりの重傷だ。

「……バカな人」

私は、ベッドの脇で呟いた。

感情がないなんて、嘘だ。

あんなにボロボロになってまで部下を守る行動を、ただの「効率」なんて言葉で片付けられるわけがない。

「……杏奈さん」

栞さんが、静かに部屋に入ってきた。

「彼ね、昔からそうなの。自分の痛みに鈍感で、他人のために平気で傷つく。……だからこそ、マエストロに対抗できる『器』として選ばれたんだけど」

「器……?」

「その話は、また今度ね。……それより、今日のデータ分析が終わったわ」

栞さんの表情が曇る。

「あの『批評家』黒岩。彼の能力は厄介よ。私たちの力の源泉である『好き』という気持ちを、根底から腐らせる毒を持っている。……正直、今のままじゃ勝てないわ」

勝てない。

初めて突きつけられた、明確な敗北。

力押しも、小手先のテクニックも通じない相手。

「好き」という気持ちが強いほど、逆にダメージを受ける天敵。

私は、自分の胸に手を当てた。

私の「好き」は、あんな言葉遊びに負けるほど、脆いものだったのか?

アリスさんや、あの黒岩の言う通り、所詮は現実逃避の妄想に過ぎないのか?

「……違う」

眠っている一条さんの顔を見る。

彼は、「色」を持たないことに苦しんでいた。

私たちが当たり前に持っている「推しへの情熱」を、誰よりも羨んでいた。

なら、私たちは証明しなきゃいけない。

この「情熱」が、ただの妄想なんかじゃなく、人を、世界を救う力になるんだってことを。

色を持たない彼に、私たちの見ている世界がどれほど鮮やかで、美しいかを教えるために。

「強くなります、私」

私は栞さんに告げた。

迷いはなかった。

「もう、借り物の力だけじゃ戦えない。……私だけの、オリジナルの武器を見つけます」

栞さんは、少し驚いたように目を見開き、そして優しく微笑んだ。

「ええ。期待してるわ、私たちの『継承者』さん」

窓の外では、夜の帳が下りていた。

敗北の味は苦い。

でも、その苦さが、私たちを大人にする。

次の戦いは、そう遠くない。

マエストロの影が、確実に私たちを追い詰めている。

でも、もう怖くはなかった。

守りたいものが、また一つ増えたから。


(第九話 完)

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