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第八話:灼熱の祭典(コミケット)・パニック

【生命維持装置と徹夜組】

「――美咲の『魂の定着率』が、40%を切ったわ」

パンドラ本部、集中治療室(ICU)。

無機質な電子音が響く部屋で、栞さんが告げた事実は、鉛のように重く私の心にのしかかった。

ガラス越しに見る美咲は、まるで眠っているだけのようだが、その肌は白蝋のように血の気がなく、繋がれたモニターの数値だけが、彼女が生きていることを辛うじて証明していた。

「40%……それって……」

「危険水域よ。マエストロが『創造のエネルギー』を集めれば集めるほど、世界中の『推しへの愛』の総量が減り、美咲さんのような被害者の魂を繋ぎ止める鎖が弱まっていく」

栞さんは、悔しそうに唇を噛んだ。

「このままエネルギー回収が進めば、彼女は……永遠に『虚無』の一部になってしまう」

拳を握りしめる。爪が掌に食い込む痛みで、なんとか理性を保つ。

泣いている暇はない。美咲を救う唯一の方法は、マエストロの計画を阻止し、奪われたエネルギーを取り返すことだけだ。

「……次の場所は、わかっているんですか」

「ええ。最大にして最悪の特異点反応が出ているわ」

栞さんがタブレット端末を操作し、地図を表示する。

そこは、東京湾岸エリアにある、巨大な逆三角形の会議棟を持つコンベンションセンター。

「『東京ビッグアーチ』。……明日から開催される世界最大の同人誌即売会、『コミック・カーニバル』の会場よ」

コミカカーニバル。通称「コミカ」。

夏と冬の年二回開催され、数十万人のオタクたちが集結する、文字通りの「聖戦」。

そこには、無限の「創造」と「情熱」が渦巻いている。マエストロにとって、これ以上の餌場はないだろう。

「予想される来場者数は、三日間で延べ50万人以上。……もし、ここで大規模な『サイレント・フェード』が起きれば、日本のオタク文化は壊滅するわ」

50万人。

その数字の重みに、目眩がしそうになる。

でも、やらなきゃいけない。

あの中に、私の大好きな作家さんも、コスプレイヤーさんも、そして同志たちもいる。

「行きます。……絶対に、守ってみせる」

ブリーフィングルームに集まったチームの面々も、表情を引き締めていた。

「50万人の民間人がいる戦場か……。誤射どころの騒ぎじゃねえぞ」

鉄男さんが渋い顔で銃の手入れをしている。

「へっ、観客が多いのは大歓迎だぜ! 全員俺のファンにしてやるよ!」

陽翔は強がっているが、その足は貧乏ゆすりを止めていない。

「……人混み、苦手。……でも、やる」

雫ちゃんは、ハンマーを抱きしめるようにして頷いた。

一条さんが、静かに私たちを見渡した。

「作戦の難易度は過去最高だ。敵は群衆に紛れ、パニックを誘発し、その恐怖を糧にするだろう。我々の任務は、ノイズの殲滅だけではない。……『イベントを無事に成功させること』だ」

「イベントの成功……」

「そうだ。一度でもパニックが起きれば、将棋倒しで死人が出る。そうなればマエストロの思う壺だ。……心してかかれ」


【雲の生まれる場所】

灼熱の太陽が照りつける、東京ビッグアーチ。

早朝だというのに、会場周辺はすでに長蛇の列で埋め尽くされていた。

アスファルトからの照り返しと、数万人の熱気と汗が混じり合い、上空には伝説の「オタク雲」が発生しそうなほどの湿度だ。

私たちは、一般参加者に紛れて会場内へと潜入していた。

もちろん、コスプレ登録済みという建前で、プロテクトスーツの上から偽装を施している。

「うへぇ……。マジで酸素薄いな、ここ」

陽翔がタオルで汗を拭う。

「私語は慎め。警戒を怠るな」

鉄男さんの鋭い視線が、群衆の中を走る。

開場のアナウンスが響き、拍手と共に巨大な人の波が動き出した瞬間だった。

『――特異点反応、増大! 来るわよ!』

インカムから栞さんの警告。

直後、東ホールのシャッター前で、悲鳴が上がった。

「きゃあぁぁぁ!?」

「な、なんだ!? 列が勝手に!?」

見れば、整然と並んでいたはずの待機列が、まるで生き物のようにうねり、崩壊し始めていた。

地面から灰色のノイズが染み出し、それがアスファルトを液状化させているのだ。

「ノイズだ! でも、姿が見えない!」

「杏奈! 足元だ! 影に潜んでやがる!」

鉄男さんが叫ぶ。

今回の敵は『シャドウ・ストーカー』。人々の影に潜み、足首を掴んで転倒させ、将棋倒しを引き起こす卑劣なタイプだ。

「うわっ!?」

「押すな! 押すなよ!」

一人、また一人と倒れ、連鎖的にパニックが広がり始める。

怒号と悲鳴。

恐怖の感情エネルギーが立ち昇り、空中の「オタク雲」がドス黒く変色していく。

「まずい……! このままじゃマエストロにエネルギーを吸われるだけじゃなく、圧死者が出る!」

「くそっ、撃てねえ! 人が多すぎて射線が通らねえぞ!」

鉄男さんがライフルを構えるが、トリガーを引けない。

「俺が歌って注目を集めるか!? いや、それじゃ余計に人が集まってパニックになる!」

陽翔も手詰まりだ。

雫ちゃんがハンマーを構えるが、この密集地帯で振り回せば、周囲の人間をミンチにしてしまう。

誰も動けない。

私たちの「戦闘力」が、ここでは完全に足枷になっていた。

(どうする? どうすれば……!)

私は必死に周囲を見回した。

崩れる列。パニックになる人々。

彼らが必要としているのは、敵を倒す「ヒーロー」じゃない。

この混沌を鎮め、秩序を取り戻してくれる「導き手」だ。

その時、私の目に入ったのは、混乱の中で必死に声を張り上げている、一人のイベントスタッフの姿だった。

『走らないでくださーい! 列を崩さないでくださーい!』

彼の声は枯れ、汗だくだが、その瞳は決して諦めていなかった。参加者全員を無事に帰すという、使命感に燃えていた。

(……そうだ。この戦場の「最強のジョブ」は、剣士でもアイドルでもない!)

私は、ブレスレットを操作した。

検索ワードは『歴戦のスタッフ』『ボランティアの鑑』『統率者』。

スキル発動。

『アルティメット・オーガナイザー(究極運営)』!


【列形成という名の防衛線】

「全員、私の声を聞けぇぇぇぇッ!!!」

私は、手近にあった拡声器トラメガを奪い取り、腹の底から叫んだ。

その声には、単なる音量ではない、強制的な「説得力」が付与されていた。

スキルによる『カリスマ補正』と『聴覚ジャック』だ。

パニックになりかけていた数千人の視線が、一斉に私に集まる。

「これより! 東ホールの列形成ルールを緊急変更します! これはトラブルではありません! 『サプライズ・イベント』です!!」

「イ、イベント……?」

「なんだあのスタッフ? すげぇオーラだぞ……」

ざわめく群衆。

私は間髪入れずに指示を飛ばした。

「陽翔! ステージA(トラックの荷台)へ! あなたの歌で、彼らの『恐怖』を『熱狂』に変えなさい!」

「へっ……? あ、ああ! 任せろ! 恐怖なんざ、俺の美声で吹き飛ばしてやる!」

陽翔がトラックに飛び乗り、即興のライブを開始する。

『聞いてくれ! 俺たちの魂のアンセムを!』

彼の歌声が響くと、黒く淀んでいた空気が、金色の輝きを取り戻し始める。

「鉄男さん! 雫ちゃん! あなたたちは『特別警備員』です! 陽翔のライブに興奮して『ノイズ』が暴れ出します! それを『演出』に見せかけて排除してください!」

「演出に見せかけて……だと? 無茶を言う!」

「隊長ならできます! 銃撃音は『特効(特殊効果)』の花火だと思って!」

「……チッ。了解だ。派手な花火を打ち上げてやる!」

鉄男さんがニヤリと笑い、群衆の死角になる位置から、地面の影に向けて発砲を開始した。

ドンッ! ドンッ!

正確無比な射撃が、影の中に潜むノイズを撃ち抜く。

弾ける火花。

「うおぉぉ! すげぇ演出! リアルだ!」

「運営、金かかってんな!」

参加者たちは、それをライブの演出だと信じ込んで歓声を上げる。

パニックが、エンターテインメントに変わった。

「雫ちゃん! 人混みの隙間を縫って、コアを持つ個体を『間引き』して!」

「……ん。ステルス迷彩、起動」

雫ちゃんは残像を残して消えた。

彼女は人波をスルスルと抜け、混乱の元凶となっている大型ノイズの背後へ忍び寄る。

ハンマーの一撃は、周囲の歓声にかき消され、誰にも気づかれずに敵を粉砕した。

私は、拡声器片手に走り回った。

「そこ! 走らない! 詰めない! 推しへの愛は、マナーで示せ!」

「列の最後尾はあちらです! 割り込みは即退場!」

「気分が悪い人は無理せず挙手! 私たちの救護班は優秀です!」

私の指示は、絶対だった。

コミカに参加するオタクたちは、基本的に「訓練された兵士」だ。明確な指示さえあれば、彼らは驚くほど統率された動きを見せる。

私のスキルは、彼らのその「民度」を最大まで引き出した。

崩れかけていた人の波が、美しい幾何学模様のような「待機列」へと再構築されていく。

それはもはや、芸術的な防衛陣形だった。

『素晴らしいわ、杏奈さん。群衆そのものを「結界」に変えたのね』

栞さんの感嘆の声が届く。

秩序ある群衆から放たれる正のエネルギーは、混沌を好むノイズにとって猛毒だ。

足元の影が、苦しむように縮小していく。

「トドメよ! みんな、この会場の『熱気』を一つにまとめて!」

私は叫んだ。

陽翔の歌がクライマックスを迎える。

鉄男さんと雫ちゃんが、残ったノイズを中央の広場へ追い込む。

そこには、影が集まって巨大化した『漆黒の巨人シャドウ・ゴライアス』が具現化していた。

「あんなデカブツ、一般人にバレずに倒せるか!?」

鉄男さんが叫ぶ。

「大丈夫! バレてもいいの!」

「はぁ!?」

「だってこれは、『サプライズ・イベント』なんだから!」

私は、最後のスキルを発動させる。

これは、会場にいる50万人全員の力を借りる、禁断の大技。

「みんな! ラストだよ! あの『悪い影』を、みんなの『拍手クラップ』で浄化して!」

『おぉぉぉぉぉぉぉ!!!』

地鳴りのような呼応。

陽翔が手を掲げる。

「いくぞお前ら! 俺に合わせて手を叩け! 3、2、1……クラップ!!」

パンッ!!!!

50万人が、一斉に手を叩いた。

その音は、爆発音などではなかった。大気そのものを震わせる、衝撃波の塊。

『ソニック・ブーム』なんて目じゃない。

それは、純粋な「人の意志」が生み出した、破壊の波動。

『グォォォォォォ……!?』

巨人は、その圧倒的な音圧と、込められたポジティブなエネルギーに耐えられず、ガラス細工のようにヒビが入った。

「今よ! 全員で叩き込め!」

鉄男さんの全弾発射。

雫ちゃんの最大出力ハンマー。

陽翔の歌声衝撃波。

全てが巨人に直撃する。

ドカァァァァァァァン!!!

巨人は光の粒子となって弾け飛び、空高く舞い上がった。

それはまるで、イベントのフィナーレを飾る、美しい紙吹雪のように見えた。

「うわぁぁぁぁ! すげぇぇぇぇ!」

「神イベ! 神イベ!」

会場は、割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。

誰も、自分たちが死にかけていたことなど知らない。

ただ、最高の夏の思い出として、この瞬間を刻み込んだのだ。


【祭りのあと、忍び寄る影】

夕暮れの東京ビッグアーチ。

撤収作業が進む会場の片隅で、私たちはへたり込んでいた。

「……死ぬかと思った」

陽翔が大の字になって空を仰ぐ。

「……民間の警備会社に転職しようかな」

鉄男さんが本気とも冗談ともつかないことを呟く。

雫ちゃんは、無言で私にスポーツドリンクを差し出してくれた。

「ありがとう、みんな。……誰も死なせなかった」

私は、オレンジ色に染まる会場を見渡した。

疲労困憊だけど、心は軽い。

美咲の定着率も、栞さんの報告では少しだけ回復したらしい。この会場の莫大なエネルギーを守りきったおかげだ。

しかし。

その様子を、遠く離れたビルの屋上から見下ろす影があったことを、私たちはまだ知らなかった。

「……フン。野蛮な宴だ」

黒いスーツに、銀縁の眼鏡をかけた神経質そうな男。

マエストロの側近にして、最高幹部の一人。

「だが、あの『天野杏奈』という素材……。マエストロ様が執着するのも頷ける。あれは、混沌カオスを統率する『指揮者コンダクター』の資質がある」

男は、手にしたタブレットに何かを記録すると、冷たく笑った。

「次は、私が相手になろう。感情任せの力押しが、論理的な『批評』の前にどれほど無力か……教えてやる」

男の姿が、ノイズのように揺らぎ、消える。

翌日。

パンドラ本部は、つかの間の休息ムード……ではなかった。

「あ、あの……一条さん?」

ブリーフィングルームに現れた一条蓮の様子が、明らかにおかしかった。

いつもは完璧に着こなしているスーツが少し乱れ、目の下には隈ができている。

そして何より、彼が手にしていたのは――

「……これは、休暇申請書だ」

「えっ? 休暇?」

「ああ。……私用だ。探さないでくれ」

そう言って立ち去る彼の背中は、いつになく小さく、そしてどこか「逃げている」ように見えた。

「……どうしたんだ、あの鉄仮面」

「なんか、ヤバい匂いがするわね」

私たちは顔を見合わせた。

あの完璧超人の一条さんが、職務を放棄(?)してまで向かった先とは?

そして、彼がひた隠しにする「秘密」とは?

私のオタクセンサーが告げている。

これは、ただの休日じゃない。

パンドラの根幹に関わる、重大なイベント(フラグ)だと。

「……尾行つけましょう」

私の提案に、全員が無言で頷いた。


(第八話 完)


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